Ver.1.01i
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中路正恒
◆ 東北に住む前
わたしは五年間東北にいた。一九八六年から一九九一年までのことである。福島県郡山市の女子大学に縁あって職を得て、大学入学以来十七年を過ごした京都から赴任していったのである。
東北はわたしにとってはじめての地だった。もっとも旅行ということなら、学生時代に一度友人と車で磐梯山のあたりをまわったことはあった。東北自動車道が郡山のあたりまで開通したころのことであった。また大学一年のとき、高校時代の仲間と北海道を旅行した帰りに、東北大学に行った友人の下宿をあてにして、仙台に七夕を見に寄ったこともあった。その友人の下宿先はまかない付きで、お金に困っても朝夕の食事はできるというのがうらやましかった。そのころまかないつきの下宿は、京都にはもう滅多になかった。
さらに昔のことをいうなら、小学校四年のとき、住んでいた神奈川県藤沢市の合唱大会で歌った曲が「阿武隈川」という歌だった。作詞者も作曲者も覚えてはいないが「みなもと遠き山々の、木々の緑を集め来て、わがふるさとの岸洗う、川、川、川、阿武隈川」という歌詞で、そのメロディーもいまだにすぐに浮かんでくる。大変優しく、繊細で美しい歌だと今でも思っているが、しかしその歌をわたしはその後一度も耳にしたことがない。
◆ 赴任した頃
ともあれわたしが阿武隈川の流れる郡山の大学に赴任してきたとき、わたしは美味しい水や安くて元気のよい新鮮な食べ物に大いに喜びながらも、しかし生活全般についていえばむしろ違和感を感じることの方が多かった。住居も、本の多いわたしの生活スタイルに合うものがなかなか見つからなかった。とりあえず見つけた家に入居したが、一年半ほどして、妻が、十分広く、暖かい一間幅の縁側のある家を見つけてきてそこに移るまで、箱詰めした本のほとんどが開けられないまま棚に積まれていた。
また、プロパンガスの契約のときにも、料金表は見せないのが当たり前というような業者の言い方にあきれたこともあった。
そしてまた、どんよりと垂れこめた空が北にどこまでも続き、そのまま安達が原につながっている、という夕暮れの印象を何度も味わっていた。鮮やかな夕焼け空が見られる日が少ない、というのがわたしには少しつらい東北の空だった。しかしそんな景色も、五年いるうちにだいぶ変っていった気がする。気象データを調べれば現実に変っていることが多分わかるだろう。
さらにまた人間関係でも、わたしには理不尽と思えることがないわけではなかった。あるときわたしはこんな下の句を作った。「わが狂はずは安達嶺(ね)の雪」。安達太良山(あだたらやま)のおかげで、わたしは気が狂わずに生きているが、この歌の上の句が完成したら、それはほんとうにわたしが気が狂ってしまうときだろう。そう思う日々であった。
◆ 「東北」への近づき
とはいえ楽しいこと、快適なこともすぐにたくさん見つけることができた。赴任して早々、吾妻山の浄土平で地元の天体観測グループが、大きな望遠鏡でハレー彗星を見る機会を作ってくれていた。天体写真で有名な藤井旭さんたちのグループである。それに参加して、子供たちにも彗星を見せてやることができた。またそのグループのメンバーの山田さんは、星のきれいに見えるところに連れていってくれて、わたしの家族のために望遠鏡でハレー彗星を見せてくれた。
また快適な温泉も近くにあり、温泉の楽しみも東北に来て覚えたものであった。そして休日には、車で近場を色々と走り回ったものだった。そうしてよい場所をたくさん見つけ、まずは土地からなじむようになっていった。また、芋煮会をはじめ、町内の催しにも加わり、それになれていった。また学生とも色々接する機会があった。そして少しずつ、東北の生活の中の東北的なものが分かるようになってきた。
たとえばこんなことがあった。そのころ教えに行っていた看護学校に田村郡小野町出身の学生がいた。その学生は、「うちのお父ちゃんは穴掘りが巧いというので、村で葬式があるといつも頼まれて穴掘りをやっていた」といっていた。土葬の地域であり、墓穴掘りはそれの得意な人が頼まれてやるものなのである。いやしい仕事などではまったくない。そういう普通の会話から、生活に密着した「東北」の姿が見えてきたのであった。
◆ 弘前の長野隆
しかしわたしの本業は哲学であり、それはとりわけわが国では西洋を向き、また「普遍性」をめざすと称する仕事であった。わたしがいわゆる普遍性ではなく、文化の差異や多様性とその支配関係や系譜という問題を哲学の仕事として取り入れてゆくようになったのは、ドゥルーズやニーチェ、そしてフーコーから学んだことである。わが国では和辻哲郎や梅原猛氏がそのような哲学の先達だと言えるであろうか。わたしには、自分のいる東北という場所の、京都に住み慣れた人間にとっては西洋よりも異国的な風土と文化が、本当に問うべき問題であると思えてきたのであった。
しかし、わたしが自分のいるところに、本当に目と心をそそぐようになるには、もう一つ大きなきっかけがあった。それは『詩論』という同人誌を共に支えてきたひとりの友人の感化である。二〇〇〇年九月に自宅で亡くなった弘前大学の長野隆が、一九八九年のことだったと思うが、ねぶたの時期に、そのとき大鰐町で開いていた彼のゼミの合宿に呼んでくれたのであった。わたしは青森でねぶたを見て、その夜大鰐に着いた。そして彼らの夜の歓談に加わり、そしてその翌日、翌々日とゼミの討議に加わった。そして合宿が終わってからは、彼の友人の岩井康頼とともに、津軽を案内してくれた。それからわたしは二ヶ月の間に三回も弘前にでかけていった。
長野隆は弘前の、自分の学生たちをとても大事にしていた。自分の与えうる最良のものをその学生たちに与えようとしているように見えた。自分の今おかれている場所を全力で肯定すること。その招待や案内からわたしが学んだ最大のことはそのことであった。
◆ 片曽根山
郡山に戻り、それからわたしはできるだけ多くの祭を見にゆくことにした。はじめに見に行ったのは田村郡船引町の秋祭りの三匹獅子舞であった。そのときわたしははじめて、船引町にある片曽根山に気がついた。それは大和の三輪山のように姿の美しい山である。祭りの帰りに寄った。七百メートル余りの標高だが、幸い車で上まで登れた。そしてその頂上からの景色の素晴らしいこと。青垣なす山々を全周に見わたすその景色は、大和のどんな山からの眺めよりも美しく、また国見ということの昔の魅惑をありありと教えてくれるものであった。この山を仰ぐ位置には、縄文時代のストーンサークルも存在している。そして片曽根山には坂上田村麻呂にちなむ伝承があった。わたしはこの片曽根山を出発点に、福島県の田村麻呂伝承をできるかぎり調べはじめた。とはいえそれを調べつくすより前に、わたしは郡山を去り、再び京都を仕事場とするようになった。県内のおもだった祭も、過半は見残したままであった。
◆ 東北へのめざめ
わたしは東北へめざめた。そしてわたしのなかで東北がめざめてきた。宮沢賢治が、そして江刺市藤里の兜跋毘沙門天の地天女が、そのいまだ読み解かれていない思いを語ってきた。・・・このたび現代新書として刊行された『古代東北と王権――〈日本書紀〉の語る蝦夷』(講談社現代新書1559)の中で、わたしはその二つの思いを重ねてみた。主人公はアテルイである。ご高覧いただければ幸いである。
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