休憩  遺伝子をめぐる冒険


 創造説と呼ばれる進化しないという「進化論?」があります。

 まあ、このサイトでも色々指摘している問題点を理由にやっぱり進化などないという説です。

 じゃあどうやって現在の種種の生物が生まれたかというと「神様が」というわけです。

 よく、無人島に小屋があったら進化論者は無人島だから偶然にできたんだと、風で偶然にできる確率を計算している、というたとえを創造論者は挙げます。

 まあ、無人島じゃなくて人がいたでもいいのですが、ではその人はどこからかたどり着いたんだよねという話はでてきません。生物がいるんだから、それを作った神様がいるんだという理屈です。すると神様がいるんだから神様を作った誰かがいて、その誰かを・・・・

 きりがないと思いますけどね。結局、創造論は神による生物の直接の創造を前提としている宗教なのですから、そのようなくだらない理屈をつけずに、宗教上の理由で信じないでかまわないのではないかと思うのですが。もしかすると彼らも科学に憧れているのでしょうか。神とは何か、神はどのようにして誕生したのかに答えないと科学にはなれない客観性を持てないことを彼らは知っているのでしょうか。

  創造論の最大の欠点は、 他者を否定すれば、自己が肯定されると勘違いしていることです。自己を肯定しなければ、 他者を否定できないことに気づいていないのです。つまり、積極的に証明しなければ、否定だけではニヒリズム(神は死んだ)に走らない限り、何も説明していないことにすぎません。完全に説明できないから進化はないというのなら、神の存在を客観的に(キリスト教以外の人でも)確認できなければ神は存在しないことになります。

 私もキリスト教の家庭に育っていますが、神の行為を理屈で解析しようなどというのは冒涜だと思いますけれど、まあ宗教観の違いでしょうからどうでもよいのですが、とりあえず、アインシュタインは自説の理論に対して神の神秘を感じると答えています。理論の中に宗教的な神秘を見つけることは普通に可能です。

 こういうことを言っているから進化論は熱学第二法則(エントロピーの法則)に反するとかいう間抜けなことを主張したりします。
 エントロピーの法則は遺伝子にも絶えず働いており、それが突然変異と呼ばれるものです。それに秩序を与えるのが自然選択と呼ばれるものになります。臨界状態に向かって内部で崩壊を続ける生物の増殖機能にたいし、機能を守ろうとする自然選択は突然変異を切り捨てていきます。その崩壊と切り捨ての誤差が進化ということになります。
 エントロピーの法則とは単純に言えば、あらゆるエネルギーは拡散し最後にエネルギーの移動はなくなるというものです。熱いものは気温と同じ温度になるまで冷めて、温度変化はなくなる。運動しているものは熱エネルギーに全て置き換わって動かなくなるということ。物質は崩れて安定した形(砂や泥のように壊れにくい形)になりますし、不安定な状態は安定した状態(高いところの物質は低いところに移動するし化学反応は反応しつくしてなくなる)になります。単純なもの(エネルギーの低いもの)から複雑なもの(不安定でエネルギーの高いもの)に変化する進化なんておかしいと言っているのですが、それは進化論への批判ではなく、生物や地球環境の存在そのものが物理的にあり得ないと言っていることと同じです。外にでれば風が吹くし、音も光もあふれています(全部熱エネルギーじゃないとね、温度変化とかもってのほか)。その中でも生物などはきっと許せない存在でしょう。物質エネルギーを運動エネルギーに変えたり、単純な細胞から複雑な個体へ成長したり、食物をとることで非生物から生物を新たに発生させ増えたりする「エントロピーの法則に反する」生物なんて彼らにとってあってはならない存在でしょう。太陽も含めて考えると、太陽はいつか燃え尽きますから最後には、生物という存在はいなくなるでしょうから、生物の活動の一端である進化もなくなりますよ、最後には「エントロピーの法則」に従ってね。

 一方で進化論は科学ではないという意見もあります。科学とは再現性を持ち何度も確認できるものだという意見です(反証可能性)。しかし、この意見を強力に進めていたポパーは「科学とは何か」という問題も科学ではないことに気づいて、この運動を止めてしまいました。もともと、ポパーは科学とは仮説であるが論理的な矛盾を犯してはならないという考えの持ち主でした。てっとりばやくいうと、ある仮説は実験や調査によって確認・反論が可能でなければ論理的な推測はできない、真実かどうかは確定できないということです。しかし、確認できないことについての研究を科学以外にどう呼べばよいのでしょう。結果としてこれは単に言葉の定義の問題にすぎません。

 まあ、「科学」の定義がなんであろうが、できるかぎりの客観性を目指して、進化論は今日も進化していっています。言葉の問題よりも大切なものは「真実」への真摯な探求心ですよね。