現在の進化論入門   Evolution Reply 細胞選択説

文化の進化

人類はDNAだけで遺伝されるのではない、
生き方を伝える一つ一つの言葉によって人は人になることができる


言語という遺伝子、文化という種

 進化の過程で、自己を保守するために適応にかかる時間、つまり進化速度をさらに短縮しようとする種が徐々に増えてくる。

 種はついに学習能力を手に入れることになる。僅かな時間で新しい性質を身につけることができるようになった。新しい獲得形質は従来の遺伝子では容易には伝えることができなかった。一代でその性質は消滅してしまう。

 遺伝子によって方向性だけは決められていたが、最初は刷り込みのように、ヒヨコが、最初に見た大きな動くものを親として行動するような、単純な学習であり、徐々に高度な情報を伝え始める。

 猫はいつから魚を食べるようになったのか。魚と出会うことのない山猫も魚を襲うのか。全ては学習することで解決する。

 種は教育を始める。親から子に新しい性質を伝え始めた。学習能力は遺伝と明確な区分がないままに発達していく。

 これが文化の芽生えだ。つまり、文化は遺伝的な形質と不可分である。文化とは種としての秩序のための情報構造だ。

 

 文化は従って種の発達した形。種から文化へ連続して進化する。文化は、やがて種の性質と対立する場合がでてくる。当然、新しい性質が優先され種の性質は封じ込まれる。種から文化へと徐々に置き換わる。そして種の形質は忘却されていく。忘却が長いとその形質は保てなくなり自然消滅する。

 やがて種の中から人類が誕生する。

 人類は文化を伝えるための遺伝子を手に入れる。言語だ。

 おそらくは、氷河期などの過酷な環境を乗り越えるために身に付けたもの。個体の学習が集団に広がり、集団の生存能力を高めるのに圧倒的な力を発揮したことだろう。

 新しい遺伝子である言語は驚異的な能力があった。言語は文化を共有化させ、文化を伝染させ、融合させるのに驚くほどの速度と容量を所有していた。進化の速度は他種の比較にならなくなった。

 文化が発達したからこそ本能は退行した。本能の退行によって学習能力が発達したわけではない。本能の退行によって学習能力が発達する場合、文化の空白が発生し生存が難しくなる。

 文化を手に入れると本能は不用退化を起こし始める。

 本能は徐々に退行していく。重要でない本能から形質としては消滅していく。その速度は意外と速いだろう。

 人類にとって母親が、母親であるのは本能によるものではない。本能は母親になろうとする衝動すら与えていないのかもしれない。母親のいない文化で育てば、母親にはならない。ただ生んだだけだ。母親の文化を継承する。自分が育てられた通りに繰り返す。

 

 言語は解釈されることによって言語となる。純粋な情報は存在しない。言語が実体化するには解析構造によって独断的に解釈される。解析構造は確かに自己の情報を作るがそれは言語のみによって成り立つわけではない。遺伝子や体細胞を含めた全ての環境によって行われる。

 この解析構造も活動を行う場合には極めて言語的な単純な命令で働く。情報の単純な命令によって実体は複雑な行動をする。それは、歩行という行動が単純な命令であっても、左右の微妙なバランスを取りながら多くの筋肉細胞が実に見事な統制で行われる複雑な処理であることからも理解できる。そしてこの事実は、情報は不変であっても、実体は蜻蛉のように頼りなく儚いものであることを意味している。

 情報構造が具現化した形が確かに実体なのだが、実体は情報構造なしでも次々に増殖できるし、解析構造のみからも複製される。むしろ、情報構造とは実体に意味を与えるために必要な情報であるといえるだろう。蜻蛉のように頼りなく儚いものは、実体そのものよりも実体に与えられた「意味」である。

 言語とはヒヨコにとっての「大きな動くものが親だ」という情報にすぎない。「大きな動くもの」いう認識も「親」という意味(実体)も別の場所(解析構造)からやってきて、(ヒヨコが鶏になって)すぐに去っていく。実体は純粋な実体としては意味を成さず、実体は意味付けされて初めて実体になる。

 言語(情報)は普遍であるが、その解釈は流転し続ける。その情報は連続して流入し、忘却され続ける。実体は絶えず情報の選択と解釈により不安定に変動を続ける。

 いつの時代も情報は解釈の僕(しもべ)である。遺伝情報も言語情報も、情報である限り実体の影である。情報は解釈に左右され、解釈によって死滅させられる。情報は実体を、必ず(言語的に)単純化する。従って解釈は、単純化された分だけ情報を介す毎に次々にずらされていく。解釈が実体を作る。情報のみでは情報として成り立たない。

 だからこそ、情報こそが単純化(純化)された、真実である。真実は、いつも言語的である。この世に完全なもの(純化されたもの)は、情報の中にしかない。しかし、その真実は、現実の奴隷である。全ての(言語的な)理想は、猥雑な現実の、単純化された図形にすぎない。完全な円が(現実の円形をもとにしているのに)情報の中でのみ存在するように。解釈された円は、いかに実体化されようとも完全な円にはなりようがない、たとえそれが意識の内部で再現されようとも。言語的でなくなれば、真実ではなくなる。

 ヴィトゲンシュタインは「言葉の限界が、世界の限界である」と言ったが、それは彼が言葉の限界を超えようとしなかっただけである。「語り得ぬもの」について叫び、喚き、呻くことで言葉は後から追いかけてくる。世界は言葉を超えて存在する。

 

 本能は、言語ほどの情報能力はない。本能の大半は機械的制御に費やされている。自動車にたとえるならば、本能は運転マニュアルであり、言語は交通マニュアルである。機器に自動運転の機能を持たせることが、いかに困難かの理由は、簡単に想像できるだろう。言語が担う文化的な部分に関して、本能(遺伝子)は、ほとんど関知しない。

 人の中の自然とは衝動だけであり、文化と融合してこそ真実の自然となる。泳ぎを習わないペンギンや、飛行を教えられなかった白鳥と同様に。衝動の制御を人以外は本能にゆだね、人は文化にゆだねた。本能と生理との間に明解な区別がないように本能と文化にも明確な境はない。

 

 さらには、言語は接触に頼らない新たな形態を取得する。文字を持った。文字は時代も距離も超えた遺伝子となり縦横無尽に膨大な情報を氾濫させた。文化はガン細胞のように意味もなく増殖を続けた。過去の文化をそっくりそのまま内包したまま文化は無制限に膨れ上がった。直ぐに個体の所有できる限界を文化は超えた。文化を個体は把握できないまま文化に埋没し文化を選択する。それでも文化なしでは個体は行動を決定できない。人は多種の文化を時と場合によって参照することになる。場合によっては過去の文化を変質させるような、新文化と既存文化との交流が発生する。参照・交流により新文化は旧文化の特徴・形質を継承する。

 こうして人類は他種と明確に区別できる進化形態を持つ種となった。人類は生物学的に遺伝子によって決まる肉体と社会学的に文化によって決まる社会を持つ種として存在している。

 

 文化が生命を引き継いだものであるかぎり、文化の性質は生物学的な性質と同質だ。

 物理的に熱によってタンパク質は変質する。タンパク質が変質すれば生命は維持できない。生命は無機物の性質を引き継ぐので、生命の維持のために遺伝子から作られた本能は熱を持つ火を恐れる。しかし文化は火を恐れながらも自由に扱うことを強要し、火の扱い方を個体・社会に伝える。火への反応は生物によって異なるように文化によっても異なる。湿気の多い日本に住む羆は火を恐れないと聞く。山火事が少ないため火を恐れる必要がなかったためだ。同じように文化はさらに様々に分岐する。

 

  文化は多くの哺乳類が持つが人類の文化とは明らかに規模も進化速度も異なる。それは文化を伝える情報伝達手段の違いによる。言語がなければ限界はすぐだ。しかし新しい遺伝子である言語も性質は遺伝から引き継がれているため遺伝子の性質を継承している。遺伝は文化の土台として文化に強く影響する。

 言語を持たない民族はない。つまり言語は遺伝子によって生得的に得られるものだと考えられる。人類は、もし言語を教えられることがなくても言語を取得する。手振り身振り唸り声のたぐいであれ必ず会話の方法を身につける。必ず。

 言語によってできる社会もまた必然だ。言語を持つ限り、人類は集団社会を持つ。それが言語文化を最大に生かす方法だ。

 人類は誕生時から部落を持っていた。それは類人猿の持つ群からそのまま引き継いだもの。言語を持つ人類は言語の能力によって次第に大きな部落を作っていった。言語は複雑な情報を伝えることができるために、より複雑な社会がその能力をより発揮させることができる。

 特に農業が発達する環境、採集生活では収穫が少なく農業が可能な気候であれば、階級や分業が発達しやすい。
 部族間では頻繁な交流が必要になる。言語が通じなくなる危険を避けるためだ。農業は農業自体で体力を消費するため、採集に体力を割けなくなり採集を主とする部族との交換は欠かせなくなる。

 この部族間の交流も他の群をなす動物でも婚姻関係等で一般的であるように人類以前より引き継がれてきている。この交流は環境の変化、文化の変貌に合わせて方法を変えながら現在まで引き継がれているのだが、言語の交流はこの婚姻関係から発達してきた。婚姻は遺伝子の交流のために行われるものであるから、新しい遺伝子である言語も同様に婚姻によって交換されてきた。言語が婚姻の障害になるため、婚姻を行う部族間では日常的な交流により言語を合わせる必要となる。日常的な交流を行うためにバーター取引が行われたのではないかとも想像できる。

 

 集団は膨大な文化を生かすため統合されることを望む。統率者がいた方が望ましい。リーダーのいなかった時代を類人猿から人類に至るまで、いまだ経験していない。

 社会では役割分担が能率的だ。社会が膨れ上がると階級制度が生まれる。社会は人類とともにあった。

 「中心はここだ」と明言することによって秩序は生成される。しかし宣言された中心は中心でありえない。魚群の中心はない。渦の中心は空洞だ。文化は水平にみるとそれぞれ渦をなしている。多くの文化の渦がより大きな文化の渦を作りながら渦で構成される渦となる。 渦は積み重なり歴史とともに地層を作る。表層の渦は深層の渦を静かにゆっくり浸透し、また深層の渦に支えられている。

 中心に設定されるものは宗教・国家・思想・その他の共同体である。社会の中で個体が所属する文化が共同体になりやすい。これらのものは共同体になることを文化自身も意識している。

 

 文化とは秩序であり、構造であり、規則であり、法則であり、定理でもある。

 

文化は資本主義に到達する

 王制の廃止などという中心が変革するような革命の場合は、深層文化に参照される文化がないために多数の犠牲者がでる戦争や内戦が必要となる。アメリカ独立後の南北戦争、フランス革命後のナポレオン戦争、ドイツの王制廃止・ロシア革命後の第二次世界大戦などは必然的に誕生したものである。大政奉還後の日本の第二次世界大戦も同様である。革命だけでは生け贄が不足したのであろう。いずれもその国家の歴史上で最大の犠牲者を出している。

 実際に歴史上最大の戦争であった第二次世界大戦ほど世界が変革した戦争はない。それは規模・質ともにナポレオン戦争後を凌駕する。

 

 経済学者アルビン・H・ハンセン教授がインドのある村の生産性向上の為の指導をした。村の生産力は二倍に改善された。数年後、豊かな村の姿を想像して再訪した教授は、村民の生活水準が変わらないことを知った。従来の半分しか働かなくなっていた。

 給金を倍にすると、インドでは半分しか働かなくなる、という話も聞いたことがある。これも同様の理由、半分の労働で生活水準は保たれるから。

 童話作家のミヒャエル・エンデはアメリカ先住民族を幾人か雇ったが、ある日突然、全員が働かなくなった。給料を上げようが何しようが働かない。理由は、昨日働きすぎたから。

 これらに驚くのは、みんな資本主義者たちだ。しかし、異常なのは資本主義の方だ。文化は種から進化してきた。社会も、進化の枠組みの中にある。進化にとって目指すものは安定だ。安定を目指して進化は疾走を始める。安定した環境での進化などしれたものだ。収入や、労働時間をできる限り安定させようとするのは、ごく正常な反応である。

 マックス・ウェーバーであるなら、資本主義に必要な宗教的とも呼べる禁欲と勤労が基本にないからだとでも断じるであろう。

 確かに、それはそれで正しい。

 しかし、では資本主義者は、何故、給与を上げると余計に働き始めるのか。もちろん、効率がよくなって従来より少ない労働で多くの報酬を受けられるからだ。

 しかし、それは禁欲と勤労の精神ではない。そうであれば、効率に関係なく労働量の変化はない。

 

 文化は安定を求めるが、安定を嫌う文化もある。それが資本主義だ。

 資本主義とは進化のために進化を行う装置だ。

 産業革命、宗教革命、民主主義革命が生み出したものは、目的であった安定ではなく、永遠に未熟な社会であった。

 

 古代王朝・封建制・絶対君主と続いてきた社会文化は進化装置である資本主義で完成する。

 それぞれの時代はそれぞれ完成した時代である。古代王朝のままで今日まできても何一つ問題はない。中国を見よ。結局、易姓革命の連続で、最新思想である共産主義までこられたではないか。共産主義でさえも、古代王朝制で運用可能である。

 進化は、種の持つ内部からの要請で制御が解除される。

 日本とヨーロッパの進化過程が、ほぼ一致することは、進化の方向性も進化の時期も、既に神々(知性だけでは把握できない複雑な構造)によって定められていると思われる。

 

 資本主義が利潤の追求を目的としていると共産主義者は主張するが、利潤の追求では資本主義は誕生しない。利潤を追求する目的が贅沢であれば個人の欲望の限界が存在することになる。労働と利益を天秤に掛けることによる欲望の限界が発生する。

 資本主義以前においての社会では、最大の目標は安定である。労働も財産も戦争も安定のためにあった。 

 ウェーバーの通り、資本主義には宗教的とも呼べる禁欲と勤労が基本にある。絶えず新しい行動を起こすことによってのみ生き残れる社会は、無限の禁欲と勤労を要求する。その結果、取り巻く環境は一刻毎に変化し、環境に合わせて行動様式を変化させていく。

 従って資本主義の深層文化には、禁欲・勤労とともに環境の変化を肯定する文化が存在する。

 表面的に文物のみの文化を移植したとしても深層文化にその基礎がなければ拒否されるか、一見、資本主義である別の文化が誕生するだけである。表層文化は深層文化の性質を継承する。完全に移植しようとするなら深層に届く亀裂(戦争・革命などの犠牲が一般的だが)を作る必要がある。

 ヨーロッパと日本に資本主義が発達したのも、メソポタミアと黄河という大文明が存在し、その文明を古くから取り入れ自分の文化として融合させてきたためであろう。他文化との融合を肯定する文化こそが究極の進化装置である資本主義までたどり着ける。本質的な変革は自己の内部からは発生しない。表層を浸透してくる文化を受け入れることで発生する。最大の効率を持つ進化は模倣により発生してくる。模倣の文化とは、進化の文化でもある。

 この模倣の精神を持たない文化は、急激に一度の模倣で完了しようとする。そのため新たな表層文化は深層まで浸透するまでに既存の表層文化に侵略されてしまう。模倣は、幾度も、長期間にわたって行わなくてはならない。

 

 逆に大文明は近隣の文明を吸収することを拒否するため進化が遅れ停滞する。

 

 「祈れ、そして働け」という今でも修道院に張られているスローガンだけでは、少なくとも現在の資本主義とはいえない。

 そこに欠けているものは進化への意志である。

 ダーウィンの進化論の熱狂的な支持者は新興の実業家たちであった。適者生存こそが産業革命とともに誕生した資本主義のあり方を正当化したものであった。

 しかし、適者生存は、過酷な異常事態にのみ隆盛を誇る。常態の現象ではない。常態では、むしろ求心性選択である。適者が生き残るのではなく、異常が排除され全体の安定を図る。資本主義社会では進化に向かうならば異常も容認される。

 資本主義が進化論の適者生存の論理を支持したのは、資本主義が大進化の開始を始めていたからだ。大進化においては、進化に取り残された個体は次々に異常とされ排除されていく。全体はさらに高度な進化を目指す。群を率いて見果てぬ太陽を目指す。限界に達するまで、つまり生存に不利になるまで資本主義は疾走する。

 だが、資本主義の進化はいつまでたっても止まることがなかった。

 

 それぞれの時代の命令を一言でいうなら、古代王朝は「神々を恐れよ」、封建制は「私財を守れ」、絶対君主制は「国家を守れ」であり、資本主義になると「天上を目指せ」となるだろう。

 天上を目指す文化は安定することがない。到達することのない天上に向かう、永遠の、不安定な進化の途中だ。

 

 進化の制御装置は外れたのでない、壊れたのである。
 壊れた原因は何か。
 「神の見えざる手」と「適者生存」の思想が進化の過程を賞賛したことにより、安定化を望まなくなったことが第一にあげられる。
 つぎに、行動的禁欲が下層文化に既にあったことによる。生存に不利だという判断は、資本主義以前であれば、労働と利益を天秤に掛けることで行われた。
 最後に、適応の最適値が分からなくなったためである。植民地資本主義では、植民地の奪い合いで第二次世界大戦にいたるまで生存競争が続けられていた。第二次世界大戦後は、冷戦により共産主義と発展競争を強いられた。これらが、資本主義の下層文化として累積していくことで過度の適応が止まらなくなり、制御装置が働くタイミングを失ったのではないか。

 

 資本主義は変化を肯定するばかりか変化なしでは不安にさせる性質を持つ。進化しなければ滅亡すると考えている。進化のための進化、変化のための変化を繰り返す。一つのわずかな進化は他の文化要素の制御装置を解除しながら進化を連鎖させる。この制御解除のアクセスをどの程度受け付けるかで進化の速度は決定される。しかも資本主義は進化慣れしている(進化促進の刺激を受けすぎている)ので連鎖がスムーズに進んでいく。十年一昔という言葉は資本主義にのみ通用する。この連鎖は停滞することは原則としてない。資本主義文化は制御を解除するきっかけを待っているから、わずかな刺激でも連鎖が開始される場合がある。

 

 資本主義は親和性の高い自由民主主義と結合する。変化を容易に容認する自由民主主義は資本主義が選んだ最高のパートナーである。変化を次々に発生させるためには深層に及ぶような亀裂はさけるのが得策である。亀裂が一旦できると亀裂が直るまで活動は停止することになる。自由民主主義は数年おきに政治的変革を大した亀裂なしに行える。

 自由民主主義は絶対君主制を経験しなければ、成立しない。明治維新が神権君主を必死で創造しようとしたことは正しい。
 絶対君主制が全ての権限が主権にあることを明確にする。絶対君主の全ての自由と責任が、自由民主主義に継承する下層文化になる。自由とは、責任の別の呼び方である。絶対君主が全ての権限と全ての責任を一手に受け持っていたように。

 民主主義では、責任者がいない。全体責任は無責任であり、民衆が(国民が)実際に全ての責任を負っているとは考えない。国民の数で責任も権限も割り算をする。誰も資本主義の暴走を止められない。

 本来、自由は分割せざるをえないが、責任は全員がそれぞれ全てを負わなければならない。その責任がなくなったために、資本主義の命令に専念できる。天上を目指すことに専念できる。

 資本主義は、果てしない夢と理想を追って、疾走を続ける。無責任に疾走する。

 

共産主義という暴走

 だからこそ共産主義が誕生する隙がある。資本主義は繁栄も幸福も保証することはない。共産主義は安定を保証した。
 安定こそが進化が目指すところ。

 しかしそれは同時に進化を否定することになる。

 つまり、共産主義は前時代への回帰によって生まれた。

 安定を標榜する共産主義が、進化装置である資本主義に文明の発達で対抗するのは笑止。

 進化を否定することによって、共産主義下では自我の極端な変革がなくなる。他文化を取り込むことによる行動様式の変貌は必要がなくなる。

 どれほどマルキストの残党が新しい解釈を作ろうとも、その解釈は情報としてあるだけで実体化するには過去の文化の継承を行わなければならない。

 新しい性質が誕生するには新しい形質の土台となる深層文化が必要になる。しかもその旧文化は新文化と親和性が高い必要がある。そして、情報として存在する形質と発現した性格は必ずしも一致しない。

 ロシアが、時代回帰を起こした理由は、過去の経験すべき時代が未完成のままであったか、歴史的断絶が発生した可能性が高い。

 古代王朝で、「神々を恐れよ」という命令を充分に遂行していたのならば、人知の及ばない場所が存在することを、文化という遺伝子の中に組み込まれていたであろう。言語では表現しきれないものがあることを知っていたであろう。

 文化間の関係は、脳神経よりも煩雑で神秘的である。

 社会体制を、紙だけで大進化させることは、月までも届くバベルの塔を建てようとする愚かな行為だ。神々の怒りに遭遇するであろう。一つの国は、いくつにも引き裂かれ、いくつもの言葉に、つまりいくつもの文化・社会体制に分かれ、もはや、言葉は通じなくなる。

 もし、封建制が完全に引き継がれていたならば、国家と個人の取引・約束事が要求され「私財を守れ」という命令により、成り立たなかった可能性がある。

 革命とは、進化とは、賭博である。

 革命は、環境と格闘しながら、時には躓(つまづ)き、時には迷いながらも走り続ける。

 革命が連鎖するためには、適応の目処が立つことが必要である。革命が成功し、その経過を見ながら、別の地域で革命が始まる。前のドミノが倒れなければ、次のドミノを倒すことはできない。ロシア革命は、フランス革命を模倣した。フランス革命のような、成功を夢見た。

 ロシア革命とは、進化の経路のみを模倣することによって起こった突然変異である。

 この突然変異が、歴史的断絶を発生させたのかもしれない。

 通常の場合は、獲得形質を情報は追いかける。しかし、突然変異によって情報のみが大幅に変わった場合に、解析構造は、この情報を獲得形質だと誤解する。その結果、一気に獲得形質とは無縁の方向に進化が疾走し、既存の形質と関係が切れる可能性はあるだろう。普通は、ここで種は滅亡するか、方向を転換する。これが生き延びられたのは、人工的に過酷な環境にすることによって、求心性選択を厳しくし、他の方向への進化を完全に切り離したためである。粛清、飢餓輸出、第二次世界大戦と、合計六〇〇〇万を超えるといわれる屍の山が共産主義を守った。

 「資本論」が、「読むたびに新しい」と未だに賞賛する人がいるということは、まだ解釈が終わっていないことを示す。つまり、「資本論」の真実は、あの分厚い本の中にだけ存在し、実現化することは不可能であることを意味している。実体のない情報。

 情報から現実を作ろうとする啓蒙思想は、影を見て肖像画を描こうとするようなもの。情報は、言語は、現実の影にすぎない。結局は、現実(実体)が解釈するのだから、その行方は神々だけが知ることができる。

 同様のことは、資本主義でも起こる。だが、資本主義はあまりにも進化慣れしているため、いつも様々な部分で進化が起こっている。どの進化が種全体の進化になるかの予想は絶えずなされているが当たるも八卦のレベルを超えることはない。そして、それは言葉を超えた神々の意志が解決する。資本主義は、紙からできた共産主義とは異なり、進化の正当な結果で誕生したから、全ての部分で絶えず適応が発動される。神々の意志で守られている。

 

進化の行方

 しかし、資本主義は限界をとうに超えている。過剰適応による弊害は、徐々に世界を蝕んでいくだろう。戦争の時代が過ぎ共産主義も死滅し、進化の方向に位置する指向性は不必要になっている。

 そろそろ、「働かなくて何故悪い」と「働かなくては意味がない」が分岐を始める頃ではないだろうか。分岐した二つの文化は同じ場所で同時に行動することになる。 そして、二つの文化はアメリカのようにエリートとそれ以外のように労働意欲によって分けられていくだろう。

 今後、資本主義は安定を目指して、壊れた制御装置を修復することに苦労することだろう。

 

文化という種を選択できる種としての人類への伝言

 運命には従わなければならない。運命には逆らえない。しかし運命に従うとは、運命に流されることではない。与えられた運命の中で懸命に戦うことである。

 人類は、言葉を持った。たった一人でも進化できる。与えられた文化を超えて、時空を超えて、マザー・テレサの魂を受け継ぐことさえできる。

 しかし、言葉は、実体が引っ張り上げなければならない。マザー・テレサの魂を引き継ぐことができるのは、言葉を受け継ぐ前に、既にマザー・テレサに向かっていた人だけが、この人物を知って感動の涙をながし、勇気を与えられる。言葉なしでは、前に進むことは難しい。言葉は、自分の重さであり、他人との繋がりである。自分がマザー・テレサの魂と繋がっていることを、自分の重さとできる人だけが、マザー・テレサの魂を受け継げる。

 

進化にとっての戦争

 戦争は文化間である場合と文化内の競争である場合が存在する。

 同質の文化内での戦争にはルールがあり、力関係を確認し安定を保つために定期的に発生してきた。統一戦争や領土戦争などが代表的なものであろう。これらの戦争はヨーロッパで頻繁に発生しすぎたため戦争自体の浪費が大きくなり現在では否定されている。文化内での戦争は群の取り分を大きくするために行うものであり豊かな環境ではマイナスに働く。環境が与えるものよりも多くを浪費するような事態が発生しない限り不必要であり、ヨーロッパで男性の数が多くなると戦争が起こると言われているのもこのような原因であろう。友好関係を保つように努力することが進化的に安定な戦略である。

 異質な文化間での戦争は、宗教戦争、独立戦争等であり、大戦争と呼ばれるもの、ナポレオン戦争、第二次世界大戦もこれにあたる。戦争が同時に革命を意味するような戦争は何らかの異種の文化の衝突と見なされる。

 異種の文化間であっても戦争ではなく友好を選択することはできる。いずれ世界もそうなるであろう。現在なぜ、テロリズムを中心とした宗教戦争が残っているのかと言えば、生け贄の数が不足しているからである。もっとも合理的な友好の度合いをまだ確立していないからである。現実の文化とは理屈・理論ではなく複雑に絡まった構造である。構造は多くの時間と人数によって構築される。別個に作られる矛盾した構築物は幾度も崩れ落ち忘れられながら、徐々に全体を統合させていく。異種の文化が異種として、いずれ棲み分けを行い併存する時代がくることを予言しておく。もし融合や混合を望むとすれば悲劇を長引かせるだけである。


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