古代日本とイスラエル10部族の謎
イスラエル人(ユダヤ人)は古代の日本に来たか
イスラエルの契約の箱は、神社のお神輿によく似ている――契約の箱がエルサレムに戻ったとき、ダビデは契約の箱をかつぐ者たちと共に町をめぐり歩き、その前で踊った。
「今から数千年ほど前、日本にようやく人が住み始めた頃、古代イスラエル人(ユダヤ人)もはるばる日本に渡来し、日本の文化形成に大きな影響を与えた」
とする説が、わが国において、幾人かの学者によって唱えられてきました。
いわゆる「日本文化=ユダヤ起源論」とか「日本・ユダヤ同祖論」と呼ばれる説ですが、一見奇妙に見えるこの説も、その証拠とされるものの多彩さのゆえに、多くの人々に興味を引き起こしてきました。
本誌でもこの説について、いくつかの検討を加えてみることにしましょう。
イスラエル人は古代日本に来たか
はじめに、本誌がこれから何を述べようとしているのかを、はっきりさせましょう。
第1に本誌が述べようとすることは、日本の文化のどのような事柄に、古代イスラエル文化の影響が見られるか、ということです。
たとえば、日本の皇室の紋章である「菊の紋」が、古代イスラエル神殿の壁にも残っています。また伊勢神宮の灯籠には、ユダヤ人の印である「ダビデの星」が刻まれています。
これらははたして、古代イスラエル文化の日本への流入を、示しているのでしょうか。
また、神社のお神輿がイスラエル神殿の契約の箱によく似ていること、神社の構造自体が古代イスラエル神殿によく似ていること、日本古来の祭の幾つかが古代イスラエルの祭によく似ていること、などが学者によって指摘されていますが、これらについてはどうなのでしょうか。
さらに、日本語の中にヘブル語の影響が見られる、とも言われています。私たちが数をかぞえるときに言う「ひい、ふう、みい・・・」がヘブル語である、と指摘する人もいます。
第2に本誌が扱う問題は、こうした事柄が、いわゆる「イスラエルの失われた10部族」の行方と関係あるのかどうか、ということです。
神社の神輿
あるいは、A.D.70年に祖国を失って世界中に離散したユダヤ人の行方とも関係があるのかどうか、ということです。
B.C.721年、イスラエル10部族から成っていた「北王国イスラエル」は、アッシリア帝国に滅ぼされ、民は捕囚となって捕らえ移されました。その後イスラエル10部族は、ユーフラテス川の東側地域に離散しました。
そこである学者は、イスラエルの「失われた10部族」の一部は日本にもやって来て定着し、日本の文化形成に大きな影響を与えた、と考えています。
またA.D.70年に、南王国ユダの人々(イスラエルの残りの2族から成り、一般にユダヤ人とも呼ばれる)は祖国を失い、世界中に離散しました。
彼らの中には、シルクロードを通って、はるばる東洋の地までやって来た人々もいました。
そこである学者は、彼らユダヤ人の一部は日本にも渡来し、日本にユダヤ文化を持ち込んだ、と考えています。
これらの考えについても、検討してみましょう。
失われた10部族はユーフラテス川の東側に離散した
まず、イスラエルの「失われた10部族」の行方について、少し詳しく見ておきましょう。
聖書によると、B.C.10世紀に、北王国イスラエルの10部族に関して次のような予言 (預言) がなされました。
イスラエル10部族の渡来伝説のあるところ
「主(神)は、イスラエル(北王国のこと) を打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖たちに与えられたこの良い地からイスラエルを引き抜き、ユーフラテス川の向こうに散らされるでしょう。
彼らがアシェラ像 (偶像)
を造って、主の怒りを引き起こしたからです」 (T列14:15)。
この予言は、約200年後のB.C.721年に成就しました。その年、アッシリア帝国が北王国イスラエルに攻め入り、民の主だった人々を、みな捕囚としてユーフラテス川の東側に連れ去ったのです。こう記されています。
「 (北王国最後の王)
ホセアの治世第9年に、アッシリアの王はサマリヤ(北王国のこと)を取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザン川のほとり、メディアの町々に住ませた」(U列17:6) 。
考古学者は、この捕囚を行なったアッシリア王が古代碑文に残した記録を、発見しています。その碑文によると、このとき捕囚された民の数は約3万人でした。
アッシリア王は北王国イスラエルの主だった人々を、捕らえ移したのです。祖国に残されたのは、貧しい人々や、庶民だけでした。
これは被征服民を無力化し、彼らが二度と反乱を企てないようにするための、アッシリア帝国の占領政策だったのです。
人々が捕らえ移された地「ハラフ、ハボル、ゴザン川のほとり、メディアの町々」とは、ユーフラテス川の東側の地です。
北王国イスラエルの10部族は、アッシリア帝国が滅びた後も祖国に帰らず、ユーフラテス川の東側の地域に離散しました。
A.D.1世紀に生きたユダヤ人歴史家ヨセフスは、こう書いています。
「イスラエルの10部族は、今でもユーフラテスのかなたにおり、膨大な民衆となっている」
(古代ユダヤ誌11巻5章)。
彼らは、この後どうなったでしょうか。
彼らの行方に関する正確な資料はほとんどありませんが、各地の言い伝えの中には、幾つかのヒントがあります。
たとえば、ソ連のグルジヤ共和国あたりに住む山地ユダヤ人の間には、自分たちは「失われた10部族」の子孫だ、という言い伝えがあります。
カスピ海北方に住むカザール人の間にも、自分たちは10部族の子孫だ、という言い伝えがあります
(現在のユダヤ人の九割を占めるアシュケナジー・ユダヤ人は、このカザール人の子孫である、との説もあります)
。
ペルシャの一部族の間にも、同様の言い伝えがあります。アフガニスタンのユーフザイ人は、自らを「バニ・イスラエル」
(イスラエルの子孫) と呼んでいます。
その他、インドやミャンマーの部族の間にも、同様の言い伝えがあります。
また中国の史書によると、B.C.2世紀(漢の時代)に、中国にイスラエル人がいました。彼らには割礼の風習があったので、中国人は彼らを「刀筋教民」と呼びました。
さらにバハラ地方の少数ユダヤ人の間には、10部族は長年アジア大陸を流浪し、あげくのはてに「中国のかなたの神秘な国」に定着した、との伝説があります。
『エズラ第4書』という、A.D.1世紀頃に記された古代ヘブル文書(旧約聖書外典) にも、次のような興味深い記述があります。
「幻に現われたその群衆は、アッシリア王が川を越えて他の国に連れていった10部族であった。
彼らは異教徒の群れから離れ、人類がいまだかつて住んだことのない土地へ行き、自国では守ることのできなかった規則を、せめて守るようにとの計画をお互いに持ちあって、さらに遠い国へ進んだ。
そして彼らがユーフラテスのほとりの細道に来たとき、神は彼らに驚くべきことをなし、彼らが渡りすぎるまで川の源を止められた。
その国を通過してから、1年半という長い道のりが待っていた。そしてそこはアルツァレト(この地名については不明)という地方であった。
彼らは、そこに最後まで住み、そして彼らが帰ろうとするとき、神は彼らがユーフラテスを渡れるように、再び川の源を止められるであろう」。
この文書は聖書ではありませんから、そのすべてを無条件に受け入れることはできません。またこの記述は、著者が見た「幻」という形をとっています。
とはいえ、こうした文書が記された背景には何らかの歴史的事実があった、と考えられなくもありません。
もしそうなら、「10部族が、ユーフラテス川から1年半の道のりの遠い地に行った」という記述は、たいへん興味を引きます。
たとえば10部族が、もし時速4キロの徒歩で毎日5時間ほど歩き、1年半のあいだ旅を続けたとすれば、ほぼ日本ぐらいまでの距離に到達できるのです。
このように、イスラエルの失われた10部族の一部が日本にまでやって来た可能性は、全くないとは言えないでしょう。
もう一つ、南王国ユダの人々の行方についてはどうでしょうか。
南王国ユダの人々も、A.D.70年に祖国を失い、全世界に離散しました。彼らユダヤ人の一部は、シルクロードを行き来する商人となり、はるばる中国にまでやって来ていたことが、知られています。
シルクロード内の絹の取引などは、ユダヤ商人がほぼ独占していました。A.D.3世紀には、すでに中国の開封に、ユダヤ人コミュニティがありました。
A.D.12世紀にはそこにユダヤ教会堂もあり、中国のユダヤ人社会は最近まで存在していたことが知られています。
ダビデの星
ですから彼らの一部が、古代の日本に渡来した可能性も、充分考えられるわけです。
イスラエル神殿の「菊の紋」伊勢神宮の「ダビデの星」
では、古代日本の文化に対する、イスラエル文化の影響と見られるものについて見てみましょう。
大変興味深いのは、日本の皇室の紋である「菊の紋」が、古代イスラエル神殿の遺跡にも発見される、という事実です。
現在もエルサレム城壁の西の門に、はっきりと菊の紋が刻まれています。その形は日本の皇室の菊の紋と、ほとんど同じ形をしています。
とはいえ、なぜイスラエル神殿に菊の紋が刻まれているのか――その理由や起源は、よくわかっていません。
ただこのデザインは、エジプトやペルシャ、その他の中東の諸地域において、宗教の中心地や、重要人物の棺の紋様として広く使用されていました。
菊の紋について、次の3つの考えがあげられています。
1つはイスラエルの菊の紋は、菊の花のデザインであろう、ということ。2つ目は、それは太陽をデザインしたものかもしれないこと。
皇室の菊の紋
3つ目は、全く意味のない単なる美しいデザインかもしれない、ということです。
いずれにしても菊の紋は、イスラエルにおいて、比較的広く使用されていたシンボルでした。
そこで、もし古代イスラエル人が日本に渡来したのだとすれば、彼らが持ち込んだ菊の紋が皇室の紋として採用されたのではないか、という考えが浮かんでくるわけです。
一方、日本の伊勢神宮の灯籠に、私たちは「ダビデの星」を見ることができます。
「ダビデの星」とそっくりのマークが、皇太神宮の参道わきの石灯籠に刻まれているのです(ダビデの星は、奥宮の「伊雑の宮」の紋でもあり、古代からのものであるという)。
「ダビデの星」とは、言うまでもなく、古代イスラエルの王ダビデの紋です。それは現在のイスラエル国旗のシンボル・マークとしても使用されており、ユダヤ人独特の印なのです。
古代イスラエル神殿の「菊の紋」、および伊勢神宮の「ダビデの星」――これらは日本とイスラエルとを結ぶ、象徴的なマークなのでしょうか。
イスラエル宗教と日本の神道行事とはこんなに似通っている
多くの学者は、イスラエル宗教と日本の神道行事との間に多くの類似性があると、指摘しています。
「イスラエルの唯一神教と、日本神道の多神教との間に、一体どんな類似性があるのか」 と質問するかたもいるでしょうが、類似性と言ったのは、次のようなことです。
たとえば神社のお神輿の形は、イスラエルの「契約の箱」に、じつによく似ています。それらは人々がかついで移動できるように、横に棒がついています。
また、聖書によるとイスラエルの王ダビデは、神の契約の箱がエルサレムに戻ってきたとき、契約の箱をかつぐ者たちと共に町の中をめぐり歩きました。そしてその前で踊った、と書かれています(Uサム6:1-19) 。
これは日本で、お神輿をかつぐ者たちが、踊る人々と共に町の中をめぐり歩く光景に、じつによく似ています。
また日本の神社の構造と、イスラエル神殿の構造との間にも、多くの類似点があります。
神社は礼拝をする「拝殿」と、御神体を安置する「本殿」とに分かれています。イスラエル神殿も、中は「聖所」と「至聖所」と呼ばれる、2つの場所に分かれていました。
こうした形のものは、中国にも欧米にもありませんでした。この形は、日本やイスラエルに特有なものなのです。
また日本の神社には、入口の両側に獅子の像があります。ところが獅子(ライオン)という動物は、かつて日本にいなかったのです。
日本にいないはずの獅子が、古代から日本の神社に置かれている事実は、考えてみれば不思議な話です。しかし古代イスラエルでは、神殿や王宮の装飾に、獅子の像が使われていました。
「そのささえの表面と鏡板には・・・ケルビムと、雄獅子と、なつめやしの木を刻み・・・」(T列7:36)
「そのひじかけのわきには、2頭の雄獅子が立っていた」(T列10:19)
と聖書に記されています。イスラエルで獅子の像は、神殿や王宮でよく使われていたのです。
また日本の神社は、釘を使わないで造られます。同様に古代イスラエルの神殿も、一本の釘も使われずに造られました。
日本の神社の神官が着る白い服も、古代イスラエル神殿の祭司が着ていたものによく似ています。
ユダヤ教のラビ(教師)であるマーヴィン・トケィヤー氏は、日本で見た神官の衣について、こう語っています。
「日本の神社へ行って気づくことは、日本の神官は袖に長いひもをつけている。私が神官にその理由について尋ねると、彼らは単に、『それは伝統にしたがっているにすぎない』 と答えてくれた。
しかし面白いことには、このように袖に房をつけておくのは、非常に古いユダヤの祭司の習慣なのである。それは優に3千年以上もの昔から存在していた、古代ユダヤの習慣なのである」。
またこう言っています。
「神官の着る白いリンネルの衣服は、古代イスラエルの祭司が着た白いリンネルの服と、全く同じような形をしている。
神官のはく袴も、ローブも、前にたらしている布も、胸の前につけている特別な布も、古代イスラエルの祭司が身につけていた衣服に、非常によく似ている」。
また、日本の神社において、その年にとれた初めての果実や収穫物を供えるという習慣は、古代イスラエルにおいても同様に行なわれてきた習慣です。
日本の神社では、神官が木の枝で「お祓い」をします。これもまた、古代イスラエルの祭司がヒソップと呼ぶ木を用いて、清めの儀式を行なったことに、よく似ています。
日本の神社では、灯心にともした火はいつまでも消されず、神社の中に保たれています。古代イスラエルの神殿にも、「永遠の灯」と呼ばれるものがあって、その火は決して消されることがありませんでした。
日本の古い楽器に、琴という楽器があります。これは、古代イスラエルの神殿で奏でられた楽器に非常によく似ている、と指摘されています。
日本人は神社で、「お賽銭」をささげます。こうした習慣は古代イスラエルの神殿でも、同様にありました。
また、日本の神社は基本的には偶像崇拝ではない、ということも注目すべきことです。
日本の神社の本殿には、決して偶像は置かれません。石や、鏡、剣、御札などを置くことはありますが、これらはいずれも神の臨在を象徴し、神聖さを示すためのものであって、偶像ではありません。それ自体を拝む、ということはないのです。
日本の習慣とイスラエルの習慣の類似
ユダヤ人ラビ・トケィヤー氏はまた、日本の古来からの習慣の多くがイスラエルの習慣によく似ている、と指摘しています。
京都の宮殿
たとえば外国人が、日本の国技である相撲を見に行ったとしましょう。多くの外国人は、力士が土俵に「塩をまく」習慣を見て、違和感を感じます。なぜ塩をまくのか、意味が理解できないのです。
ところがトケィヤー氏によると、こうした「塩をまく」習慣に対してユダヤ人は、全く違和感を感じないと言います。
ユダヤ人は「塩をまく」のは「土俵を清めるため」である、と即座に理解します。ユダヤ人の家庭では古くから、母親が同じようなことをして家の中を清める習慣が、あったのです。
また日本の公衆浴場では、日本人は浴槽に入る前に、流しで体を洗います。ユダヤ人はこうした習慣を見ると、自分たちの習慣と同じだと感じて、リラックスします。
ヨーロッパ社会においては、ユダヤ人を除いて誰も、このような習慣を持っていないのです。
また日本には、古くから「お守り」を持つ習慣があります。日本人の中には車の運転席に、お守りをぶら下げている人々がいます。
東北地方へ行けば、どの農家もたくさんのお守りを、家の入口や神棚のわきに張りつけています。同様な習慣が、古くからイスラエルにもありました。
旧約聖書外典には、古代イスラエルの兵士たちが、呪文を書いた護符を見につけていたことが書かれています。これはアミュレットと呼ばれるもので、幸運を祈る日本のお守りと同じようなものでした。
またユダヤ人には、今もメズサと呼ばれるお守り札を、家の入口に張りつけておく習慣があります。これは羊の皮で作られた薄い紙で、旧約聖書の言葉が記されています。
メズサは、もともと神をおぼえるために家の入口につけられたのです。しかし人々は、しばしば神ご自身よりも、メズサ自体を「お守り」として用いました。
「お守り」に頼る習慣は、正当派ユダヤ教の指導者らによって、いつの時代にも「迷信」として禁じられてきました。
私たちは、神に対しての信仰がある限り、たった一枚の紙に書かれた魔力に頼ってはいけないのです。
しかし人々はいつも何かを信じたがっているので、こうしたお守りの習慣は、古くからイスラエル人の間にも存在していたのです。
ソロモン時代の神殿
祇園祭とイスラエルの祭との類似
日本では毎年、7月17日に、「夏祭」と称する「祇園祭」、別名「天王祭」が全国一斉に行なわれます。とくに総社である京都・祇園神社の祭は、大規模に7月17日から1週間にわたって行なわれます。
じつはこの7月17日という日は、イスラエルにおいても、非常に重要な日でした。かつてノアの箱舟がアララテ山に着いたのが、まさにこの日なのです。
「箱舟は第7の月の17日に、アララテの山の上にとどまった」
(創世8:4)
と聖書に記されています。そのため古代ヘブル人は、この日に謝恩祭を行なっていたようです。
しかしモーセ以後は、ちょうどこの時期に収穫祭
(仮庵の祭ともいう)が行なわれるようになりました
(第7の月の15日から1週間)。
京都で行なわれている祇園祭は、こうしたノアの箱舟の記憶や、イスラエルの収穫祭を思い起こさせるものがあります。
祇園祭では、「舟車」といって舟の形をした山車が、町内をめぐります。また神輿には、鳩に似た小鳥の彫刻や、榊の小枝をくわえた鳥の模型がついています。
これらのことは、ノアの箱舟や、箱舟にオリーブの小枝をくわえて戻ってきた鳩の話を、思い起こさせるものであるわけです(創世8:11) 。
明治維新の頃、日本に来た商人で、N.マクレオドという人がいます。彼も京都で祇園祭を見たとき、ひじょうに強い印象を受けました。
たとえば祇園祭の中で、人々は木の枝を持ち歩いていました。古代イスラエルの収穫祭でも、人々はたくさんの木の枝を持ち、また農業の収穫物を持って行列に参加しました。
またマクレオドは、祇園祭で使われる香炉が、イスラエル神殿で用いられていた香炉に非常によく似ている、と観察しました。
さらに祇園祭の行列の中に、「7つの腕のある道具」を持ち歩いている人たちを見ました。これはイスラエル神殿で用いられていた7つの腕を持つ燭台(メノラ)に非常によく似ている、と彼は考えたのです。
また日本文化において12という数字が、いろいろな場面において用いられていることをも、発見しました。天皇は12人のお妃を持ち、京都の御所には12の門がありました。
山伏――頭につけているのが兜巾。
宮城には12の飾り付けがあり、神社の祭では12本の棒がゆわえつけられていました。
こうしたことは、イスラエルで神の民や神殿に関するものに12という数字がよく用いられていたことを、ただちに連想させるものでした。
祇園祭について、ユダヤ人ラビ・トケィヤー氏はこう言っています。
「いずれにせよ、ユダヤ人がこの祇園祭を見たときに感じることは、「ギオン」という名前はエルサレムの別名である「シオン」ではないか、ということである。
・・・その祭自体が、古代イスラエルの歴史を、ドラマ化したものであるように感じるのである」。
このように、イスラエルの習慣に精通している人々にとって京都の祇園祭は、イスラエルの祭を連想させるものであるようです。
しかしこれはイスラエルの正統的な宗教行事の場合ですが、そうでない場合もあります。
たとえば、日本の神社の中には、牛を祭神としているところが多くあります。さきに、神道は基本的には偶像崇拝ではないと述べましたが、一部には偶像崇拝も事実入っているわけです。
この風習は、古代イスラエル民族が行なった異教の偶像崇拝の名残りではないか、とマクレオドは考えました。
聖書にも、古代イスラエル人は唯一の神を信じながらも、しばしば「子牛礼拝」などの偶像崇拝に陥ったことが記されています。
とくに失われた10部族は、そうした偶像崇拝に陥っていましたから、偶像崇拝が一緒に日本に持ち込まれたと、考えられるわけです。
また、「山伏」に関する様々のことが、古代イスラエルの習慣に非常に良く似ていると、指摘されています。
たとえば山伏は、額に「兜巾」と呼ばれる黒いものをつけます。これは古代イスラエルの祭司が額につけた黒い聖なる箱「ヒラクティリー」にそっくりだ、と指摘されているのです。
今日もユダヤ教徒は、祈りのとき、ヒラクティリーを額につけます。こうした習慣は、ユダヤ教徒と日本の山伏にだけ見られるものです。
山伏が吹く「法螺貝」も、イスラエル人が祭のときに吹く「ショーファー」という笛に、よく似ていると言われています。
イスラエル人のショーファーは、ふつう雄羊の角で作られますが、必ずしも雄羊の角である必要はありません。実際には、手に入る材料で作ってかまわないのです。
ユダヤ教徒が頭につけるヒラクティリー
日本は羊は少なく、海洋国家なので、法螺貝が用いられたのではないかと言われています。両方とも同じような音をたてるのです。
そのほかにも、山伏の習慣には古代イスラエルの習慣を思わせるものが多々あり、両者には、「偶然とは言えないほどの一致点が存在している」と、トケィヤー氏は述べています。
ひい・ふう・みい・・・・・はヘブル語
つぎに、日本語にはヘブル語の影響が見られる、という意見について見てみてましょう。
私たちは数をかぞえる時に、
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう・・・」
と言います。私たちはただ習慣的にこの言葉を使っていますが、ユダヤ人ヨセフ・アイデルバーグ氏によると、これはヘブル語だといいます。
アイデルバーグ氏はイスラエルに育ったので、氏の母国語は、もちろんヘブル語です。氏はヘブル語のほかにも7か国語に精通し、日本に来て、日本の風俗習慣を勉強したこともあります。
「ひい、ふう、みい・・・」は今日、数をかぞえる言葉として用いられていますが、もともとはそうではありませんでした。
これはじつは、『古事記』や『日本書紀』の神話にもとづく、一種の祈祷文なのです。
『記紀』(古事記と日本書紀)の中には、天の女神であるアマテラスオオミカミが「天の岩屋戸」に隠れ、世の中が真っ暗になった、という話が出てきます。
古い伝承によると、そのとき女祭司アメノコヤネノミコトは、女神にそこから出てもら
おうと、次の祈祷文を唱えました。
「HI・FU・MI・YO・ITSU・MU・NANA・YA・KOKONO・TOWO」。
アマテラスオオミカミが天の岩屋戸に隠れたとき、アメノウズメノミコトがその前で踊り、アメノコヤネノミコトは「ひい・ふう・みい・・・」の祈祷文を唱えた。
アイデルバーグ氏は、これはじつに美しいヘブル詩文だ、といいます。これはヘブル語では、
「HI・FA・MI・YO・TSIA・MA・NANE・Y・KAKHENA・TAWO」
とつづられ、
「HAIAFA・MI・YOTSIA・MA・NAANE・YKAKHENE・TAWO」(ハイアファ ミヨッツァ マナーネ ヤーヘーナタウオ)
と発音されます。その意味は、
「だれが女神様を出すのでしょう。誘いに、いかなる言葉をかけるのでしょう」
なのです。日本語では全く意味のない「ひい、ふう、みい・・・」が、ヘブル語として見れば、非常によく意味の通る言葉になるのです。
この言葉は後に、日本人の間で数をかぞえる言葉として用いられるようになりました。
私たちは今日「ひい、ふう、みい」だけでなく、
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とう」
という言葉も、数をかぞえるときに使っています。これは先の「ひい、ふう、みい・・・」の語のそれぞれに、接尾語「とつ」(たつ)、または「つ」をつけたものです。
じつは、ヘブル語で「TETSE」(てつぇ)または「TSI」(つぃ)といえば、「出てきてください」という意味なのです。
つまりこの言葉は、
「ひい、ふう、みい・・・」(だれが女神様を出すのでしょう。誘いに、いかなる言葉をかけるのでしょう)
というアメノコヤネノミコトのそれぞれの語が言われるたびに、まわりの神々が、
「てつぇ」
と言って唱和したもの、と想像されます。アメノコヤネノミコトの「ひい」に、まわりの者が「てつぇ」(出てきてください)と唱和し、「ふう」に「てつぇ」と唱和し、「みい」に「てつぇ」と唱和する、といった具合です。
こうして「ひとつ」(ひい+てつぇ)、「ふたつ」(ふう+てつぇ)・・・と言われるようになった、と考えるわけです。
そして最後の言葉「とう」では、みなが一斉に唱和しました。「とう」(TAWO たうお)とは、ヘブル語で「彼女は来る」という意味なのです。こうして女神であるアマテラスオオミカミが、岩屋戸から出てきたわけです。
もしこのように、「ひい、ふう、みい・・・」や「ひとつ、ふたつ・・・」がヘブル語であるとすれば、古代の日本人の中にはヘブル語を解する人々が多数いた、ということになるでしょう。
あるいは、古代の日本人はヘブル語を話す人々と接触していた、ということになります。
「スメラ・ミコト」はサマリヤの王の意!?
もう一つ、興味深い例について見てみましょう。『記紀』(古事記と日本書紀)において、天皇はすべて「スメラ・ミコト」の公式名で呼ばれています。
しかし「スメラ・ミコト」とは一体どういう意味なのかというと、ふつうの日本語としては、これといった意味がありません。「スメラ・ミコト」について、アイデルバーグ氏は、
「これは古代ヘブル語の一方言で、『サマリヤの王』という意味である」
と述べています。アイデルバーグ氏によると、「スメラ」は、「サマリヤの」を意味するヘブル系アラム方言の「SHAMRAI」から来ているのではないか、といいます。
さらに「ミコト」は、古代イスラエル人が使ったと思われるセム語の一つシリア語の「MALKIOTO」から来ているのではないか、とのことです。これは「王」(皇帝)という意味なのです。
「L」はほとんど発音されないので、「L」を落とせば「MAKIOTO」となり、いずれ「ミコト」になったに違いない――そう考えるわけです。
もしアイデルバーグ氏の言うように、「スメラ・ミコト」が古代イスラエル人の用いたヘブル系言語で、「サマリヤの王」の意味であるとすれば、これは重要な意味を持ちます。
「サマリヤ」は、北王国イスラエルの別名なのです。北王国は、サマリヤと呼ばれる地にあった国で、「サマリヤの王」は「北王国イスラエルの王」ということです。
そこで私たちには、次のような想像が浮かんできます。
「イスラエルの失われた10部族は古代日本に渡来し、その記憶をもとに、天皇が「スメラ・ミコト」と呼ばれるようになったのではないか」もう少し詳しく見てみましょう。
『記紀』の中で、日本最初の天皇「神武天皇」は、「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」
(神倭伊波礼毘古命) の称号で呼ばれています。
神の御名ヤハウェの聖四文字(右から読む)
この称号も、日本語では満足のいく説明ができません。アイデルバーグ氏によればこの称号も、少しの訛を修正すれば、ヘブル語として明瞭な意味を持った言葉となります。意訳すれば、
「サマリヤの王、神のヘブル民族の高尚な創設者」
という意味になるのです。各語の意味は次のとおりです。
「カム」――「創立」するとか「設立」するという意味のヘブル語根「KUM」
「ヤマト」――日本語では的確な意味がないが、ヘブル・アラム語表現の「YA・UMATO」なら「神の民」を意味する。
YAはヘブル語で「ヤハウェ」(神)、UMATOはアラム語で民の意。(イスラエル人はアラム語も話した)。
「イワレ」――やはり日本語では意味がないが、アラム語で「ヘブル」を意味する「IWRAA」が少し訛ったものと考えられる。
「ビコ」――ヘブル語の「BEKHOR」から来たものではないか。直訳すれば「最初に生まれた」だが、慣用的に「高尚な」の意味に用いられる。(また、「スメラ・ミコト」については上記の通り。)
ヤサカのマガタマ
このように日本最初の天皇の称号に、失われた10部族の記憶が、反映されているようです。
しかしこれは、「神武天皇が、はるばるサマリヤの地から渡来した北王国イスラエルの王その人であった」ということではありません。
ここで言えるのは単に、失われた10部族の日本への渡来の記憶が、古代日本の統治者の「権威づけ」に利用されたかもしれない、ということなのです。
古代日本の文化にイスラエル文化は大きな影響を与えた!?
また、いわゆる「三種の神器」の一つヤサカのマガタマ(八尺勾玉または八尺瓊勾玉)がイスラエル起源である、という説も興味深いものです。
ヤサカのマガタマというのは、独特な曲形をした古代のネックレス用の石です。このヤサカのマガタマと、鏡(八咫鏡)、および剣(草雉剣)が「三種の神器」で、古くから天皇の皇位継承のしるしとして、神聖視されてきました。
勾玉、鏡、剣の3つは、「三種の神器」としてだけでなく、多くの古墳においても発見されています。それらは古くから人々に大切にされてきたのです。
このうち最も起源が古いのは、ヤサカのマガタマです。鏡や剣は後代に中国大陸から輸入されたものであるのに対し、一方マガタマは、日本古来のものなのです。
アイデルバーグ氏によると、ヤサカのマガタマは、ヤハウェの神への信仰を表すといいます。
「ヤサカ」は、日本の学者は「大きい」の意味に解しているようです。しかしこれはヘブル・アラム語の「YA・SAKHA」ならば、「ヤハウェへの信仰」の意味なのです。
またマガタマが、なぜあのような形をしているのかは、わかっていません。しかしイスラエル人なら誰でも、あの形が何を意味しているのか、すぐわかるでしょう。
あの形はまさに、ヘブル語アルファベットのヨーヅ(’)と同じです。ヨーヅは、英語でいえばYの文字に当たります。
これは神の御名ヤハウェを表す聖四文字YHWHの、頭文字です。そして古代イスラエル人の間では、ヨーヅ(’、Y)の一字で、ヤハウェの御名が表されることがあったのです。
もしこの考えが当たっているとすれば、古代日本人は、ヤハウェの神への信仰を持っていたことになります。
また多くの学者が、日本語にはヘブル語に似たた言葉が非常に多い、と指摘しています。
たとえば日本語の「辱め」は、ヘブル語で「ハゼカーシェム」といいます。「あなた」や「あんた」は、ヘブル語や古代アラム語でも「アンタ」といいます。
日本語では皇帝を「ミカド」といい、古くは「ミガド」といいましたが、ヘブル語でも高貴なおかたを、ミガドルといいます。ある学者はこのような類似の例を、1千以上指摘しています。
アイデルバーグ氏はまた、日本語のカタカナ・ひらがなの文字の中には、古代ヘブル語アルファベットの筆記体等を真似してつくった、と見られるものが多数あると指摘しています。
さらにヘブル語学者の川守田英二博士によると、日本の民謡の「はやしことば」の多くはヘブル語である、とのことです。
彼によると、ソーラン節の「ヤーレン・ソーラン」は、ヘブル語の「ヤーン・レ・ソーラン」で、「ヤハウェわれに応えり、注目せよ」の意味だといいます。
佐渡おけさの「アーリャ・サ」は、ヘブル語の「われ讃えまつらん、主権者を」の意味、拳打ち唄の「ジャン・ケン・ポン」は、(手を)「かくす、用意せよ、来い!」という意味のヘブル語だと述べています。
また、青森県に伝わる「ナギャド・ヤラ」の民謡は古代のヘブル詩歌であり、「伊勢音頭」も古代イスラエルのミリアム(モーセの姉)の歌であった、と主張しています。
ただし川守田博士の主張は、しばしば先走った「決めつけ」が多く、そのすべてを受け入れることはできません。
ユダヤ人ラビのトケィヤー氏も、川守田博士の主張については興味深い研究としながらも、その学問的根拠づけはあいまいだと批判しています。
とはいえ、日本語とヘブル語の類似は、単なる偶然の域を越えているようです。古代の日本人はヘブル語も話したのではないか、とさえ思えてくるのです。
日本に渡来した秦氏はユダヤ人か
日本とイスラエルの関係をめぐる論争には、多くのミステリーがつきまとっています。こうした問題は、研究すればするほど、謎もまた深まるといった面があります。
しかし以上述べてきた事柄の中に、もし何らかの真実があるとすれば、日本文化とイスラエル文化とのこうした類似は、一体何を意味しているのでしょうか。
先に述べた「スメラ・ミコト」が、アイデルバーグ氏の言うように「サマリヤの王」の意味ならば、これは「サマリヤの失われた10部族が日本に渡来したという説」の有力な証拠といえるでしょう。
10部族が祖国を失って捕囚となったのは、B.C.721年。一方、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年はB.C.660年。時代的には、よく一致しているようです。
一方、A.D.70年に、離散した南王国のユダヤ人が日本に渡来した、と見られる証拠もあります。
たとえば一説によればA.D.2世紀頃「弓月」と呼ばれる種族が、3500人ほどの人々を従えて船で来日しました。
この時のことは『日本書紀』にも記されていますが、彼らは初めて日本に絹の織物を紹介しました。
当時シルクロードでは、絹の取引はほぼユダヤ人に独占されていたので、彼らはユダヤ人だったとも思われます。
ある人は、その後もユダヤ人の移民が時おり日本にやって来た、といいます。そしてそれが、古代日本史でいう「秦氏」と呼ばれる人たちだった、と考えるのです。
秦氏は、京都の「太秦」の地に住み着きました。太秦の地には、「大辟神社」というのがあります。
中国では、「ダビデ」(古代イスラエルの王)を「大辟」と呼んでいましたから、これは言わば「ダビデ神社」です。
また太秦には、今でも「イサライ」(いさら井)と呼ばれる井戸が存在しています。これは、「イスラエル」の語が訛ったものではないか、と想像されているのです。
日本の古代史に関する間違った見解について
以上、古代の日本とイスラエル民族の接触の可能性について、幾つかのことを述べました。
その他にも多くのことが議論されていますが、最後に日本の古代史に関して、人々の間にしばしば見られる間違った見解について述べておきましょう。
ある人々は、日本文化の中には多くのイスラエル的影響が見られることから、
「日本人は、じつはイスラエルの失われた10部族である」
とか、
「日本人はユダヤ人である」
とか唱えたりしています。しかし、そこまで言ってしまうと間違いでしょう。日本人は明らかに、雑種です。
日本人は、ツングース族、苗族、ネグリート族、アイヌ族、漢族などの諸民族が混合した、モンゴロイド(蒙古人種)主体の混血民族なのです。
その中に、北王国イスラエルあるいは南王国ユダの子孫の血が多少混ざった可能性はあるとしても、日本人=ユダヤ人とは決して言えません。
そのほかこの問題に関して、様々な方面に極論があって、その多さは始末に困るほどです。たとえば先に述べた川守田博士は、
「天皇は、ヤハウェの神によって立てられた人間メシヤだ」
とか、
「預言者イザヤを中心とするイスラエルの国粋党が、安全な地を求めて日本にやって来たのだ」
等と述べています。彼は天皇至上主義者だったので、自分の研究をその主張に結びつけて、こう言ってしまったのです。さらに一部には、
「キリストやモーセは、日本に来て日本で死んだ」
という説まであります。しかしこうした説は、いずれも不確かな情報をもとに、先走った決めつけを行なったもので、学問的には何の価値もありません。
日本の古代史とイスラエルの関係については、多くの邪説・奇説があります。けれども、これら多くの誤った説の存在にもかかわらず、イスラエル人が事実、古代日本にやって来た可能性は、やはりあるように思われます。
先に述べた日本文化へのイスラエル的影響の数々は、そのすべてが誤りと言うわけにはいかないでしょう。そこには何からの真実がある、と見るべきではないでしょうか。
もしイスラエル人が古代の日本に渡来し、日本民族の形成に大きな役割を果たしたという考えが事実だとすれば、私たちは少なくとも次の事柄を、心にとめることができるでしょう。
一つは、私たち日本人にはイスラエル人の血が一部流れているかもしれない、ということです。アブラハム、イサク、ヤコブの血が、私たちの体にも一部流れているかもしれないのです。
二つ目は、聖書の神ヤハウェは決して、日本人に遠いかたではないということです。
古代の日本人は、聖書の神ヤハウェを知っていたのかもしれません。それが時代とともに「八百万の神」の多神教に堕落したとはいえ、私たちには古来からヤハウェの神への信仰の伝統があるのです。
ある意味で、日本建国の神は聖書の神ヤハウェである、と言ってもよいかも知れません。今日の日本は、その堕落変形してしまった姿なのです。
今後、日本人は聖書をよく学び、ヤハウェの神のお教えになる真の教えに立ち返るべきでしょう。
無神論や多神論、偶像崇拝、あるいは日本至上主義の悪弊に陥ることなく、唯一の神ヤハウェの愛の教えを、よく学ぶべきです。
ヤハウェの神は、イスラエルの神であるとともに、われわれ日本人の神であり、また全世界の人々の神であられるのです。
[参考文献]
◎ 『ユダヤと日本――謎の古代史』 M・トケイヤー著 箱崎総一訳 (産業能率大学出版部)
◎ 『大和民族はユダヤ人だった』 ヨセフ・アイデルバーグ著 中川一夫訳 (たま出版)
◎ 『日本人のルーツはユダヤ人だ』 小谷部全一郎著 (たま出版)
久保有政著
|