その他 

小原国芳
教育への情熱


 国を造るのは、結局「人」である。その国に住む一人一人の人間がどういう「人」であるかが、その国の価値と、将来とを決めるのである。
 その国の青年を見れば、その国の将来がわかるという。まさに、国を造るときに最も重要なのは、「人」である。
 だから、「教育立国(りっこく)」でなければならない。教育が「人」をつくり、「人」が、国をつくり世界をつくる。「教育」は、人生の最も重要な仕事の一つである。
 小原国芳(おばらくによし)師は、そうした「教育」に一生を捧げ、燃えるような熱意をもって取り組んだ人であった。


全人教育の提唱者

 師は、東京都町田市にある「玉川学園」の創立者である。また、今ではよく知られるようになった「全人(ぜんじん)教育」の提唱者でもある。
 「全人教育」とは、バランスのとれた知育・徳育・体育等を通じて生徒の全人格(ぜんじんかく)的な教育を目指すものだが、小原師の「全人教育」はきわめて具体的な内容を持っていた。
 師の全人教育は、「(しん)・善(ぜん)・美(び)(せい)・健(けん)(ふ)」の6価値を重視する。
 学問教育によって「真」を、道徳教育によって「善」を、情操(じょうそう)教育によって「美」を、宗教教育によって「聖」を、体育によって「健」を、労作(ろうさく)教育(健全な労働観を養う)によって「富」の価値を育成することを、目指すのである。
 師は、真・善・美・聖の4価値を「絶対価値」と呼び、健・富の2価値は「手段価値」と呼んだ。これら6つの価値が、よく調和されたかたちで豊かに育てられることが、「全人(ぜんじん)教育」なのである。
 この理想をかかげて、師は成城(せいじょう)学園の創設にたずさわり、のちに、玉川学園をも創設した。玉川学園は、丘陵(きゅうりょう)を利用して豊かな自然の中にたてられた総合学園で、幼稚園から大学院までを擁している。
 学園の敷地の真ん中にある小高い丘には、礼拝堂がある。学生たちは週1回、そこで讃美歌を歌い、牧師の説教を聞く。小原師も、存命中はそこで学生たちに説教をした。
 そのころの学園を訪れた外来者は、誰でも驚くのが常だった。道で出会う学生たちが、みなにこやかに、外来者に対して快い挨拶(あいさつ)をしてくれるからである。
 学生たちはみな、小原師を「オヤジさん」と呼んで、親しんでいた。師もこの呼び名が気に入って、自分のことを「オヤジは・・」と言っていた。
 師は人を教育する厳しさと、人を包み込む優しさの、両方を兼ね備えている人だった。
 学生たちの怠惰や不道徳に対しては、厳しく怒った。それでも学生たちは師を慕い、熱心にその教えを聞こうと、周囲に集まってきた。
 師は礼拝堂で、講堂で、食堂で、また林の中で、どこでも学生に話をした。大学生も小学生も、みな目を輝かせてその話を聞くのだった。
 ある外来の教師は、玉川学園を初めて訪れた時のことを、こう語っている。
 「小原先生がやって来たのを見ると、その小学生たちは歓声を上げて、先生のまわりに集まってきました。
 そして先生に抱きついたり、握手したりで、たいへんな騒ぎだったのです。私はその光景を見て、真の教師の姿を見せつけられた思いでした」。
 小原師は、どのようにして学園を建設したのだろうか。
 師は、京都大学・哲学科に通う貧乏学生だった時から、すでに全人教育の理想に燃えていた。 
 そして大学卒業後、並々(なみなみ)ならぬ努力のすえ、次々に、理想の学校建設のための道を切り開いていった。資金は、彼の熱意、信用、そして能力を見込んだ人々から集められた。
 玉川学園が創設されようとしていたとき、そこにはまだ鉄道さえ来ていなかった。しかし師は、
 「ホンモノの教育をすれば、鉄道は必ずついて来る
 の信念で、学園を創設した。そしてそこに鉄道が引かれ、学園正門のすぐ前に小田急線「玉川学園駅」が出来たのは、まもなくのことであった。
 師がクリスチャンになったのは、学生時代だった。大学時代には哲学をおさめ、教育に関して様々な思想を研究した。
 師は、生徒の人格形成に役立つと判断すれば、たとえシャカやマホメットや孔子(こうし)の言葉であろうと、話の中に引用した。先人(せんじん)の欠点を指摘するよりは、先人の偉大な側面を取り上げて、教育に役立てようとしたのである。
 だから師の話の中には、あらゆる宗教家、あらゆる哲学者や、思想家の言葉が出てくる。しかし小原師自身は、個人的にはキリスト教の信仰に立っていた。
 以下は、師が昭和6年に、玉川学園で学生たちを前に行なった、クリスマス講話である。


学園のクリスマス礼拝で。



クリスマス講話
                        小原国芳(おばらくによし)

 去年の今日は、ボストンだった。どこで一番楽しい"クリスマスらしいクリスマス"を迎えようか、と考えた結果、ランシング先生の招待もあったが、やはりアメリカの心臓ニューイングランドのボストンででもと思って、ワザワザ出かけた。
 いうまでもなくニューイングランドの地は、信教の真の自由を得たいために、旧欧州大陸から新天地へと、燃える清い信仰をもって、その名もゆかしいメイフラワー(5月の花)号に身をたくして大西洋を突破して来た一団の人たちが、上陸して根拠をこしらえた所である。
 物質の豊かなアメリカに、理想主義の魂の種子を蒔(ま)いたのが、ボストンである。上陸して彼らは、大地にひれ伏(ふ)し、天を仰(あお)ぎ、まず学校と教会をこさえた
 われわれがこの武蔵相模の大平原の一番高い丘の上に、学校と礼拝堂をつくったのも、同じ精神である。
 ちょうど、ついた日は一面の雪だった。ヤドヤのシンミリさ、クリスマスツリーの美しさは何とも言えなかった。明け方の鐘(かね)の音(ね)も良かった。
 あこがれのコンコードへと車を飛ばした。老運転手は20年前、東郷元帥(げんすい)が宮様のお伴してお出での時、案内した男だった。東郷元帥の同郷の者だと言うと、えらい喜んでくれた。
 大学から大学町、ロングフェローの家からずっと、ホーソンの家、とくに、僕にはなつかしい――高師の卒業論文がエマーソンだったので、そのコンコードの哲人(てつじん)エマーソンの家、本の口絵で見たそのままの家の門前に立った時は、なつかしかった。
 コンコードの地は、ちょうど玉川に見るような丘陵が多い。幾度か学園を思い出しては、10年後、20年後の学園もかくやと夢みることだった。
 そこで、このクリスマスの朝、僕は、
 "人の高下(こうげ)はどうして定まるか。
  何が人を貴
(とうと)くするか"
 ということについて考えてみたい。いろいろと人間を高下する理由があろうが、まず次の3つの理由を挙げたくなる。

 1.自分のためにか、他人のためにか。
 2.物質に生きるか、精神に生きるか。
 3.近くを視(み)るか。遠くを望むか。


自分のためにか他人のためにか

 第1の理由から考えてみよう。
 今朝も今朝、夢でないかと思うように、かすかに夢からさめた。全く最初のほどは夢だった。半意識状態だった。
 村井先生ご夫婦が中心で、有薗先生やら塾生諸君(玉川では寮生を「塾生」と呼ぶ)より成るコーラス隊が、まず私の玄関先で、きれいな四部合唱で、讃美歌57番を、
 「もろびとこぞりて むかえまつれ・・」
 と歌い出して下さった時に、ホントに最初の2、3分は夢だった。
 〔玉川ではクリスマスの早朝に、塾生(寮生)たちが、学園の敷地内に住む先生方の家々をまわり、玄関で讃美歌を歌った〕


玉川学園では、学生たちがクリスマスの早朝に、
クリスマスキャロルを歌ってまわった。

 起き出て東の窓をあければ、きれいもきれい、澄(す)みきった満月の下に、ホントにきれいな声で歌って下さる一団。
 「メリークリスマス」
 の声がおのずから出る。おバアさんとおバさん(小原夫人)と子どもたちと、寝巻のままで端座(たんざ)したまま、うれしくて、ありがたくて、ただ涙がにじみ出るのみであった。
 それが終わって、つぎつぎの家へ廻(まわ)って、はるかの丘からカスカに流れ来るメロディ。全く有り難い朝だった。
 考えてみれば、ここにも、コーラス隊の長い練習、夜半の起床、きびしい霜夜(しもよ)に家から家へと廻っての幾十回とない歌。「他人のため」の苦しみが――同時にそれは貴い喜びではあるが――私たちを幸福にしてくれたのである。
 そしてイエス様の誕生、ベツレヘムの星、牧羊者、天軍、博士たち・・・と、輝きと祝福と平和と希望に満ちた光景を、想像してみようではないか。
 そして、少年時代の大工小屋のイエス様の労作、ヨハネからの受洗、偉大なる3年半の伝道、カルバリ山上の十字架上のイエス様を想像してみたまえ。
 不合理の裁きの結果、衆愚(しゅうぐう)のために十字架上にさらされ、槍(やり)をもって胸をさされ、
 「神よ、御心(みこころ)にかなわば、苦(にが)きこの杯(さかずき)を取り去りたまえ。されど、わが心のままを願うにあらず」。
 何という、魂と肉のいたましい戦いだろう。そして「御心にかなわば」だ。決してわがままではない。しかも、
 「神よ、彼らをゆるしたまえ。そのなすところを知らざればなり
 と。何という広大無辺(こうだいむへん)の御心だろう!全くその「敵をも愛せよ」の生きた好標本だ。
 「十字架を背負うて我に従えよ
 だ。ホントにわれわれは、人生のあらゆる場面において、十字架を背負わなければならない。
 「十字架なくんば栄光はない
 のだ。教育界に事業界に、政治界に宗教界に、芸術の世界に学問の世界に、・・・あらゆるところに、パイオニアとして切り開くべき事が、あまりにも多いではないか。
 ペスタロッチも、大西郷も、正成も、義貞も、孔子も、釈迦も、リビングストンも、吉田松陰も、ホントに、
 「一切合財(いっさいがっさい)人のため
 であった。社会は、国家は、世界は、かかる人を要求しているのだ。お互いはケチ臭(くさ)い「一切合財自分のため」を打ち破って、ホントにわれわれの大先輩たちにならって、更生(こうせい)しなければならない。


         シュタンツ孤児院のペスタロッチ     グローブ画

 (おのれ)を捨てることは、実はホントの自己を得ることである(とうと)い深い意味を知り、それを体験せねばならない。
 容易の事業ではもちろんない。人生最高の難行苦行(なんぎょうくぎょう)なのだ。その為に、お互いの学園は生まれたのだ。・・・(中略)


物質に生きるか精神に生きるか

 第二に、物を尊重するか魂に生きるかという問題が、また人間を高下(こうげ)に分ける。
 いう意味は、決して物質や肉の世界を否定するのではない。精神に生きる基準条件としての体も、物も、肉も、金も、家も、土地も、意味があるし、その程度において尊ぶのである。
 「地上に宝を積むな、天国に積め
 とある。財宝を魂をもって清め、使役(しえき)するにある。宝に使われてはいけない。魂が黄金の奴隷になってはいけない。
 肉を否定するのではない。霊をもって肉を清め、その存在の意味を高めるのである
 あまりに世には、手段と目的を混用する人が多い。物質の奴隷になり過ぎる。否、魂の世界をすら閉塞(へいそく)していかぬ。
 大ナポレオン皇帝の百年祭はなくとも、一小学校の教師ペスタロッチ先生の百年祭が、遠い遠い東の国(日本)の津々浦々(つつうらうら)ですら行なわれたことは、全く愉快ではないか。
 かのナポレオンは、セントヘレナに淋(さび)しい晩年を送る時、何と述懐(じゅっかい)した?
 われは頭に黄金の冠をかむり、身に綺羅(きら)を飾り、腰に剣をおび、胸に美々しくクンショーを吊り・・・それでも世界を征服できなかった。
 しかし身にボロをまとい、塵埃にまみれ、裸足のままで、世界の人心を永劫(えいごう)につかんだ者がある。それはユダヤの大工の子イエスだったと
 東西の偉人たちの伝記を味読(みどく)することを、特にすすめる。


近くを視(み)るか遠くを望むか

 第3に、眼前をケチケチ視てるか、遠い遠い永劫の世界を望んでいるか、ということがまた人間を高下にする。
 われわれの出版部がこしらえたラファエルの「マドンナ」を見てみよ。どれもだが、とくに、ドレスデンの美術館にあるマドンナを見てみよ。
 あの聖母マリヤの顔がじつに崇高に見えるのは、あのマリヤの眼の視線が、ズット遠く遠く並行してるというのである。
 両眼の視線が並行してるというのは、永劫の世界をあこがれ、凝視してるということである。
 じつはラファエルは、平行線どころか、すこし先が開いて描いてあるくらいだそうだ。ウンと開いたら、ヒガラ目になってしまって大変だが!
 「百年の大計(たいけい)」というが、ホントに遠来(えんらい)の計画もたてたい。高い、大きい、清い仕事にこの身を捧げたい。光と望との世界を待望したい。
 足元も踏みしめなければならないが、さりとて、アクセク四六時中(しろくじちゅう)闇の中にもがくより、星を望んで溝(みぞ)の中に落っこちたタレスのほうが、はるかに貴い。
 「肥(ふと)った豚よりも、痩(や)せたソクラテスになれ」
 とジョン・スチュワート・ミルは訓(おし)えてくれた。
 かくても、ホントに諸君に、聖者たちの伝記を繙(ひもと)くことを、特にすすめる。とくに殉教者たちの伝記――出版部発行の山本秀煌先生の『江戸キリシタン屋敷』を読んでよ。日本歴史中、いくつもある美しいことの多い中に、とくに美しい一つである。
 疲れたる、迷える、鈍感な私たちに光を与え、刺激となり、価値転回をさしてくれるものは、じつに偉人の伝記である。ことに聖書は、その最高峰である。
 クリスマスを祝するにあたって、われわれは喜びと同時に、人生の苦しさと、戦いと、十字架の意義を十分に知らねばならない。
 二度と生まれて来ぬ人生である。この世にオサラバをする時に悔いのないように、ホホエミをもってオサラバが言えるように、ホンゴト(ホンモノの仕事)をしようではないか。
 意義ある人生を生きようではないか。それにはいろいろあろうが、この3つが大事な人生の尺度と思われる。

 この楽しい御祝いの中を、会計の先生方はじめ、猪原君や平田君の先輩の数名が、年越しのキリキリ舞のために、銀行廻りから土地代のお願いに、さらにこの寒空に牛乳配達や新聞配達に、霜柱を踏んで戦ってる仲間のあることを思って感謝せねばならない。
 遠くロスアンゼルスで、学園のために働いておられる伊藤先生、ベルリンで研究中の田中先生のために祈ろう。
(玉川大学出版部発行『塾生に告ぐ』より。写真類も玉川大学出版部のご好意による。)

                                                                                                                             久保有政著  



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