キリスト教Q&A
クリスチャンになると、全く罪がなくなるのですか
これは大切なことなので、順序だてて見てみましょう。
罪には、“過去に自分が犯した罪”と“将来自分が犯すかも知れない罪”とがあるでしょう。
まず“過去に自分が犯した罪”に関してですが、これはキリストを救い主と信じてクリスチャンになったとき、すべて赦されて取り除かれます。聖書に、
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいかたですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Iヨハ1:9)
と記されています。悔い改めて信じるとき、罪はすっかり清められます。あなたの罪も、その罪に対する刑罰もなくなります。これはキリストの尊い犠牲の血潮と、信仰のゆえに与えられる神の恵みです。
つぎに“将来自分が犯すかも知れない罪”についてですが、その前に、あなたは「罪」というものを何かの「失敗」とか、「判断の誤り」などと混同しないようにしてください。
クリスチャンになったからといって、たとえば旅行に出たとき道を間違えないようになったとか、事業で一度も赤字を出さないようになるとかいうことは、ないわけです。
学校のテストで毎回100点を取れるようになる、ということもないでしょう。「罪」は、人間の知的不足から来る失敗とか、誤りなどとは関係ありません。そうした失敗や誤りは、クリスチャンになってもあるでしょう。
また罪は、誘惑と同じものではありません。心の内に誘惑を感じても、それ自体は罪ではありません。
クリスチャンになっても、常に誘惑はあります。誘惑があることは、罪ではありません。
誘惑に負けたときが、罪になります。しかし、誘惑をすぐ払いのけるなら、それは罪にはなりません。マルチン・ルタ−が言ったように、
「鳥が私の頭の上を飛ぶのは防げないが、鳥が私の頭に巣を作るのは、防ぐことができる」
のです。
「罪」とは、神の御教えに反することです。神の教えに反してなされた行為、思い、言葉です。そうした「罪」に関しては、クリスチャンになったら、もうなくなると言えるのでしょうか。
クリスチャンになっても、しばらくはまだ「古い自我」が残っていて、自分の内なる罪深い性質が頭をもたげてくることがあります。それはクリスチャンとして、自然な経験です。
未信者のときは、「みんなやっているから」ということで罪責感も持たずにやっていたことも、クリスチャンになると、神の律法に反することだとわかるので、心の内に葛藤が起きるのです。
ときにはその思いに負けて、罪を犯してしまうこともあるでしょう。クリスチャンになったといっても、そのような意味では、罪を犯すことはあります。
クリスチャンになった瞬間から、もう二度と罪を犯さなくなった、という人はおそらく一人もいないでしょう。しかしクリスチャンは、そのとき心の痛みを感じ、ふたたび神の前に悔い改めて、神の赦しを乞います。
そして神は、再び赦しを与えてくださるのです。自分の子が罪を犯したからと言って、すぐに「親子の縁を切る」と言う親はいないでしょう。
神様も同じです。神の子である私たちが罪を犯したからといって、すぐに親子の縁を切るようなことを、神様はなさいません。
必ずや、再びそのふところに温かく迎えてくださいます。大切なのは、神の愛を信じ、自分の罪を悲しんで、再び神の赦しの御言葉をにぎることです。
では、クリスチャンになっても、“罪を犯しては悔い改め、罪を犯しては悔い改め”という生活を、いつまでも続けなければいけないのでしょうか。
そうではありません。クリスチャンになっても罪を犯すことはありますが、もしあなたが望むなら、もう罪を犯さなくなることもできるのです。私たちがもし、愛に満たされるなら、私たちはもはや罪を犯すことがありません。
愛は、神の御教えを全うします。愛に満たされているとき、私たちは罪を犯すことができません。
神とその御教えを、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛することです。また、自分の隣人を、自分のように愛することです。こうした愛に満たされているとき、人の心に罪の入り込む余地はなくなります。
罪を犯さないように努めるより、愛に満たされて歩むよう努力したほうが、よいのです。闇を追い出すには、光を満たすことです。
愛に満ちて歩むためには、日々、神の聖霊に満たされて歩むことです。あなたも、神の聖霊に満たされて歩んでいってください。それは、
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ2:20)
という境涯のことです。この境涯こそ、神の聖霊によるものなのです。
神に常に祈りながら、キリストの愛に満たされて歩んでいくとき、あなたは聖霊に満ちて歩んでいるのです。そして、罪のにがい思いを抱くことなく、喜びに満ちて生涯を全うすることができるでしょう。
旧約聖書には、多くの「汚れ」に関する律法が記されていますが、こうした律法は現在ではどこまで有効なのでしょうか。
キリストご降誕以前の旧約時代には、人々は「汚(けが)れ」に関する様々な律法のもとにありました。
たとえば動物は、「清いもの」と「汚れたもの」とに分けて考えられました。
ひずめが全く切れていないものや、「反芻」(はんすう)しない動物は、「汚れたもの」とされました(レビ11:3-4)
。
「反芻」というのは、一度飲み下した食物を口の中に戻し、かみ直して再び飲み下すことをいいます。牛や羊などは、そうします。
つまり牛や羊などは「反芻する動物」であり、かつ、ひずめが切れているので、「清い動物」とされ、食べてよいとされました。一方、すべての肉食動物は「汚れたもの」とされ、食べてはいけないとされました。
この「清い」とか「汚れた」は、道徳的な意味というわけではなく、むしろ、「清い動物」は食用に適する動物、「汚れた動物」は食用に適さない動物の意味だと考えたほうがよいでしょう。
しかし旧約の律法によると、たとえば豚は反芻しない動物ですから、「汚れたもの」とされ、食べてはいけないとされました(レビ11:7)
。それに従えば、私たちが豚を食べるのはいけないわけです。
実際ユダヤ教徒は、今日も豚を食べません。ところがキリスト教徒は、豚を食べます。これは、主イエス・キリストご自身の次のような教えがあるからです。
「イエスは言われた。
『あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入ってくる物は、人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心に入らないで、腹に入り、そして、かわや(トイレ)に出されてしまうのです』。
イエスはこのように、すべての食物を清いとされた。また言われた。
『人から出るもの、これが人を汚すのです。・・・・』」(マコ7:18-23)。
このように主イエスは、すべての食物を「清い」とされました。主は、外から人の中に入って来るものは、人を汚さない。
ただ人の内側から出てくるもの・・・・悪い考えや、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさなどの悪が、人の内側から出て人を汚す、と言われたのです。
また新約聖書の『使徒の働き』にも、使徒ペテロに対して次のような新しい啓示があったことが、記されています。
「ペテロは、祈りをするために屋上に上った。・・・・彼は非常に空腹をおぼえ、食事をしたくなった。ところが食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りてきた。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また空の鳥などがいた。そして彼に、
『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』
という声が聞こえた。しかしペテロは言った。
『主よ。それはできません。私はまだ一度も、清くない動物や汚れたものを食べたことがありません』。
すると、再び声があって、彼にこう言った。
『神が清めたものを、清くないと言ってはならない』。
こんなことが3回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた」(使徒10:9-16)。
この出来事は、先に主イエスがすべての食物を清いとされたことを、さらにペテロに教えるものとなりました。これらの事柄は、「清い」とか「汚れ」ということに関して、新約時代になって“新しい啓示”があったことを、示しています。
この新しい啓示によると、
“人間の心まで汚すものは、汚れたものだが、そうでないものは汚れたものではない”
ということです。この啓示は、キリストご自身の御言葉によるものであり、旧約の律法よりも上位の権威を持っています。それで初代教会以降、異邦人クリスチャンには、豚肉を食べてはいけないなどの食物規定は適用されなくなりました。
では旧約時代に、なぜ多くの「汚れ」に関する律法が設けられたのでしょうか。
それはやはり、その律法をイスラエルの人々に対する一つの「養育係」(ガラ3:24)
とするためだった、と考えるべきでしょう。つまり「汚れ」に関する律法は、人々に対して、幼年期の家庭教師のような役を果たしたのです。
人間というものは、すぐには、目に見えない“霊的な汚れ”というものを理解できません。それで神は、ユダヤの人々にその前段階のものとして、まず、目に見える“物質的・肉体的汚れ”についての律法を教えられました。
それは一定の期間、人々に「汚れの観念」を育成するためでした。そしてのち神は主イエス・キリストを通して、真の汚れである“霊的な汚れ”に関する教えを、示されたのです。
旧約時代、「安息日」は土曜日とされ、土曜日に礼拝が持たれていたそうですが、それがどうして新約時代になって、日曜日になったのですか。
安息日は、旧約時代以来、たしかに週の第7日である土曜日に守られてきました。これは聖書・創世記に記されているように、神が6日間の天地創造のわざのあと第7日に休まれた、ということに基づいています。
それでユダヤの人々は土曜日を安息日として、土曜日に礼拝のために会堂に集いました。
その礼拝の日がいつ、週の第1日である日曜日に変更されたのかというと、キリストの使徒の時代です。
聖書をみると、クリスチャンたちは初代教会の時代に、週の第1日である日曜日に礼拝のための集まりを持っていたことがわかります。その初めは、ペンテコステの日です。
「五旬節(ペンテコステ)の日が来て、みんなの者が一緒に集まっていると・・・・」(使徒2:1)
と記されています。五旬節の日とは、安息日(土)の翌日から満7週を経た日のことで、日曜日です(レビ23:15)。
彼らは日曜日に集まっていたのです。聖霊降臨の日は、日曜日でした。
聖霊降臨の日(ペンテコステ)は、
主イエスの復活の日と同様、日曜日であった。
以後、日曜日は主イエスの復活の日であり、また聖霊降臨の日であるということからも、クリスチャンたちは毎日曜日に集会を持つようになりました。使徒の働き20:7には、
「週の初めの日 (日曜日) に、わたしたちがパンをさくために集まった時・・・・」
という言葉が見えます。またIコリント16:2には、聖徒たちへの献金について、
「週の初めの日ごとに、あなたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき・・・・」
と記されています。こうしたことから、初代教会のクリスチャンたちが、礼拝のための集会を日曜日に持っていたことは明らかです。
クリスチャンたちがなぜ礼拝の日を土曜日から日曜日に変更したのかという、具体的ないきさつについては、残念ながら聖書には記述がありません。
しかしキリストの使徒たちが、礼拝のための集会を日曜日に持つよう定めたことは、確実です。礼拝の日を日曜日に変更したのは、使徒たちなのです。
初代教会では、土曜日を安息日として休み、さらに主の日である日曜日にも集会を持っていたようです。このように礼拝の日は、初代教会以来、キリスト教会において土曜日から日曜日に変更されました。
ただし注意してほしいのですが、これは安息日が土曜日から日曜日に変更になったということではありません。変更になったのは礼拝の日であって、安息日ではありません。安息日は今日も土曜日なのです。
どういうことかというと、安息日はもともとユダヤ人のためのものです。異邦人のためのものではありません。
ユダヤ人の間には、「ユダヤ人が安息日を守ってきたのではなく、安息日がユダヤ人を守ってきた」という言い伝えがあります。安息日を守ることが、ユダヤ人のアイデンティティを支えてきたのです。
聖書の「使徒の働き」によれば、初代教会のとき、異邦人クリスチャンにも割礼を施したり、モーセの律法(安息日順守も含む)を守らせるべきだという人々がいました。それで論争が起きたのですが、結局、教会会議のすえ、異邦人クリスチャンは次の4つのことだけを守ればそれでよい、ということになりました。その4つとは、
「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避ける」
ということです。これらを避けて生活するなら、とくに割礼を受けなくてもよい、また安息日律法を含むモーセの律法の厳格な順守は要求しません、という決議だったのです。
このように、安息日はユダヤ人のために与えられたもので、異邦人クリスチャンのためのものではありません。今日も安息日は土曜日なのですが、だからといって、異邦人クリスチャンもユダヤ人のように厳格な安息日順守をしなければならない、というものではないのです。
これについて私は以前、メシアニック・ジュー(イエスを信じるユダヤ人)のかたに、「異邦人クリスチャンも土曜日を安息日として守るべきでしょうか」と聞いたことがあります。彼らユダヤ人のクリスチャンは、土曜日を安息日として守り、その日に礼拝を持っているからです。しかし彼の答えは、
「安息日はユダヤ人に与えられたもので、異邦人のためのものではありません。異邦人クリスチャンは土曜日の安息日を守る義務はないのです」
でした。このように、安息日は今日も土曜日です。しかし初代教会以来、主の日である日曜日が、礼拝の日として定められました。そのため異邦人クリスチャンは、日曜日を主の日として休み、また礼拝の日として守り続けてきたのです。
久保有政著(レムナント1993年2月号より)
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