終末と新世界 

神はなぜサタンの誘惑を
許容されたのか
悪の問題と世界の終末

   
エデンの園でサタンがアダムとエバを
誘惑するのを、神はなぜ許容されたのか。


 エデンの園でサタンがアダムとエバを誘惑するのを、神はなぜ許容されたのか"という問題に、目を向けてみましょう。
 ある人々は言います。
 「神は全知なのだから、サタンが彼らを誘惑することも予知してはずだ。また、サタンが誘惑しているときも、それに気づかなかったわけではないはずだ。
 なのになぜ、誘惑するままにさせたのか。もし私が神なら、黙ってサタンに誘惑させはしなかったろうに」。
 神は、なぜサタンの誘惑を許容されたのでしょうか。
 神がサタンの誘惑を許容されたのは、"神とサタンのどちらが強いか"という、力の問題ではありませんでした。
 もしそうした力の問題だったならば、神はサタンの誘惑を決して許さず、すぐさま退けてしまわれたでしょう。
 しかし、これは力の問題ではありませんでした。聖書によれば、サタンは二つの倫理的問題を、異議として提出したようです。
 その一つは、人間側の倫理的問題に関しての異議であり、もう一つは、神の支配や導きの妥当性(神の側の問題)に関してのものでした。
 まず、"人間側の倫理的問題に関してサタンが提出した異議"について、見てみましょう。


サタンは人間は利己心の故に神を愛しているにすぎないとした

 旧約聖書ヨブ記一・七〜一二に、次のような話がのっています。
 ある日、天上で神のもとに、サタンがやってきました。神はサタンに言われました。
 「おまえはどこから来たのか」。
 サタンが、
 「地を行きめぐり、そこを歩き回って来ました」
 と言うと、神はサタンに言われました。
 「おまえは、わたしのしもべ、ヨブに心を留めたか。彼のように潔白で、正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は、ひとりも地上にはいないのだが」。
 するとサタンは、神にこう言ったのです。
 「ヨブは、いたずらに神を恐れましょうか。あなたは、その家とそのすべての持ち物との周りに、垣をめぐらしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっています。
 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かって、のろうに違いありません」。
 神は、
 「では、彼のすべての持ち物を、おまえの手にまかせよう。ただ彼の身に、手を伸ばしてはならない」。
 と言われました。聖書はさらに、「そこでサタンは主の前から出て行った」と記しています。


サタンは言った。「ヨブは、いたずらに神を恐れましょうか」。 
                                         創元社『聖書物語』より

 ヨブという人物は、神に「彼のように潔白で、正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は、ひとりも地上にはいない」と言われるほどの、義人でした。けれどもサタンは、それに異議を申し立てたのです。
 「ヨブは、いたずらに神を恐れましょうか」と。「いたずらに」とは、「理由なしに」といった意味です。
 "ヨブは、理由なしに神を信仰するでしょうか。理由なしに、神の忠実なしもべでいるでしょうか。彼は、理由あってそうしているだけです。
 あなたは、彼の財産を増し加え、家畜を増やし、豪華な家を与え、物質的に富んだ者とされたではありませんか。だからです。ためしに、ヨブを貧乏のどん底に、つき落としてみて下さい。ヨブはきっと、あなたをのろうでしょう"。
 そのような異議をサタンが申し立てると、神はサタンに一定の期間、ヨブの持ち物を任せる、と言われました。神は一定の枠内で、ヨブの生活に災いが下ることを、許容されたのです。
 アダムとエバの場合も、同じような事情があったに違いありません。サタンが提出した異議は、
 「彼は、いたずらに神を恐れましょうか」
 でした。人間が神を恐れ、神を愛しているのは、利己的な願望があるからに過ぎない。
 神が物質的に祝福されるから、神を愛しているに過ぎない。彼の信仰はご利益信仰にすぎない、という非難だったのです。
 エデンの園でも、アダムとエバが正しく歩み、神を愛しているのは、神が彼らを物質的に豊かに祝福しているからにすぎない。二人は単なる利己心のゆえに神を愛しているにすぎない、と異議申し立てをしたのです。


サタンは神の支配や導きの妥当性についても異議を唱えた

 つぎに、"神の支配や導きの妥当性についてサタンが提出した異議"について見てみましょう。
 サタンは、人間の命や幸福が神の支配と導きに依存していることに対して、異議を唱えました。"人間は、神なしでも命と幸福を保っていけるのだ"と、異議を唱えたのです。
 サタンがエデンの園で発した誘惑の言葉は、
 「あなたがたは(禁断の木の実を食べても)決して死にません」
 そしてその実を食べれば、
 「あなたがたは神のようになる」
 でした(創世三・四〜五)
 まずサタンは、「それを食べると必ず死ぬ」と神が言われた木の実を食べても「決して死にません」と言うことによって、神をウソつきとしました。サタンは、神の命令や助言、導きなどは、不用のものとしたのです。
 言い替えれば、人間は神の命令や導きに従わなくても生きることができる、と異議申し立てを行なったわけです。
 つぎにサタンは、禁断の実を食べるなら、「あなたがたは神のようになる」と誘惑しました。これは、どういう意味でしょうか。
 聖書で「神」という言葉は、主権者の意味です。たとえばかつて神は、エジプトの王パロの圧制下からイスラエル民族を救出するために、モーセをお立てになりましたが、そのときモーセに言われました。
 「見よ。わたしはあなたを、パロに対して、神のごときものとする」(出エ七・一)
 ここで「神のごときもの」とは、主権者のようにふるまう者の意味です。それは他に依存せず、自らの意志を貫く主権者のことなのです。
 すなわちサタンは、「あなたがたは神のようになれるのだ」と言ったことによって、次のようなことを言おうとしました。
 "あなたがたは、神(God)の支配なしでも、幸福になれます。私の言うようにすれば、あなたがたは神の支配など受けずに、独立して自分が神(a god)のようになれるのです。
 そうすればあなたがたは、自分の好きなことをすることができ、賢い、力ある主権者としてふるまうことができます。ですから、そのようにしなさい!"
 何という巧妙な誘惑でしょう。サタンはこうして、まことの神の支配や導きを拒んで、独立するように誘惑しました。サタンは、神中心ではなく、自己中心な生き方こそ幸福の道だとしたのです。
 神中心に生きる必要はない。神の支配や導きのもとにある必要はない。自分で自分たちの社会を築きなさい。人間自身が神になってこそ、幸福になれるのだ、と言うかのようにです。
 サタンは、人間の幸福が、神の支配や導きに依存していることに、異議を唱えたのです。


サタンは、自己中心な生き方こそ
幸福の道だとした。



神は、「女のすえ」と呼ばれる人々のことを心に留めておられた

 このようにサタンは、人間側の倫理的問題と、神の支配や導きの妥当性について、異議を唱えました。したがってこれは、神とサタンのどちらが強いかというような、力の問題ではなかったのです。
 こうした重要な倫理的問題は、当然、全被造物の前で決着がつけられることが望まれました。つまり全被造物を証人として、その前で明らかにされることが望まれました。
 たとえばモーセが民に律法を授けたときも、そのことで、
 「わたしはきょう、あなたがたに対して、天と地を証人に立てる」(申命三〇・一九)
 と言われています。イザヤ書1:2でも、重要な預言が述べられようとするとき、
 「天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ。主が次のように語られたから」
 と言われています。重要な問題が提起されたときは、必ず全被造物が証人として立てられてきたのです。
 ましてや先の二つの異議の決着は、全被造物を証人として、その前でつけられる必要があったでしょう。
 神はこのとき、「女のすえ」(女の子孫)と呼ばれる人々のことを、御心に留めておられました。「女のすえ」とは、キリストを頭とするキリスト者たちのことです(黙示一二・一七、創世三・一五)
 神は彼らが、神に従うことがたとえ逆境や苦難を意味する場合でも、なお神を愛することを知っておられました。
 彼らが利己心の故ではなく、神を神であるがゆえに拝し、愛するということを知っておられたのです。
 また神は、人間の命と幸福は、神の支配の導きにかかっているのであり、人間自身やサタンによる支配は決して人間に幸福をもたらさないことを、全被造物の前に実証できると知っておられました。
 神なしの世界は、結局、悪と不幸が絶えず、真に平和で幸福な社会とはなり得ないからです。
 こうした理由から、神はサタンの誘惑を許容されましたが、それによって、天上天下最大の問題に決着がつけられ、長い目でみれば益となり、神と人間の幸福を確立するものとなることを、神は知っておられたのです。

                                                                                                                             久保有政著  

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