信仰・救い

からだの神学
人間が体を持っているのではない。人間は体である。私たちの
「罪のからだ」と、やがて与えられる「栄光のからだ」について


ダ・ビンチ画

 聖書において、「からだ」(体)という言葉は、特別な意味を持っています。それは、ふだん日本人が使っている「からだ」の語の用法と、若干の違いがあるのです。
 「からだ」は、新約聖書の原語ギリシャ語ではソ−マといいますが、それはどのような意味を持っているのでしょうか。


人間はからだである

 私たちはときおり、「からだ」を、人間の“部分”と考えがちではないでしょうか。
 しかし、聖書の原語の研究から言うと、聖書は「からだ」を、決して人間の“部分”とは見ていません。聖書によれば「からだ」は、人間の“全体”なのです。
 聖書学者J.A.T.ロビンソンは、こう言っています。
 「(聖書の表現によれば)人間がからだを持っているのではない。人間がからだなのである」。
 また聖書学者コンツェルマンも、こう言っています。
 「聖書のからだの概念を、もしあえて定式化するならば、
 『私はからだである
 または、
 『私はからだの内にある
 と表現されるだろう」。
 ここで“私はからだの内にある”と表現される場合でも、決して、からだは部分としては見られず、全体なのです。
 “人間はからだである”ということは、たとえば次の聖句に認められます。使徒パウロは、
 「私はこの(ソ−マ=からだ)に、イエスの焼き印を帯びている」(ガラ6:17)
 と言いました。これは彼が迫害のさなかで受けた、肉体の傷跡などのことを言っているのではありません。
 彼の存在全体が、心の深みまでイエスのかたち(性質)を刻印されたことを、言っているのです。つまり「身」=「からだ」は、パウロという人間の全体を表しています。
 またロ−マ人への手紙12:1に、
 「あなたがたのからだを・・・・聖い、生きた供え物としてささげなさい」
 とあります。この聖句は、“あなたがたの物質的部分をささげよ”という意味ではありません。“あなたがたの全存在をささげよの意味なのです。
 ふつうなら「あなたがたは自分自身を・・・・ささげなさい」というところですが、「あなたがたのからだ」と言われ、その「からだ」は自分自身、あるいは自分の全存在の意味で言われているのです。
 このことは、ギリシャ語ソ−マ(からだ)と同類のギリシャ語サルクスについて見てみると、さらにはっきりします。


 ふつう「肉体」とか「肉」と訳されている言葉がサルクスなのですが、これは「人」の同義語としても使われるのです。たとえばルカ3:6は、
 「あらゆる人が、神の救いを見るようになる」
 と訳されていますが、これは原語では、
 「あらゆる(サルクス=肉体)が・・・・」
 です。人は、「肉体」であるものとして見られているのです。
 新約聖書のサルクスは、旧約聖書のヘブル語では、バサールの語に相当します。これは「肉」「肉体」「肉なる者」等と訳され、やはり人間全体を表します。たとえば、
 「わたしは今、いのちの息あるすべての肉なる者(バサール)を・・・・」(創世6:17)
 「主が諸国の民と戦い、すべての者(バサール)をさばき・・・・」(エレ25:31)
 等と記されています。人は「肉なる者」と呼ばれているのです。このように聖書では、「からだ」や「肉体」は人間全体を表します。人間はからだなのです。
 私たちは人間を表すものとして、ふだん「魂」とか「からだ」という言葉を使います。人間は確かに、魂とからだから成っています。しかし、それは人間が二つの“部分”からなっている、という意味ではありません。
 人間はあくまで“統体”であって、その“統体”の中に、魂(霊と言ってもよい)があると見られているのです。


「私はからだの内にある」

 次に、「私はからだの内にある」という表現について見てみましょう。たとえばIIコリント5:6には、
 「私たちが肉体にいる間は・・・・」
 と記されています。ここでは“私はからだの内にある”が、複数の「私たち」の場合として語られているのです。
 「からだ」の語は、このように“私はからだである”または“私はからだの内にある”というように使われます。いずれにしても、部分ではなく、全体なのです。
 さらに、「からだ」は共同体を意味することもあります。
 日本語でも「共同」と書きますし、英語でも例えば自治体を、self governing bodyなどと言います。聖書では、
 「大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」(ロマ12:5)
 とあり、また、
 「あなたがたはキリストのからだ(単数)であり・・・・」(Iコリ12:27)
 「あなたがたのからだ(単数)は・・・・聖霊の宮である」(Iコリ6:19)
 と書かれています。ただし「キリストのからだ」という場合、それは単に人々の集合としての共同体ではなく、もっと奥義的な意味が含まれています。
 つまりキリストとキリスト者たちの、生命あふれる一体性が、「からだ」の概念で表現されているのです。
 このように「からだ」は、聖書において、
  a.統体としての人間
  b.霊(魂)の宿
  c.共同体
 を意味するのです。


からだは人間の本性を規定する

 人間はからだであり、からだに造られました。からだは人間にとって、なにかの“付け加え”ではなく、きわめて本質的なものです。それは人間にとって、外部の付随的なものではなく、人間の本性に関わるものなのです。
 そのため、人間の本性は、人間がからだであることと決して無関係ではありません。私たちは地上生活において、からだであるがゆえの本性を持っています。
 私たちは地上において、からだにある生活のために、衣食住性の生活を営みます。そのため私たちは、それらに必要な欲求を伴うような本性を持っています。
 つまり、人間がからだであることによって、人間の本性が規定されているのです。からだがどのようなからだであるかということが、人間の本性に大きな影響を与えるのです。
 聖書を調べてみると、「からだ」には3種類あることがわかります。
    無垢のからだ
    罪のからだ(ロマ6:6)
    栄光のからだ(ピリ3:21)
 の3種類です。
 “無垢のからだ”とはアダムとエバの堕落以前の体、「罪のからだ」とは堕落以後の人間の体、そして「栄光のからだ」とは、キリスト再来のときキリスト者たちに与えられる体です。これら3種類のからだは、そのときの人間の本性をも規定するのです。
 まず、“無垢のからだ”を見てみましょう。
 アダムとエバは、当初罪を犯していなかったので、まだ無垢であり、“無垢のからだ”でした。
 「人(アダム)とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(創世2:25)
 と記されている通りです。彼らは互いに恥じなかったばかりでなく、神の御前に裸でいることも恥じませんでした。
 それは彼らの人間存在が、まだ汚れていなかったからです。彼らの本性も無垢であり、まだ汚れなく、腐敗していなかったのです。


罪のからだについて

 けれども、神の命令に背き「善悪を知る木」の実を食べてしまってからは、ふたりは「罪のからだ」(ロマ6:6)となりました。


アダムとエバは、堕落後、
「罪のからだ」となった。
ヴァン・デル・ワイデン画。

 「善悪を知る」の原語は、“善悪の判断力を得る”という意味ではなく、善の事柄と悪の事柄に対して自分が深く関わるようになる、ということです。
 つまり彼らは、「からだ」において善の事柄と悪の事柄とに、深く関わるようになりました。以後は、善ばかりでなく悪の原理が、彼らの人生を支配するようになったのです。
 彼らの本性には腐敗性が入り込み、彼らの体は「罪のからだ」になりました。彼らの存在は、その全体が罪に売り渡されたものとなってしまったのです。それで彼らは、神の御前に裸でいることを、「恐れる」(創世3:10)ようになりました。
 「罪のからだ」という言葉は、肉体蔑視の考えや、肉体・物質を悪とする考え方とは関係ありません。肉体や肉体を構成する物質が、罪や悪だ、とするものではないのです。
 からだは神に造られたもので、良いものです。しかしそのからだが、いまや腐敗性を帯び、罪に引き渡されてしまっているため、「罪のからだ」と呼ばれるのです。
 「罪のからだ」は、人間存在の全体が、腐敗し、罪に転落していることを示しています。したがってこのからだの様相が、人間の本性をも規定しているため、人間は本性の中に悪しきものを持つようになってしまっているのです。
 また「罪のからだ」は、二重の意味を持っていることに、私たちは注意しなければなりません。
 「からだ」は人間を意味するだけでなく、共同体をも意味することは、先に述べたとおりです。「罪のからだ」は、各人の罪に引き渡された体を意味するだけでなく、アダムにおける人類という共同体をも意味するのです。
 ロ−マ人への手紙6:6には、
 「(十字架の出来事がなされたのは)罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷ではなくなるためである」
 と言われています。この「罪のからだ」は、原語では単数で、しかも定冠詞がついています。「罪のからだ」は、第一義的には、アダムにおける人類という共同体を意味しているのです。
 かつてアダムは、無垢のからだの状態から堕落し、罪のからだとなりました。そのとき、私たちすべての人は彼の「腰の中にあった」(ヘブ7:10)のであり、全人類はアダムの内に見られました。
 すなわち全人類は、今日も“普遍的なアダム”の内にあると見られます。こうして全人類は、アダムに連帯した「罪のからだ」という共同体を形成しているのです。
 しかし「罪のからだ」は、単にそればかりか、実際のところ同時に各人のからだにも当てはまります。各人のからだも、実際上「罪のからだ」となっているのです。
 それは創世記5:3に、
 「アダムは・・・・彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ」
 と述べられていることからもわかります。罪のからだの「かたち」は、すべての子孫に伝えられていったのです。
 アダムの子孫は、みなそのからだ――全存在に、“アダムのかたち”を帯びています。私たちはアダムの内に見られるだけでなく、一方では、アダムが私たちすべての者の内に見られるのです
 こうして事実上すべての人は、おのおの罪のからだになっています。


私たちはからだにおいて、アダムと連帯している

 このように、人間は二重の意味で罪とかかわっています。一方では普遍的な“アダム”という共同体としての「罪のからだ」にかかわっており、また一方では、自分自身の「罪のからだ」にかかわっています
 前者のかかわりについては、Iコリント15:22に、
 「アダムにあって、すべての人が死んでいる」
 と述べられています。すべての人は「アダムにあって」生まれたため、同時に、アダムの罪責(死)の中に生まれました。
 これが「原罪」です。人は“普遍的なアダム”という共同体としての「罪のからだ」の一員として生まれたときから、罪責(死)のもとにあるのです。
 また後者のかかわりについては、次のように考えられます。
 すなわち、すべての人は、各人がアダム的な「罪のからだ」であるため、本性において腐敗しています。そのため思いや行為において、自ら罪を犯すようになります。
 こうしてその人は、アダムの罪責の中だけでなく、いまや自分自身の罪責の中におかれることになるのです。
 なお「罪のからだ」は、聖書では他にもいくつか別の表現で言い表されています。たとえば、単に「」(サルクス)とも言い表されています。
 「の行ないは明白であって・・・・」(ガラ5:19)
 「からだの行ないを殺すなら・・・・」(ロマ8:13)
 これらの句において、「からだ」と「肉」が同じものを意味していることは、明らかでしょう。両者とも、罪のからだを意味しています。
 「肉」は、単に人間の物質部分のことではなく、また単に精神的な自我の性質のことでもありません。罪に引き渡された体=「罪のからだ」と呼ばれる、人間存在そのもののことなのです。
 さらに「罪のからだ」は、「古き人」とも呼ばれます。
 「古き人を・・・・脱ぎ捨てた」(コロ3:9)
 「肉のからだを・・・・脱ぎ捨てた」(コロ2:11)
 の両句において、「古き人」と「肉のからだ」は交換可能な言葉であり、同じものの別名であることがわかります。


キリストの変容
ラファエロ画。

 「肉のからだ」=「罪のからだ」が、「古き人」と呼ばれているのです。ここでは、「からだ」が「人」に相当していることになりますが、これは人間がからだであることを考えれば、納得がいきます。
 「古き人」は、いつも単数形です。その第一義的意味は、普遍的“アダム”のことなのです。個人個人の「古き人」は、第二義的なものです。
 聖書で、生まれながらの人々が「古き人(単数)を着ている」と言われているのは、人が普遍的な“アダム”の内に見られる、ということの別の表現なのです。
 このように、「罪のからだ」「肉」「肉のからだ」「古き人」は、みな同じ意味です。


キリスト者にやがて与えられる栄光のからだ

 つぎに、キリストが再来される時キリスト者に与えられる体である、「栄光のからだ」とはどのような体でしょうか。
 キリストが再来されると、眠っている(世を去っている)キリスト者たちは、キリストご自身の栄光のからだと同じ姿に復活します。
 「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリ3:21)。
 しかし、栄光のからだへの復活は、すでに死んで地上の諸元素に分解してしまった人々の体が、もう一度世界のあちこちから寄り集まって復活体を形成する、ということではないようです。復活体の材料は、現在の私たちのからだを形成している物質とは異なるのです。
 「肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」(Iコリ15:50)
 と述べられています。無垢のからだや罪のからだは、肉体でした。しかし栄光のからだは、新天新地で生きるのにふさわしいような材料でできているでしょう。
 栄光のからだは、天から与えられる体です。眠っているキリスト者は、このからだへと復活します。


  キリストの復活  ストーマー画。 

一方、地上で生きていて主を迎える者たちは、このからだを「上から」着せられます。そして内側の朽ちる肉体は、上から着せられる朽ちない栄光のからだの中に、飲み込まれてしまうのです。使徒パウロは言っています。
 「(私たちは)天から賜るそのすみか(栄光のからだ)を、上に着ようと切に望みながら、この幕屋(肉体)の中で苦しみもだえている。
 ・・・・この幕屋の中にいる私たちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちに飲まれてしまうためである」(IIコリ5:2、4)。
 「栄光のからだ」が上から着せられるとき、どのようなことが起きるか、聖書はさらに次のように言っています。
 「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、旧約聖書に書いてある言葉が成就するのである。
 『死は勝利に飲まれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』」(Iコリ15:54、55)。ここで、「死は勝利に飲まれ」ること、「死のとげ」も消滅してしまうことが、告げられています。
 「死のとげ」とは何でしょう。続く56節に、「死のとげは罪である」と説明されています。つまり、栄光のからだが罪のからだを飲み込んでしまうとき、罪と死は勝利に飲まれ、消滅してしまうのです。
 このように、私たちのからだが栄光のからだに変えられるとき、私たちの本性から、罪や腐敗性が全く取り去られてしまうことがわかります。新しいからだの様相が、人の本性までも一変させてしまうのです。


栄光のからだはキリストに属するからだである

 これは、罪のからだがアダムのかたちを帯びた体であり、アダムに属する体であったのに対し、「栄光のからだ」がキリストに属する体であるからです。Iコリント15章に次のように記されています。
 「肉のからだで蒔かれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。(旧約)聖書に、
 『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてあるとおりである。
 しかし最後のアダム(イエス)命を与える霊となった。最初にあったものは、霊のものでなく、肉のものであって、その後に霊のものが来るのである」(Iコリ15:44-46)
 この聖句は、日本語で読むと原意がとりにくいようです。この聖句は実際は次のような意味です。
 まず「霊のからだ」という言葉が出てきますが、これは復活体の材料が霊である、という意味ではありません。
 この「霊」は、一般的な霊のことではなく、キリストを意味します。「霊のからだ」とは、“キリストに属するからだ”の意味なのです。それは原語を考慮して、次のように訳すとよくわかります。
 「プシュケーのからだで蒔かれ、プニューマのからだによみがえるのである。・・・・聖書に“最初の人アダムは生きたプシュケーとなった』と書いてあるとおりである。
 しかし最後のアダム(イエス)は、命を与えるプニューマとなった」。
 つまり「プニューマ(霊)のからだ」とは、キリストに属するからだの意味です。栄光のからだは、キリストに属する体であり、キリストのかたちを帯びた、キリスト的なからだなのです。
 「(キリストは)私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えてくださる」(ピリ3:21)
 と書かれているように、キリストはやがて私たちのからだを、ご自身の栄光のからだのコピーとしてくださいます。


サウロ(パウロ)は、キリストの御体の栄光に
照らされて、しばらく目が見えなくなった。
 

 原画が鮮明なら、コピーは何枚でもとれます。私たちが栄光のからだに変えられるとき、キリストの不死、永遠のいのち、聖潔、愛が、現実に、完全に私たちのものとなり、全人的救いが完成するのです。

久保有政(レムナント1993年3月号より)

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