誤用の聖書知識
間違って理解していませんか。
誤用1
「聖書には、新訳聖書と旧訳聖書とがあるんでしょ」。
聖書を初めて読む人が、「どうせ読むなら、新しい訳のほうがいい」と、“新ヤク”聖書を買っていったという話がある。どうやら新ヤクを、“新訳”と取り違えてしまったらしい。
また、新教のプロテスタントは“新ヤク”聖書を使い、旧教のカトリックは“旧ヤク”聖書を使う、と思っている人も少なくない。しかし、カトリックもプロテスタントも、もちろん旧・新ヤク両方の聖書を用いる。
新ヤクと旧ヤクの“ヤク”は、契約とか約束の“約”を書く。つまり旧約聖書は、イエス・キリストの降誕以前に神と人との間に結ばれた契約や約束を記したものであり、一方、新約聖書は、キリスト降誕後に神と人との間に結ばれた契約や約束を記したものだ。
聖書において神は、人間に対して様々な「契約」を結ばれている。人間に対して、「約束」をされているのだ。たとえば、神がお与えになった御教えを守るなら人は豊かに祝福を受け、守らないなら祝福からはずされる、というようなこと。
神が結ばれた人に対する最も重要なご契約は、人の救いに関するものである。キリストの十字架のあがないを信じ、キリストに従っていくなら、あなたは罪の赦しを得、神の子としての特権、永遠の命、また誰にも奪い去られない幸福が与えられる、という聖書の教えは、神が人に対して結ばれた契約なのである。
誤用2
「やられたらやり返すべきだよ。聖書にも『目には目を』とあるじゃないか」。
聖書の「目には目を、歯には歯を」という言葉を、復讐の奨励の言葉のように誤解している人は、少なくない。しかしこの言葉は、復讐の奨励ではなく、とかく無制限になりやすい報復に制限をつけた、古代の刑法上の規定なのだ。
これは旧約聖書・出エジプト記21:24や、レビ記24:20などに記されている言葉で、今から約3400年前にイスラエル民族に告げられた律法(法律)。
当時は人から害を加えられた場合に、何倍もの暴力をもって仕返しするということが、人々の間に横行していた。
たとえば、自分の妹を辱められたことで怒った男が、辱めた男とその町の住人を皆殺しにするというようなことも、珍しいことではなかったらしい(創世34章)。仕返しはとかく大きくなりがちで、怒りにまかせて無制限に突き進んでしまうものだ。
この法律は、それに制限を加え、同量の刑罰をもって満足すべきことを規定した。さらにその刑罰の実施は、公正な裁判がなされたうえでなければならない、とされた(出エ18:21-22)。当人が勝手にしてはいけなかったのである。
こうして、犯罪者への刑罰が不当に重すぎたりしないよう、また犯罪者以外の人にまで報復が及んだりしないよう規定したのが、この刑法だった。すなわちこの法の精神は、正義と公平であり、当時としては非常に優れたものであったのである。
誤用3
「人間、趣味を持つべきだよ。『人はパンのみにて生くるにあらず』と聖書にもあるだろ」。
趣味を持つことは、いいことだ。しかしそれ自体は、「人はパンのみにて生くるにあらず」の聖句が本来言おうとしていることではない。
これはキリストが言われた言葉で、次のように続いている。
「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による』と書いてある」(マタ4:4)。
しばしば、前半の「人はパンだけで生きるのではなく」だけが有名になっているが、聖書が言おうとしているのは、後半の「(人が生きるのは)神の口から出る一つ一つの言葉による」である。
「人はパンのみにて生くるにあらず」の御言葉の次には何と続く?
人が生きるのは、物質的なものだけによるのではない。人は神の御言葉に養われて、初めて本当の意味で生きることができる、というのがこの聖句の意味なのである。
つまり、これは私たちが聖書の御言葉に養われるべきことを言ったものなのだ。
誤用4
「ぼくは今まで、人の批判ばかりしていた。ぼくは、イエス様の言われたように『兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の針には気がつかない』人間だったのだ」。
このように反省できることは、良いことだ。しかし上の文章は、1か所漢字が違っている。
自分の目の中の「針」ではない。正しくは「梁(はり)」(マタ7:3)。梁とは、棟をささえる横木のこと。家の柱と柱の間を渡す、太い材木だ。
針が目に入っても痛いが、梁が入ったらもっと痛いだろう。いや、目に入れるなど到底不可能だ。
目に針?
主イエスは、自分のことを棚に上げて人を批判する人々を「自分の目の中の梁に気がつかない人々」と、皮肉っぽく表現されたのである。
思わず吹き出したくなるような、ユーモアにあふれた表現ではないか。
誤用5
「主イエスは、ご自分のことを「人の子」と呼ばれた。これはご自身も人間の子であるという、謙遜の表現であろう」。
多くの人が、初めて新約聖書を読んだとき、「人の子」とは誰のことか、と思う。さらによく読めば、それはイエス・キリストご自身のことだとわかってくるのだが、それにしても、主はなぜご自身のことを「人の子」と呼ばれたのだろう。
これは、ご自分も人間の子にすぎないという、謙遜の表現なのか。しかし聖書学者によると、どうもそうではない。そこにはもっと深い意味が隠されているのだ。
「人の子」というのは、もともと旧約聖書ダニエル書に出てくる言葉。そこには、こう記されている。
「私(ダニエル)がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のようなかたが天の雲に乗って来られ、年を経た方(神)のもとに進み、その前に導かれた。
このかたに、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(ダニ7:13-14)。
預言者ダニエルは、あるおかたが神の御前に導かれる光景を、天的な幻の中に見せられた。このおかたは「人の子のような」姿に見えたと、ダニエルは言っている。
この「人の子のようなかた」と表現されたかたこそ、イエス・キリストである。「人の子」という言葉は、旧約時代、来たるべきメシヤ(神からの救い主)を意味する代表的な称号の一つだったのだ。
つまり主イエスは、ご自分がダニエル書で「人の子のようなかた」と表現された当人であることを意味して、ご自分を「人の子」と呼ばれたのである。
この言葉にはまた、“人々のために人の子となって降誕された(神の)御子”の意味も込められていたに違いない。
誤用6
「『イエスは主である』とは、イエスがヤハウェである、ということなんでしょ」。
「イエスは主である」は、クリスチャンの基本的な信仰告白だ(Iコリ12:3)。ところがこれを、「イエスはヤハウェである」の意味だと誤解する人がしばしばいるのは、旧約聖書でヤハウェが「主」と呼ばれていることと、ごっちゃにしたためであろう。
旧約聖書で、ヤハウェは「主」――ヘブル語でアドーナーイと呼ばれている。これは主権者、または主人というような意味である。
「主」(アドーナーイ)の語は、新約聖書のギリシャ語では、キュリオスという。かつてローマ帝国の時代に、歴代のローマ皇帝は人々に皇帝礼拝を強要し、
「カイザル(皇帝)は、キュリオス(主)である」
と言わせた。それに対し、クリスチャンたちはそれを拒否して、
「イエスはキュリオス(主)である」
と告白したわけである。このように「イエスは主である」は、イエスこそ世界の主権者、また人生の主人である、の意味である。
しかしこれは、イエスはヤハウェである、の意味ではない。というのは、父なる神ヤハウェはこの新約時代にあって、主権を御子イエスにお渡しになった、と聖書は記している(マタ28:18、ヨハ3:35、17:2)。
また、イエスは来たるべき日に再来されると、主権を父なる神ヤハウェにお返しになる、とも述べられている。
「(終わりの日)キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。・・・・
万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分を万物に従わせたかたに従われます。これは、神(ヤハウェ)が、すべてにおいてすべてとなるためです」(Iコリ15:24-28)。
このようにイエスが「主」であられるのは、万物更新の時までである。やがて万物が改まると、再び父なる神ヤハウェが「主」と呼ばれるようになるであろう。
つまり新約時代において、ヤハウェは主権を御子イエスにお渡しになっておられるので、今日「イエスは主」なのである。また、聖書にこう記されている。
「イエスは彼らに言われた。『それではどうして、ダビデは御霊によって彼(キリスト)を主と呼び、
「主(ヤハウェ)は、私の主(キリスト)に言われた。
『わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい』」
と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう』」(マタ22:43-45)。
ここで、
「主は私の主に言われた」
と訳された言葉は、旧約聖書・詩篇110:1の引用である。この訳だと最初の「主」と次の「主」が同じなのか違うのか、よくわからないが、原語でははっきりしている。原語では、
「ヤハウェは、私の主に言われた」
となっているのだ。つまり、これはダビデ王が、キリストを「私の主」と呼んで、
“ヤハウェは、私の主であるキリストに言われた”
と預言した言葉なのである。このことからも、イエス・キリストと父なる神ヤハウェを同一とみることが誤りであることは、明らかだ。
「イエスはヤハウェである」は、「イエスは父なる神である」と言うのに等しく、おかしなことなのである。
神ヤハウェに祈られる主イエス
キリスト教では、三位一体論(御父・御子・御霊の一体性)を信じるが、それは父なる神と御子キリストとの間に、区別をなくしてしまうことではない。
両者の間には、区別がある。しかし両者は、神秘的なかたちで本質と存在を一つにしておられる、というのが三位一体論なのである。
福音書には、ゲッセマネの園にやって来た人々が「ナザレ人イエスを捜しているのだが」と尋ねたとき、主イエスがお答えになって、
「わたしがそれである」(ヨハ18:6)
と言われた箇所が出てくる。このとき、
「彼らはあとずさりし、地に倒れた」(同)
と記されている。
この「わたしがそれである」は、英訳では“I
am He”、原語のギリシャ語では「エゴー・エイミ」(I
am の意)となっている。この言葉は、神ヤハウェがかつてモーセに言われた言葉、
「わたしは有って在る者である」(I
am that I am)
に通じることから、イエスはヤハウェであるとする意見がある。しかし、これは強引である。
主イエスが“I am”と言われると人々が「あとずさりして倒れた」ことの意味は、主イエスが父なる神と同様に、「有って在る」力強い実在者であるということにほかならない。それはイエスがヤハウェご自身である、ということではないのだ。
イエスは、神ヤハウェと同様、「有って在る者」でいらせられるのである。
キリスト教の根本教理・三位一体論を記したアタナシウス信条には、こう記されている。
「われらは唯一の神を、三位において、三位を一体において礼拝する。しかも位格を混同することなく・・・・」。
私たちは三位の神において、第一位格のかた(父なる神)と、第二位格のかた(子なる神イエス)とを混同してはならないのだ。
三位一体論は、“三位同一論”ではない。御子イエスと父なる神ヤハウェは、一体であられるが、両者の間に区別はあるのである。
久保有政著(レムナント1993年4月号より)
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