その他

聖書に基づいて
エホバの証人と論ずる(1)
救いについて

       ものみの塔初代会長 第二代会長   第三代会長
          C・T・ラッセル J・F・ラザフォード  N・H・ノア

 エホバの証人」すなわち「ものみの塔」の主要教理を、伝統的キリスト教の教理と比較し、聖書の教えに基づいて検討してみることにしましょう。


 今回は救いの問題について、両者の教理を比較・検討してみましょう。


組織への従順によって救われるのか、キリストとの個人的関わりによって救われるのか

 「ものみの塔」は、救いについて、次のように教えています。

 "救われるためには、エホバの証人の組織(ものみの塔)に対して従順でなければならない"

 たとえば、一九八三年五月一五日号の『ものみの塔』誌にこう述べられています。
 「エホバは今日も、ご自分の意志を成し遂げるために、一つの組織(ものみの塔)だけを用いておられます。地上の楽園で永遠の命を受けるためには、その組織を見分け、その組織の一員として神に仕えなければなりません」。
 つまり、ものみの塔という組織を通して救われる、という教えなのです。
 ものみの塔は信者に対して、なんと、組織および指導者への「信仰」を要求しています。
 「エホバへの信仰、エホバが代弁者として用いておられる人々(ものみの塔の指導者)に対する信仰、そうですエホバの組織に対する信仰です! わたしたちが今日エホバへの奉仕に『出ていく』とき、そのような信仰を働かせるのは、本当に重要なことです」(『ものみの塔』誌一九八四年七月一日号)
 信者には、組織と指導者への「信仰」、言い替えれば従順が求められています。ものみの塔の一員として従順に行動しない限り、救われない、というのが、ものみの塔の教えなのです。


ものみの塔は、組織に対する信仰を求める。

 ですから信者は、組織を疑うことを強く禁じられています。彼らの伝道における熱心さは有名ですが、それも、自発的なものというよりは、むしろ、組織の教えに反して組織から排斥されるのを恐れるがためであるようです。
 野外の訪問伝道に参加することは、信者にとって、「組織」に対する従順の証しなのです。『ものみの塔』誌は、こう言っています。
 「伝道者の記録カードが作成される・・・・そのようなカードが作成されることは、その人がエホバの証人の神権的組織に属し従うことを実証するものです」(一九八八年一一月一五日号)。
 信者にとって、組織に反する行動を取ることは許されません。信者は、もし組織の教えに反する行動をとれば、組織から「排斥」または「断絶」の処分を受けます。つまり、組織からの追放です。それは、
 "組織にいることが救いである"
 と教えられている信者にとって、耐えがたい恐怖となっているのです。
 これに対し、聖書的キリスト教では、次のように教えます。

 "私たちは何かの組織を通してではなく、キリストへの信仰という、キリストとの個人的関わりを通して救われる"

 これについて、聖書を調べてみましょう。聖書にはこう記されています。
 「わたし(キリスト)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰ひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ一四・六)。
 私たちが神のもとに立ち返るために必要な媒介は、イエス・キリストのみです。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ一五・五)。
 キリストとの直接的なつながりが、あなたを救うのです。
 「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ一〇・九)。
 イエスを信じる信仰だけが、あなたを救うのです。ほかにも多くの聖句がありますが(ヨハネ三・一六、六・四七、使徒の働き一六・三一、他)、これ以上記す必要はないでしょう。


キリストはぶどうの木であり、私たちはその枝である。
キリストとの個人的なつながりが私たちを救うのであって、
組織を通して救われるのではない。

 これらの聖句は、組織への従順によって救われると教えていますか。それとも、救われるために必要なのはキリストへの信仰という、キリストとの個人的関わりだけである、と教えていますか。
 聖書の中に、特定の組織にいることによって救われると教える聖句は、一つもありません。私たちは組織を通してではなく、キリストとの個人的・直接的な交わり――すなわち、信仰による愛と生命の交わりによって、救われるのです


「私は救われました」というのは盲信か

 ものみの塔は、こう教えています。

 "プロテスタントではよく、信者が「私は救われました」というが、これは盲信である"(『論じる』二五七ページ)。
 "信者が救われるか否かは、千年王国の直後まで定まらない"(『ものみの塔』一九八五年一二月一日号一八ページ)。

 これに対し、聖書的キリスト教は、こう教えています。

 "永遠の命を受けるのは、未来のことでもあるが、現在のことでもある。あなたが今キリストを信じているなら、あなたはすでに救われているのであり、「救われた」と言ってよい"

 聖書を調べてみましょう。
 聖書の中には、未来において「救われる」という表現をとっているところと、今すでに「救われている」という表現をしているところとがあります。主イエスはあるとき、
 「(信者は)来たるべき世では永遠の命を受ける」(マルコ一〇・三〇)
 と語りましたが、あるときは次のようにも語られました。
 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、さばきに会うことがなく、死から命(永遠の命)に移っているのです」(ヨハネ五・二四)。
 あるところでは永遠の命は未来のこととされ、あるところでは現在のこととされているわけです――これは矛盾でしょうか。
 そうではありません。どちらも真実なのです。永遠の命の体は、未来における復活の際に与えられるものですが、永遠の命の本質は、キリストを信じる信仰と聖霊の内住とによって、すでに信者の魂に宿っているからです。
 永遠の命は、信者にすでに宿っており、やがて未来の復活の際に開花します。その意味で、キリストを信じる私たちは、すでに「救われた」と言ってよいのです。聖書は言っています。
 「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」(エペソ二・五)。
 「こうした人たちの名は、命の書の中にあるのです」(フィリピ四・三 新世界訳)。
 「あなたがたが永遠の命を持っていることを、よくわからせるためです」(一ヨハネ五・一三)。
 ですから、私たちは、キリストを信じているなら、すでに自分が救われたと確信してよいのです。
 「わたし(キリスト)は、彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることなく、また、誰もわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ一〇・二八)。
 「(いかなるものも)私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ八・三九)。
 私たちは、信仰によって救いを得るのです。信仰を持っている人は、すでに救われています。


救われるために立派な行ないは必要か

 ものみの塔は、次のように教えています。

 "人は、キリストに対する信仰だけによって、義とみなされることはない。救われるためには、立派な行ないが伴わなければならない"(『ものみの塔』一九八五年一二月一日号)
 救いの条件は、"信仰プラス行ない"だというのです。
 これに対し、聖書的キリスト教は、次のように教えます。

 "人は、キリストに対する信仰だけによって、義と認められる。立派な行ないは、救われるための条件でなく、むしろ救われたことの結果である。私たちは、救われて神の子とされた自覚のもとに、神への感謝として立派な行ないに励むべきである"

 聖書を調べてみましょう。
 「あなたがたは、恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。誰も誇ることのないためです」(エペソ二・八〜九)
 私たちは、キリストの贖いという「恵み」のゆえに、それを受け取る「信仰」によって救われました。恵みが救いの原因で、信仰はそれを受け取るパイプです。
 救いは、信じる者に対する神からの「賜物」でありプレゼントであって、良い行ないに対する報酬ではありません。聖書は、「行ないによるのではありません」と言っています。
 立派な行ないは、救われるための条件ではないのです。それは、誰も誇ることがないためです。


キリストによる救いは、信じる私たちへのプレゼント
であって、良い行ないに対する報酬でなない。

 聖書は、続いてこう言っています。
 「私たちは神の作品であって、良い行ないをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ二・一〇)。
 「良い行ない」はむしろ、救われたことの結果として伴ってくるものです。私たちは、救われて神の子とされた自覚のもとに、神への感謝として、良い行ないに励むべきなのです。
 良い行ないは大切なことですが、それは決して、救われるための条件ではありません。聖書が私たちに求めている救いの条件は、イエス・キリストに対する信仰のみです。
 「人は律法のわざとは別に、信仰によって義と宣せられる」(ローマ三・二八新世界訳)。
 「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ四・五)。
 「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」(ローマ一一・六)。
 「人は、律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ二・一六)。
 聖書は、「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって」と言っているのです。


「新しい契約」に入っているのは誰か

 ものみの塔は、次のように教えています。
 
 "キリストによる「新しい契約」(ヘブ九・一五)に入っているのは、一四万四千人だけである"(『ものみの塔』一九七九年九月一日号)
 "キリストの語られた「小さな群れ」(ルカ一二・三二)は「一四万四千人」(黙示七・四)であり、「他の羊」(ヨハ一〇・一六)は「大群衆」(黙示七・九)に相当する"(『論じる』三三六ページ)
 "今日生存しているエホバの証人の九九・七%は、「大群衆」(黙示七・九)である。この人々は、千年王国においてエホバに忠誠を尽くすなら、救われる可能性がある"(『ものみの塔』一九八六年一月一日号)

 これについて、『ものみの塔』誌一九七九年一二月一日号はこう述べています。
 「今日形成されている『ほかの羊』(ヨハ一〇・一六)の『大群衆』(黙示七・九)は、新しい契約に入っていません。
 とはいえ、契約にすでに入っている『小さな群れ」(すなわち一四万四千人 ルカ一二・三二)と交わることによって、大群衆は新しい契約からもたらされる益にあずかります。千年統治の期間中イエス・キリストは、彼らの王、大祭司、また裁き主となります。・・・・」。
 「新しい契約」に入っているのは、ほんの一部の信者だけだ、というのです。
 一方、聖書的キリスト教は、次のように教えます。

 "キリストを救い主として信じるすべての人々は、キリストによる「新しい契約」に入っている"

 聖書を調べてみましょう。
 「(キリストは)夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えるため、このようにしなさい』。
 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(一コリント一一・二五)。
 これは聖餐に関する箇所ですが、キリストの使徒たちは、「新しい契約」を象徴する聖餐に、すべての信者を参加させました。「あなたがた」は、すべての信者をさしているのです。
 これは「新しい契約」が、すべての信者のためだったからです。信者内の限られたグループのためではありません。
 「新しい契約」とは、
 "人は、キリストを救い主また人生の主として受け入れるなら、誰でも、キリストの犠牲の血潮により、罪が赦され、滅びから救われ、神の子とされ、永遠の命を与えられる"
 という約束です。ですから、キリストを信じる者は、誰でも「新しい契約」の中に入っているのです。
 これは、ものみの塔の「一四万四千人」の理解や、「大群衆」の理解が間違っていることを示しています。
 ものみの塔においては、救いに入っているのは、一四万四千人だけです。他の信者は、神の恩恵に幾らかあずかるものの、現在および、やがて持たれる千年王国において、エホバに忠誠を尽くせば、あるいは救われるかも知れない、という教えなのです。
 しかし、このような教えは聖書にはありません。聖書の教えは、キリストを信じる者は誰でも、すでに救いに入っている、というものです。


キリストは、14万4千の羊(象徴的に私たち人間をさす)のために
死なれたのではない。彼は、ご自身に従うすべての羊のために死なれ、
彼らを同じ救いに入れられるのである。

 「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」(二コリント五・一七)。
 「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ三・二六)
 「わたし(キリスト)の言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死から命に移っているのです」(ヨハネ五・二四)。
 「神はじつに、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである」(ヨハネ三・一六)。
 信仰によるすべての人は、「新しい契約」に入っているのです。


聖書を正しく理解するために組織は必要か

 ものみの塔は、次のように教えています。

 "エホバの証人の組織と連絡を保たなければ、どれほど多く聖書を読むとしても、聖書を理解することはできない"(『ものみの塔』誌一九六八年一月一五日号五三ページ)。
 聖書を読むだけでは聖書は正しく理解できない、組織の指導がなければならない、というのです。

 これに対して、聖書的キリスト教は、こう教えています。

 "伝道団体による指導は、人が聖書を理解する上で、しばしば大きな助けとなる。しかし、それは指導者が適切な指導をしている場合だけである。
 また伝道団体による指導は、正しい聖書理解のために、不可欠のものではない。聖書を読むだけで、聖書の奥深い真理を会得した人々が大勢いる"

 聖書は、こう教えています。
 「あなたがたの場合は、キリストから受けた注ぎの油(聖霊)が、あなたがたの内にとどまっています。それで誰からも教えを受ける必要がありません。彼の油が、すべてのことについてあなたがたを教えるように・・・・」(一ヨハネ二・二七)。
 聖書理解のために一番必要なことは、祈りと聖霊とを通し、神から直接教えていただくことなのです。
 かつてエチオピアの高官は、ある日イザヤ書五三章のメシヤ預言を読んでいましたが、それを理解できませんでした。彼は、使徒ピリポに手引きされて、はじめて理解しました(使徒八・二七〜四〇)。
 しかしこの場合も、一人の伝道者に手引きされたのであって、「組織」に手引きされたわけではありません。
 もし、ものみの塔が聖書の正しい理解を広める唯一の組織であるというならば、その聖書解釈は常に一貫しているはずです。しかし、彼らの指導が、今まで幾度も変転してきたのは、一体どういうわけでしょうか。


エチオピアの高官は、一人の伝道者に手引きされて聖書を
理解したのであって、組織に手引きされたわけではない。

 たとえば輸血について、ものみの塔は一九四五年まで、輸血に対して好意的であり、奨励さえしていました。『目ざめよ』誌の前身『なぐさめよ』誌の一九四〇年一二月二五日号では、輸血で命を救われた人に関する記事が、好意的に報道されています。
 それが一転して、一九四五年七月一日号の『ものみの塔』誌で、初めて輸血が禁止されました。
 また、キリスト再臨やハルマゲドンの戦いの日付について何度も変転してきたのは、なぜでしょうか。
 一八九二年一月一五日号の『ものみの塔』誌は、ハルバゲドンは一九一四年に起こると断言しました。また一九一七年版『聖書研究』第七巻は、彼らが"サタンの組織"と呼ぶキリスト教会は一九一八年に滅びると予言しました(四八五ページ)。
 一九二〇年版『現存する万民は決して死することなし』は、一九二五年にアブラハム、イサク、ヤコブが地上に復活すると述べました。
 一九四一年に、ものみの塔第二代会長J・F・ラザフォードは、「ハルマゲドンまであと数カ月」と発言しました。
 一九六八年一一月一五日の『ものみの塔』誌は、ハルマゲドンは一九七五年だと断言しました。これらは結局、すべてはずれました。


ハルマゲドンは1975年だと説く『ものみの塔』誌
1968年11月15日号。

 一九二五年ハルマゲドン説がはずれたとき、ものみの塔の「年鑑」は、次のように記しました。
 「一九二五年は、多くの兄弟にとって悲しい年でした。希望がくじかれたために、ある人々はつまずきました。・・・・」(一四五ページ)。
 また、一九七五年ハルマゲドン説がはずれたとき、『ものみの塔』一九七六年一〇月一五日号は、こう記しました。
 「(この落胆は)自分自身の理解が間違った根拠に基づいていたためであることを悟り、自分の見方を今調整することに、注意を注がねばなりません」。
 ものみの塔の指導が変転してきた例は、これだけではありません。
 一九六八年四月一日号の『ものみの塔』誌は、臓器移植を行なえば、その者を排斥処分、つまり追放となるとしています。たとえば、目の角膜の移植よりも盲目を選ぶ方が聖書的だ、と言っています。
 しかし、一九八〇年六月一五日の号では一転して、臓器移植の問題は各人の判断にまかせ、たとえ臓器移植を行なっても「審理委員会は懲戒措置を取らない」と言っています。
 このような、ものみの塔の統治体の態度につまづきを覚え、組織から離れた人々も少なくありません。「灯台社」の主だったメンバーは、エホバの証人として戦時中投獄されながらも忠実を守った人々ですが、戦後釈放後、キリスト再臨説の大きな変化につまずき、組織から離れました。
 統治体で最大の知恵袋として評価の高かったレイモンド・ビクター・フレンズは、見解の違いから、統治体から排斥になりました(『王国宣教』一九八〇年九月号四ページ)。ギレアデ聖書学校の主事E・A・ダンロップも、排斥されました。
 二人は、ものみの塔発行の本『聖書理解の助け』『最善の生き方』『ヤコブの手紙』など、多くの書籍を著した人たちです。彼らは現在、エホバの証人を救出する活動にたずさわっています。
 聖書を正しく理解するために、人間のつくった組織の力は、必ずしも必要ではありません。また、組織の選び方次第では、かえって間違った教えを信じさせられてしまうことがあるのです。
 私たちはものみの塔の人々に対して、深い心の痛みを感じざるを得ません。どうか主の憐れみがあり、彼らのうち一人でも多くの人が、救いは組織によらずただキリスト・イエスによることを、知ることができますように。             (つづく)

                                 久保有政(レムナント1994年2月号より)

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