その他

聖書に基づいて
エホバの証人と論ずる(2)

神、キリスト、聖霊について


                  
       カール・ブロック画。

 前回は、「救い」に関する教えについて、「エホバの証人」(ものみの塔)の教理と、聖書的キリスト教の教理とを比較しました。今回は、「神」「キリスト」「聖霊」についての両教の教えを比較し、論じることにしましょう。

キリストはどういうかたか

 ものみの塔は、イエス・キリストについて次のように教えています。

 "イエスは、父なる神の最初の被造物である"(『論じる』五〇ページ)
 "イエスは神性を備えていても神ではない"(『論じる』三五二ページ)
 "天使長ミカエルとは、イエス・キリストのことである"(『論じる』六〇ページ)

 これに対し、聖書的キリスト教は、次のように教えています。

 "イエスは、被造物ではなく、天使でもなく、父なる神から直接お生まれになったかたである"
 "イエスは神性を持ち、神のひとり子、また子なる神であられる"
 "イエスは父なる神と、本質と存在を一つにしておられる"

 これについて、聖書を調べてみましょう。
 聖書はキリストを、
 「神に造られたもののアルケーであるかた」(黙示三・一四)
 と呼んでいます。ものみの塔は、このギリシャ原語「アルケー」を、「はじめ」また「最初のもの」と訳し、キリストは神に造られた"最初の被造物である"としています。
 「アルケー」は、実際「はじめ」と訳されることがあります。しかし右の聖句の場合は、「はじめ」ではなく、新改訳や口語訳のように「根源」と訳すべきです。その理由は二つあります。
 一つは、アルケーは「はじめ」と訳される場合でも、つねに「出所」とか「起源」の意味で「はじめ」なのです。そこで右の聖句は、「神に造られた最初の被造物」ではなく、「神に造られたものの根源であるかた」と訳すべきです。
 もう一つの理由は、聖書は全体から解釈しなければならない、ということです。翻訳も、全体に調和する意味に訳さなければなりません。キリストを最初の被造物とするなら、他の聖書箇所に矛盾するのです。たとえば、
 「すべてのものはこのかた(キリスト)によって造られた。造られたもので、このかたによらずにできたものは一つもなかった」(ヨハネ一・三)
 と言われています。全被造物は、キリストによって造られました。キリストによらずにできたものは、一つもありませんでした。「神の言」と呼ばれるキリストは、創造のわざに参加したかたなのです。
 そうであれば、彼自身は被造物ではありません。彼は被造物の根源となられたかたです。
 「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っているのです」(コロサイ一・一七)
 万物の根源=御子イエスは、万物よりも先に存在されました。彼はじつに、父なる神と共に、永遠から永遠まで存在しておられるのです。
 「神は、御子(キリスト)によって世界を造られました」(ヘブル一・二)。
 一方、彼は天使のひとりでもありません。天使は被造物だからです。聖書は、
 「御使いも・・・・そのほかのどんな被造物も・・・・」(ロマ八・三九)
 と言っています。御使いは人間と同様、被造物なのです。また聖書は、
 「(やがて)私たち(聖徒たち)は、御使いをさえさばく」(一コリ六・三)
 と言っています。それならどうして、キリストが天使のひとりでしょうか。彼は天使長ミカエルでもありません。キリストは、神から直接的に生まれたかたなのです。聖書は、
 「はじめに、ことば(キリスト)があった。ことばは、神(原語は定冠詞つき)と共にあった。ことばは神(定冠詞なし)であった」(ヨハネ一・一)
 と述べています。最初の「神」は父なる神、あとの「神」は、子なる神キリストをさします。
 人間の子は、人間であり、また"子なる人間"です。ちょうどそのように、イエスは神の御子であり、また"子なる神"であられるのです。ヨハネ一・一八では、キリストは、
 「父のふところにおられるひとり子の神」 
 と呼ばれています。旧約聖書でも、キリストは神と呼ばれています。
 「彼(キリスト)の名は、"くすしい助言者""力ある神""とこしえの父""平和の君"と呼ばれるであろう」(イザヤ九・六 新世界訳)。
 しかし、父なる神と子なる神キリストとは、本質と存在において一つです。
 「わたしと父とは一つである」(ヨハネ一〇・三〇)
 とイエスは言われました。この「一つ」という言葉を、ものみの塔は、単に思いや目的において一つなのだと解釈しますが、原語は"同一の本質"の意味です。実際、
 「わたしを見た者は父を見たのです」(ヨハネ一四・九)
 とキリストが言われたとき、それが思いや目的において一つという以上の意味であったことは、明らかです。
 御父と御子は、本質と存在において一体であるゆえに、御子を見ることは御父のご本質を見ることでもあるのです。
 さらに、黙示録二二・三に、
 「神と小羊(キリスト)との御座が(新エルサレムの)都の中にあって・・・・」
 と記されていますが、この「御座」の原語は単数形です。もし神と小羊キリストが存在を異にするならば、ギリシャ語では「御座」は複数形でなければならないのです。
 しかし、御父と御子は一体であるゆえに、「御座」には単数形が使われています。
 御父と御子が「一体」であるというとき、それは「同一」とか「同じ」という意味ではありません。両者の間に、区別はあるのです。しかし、存在と本質を一つにしておられるのです。
 三位一体論は、決して"三神論"でも"三位同一論"でもありません。それは三つの神がいるという教えではなく、また御父・御子・御霊が"同じかただ"という教えでもありません。一体だ、という教えです。
 人格(ペルソナ)が別のおかたが、意志や目的において矛盾することなく、唯一の神を形成しているのです。
 これは至高の神に関する奥義的な事柄であり、私たちの知性で完全に把握することはできないでしょうが、明らかに聖書が教えている信ずべき真理なのです。


キリストを礼拝してよいか

 また、ものみの塔は、イエス・キリストについて次のように教えています。

 "イエスを礼拝したり、イエスに向かって祈ることは適切ではない"(『論じる』五六〜五七ページ)

 一方、聖書的キリスト教は、次のように教えています。

 "私たちは、父なる神を礼拝するとともに、御子イエスをも礼拝すべきである。また、父なる神に祈るように、御子イエスに向かって祈ってもよい"

 聖書には、こう記されています。
 「(復活の)イエスにお会いしたとき、彼ら(弟子たち)は礼拝した」(マタイ二八・一七)
 「神の御使いはみな、彼(イエス)を拝め」(ヘブル一・六)
 イエスは、弟子たち、および天使たちから礼拝をお受けになりました。イエスは彼らの礼拝行為を、拒絶することはなさいませんでした。
 「礼拝した」と記されている箇所は、このほかにも数多くあります(マタイ二・一一、一四・三三、一五・二五、二八・九、マルコ五・六、ヨハネ九・三八)。
 このギリシャ原語は、プロスキュネオーです。ものみの塔発行の『新世界訳』は、この原語を、すべて「敬意をささげる」と訳しています。エホバに対する時にのみ、「崇拝する」と訳しているのです。
 しかし、エホバに対するときは「崇拝する」と訳すのに、イエスに対する時だけ「敬意をささげる」と訳すのはおかしなことです。
 また、プロスキュネオーが単なる「敬意をささげる」の意味でないことは、つぎの聖句から明らかです。
 「私(ヨハネ)は、彼(天使)を拝もう(プロスキュネオー)として、その足元にひれ伏した。すると彼は私に言った。『いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい(プロスキュネオー)」(黙示一九・一〇)。
 プロスキュネオーが単に「敬意をささげる」の意味なら、天使はヨハネの行為を拒絶する必要はありませんでした。ヨハネの行為は礼拝行為だったので、天使はそれを拒絶し、「神を拝みなさい」と言ったのです。
 弟子トマスが復活のイエスを見て、
 「わが主よ、わが神よ」
 と告白して崇拝したとき、イエスはその礼拝行為を拒絶せず、むしろ、
 「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見ずに信じる者はさいわいです」
 と言って、その信仰を励まされました(ヨハネ二〇・二七)。私たちは、イエスを礼拝してよいのです。
 私たちは、イエスに向かって祈ってよいでしょうか。弟子ステパノは、死の間際に、イエスに向かって祈りました。 
 「主イエスよ。私の霊をお受け下さい」(使徒七・五九)。
 パウロも、イエスに向かって祈りました。
 「このことについては、これ(持病)を私から去らせてくださるようにと、三度も(イエス)願いました」(二コリント一二・八)。
 黙示録でも、イエスに向けて祈られています。
 
「アーメン。主イエスよ。来て下さい」(黙示二二・二〇)。
 イエスご自身、ご自身に向かって祈りなさい、と言われました。
 「あなたがたが、わたし(イエス)の名によって、何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょうと」(ヨハネ一四・一四 王国行間逐語訳でも「わたしに求めるなら」なっています)。
 私たちは、父なる神に祈るとともに、御子イエスに向かって祈ってよいのです。


ステパノは、主イエスに祈って言った。
「主イエスよ。私の霊をお受けください」
(使徒7:59)

あがめられるべき御名は?

 ものみの塔は、次のように教えています。

 "神の御名はエホバであり、私たちが救いを得るべき御名として、あがめなければならない"(『神の御名は永遠に存続する』二九ページ)

 一方、聖書的キリスト教は、次のように教えています。

 "神の御名エホバ(ヤハウェ)をあがめなければならないのは、もちろんである。しかしエホバ(ヤハウェ)の御名と共に、イエスの御名が、救いを与うるべき御名として同様にあがめられなければならない"

 聖書を調べてみましょう。
 新改訳の旧約聖書を見ると、所々に太文字で記された「主」という言葉があります。これは原典では、YHWHに相当するヘブル語アルファベットが並んでいる箇所です(ヘブル語は子音だけで記される。読むときはそれに母音記号をつけるが、神の御名である聖四文字には、母音記号はつけられなかった)
 YHWHは神の御名(固有名)であって、昔は「エホバ」と読まれました。しかし、これは誤読であって、本当は「ヤハウェ」と発音するのが正しい、と今日学者の間で言われています(詳しくは本誌四五号「神の御名と聖四文字」参照)。
 ちょうど、「久米さん」を"ヒサコメさん"と読んでいたのが、じつは"クメさん"が正しかった、というのに幾分か似ているでしょう。
 昔は、文語訳聖書も「エホバ」と訳出していました。しかし今では、ほとんどの学者が「ヤハウェ」の御名を用いています。


神の御名を表す聖四文字。右から左へ読む。
4つのヘブル語アルファベットは、それぞれ
YHWHに相当する子音である。下の小さな横線や点(:)
などは母音記号。子音と母音を合わせて、
ヤハウェ(ヤーウェ)と発音する。昔エホバと読んだのは、
母音記号を学者が間違えてつけたものである。

 このことは、ものみの塔もある程度承知しているようです。しかし「エホバ」は、永年、神の御名として用いられてきたものであるので、ものみの塔は慣習に従い、今も「エホバ」の御名を用いています。
 私たちは、ヤハウェ、すなわちエホバの御名をあがめなければなりません。イエスはかつて、父なる神に対してこう祈りました。
 「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなた(ヤハウェ)の御名を明らかにしました」(ヨハネ一七・六)。
 ヤハウェの御名は、あがめられるべきです。しかし、私たちがあがめるべき御名は、ヤハウェだけではありません。聖書は言っています。
 「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ二四・四七)。
 「主(キリスト)はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です」(使徒九・一五)。
 「このかた(キリスト)を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ一・一二)。
 「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々・・・・」(一コリ一・二)。
 私たちは、ヤハウェの御名と共に、イエスの御名をあがめるべきなのです。私たちが救いを得るべき御名は、イエスです。
 「イエスについては、預言者たちもみな、このかたを信じる者は誰でも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししている」(使徒一〇・四三)。
 「主イエス・キリストの御名と、私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」(一コリント六・一一)。
 また、クリスチャンは誰の名によって共に集まるのでしょうか。
 「二人でも三人でも、わたし(キリスト)の名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ一八・二〇)。
 ですから、私たちはイエスの御名を宣べ伝えなければなりません。イエスは言われました。
 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります(使徒一・八)。


「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは
・・・・わたし(キリスト)の証人となります」
(使徒1:8)
創元社『聖書物語』より

 私たちは"エホバの証人"(イザヤ四四・八)であるとともに、ペンテコステ以後は、それ以上に"キリストの証人"と呼ばれるべきなのです。


ヤハウェとイエスの関係

 ものみの塔は、次のように教えています。

 "イエスはエホバではなく、別のおかたであって、被造物中の最高の者である"(『論じる』九三〜九四ページ)

 一方、聖書的キリスト教は、次のように教えています。

 "イエスは、ヤハウェ(エホバ)と同一ではないが、一体のおかたであって、神としての権威をお持ちである"

 ヤハウェとイエスの関係について、聖書を調べてみましょう。こう記されています。
 「主は私の主に言われた」(詩篇一一〇・一)。
 これは原文では、
 「ヤハウェは私の主に言われた
 であって、最初の「主」はヤハウェです。そして後の「主」は、キリストをさす、とキリストご自身が説明されました(マタイ二二・四五)。つまりこれは、
 「ヤハウェは私の主キリストに言われた」
 という意味です。この聖句について、『新聖書注解』(いのちのことば社)はこう解説しています。
 「『主は私の主に言われた』は、『ヤハウェは私の主に言われた』ということ。第一神格(第一位格)なる方と、第二神格(第二位格)なる方のコミュニケーションである」(マタイ二二・四四注解)。
 ヤハウェとイエスとの間には、区別があるのです。
 また、イエスは公生涯を始められるとき、旧約聖書の次の言葉がご自分の上に成就した、と語られました。
 「ヤハウェは、わたし(キリスト)に油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」(イザヤ六一・一、ルカ四・一八)
 このように、ヤハウェとイエス・キリストは、別のおかたとして区別されるべきです。
 「神ヤハウェ」は父なる神の御名である、と考えるべきでしょう。三位一体論に詳しい学者が、イエスはヤハウェである、と言うことはありません。
 三位一体論は、第一位格の父なる神ヤハウェ、第二位格の御子イエス、第三位格の聖霊を、同一視するものではありません。それは、"唯一の神のうちに、三つの位格の永遠の区別がある"という教えなのです。
 三位格にはそれぞれ、「生まれざるもの」(御父)、「生まれたもの」(御子)、「出たもの」(御霊)という区別があります。
 これについて、ヨハネ一八・六の「エゴー・エイミ」(ギリシャ語で I AM の意味)は、何を意味しているのでしょうか。
 それはイエスが、ヤハウェと同様に「有って在る者」(I AM THAT I AM 出エ三・一四)だ、という意味です。イエスが父なる神ヤハウェである、という意味ではありません。
 また、新約時代において、なぜイエスが「主」と呼ばれているのでしょうか。
 旧約時代においては、ヤハウェが「主」と呼ばれました。これは、ヘブル語のアドーナーイ、ギリシャ語のキュリオスで、主権者、また主人の意味です。新約時代においては、イエスが「主」と呼ばれています。
 これは、イエスがヤハウェということかというと、そうではありません。聖書は、新約時代においては、宇宙の主権が父なる神から御子イエスに渡された、と言っています。
 「父は・・・・万物を御子の手にお渡しになった」(ヨハネ三・三五)。
 それで、新約時代はイエスが「主」、すなわち主権者と呼ばれるのです。
 とはいえ、新約時代において父なる神がもはや主でなくなった、ということではありません。イエスは言われました。
 「天地のであられる父よ・・・・」(ルカ一〇・二一)。
 イエスは父なる神を、「主」と呼ばれたのです。黙示録においても、父なる神は「神である」(黙示一・八)と言われています。私たちは、父なる神も、御子イエスも、「主」と呼んでよいのです。
 イエスは今、「主」なる御父から、救いのご計画に関する主権を与えられて活動しておられるという意味で、私たちから「主」と呼ばれています。
 イエスが「主」と呼ばれるのは、イエスが主権者とされているということであって、ヤハウェだという意味ではありません。
 しかし、イエスは単なる人間ではなく、存在と本質においてヤハウェと一体なるかたです。それは、次のことにもあらわれています。
 旧約聖書では、キリストの再臨はしばしば「神ヤハウェが来る」こととして述べられています。たとえばキリストの再臨について、
 「私の神、ヤハウェが来られる。すべての聖徒たちも主と共に来る」(ゼカリヤ一四・五)
 と表現されています。これは、父なる神ヤハウェと御子イエスの一体性を前提にしない限り、理解できません。
 すなわち、神ヤハウェが再臨の御子イエスにおいてやがて地上に来られる、という意味なのです。もし、イエスが単なる被造物なら、このような表現がとられることはありません。
 イエスの初臨は、神ヤハウェがイエスにおいて地上に来られたということであり、イエスの再臨は、神ヤハウェがやがてイエスにおいて地上に来られる、ということです。両者は一体なので、右のような表現がとられるのです。
 聖書は、イエスの初臨を準備したバプテスマのヨハネにおいて、
 「ヤハウェの道を用意せよ」(ルカ三・四、イザヤ四〇・三)
 の言葉が成就した、と言っています。これも、ヤハウェが御子イエスにおいて地上に来られた、ということなのです。バプテスマのヨハネは、それを準備したのです。
 ヤハウェとイエスの関係に関して、もう一つのことを記しておきましょう。ローマ一〇・一三で使徒パウロは、主イエスによる救いを語る際に、
 「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」
 という、ヨエル書二・三二の言葉を引用しました。この言葉は、ヘブル語原文では、
 「ヤハウェの御名を呼び求める者は誰でも救われる
 です。パウロはなぜこの言葉を、イエスの救いに関して語る際に用いたのでしょうか。
 「イエス」の御名は、"ヤハウェは救い"という意味であり、イエスの御名を呼び求めることは即、イエスの御名に含まれるヤハウェの御名を呼び求めることでもあります。また、「イエス」はヤハウェによって救い主また「主」として立てられた御名です。
 ですから「ヤハウェの御名を呼び求める者は誰でも救われる」は、いまや、
 「主イエスの御名を呼び求める者は誰でも救われる」
 という言葉に言い替えてもさしつかえないのです。ヤハウェの御名を呼び求めることは、新約時代において、その御子イエスの御名を呼び求めるだからです。
 ヤハウェの御名を呼び求めること、およびイエスの御名を呼び求めることは、互いに密接にかかわっています。ヤハウェとイエスは一体だからです。
 ですから、使徒パウロが主イエスの救いに関して語る際に、
 「ヤハウェの御名を呼び求める者は誰でも救われる」
 という言葉を関連づけて語ったことは、決して不当なことではないのです。このようにヤハウェとイエスは、同一ではないが、一体のおかたです。


聖霊に関する理解

 ものみの塔は、聖霊について次のように教えています。

"聖霊は、神の活動力であり、エネルギーに似たものであって、人格を持たない"(『論じる』四三一〜四三二ページ)

 これに対し、聖書的キリスト教は、次のように教えています。

 "聖霊は、父なる神および御子イエスから発せられる霊であり、人格を持つおかたである"

 聖書を調べてみましょう。
 「わたし(キリスト)は、助け主(聖霊)をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ一六・八)。
 ものみの塔が聖霊の非人格性を示そうとして用いる事柄は、聖霊が代名詞で呼ばれるときの原語が、男性代名詞「彼」(He)ではなく中性代名詞(it)である、ということです。
 それは事実です。しかし、その中性代名詞は「それ」と訳されるべきものではなく、「その方」「その者」と訳されるべきものなのです。
 実際「助け主」という言葉も、風や水や火などの非人格的なものとは違って、聖霊の人格性を示しています。
 また、エネルギーや活動力といったものに、真理を人に「認めさせる」ことができるでしょうか。そうしたことは、人格的な働きかけによるものです。
 聖書には、聖霊の人格性を明らかに示す聖句が、幾つもあります。
 「ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。『見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています』」(使徒一〇・一九)。
 この「(御)霊」が、ペテロの霊ではなく、神の聖霊であることは、前後関係から明らかです。また、
 「聖霊を悲しませてはいけない」(エペソ四・三〇)。
 「御霊ご自身が、私たちの霊と共に、(私たちが神の子とされていることを)あかししてくださいます」(ローマ八・一六)。
 「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ八・二六)
 「御霊(聖霊)も、花嫁(クリスチャンたち)も言う。『来てください』」(黙示二二・一七)。
 これらの聖句は、聖霊が人格を持った「おおかた」であることを、明確に示しています。またその人格は、父なる神および御子イエスとは別であって、区別されるものであることがわかります。
 聖霊は「霊」ですから、独自の思いを持っておられるのです。しかし、意志においては、もちろん父なる神および御子イエスと、統一されています。これを三位一体の神の「統一性」と呼びます。
 聖霊は人格を持ったかたであり、"それ"ではなく、"聖霊様"なのです。
 聖霊は、父なる神の霊であると共に、主イエスの霊です。聖書では、聖霊は「神の霊」と呼ばれ(一コリント一二・三)、一方では「主イエスの御霊」とも呼ばれています(使徒一六・六〜七)。
 聖霊は、父なる神から発せられ、主イエスを通して注がれた霊なのです。
 「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、・・・・聖霊をお注ぎになったのです」(使徒二・三三)。


聖霊は、父なる神ヤハウェから御子イエスを通して
注がれた霊であり(使徒2:33)、人格的存在である。

 聖霊は、どちらかというと、"ご自身を隠すかた"です。聖霊は、ご自分について人々に知らせるより、むしろ父なる神、および御子イエスについて人々に知らせようとされます。
 聖霊は、そのような隠れた働きをされるかたなのです。あまり表には出ず、むしろ父なる神と、主イエスを前面に押し出されます。
 聖霊は、私たちと父なる神、また私たちと御子イエスとの交わりを、媒介するかたです。これが、使徒信条にも出てくる「聖霊の交わり」と呼ばれるものです(一ヨハネ一・三)。
 このように、唯一の神のうちに、御父ヤハウェ・御子イエス・聖霊という三つの位格(ペルソナの)の、永遠の区別があります。これら三者は、本質と存在を一つにし、唯一神となっておられます。
 その一体性については、次の聖句にも見ることができます。
 「父・子・聖霊の御名によってバプテスマを授け・・・・」(マタイ二八・一九)。
 この「御名」は、原語のギリシャ語では単数形です。英語でいえば name なのです。
 ギリシャ語は、単数・複数の別に厳しい言語です。たとえばマタイ一〇・二の「一二使徒の名」は、names で複数です。
 しかし神に関しては、父・子・聖霊の name と言われ、単数形なのです。これは英文・新世界訳でも単数形です。
 御父・御子・御霊は一体であるので、こういう場合は単数形が使われるのです。
                                              (つづく)
                                 久保有政(レムナント1994年3月号より)

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