キリスト

完全解読 70週の預言
『ダニエル書』9章の有名な預言
「70週の預言」が、ついに完全解読された。


ダニエル。知者、また預言者として紀元前6世紀の社会
において有名であり、その名はエゼキエル書にも出てくる。

 旧約聖書ダニエル書九章に、キリスト到来の時期と、その死、また世の終末の出来事に関する有名な預言「七〇週の預言」が記されています。
 けれどもこの預言は、世の終末に関する部分が難解とみられ、しばしば多くの預言研究者たちを悩ませてきました。そこで、「七〇週の預言」に対する新たな解釈を、ここに示したいと思います。


七〇週の預言

 「七〇週の預言」は、しばしば多くの学者の間で様々な意見が交わされた所であり、そのためにその解釈の多様性は、翻訳の上にもあらわれています。
 この箇所の日本語訳をみても、口語訳聖書(日本聖書協会訳)と新改訳聖書(日本聖書刊行会訳)では、ずいぶん翻訳が違うという感を受けます。これは翻訳者の解釈が、その翻訳の上にどうしてもあらわれることを、示しています。
 本誌では、新改訳にも目を向けながら、口語訳中心に解説を進めていきたいと思います。というのは、口語訳にも問題がないわけではないのですが、「七〇週の預言」についてみてみると、全体的には口語訳の方が原意に近いと思えるからです。
 「七〇週の預言」は、口語訳では次のように記されています。

 「(ダニエル書九章二四節)
 あなたの民と、あなたの聖なる町(エルサレム)については、七〇週が定められています。これはとがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者(イエス)に油を注ぐためです。

(二五節)
 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君(キリスト)が来るまで、七週と六二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。

(二六節)
 その六二週の後に、メシヤは断たれるでしょう。ただし、自分のためではありません。また来たるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終わりは、洪水のように臨むでしょう。そしてその終わりまで戦争が続き、荒廃は定められています。

(二七節)
 彼は一週のあいだ多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒らす者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終わりが、その荒らす者の上に注がれるのです」。


ダニエル書は紀元前六世紀に記された真正の預言書

 「七〇週の預言」を解説していく前に、まず『ダニエル書』という書物について、簡単に見ておく必要があるでしょう。
 私たちは、『ダニエル書』の著作年代は紀元前五五〇年前後――つまりキリスト降誕の六〇〇年ほど前であって、当時の預言者ダニエルが記したもの、と信じています。
 ダニエル書の真正性は、イエス・キリストご自身が認証されたものです。キリストはあるとき、ダニエル書の言葉を引用して語られました。
 「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所(神殿)に立つのを見たならば・・・・」(マタ二四・一五)
 また、しばしばキリストがご自身をさして言われた「人の子」という表現も、ダニエル書の言葉です(ダニ七・一三)
 ダニエル書は、このようにキリスト降誕以前に、すでに存在していました。また、キリストがダニエル書の言葉を引用されたことは、ダニエル書が偽書ではなく真正の預言書であることを、キリストご自身が認証された、ということでもあります。
 しかし、三世紀になって、キリスト教に対する反対者ポルフュリオスは、ダニエル書は紀元前二世紀に偽作されたものである、という説を唱えました。
 紀元前二世紀のある人物が、紀元前六世紀の預言者ダニエルの名を借りて記述したもの、としたのです。
 この説は、近代になって聖書に懐疑的な批評学者たちによって復活され、人々に宣伝されました。
 けれども、私たちはこのような説が誤りであることを、古代の歴史家ヨセフスの記述の中から知ることができます。
 ヨセフスは紀元一世紀の歴史家ですが、紀元前六世紀のペルシャ時代に、すでにダニエル書が存在していたと記しているのです(J・シドロー・バクスター『旧新約聖書全解』参照)
 またもう一つの重要な証拠は、旧約聖書エゼキエル書に、ダニエルについての言及が三回あることです(エゼ一四・一四、一四・二〇、二八・三)
 今日、エゼキエル書が紀元前六世紀に記されたことを、疑う学者はいません。
 エゼキエル書にダニエルの名が出てくることは、ダニエルが紀元前六世紀にユダヤ人の間できわめて有名な人物であったことを示しています。ダニエルと、ダニエル書は、紀元前六世紀にすでに存在していたのです。
 ダニエル書が紀元前六世紀に記されたことに関して、さらに述べるなら、ダニエル書八・二において、スサはエラム州の都市である、と述べられています
 ところが紀元前二世紀頃のギリシャやローマの歴史家たちは、ペルシャ時代にはスサは新しく制定されたスシアナ州に属している、と述べています。
 スサがエラム州に属していることを知っているのは、ペルシャ時代以前のカルデヤ人の時代――紀元前六世紀頃の状況を知っている者であるしか考えられません。すなわちダニエル書の著者は、紀元前六世紀頃に生きていたのです。
 以上の事柄が示すように、ダニエル書が後世に記された偽書であるとする説は、到底受け入れられるものではありません。
 ダニエル書は一〇〇%、紀元前六世紀にダニエル本人によって記された真正の預言書である、と私たちは信じてよいのです。


七〇週の預言はエルサレムとメシヤに関する預言

 では、七〇週の預言の解説に入りましょう。
 まず、二四節からです。

 「あなたの民と、あなたの聖なる町(エルサレム)については、七〇週が定められています。これはとがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者(イエス)に油を注ぐためです」。

 はじめにこの預言は、エルサレムに起こるはずの事柄に関するものと、述べています。
 それはまた「とがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらす」ためです。人類救済のための神のご計画に関する、最も重要な預言の一つなのです。
 預言は、エルサレムに関して「七〇週」が定められている、といっています。「週」と訳された言葉は、原語ではシャーブイームで、単に「七」の意味ですが、ここでは七年を表します。一週間(七日)の意味ではなく、七周年の意味なのです。
 したがって「七〇週」は、七〇×七年であり、四九〇年です。これは四九〇年にわたる時代の出来事に関する預言なのです。


メシヤ出現の時は預言されていた

 つぎに、二五節です。

 「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君(キリスト)が来るまで、七週と六二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう」。

 この節は、キリスト降誕の時期に関する預言です。聖書中、最も驚くべき預言と言ってもよいでしょう。
 「メシヤ」とありますが、これは原語も「メシヤ」で、ヘブル語で"油注がれた者"の意味です。これをギリシャ語に直すと、「キリスト」になります(旧約聖書をギリシャ語に訳した古代訳「七〇人訳聖書」は、この箇所をキリストと訳しています)
 イスラエルでは、大祭司や王は、任職式で頭から油を注がれました。油注ぎは、彼らへの任職を表したのです。しかしこの語は、やがて、神からの救い主を表す称号とされるようになりました。
 この箇所でも、この言葉は単なる大祭司や王ではなく、神からの救い主を表しています。
 前節で述べられたように、この預言は「罪に終わりを告げ」「永遠の義をもたらす」ためのものであって、真のメシヤ=救い主イエス・キリストに関する預言なのです。
 預言は、「メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六二週ある」と言っています。
 七〇週は幾つかに細分されており、七週と六二週、また最後の一週、計七〇週に区分されています。最後の一週はまた、さらに半週と半週に分けられています
 メシヤ到来までは「七週と六二週」――計六九週です。新改訳ではこれを「七週。また六二週の間・・・・」と訳していますが、このような句点を挿入するのは、訳として適切ではありません。
 なぜなら、この後の二六節において「その六二週の後にメシヤは断たれる」と記されているので、メシヤは七週と六二週――計六九週の後に来られる、という意味にとるのが適切だからです。
 「七週。また六二週」というように、文章を完全に分断してしまうと、文の前後関係との整合性に欠けるのです。
 メシヤは、七週と六二週の合計である六九週の後に、来られます。六九週は六九×七で、四八三年です。
 この起点となる年は、エルサレム再建命令が出された年です。「エルサレムを再建せよという命令が出てから」四八三年後に、「メシヤなるひとりの君が来る」のです。
 この預言が与えられた当時、ダニエルは、バビロン帝国にいました。当時ユダヤ人の多くは、バビロン帝国に捕囚となっていたのです。
 やがてバビロン帝国は、ペルシャ帝国に滅ぼされました。ペルシャはユダヤ人に対して寛大な政策をとり、ユダヤ人を次第にエルサレムに帰還させてくれました。
 ユダヤ人はエルサレムに、三度にわたって帰還しました。それらは紀元前五三六年、四五七年、四四四年です。このうち最も重要なのは、四五七年の帰還です。
 五三六年の時は神殿は再建されましたが、エルサレムの町は、再建されませんでした。町の広場や街路は、その後も約八〇年にわたって荒廃したまま放置されたのです。
 しかし四五七年に、ペルシャの王は、律法学者エズラをエルサレムに向かわせました。このときペルシャ王は、次のような命令を出しました。
 「天の神の宮のために、天の神によって命じられていることは何でも、熱心に行なえ。・・・・エズラよ、あなたは、あなたの手にあるあなたの神の知恵に従って、さばきつかさや裁判官を任命し、川向こう(パレスチナ)にいるすべての民、すなわちあなたの神の律法を知っているすべての者を裁かせよ。また、これを知らない者に、あなたがたは教えよ(エズ七・二三、二五)
 これは、実質的にエルサレム再建命令ととってよいでしょう。これを受けたエズラは、約一五〇〇名のユダヤ人を連れてエルサレムに帰還し、エルサレム再建に向けて動き始めました。
 エズラはまず人々に律法を教え、宗教改革を行ないました。彼はエルサレムの再建を、不信の罪に陥っていた人々の信仰を刷新することから、始めたのです。彼はまた、行政の機能を整えました。


ペルシャ王によるエルサレム再建命令により、エズラは
1500名のユダヤ人を連れてエルサレムに向かった。
(B.C.457年)

 以後、エルサレムの広場や街路も、しだいに復興されていきました。四四四年には、城壁の復興も始まりました。
 このように、私たちはエルサレム再建命令発布の年を、紀元前四五七年と考えてよいでしょう。そうすると、その六九週の後――四八三年後は、紀元二六年です。
 これはまさに、主イエスが公生涯に入られた年です。主イエスは、紀元二六年の秋〜冬に洗礼を受けて公生涯に入られ、その三年半後の紀元三〇年春に、十字架の死を遂げられました。


イエスの受洗、公生涯開始は、
A.D.26年秋から冬頃であり、
エルサレム再建命令の
483年後(69週後)であった。

 主イエスは、エルサレム再建命令の六九週後――四八三年後にあたる紀元二六年秋〜冬に、メシヤとして現われ、その三年半後に十字架上で「断たれ」(ダニ九・二六)ました。こうしてダニエル書の預言は、驚くべき正確さで成就したのです。


異説について

 ここで、以上のことについてもう少し掘り下げて見るために、これに関する異説についても取り上げておきましょう。
 異説とは、エルサレム再建命令の年を紀元前四四五年、メシヤ出現の年を紀元三二年とするものです。この説ではまた、ユダヤ暦の一年は三六〇日とされ、六九週――四八三年は、四八三の三六〇倍である一七万三八八〇日であったとしています。
 そしてエルサレム再建命令発布は紀元前四四五年三月一四日、メシヤ出現の時は、メシヤが十字架の死を遂げる日であると考えて紀元三二年四月六日とし、その間が一七万三八八〇日であった、とするのです。
 この説の問題点を見てみましょう。
 第一に、ユダヤ暦の一年を三六〇日とし、四八三年を一七万三八八〇日と計算することは、きわめておかしなことです。
 ユダヤ暦は太陽暦とは若干違いますが、それでも周期的にずれを調整するために、必ず時々「閏月(うるうづき)」が挿入されました(19年間に7回)。この潤月を入れないと、5−6年で夏と冬が逆になってしまいます。
 ですから四八三年は、決して三六〇日を単に四八三倍した「一七万三八八〇日」にはならないのです。
 もし預言の期間を日数で考えるべきなら、預言の言葉も日数で示されたでしょう。
 第二に、キリストの十字架の年は、紀元三二年ではありません。最も有力な考えでは、キリストの十字架の死の時は、紀元三〇年四月七日です。
 以上の理由から、私たちは"一七万三八八〇日説"を受け入れることはできません。
 キリストが公生涯に入られた年――紀元二六年秋〜冬は、「皇帝テベリオ在位の第一五年」(ルカ三・一)、またヘロデ神殿建設開始四六年目頃(ヨハ二・二〇)、という聖書の記述とも一致します。
 キリストはまた、公生涯において、ユダヤで年一度開かれる「過越の祭」を三度経験され(ヨハ二・一三、六・四、また五・一も過越の祭と言われる)、四度目の過越の祭の時に十字架の死を遂げられました。
 すなわち、彼は約三年半の公生涯を送られ、紀元三〇年春に、十字架の死と復活のみわざをなされたのです。
 また「七〇週の預言」において、最初の六九週が「七週と六二週」に分けられているのはなぜか、についても触れておきましょう。
 紀元前四五七年の七週後――四九年後は、紀元前四〇八年です。これは丁度、旧約最後の預言者マラキの活動していた時代です。彼を最後に、旧約の預言者の時代は終わりました。
 これが、二四節でいう「幻と預言者を封じ・・・・」の意味することです。四〇八年頃、神の預言的幻と預言者の時代は終わり、封じられました。そして以後の六二週――約四〇〇年間は、いわゆる「中間時代」で、預言者の現われなかった時代です。
 「七週と六二週」というように、いったん区切られているのは、それが「幻と預言者」の封じられる時であり、大きな節目だったからなのです。


「七〇週」には予型がある

 私たちは七〇週のうち、最初の六九週(メシヤ到来までの期間)と、続く半週(キリストの三年半の公生涯)を見ました。計"六九週半"になります。
 では、七〇週の最後の半週――三年半は、どこに見ることができるのでしょうか。
 最後の三年半は、じつは"六九週半"の直後に続くものではなく、ある期間を隔てた将来――世の終末の時代に属するものです。それを見るために、ここで一つの興味深い事実に、目を留めましょう。
 「七〇週の預言」には、じつは一つの"予型"があるのです。
 六九週半――四八六年と半年という期間は、イスラエルの歴史に、もう一つ見ることができます。それは"シナイ山で律法が授与された時から、ソロモン神殿完成までの期間"です。
 まず、シナイ山で律法が授与された時期を見てみると、それは出エジプトがなされた年のユダヤ暦「第三の月」(出エジ一九・一)でした。


70週の預言には、予型がある。予型時代の起点は、
モーセの律法授与であり、それは出エジプトの年の第三の月であった。

 一方、ソロモン神殿について見てみると、旧約聖書・第一列王記六・一に、こう記されています。
 「イスラエル人がエジプトの地を出てから四八〇年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目・・・・に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった」。
 神殿の建設は、ソロモンの治世第四年――出エジプト後「四八〇年目」に開始されました。そして建設開始後、七年を経て、神殿は完成しました。
 「(ソロモンの治世の)第一一年目のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が、その明細通りに完成した。これを建てるのに七年かかった」(一列王六・三八)
 すなわちソロモン神殿は、出エジプトから四八七年目にあたる第八の月に、完成したのです。一方シナイ山における律法授与は、出エジプトの年の第三の月でした。
 この「四八七年目」は、最初の年も数に入っています。ですから実質的にソロモン神殿は、律法授与から数えて"四八六年と半年の後"に完成した、ということになります。


ソロモン神殿は、出エジプト後、
486年と半年を経て完成した。
これは69週半(69週+半週)にあたる。

 "四八六年半"は、六九週半であり、私たちが今まで見てきた"エルサレム再建命令からキリストの死までの期間"と、ピッタリ一致しています(図を参照)

 

 私たちはさらに、"律法授与からソロモン神殿完成まで"と"エルサレム再建命令からキリストの死まで"の間に、深い対応関係を見いだすことができます。
 たとえば、かつてシナイ山においてイスラエルの民は、カナンの地に行って国を興す命令を、神から受けました。また律法を与えられ、民の信仰は刷新されました。
 同様に、紀元前四五七年にエルサレム再建の命令が出されたとき、エズラによって律法が説かれ、民の信仰は刷新されました。
 ユダヤ人は今も、エズラを律法に基づいて宗教改革を行なった人物として、しばしば"第二のモーセ"とも呼び、深く尊敬しています。このことも、両者の対応関係の一つとみることができるでしょう。
 また、キリストはあるとき、ご自分の体を「神殿」と呼ばれました。そして「神殿をこわしても三日で建て上げる」と言って、ご自分の死と復活を予告されました(ヨハ二・二一)。このことも、ソロモン神殿との対応関係の上で興味深いことです。
 つまり、律法授与の六九週半の後に、ソロモン神殿が完成しました。ちょうどそのように、エルサレム再建命令とエズラの律法による改革の六九週半の後に、神殿なるキリストの体の死と復活、また教会の誕生があったのです。
 このように、両者は互いに深い対応関係にあることがわかります。"律法授与からソロモン神殿完成"までの期間は、ある意味で"エルサレム再建命令からキリストの死・復活・教会誕生"までの期間の、予型であった、と見ることができるのです。


最後の半週は不定期の期間を隔てて後の時代に属する

 この予型を、さらに深く見て行きましょう。
 紀元前九六三年にソロモン神殿が完成したのち、しばらくたって紀元前五八六年に、ソロモン神殿はバビロン軍によって破壊されました
 その後紀元前五三六年に、バビロンからユダヤ人の第一次帰還民が、エルサレムにやって来ます。さらに五一六年には、神殿も再建されました。この再建された神殿が、ゼルバベル神殿です。
 さて紀元前一六七年になって、エルサレムは、"約三年半にわたって"異邦人によって踏み荒らされました
 アンティオコス4世・エピファネスが、神殿に土足で踏み入り、そこに偶像を設置したのです。これが、ダニエル書一一・三一で言われている「荒らす憎むべきもの」(荒らす忌むべきもの)です。
 エピファネスは、「常供のささげ物を取り除き」(ダニ一一・三一)、神殿を遊興と淫乱の場所としました。
 その後、ユダヤ人の間にマッカビーのユダという人物が現われ、神殿をユダヤ人の手に取り戻し、回復しました。神殿は清められ、祭儀は再開されました。
 そのすぐ後、エピファネスは、陣中で急死します。紀元前一六三年春のことでした(『新聖書大辞典』キリスト新聞社発行 アンティオコスの項)
 じつは、エピファネスがエルサレムを占領したのは、紀元前一六七年秋のことでした(一マカ一・三八、二マカ六・一)。したがって、エピファネスによるエルサレム占領からエピファネスの死までの期間は、約三年半でした。
 この三年半――すなわち半週は、私たちが予型としてみた最初の六九週半に続く、最後の半週です。


エピファネスは、約3年半(半週)
にわたって神殿を踏み荒らした。

 六九週半ののち、しばらくの不定期の期間を隔てて、半週の神殿陵辱期間がありました。こうして、合計七〇週になります。
 これが予型時代における"七〇週"ですが、さらに私たちは、アンティオコス4世・エピファネスの名前の数字が「六六六」であったということにも、注意を払うべきでしょう。
 彼の略名として用いられたA・4・エピファネスをギリシャ語で表記し、そのギリシャ語アルファベットに対応する数字をすべて足すと、六六六になるのです。
 (ギリシャ語やヘブル語は、各アルファベットが数字代わりに使用されます。詳細は、本誌三三号三〇ページ参照。なお、ローマ皇帝ネロが六六六であるという意見もありますが、彼は六六六になりません
 「皇帝ネロ」を六六六にするためには、その名をまずラテン語で表し、それをギリシャ語形に直し、それをヘブル語の文字で書くという手の込んだ操作をした上、さらに「ネロン・カイサル」と言うべきところを、「イ」に相当する文字を省略しなければならないのです。
 ですから、「皇帝ネロ」は六六六にならない、と言うべきです。)

 つぎに、「七〇週の預言」で言われた期間について見てみましょう。これも、予型の"七〇週"と同様の過程を経て、完結するでしょう。
 すなわち、幾つかの対応する出来事と、不定期の期間を経て、預言の「七〇週」は、終末の時代の来たるべき最後の"半週"をもって完結するのです。それを見てみましょう。
 キリストの死後しばらくして、紀元七〇年に、ローマ軍はエルサレムにあったヘロデ神殿を破壊しました。これは、予型時代における"ソロモン神殿滅"に対応するものです。七〇週の預言――ダニエル書九章二六節を、見てみましょう。

 「その六二週の後に、メシヤは断たれるでしょう。ただし、自分のためではありません。また来たるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終わりは、洪水のように臨むでしょう。そしてその終わりまで戦争が続き、荒廃は定められています」。

 メシヤが人々のために死なれたあと、しばらくして、「来たるべき君の民」は、エルサレムの町と聖所(神殿)を滅ぼす、と言われています。これが、紀元七〇年に起こったことです。
 「来たるべき君」は、ローマ帝国の王をさします。ローマはエルサレムの町と、神殿(ヘロデ神殿)とを完全に破壊しました。
 その終わりは、じつに「洪水のように臨み」ました。ローマ軍の攻撃は「終わりまで続き」、あのマサダの砦でユダヤ人が壮絶な最期を遂げるまで、戦闘が繰り広げられたのです。


エルサレム壊滅後、生き残ったユダヤ人は、
マサダの砦で戦い、そこで壮絶な最後を遂げた。

 つぎに、二〇世紀の一九四八年になって、ユダヤ人は全世界よりの帰還を果たし、パレスチナにイスラエル共和国を建国しました。これは、予型時代における"バビロンよりのユダヤ人帰還"に対応するものです。
 ここまでは、今までに起こった出来事です。つぎに、時代は将来に入ります。
 レムナント先月号で述べたように、近い将来、エルサレムにユダヤ教の神殿が再建されるでしょう。それは「第三神殿」と呼ばれています。これは、予型時代における"ゼルバベル神殿建設"に対応するものです。
 そして次に、これら不定期の期間を経て、やがて第三神殿が"三年半にわたって"踏み荒らされる期間が、やって来ます


やがて建てられるはずの第三神殿想像図
(イスラエルのオフラ・コミュニティに掲げられた合成写真)

 「」と象徴的に呼ばれる世界的独裁者が、三年半にわたって活動し、エルサレムと神殿とを踏み荒らすのです。このことは、『ヨハネ黙示録』でも預言されています。
 「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四二か月活動する権威を与えられた」(黙示一三・五)
 「獣」(独裁者)は、サタンに権威を与えられ(黙示一三・四)、四二か月、すなわち三年半の間活動するのです。
 「獣」の数字は「六六六」だ、と言われています(黙示一三・一八)。彼はじつに、エピファネスの再来的人物なのです(黙示一七・八)
 「獣」はまた、"復興ローマ帝国の君主"と見られるでしょう。ここで深く解説はしませんが、ダニエル書は、終末の時代にローマ帝国が"復興ローマ帝国"として復活する、と述べているのです(ダニ七・二三〜二七)。その王が、「獣」です。
 あのヒトラーが建設しようとした「ドイツ第三帝国」は、ローマ帝国を復興させようとした試みであったことは、よく知られています。ヒトラーはそれに失敗しましたが、終末の「獣」は、ローマ帝国の強権を復興させるでしょう。
 獣は、「神の宮(神殿)の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」(二テサ二・四)。彼は、かつてエピファネスがしたように、第三神殿に「荒らす憎むべきもの」を設置するのです。


荒らす憎むべきものは二度立つ

 「七〇週の預言」最終節を見てみましょう。

 「彼は、一週のあいだ多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒らす者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終わりが、その荒らす者の上に注がれるのです」。

 「」は、前節(二六節)にあるエルサレムを破壊する「来たるべき君」をさしています。つまりローマ帝国の王です。
 しかし、それはまた、復興ローマ帝国の王でもあります。「彼」は、終末の時代においては、「」と象徴的に呼ばれる人物として現われるのです。
 彼――獣は、多くの者と「堅い契約」を結びます。すなわち、人々を「巧言をもって堕落させ」(ダニ一一・三二)、信仰を捨てた者たちや彼につく人々を、「重く取り立てる」(同一一・三〇)のです。
 また獣は、三年半にわたって第三神殿を踏み荒らし、神殿の「犠牲と供え物とを廃する」でしょう。
 彼は最後の一週の「週の半ばに犠牲と供え物を廃する」――すなわち最後の半週のあいだ、神殿を踏み荒らすのです。
 しかし、口語訳の次の言葉――「荒らす者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう」は、あまり翻訳が良くないようです。この箇所に関してはむしろ、新改訳のように、
 「荒らす忌むべきものが、翼に現われる
 の方が良いでしょう。この「翼」は、七〇人訳聖書(旧約聖書の古代ギリシャ語訳)で「神殿」と訳されていることからもわかるように、神殿を表しています。
 つまり、「荒らす忌むべきもの」すなわち「荒らす憎むべきもの」が神殿に現われる、という意味なのです。
 これは、獣が第三神殿を踏み荒らし、そこで自分を神と宣言し、自分の偶像を設置することを言っています。
 そのあと、「定まった怒りが、その荒らす者の上に注がれ」ます。神の怒りがあらわされ、キリストが再来して、その力強い御手をもって獣を滅ぼされるのです。これが、いわゆる「ハルマゲドンの戦い」です(黙示一六・一六、一九・一九〜二一)
 このように、不定期の期間を隔てて世の終末の時代になって、最後の半週の時があります。獣によって「荒らす憎むべきもの」が神殿に立てられる三年半の時があるのです。
 七〇週の預言は、こうして完結します。キリストの死までの六九週半と、終末の時代の半週とで合計七〇週となり、預言された時代の出来事は完結するのです。

                                 久保有政(レムナント1994年4月号より)

 

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