聖書

「ひとりの人」の罪が
なぜ全人類に及んだのですか

父祖と子孫の間を支配する原理――「民一性」


アブラハムは、メルキゼデクに10分の1を納めた。
このとき、アブラハムから4代目にあたる「レビでさえも、
アブラハムを通して10分の1を納めたといえる。
なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを迎えたときには、
レビはまだこの父祖の腰の中にいたからである」
(ヘブ7:9-10)

 聖書は、
 「ひとりの人(アダム)の不従順によって、多くの人が罪人とされた」(ロマ五・一九)
 と述べ、また、
 「ひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになった」(同五・一七)
 と記しています。
 「ひとりの人」の犯した罪が全人類に及び、「ひとりの人」によって死が全人類を支配するようになったという聖書のこの記述を、私たちはどのように理解したら良いのでしょうか。
 いったい何故、たった一人の行為が全人類に普遍的な影響を与えるなどということが、可能だったのでしょうか。
 これを理解する鍵は、"父祖とその子孫"の間を支配している、ある特殊な原理を知ることにあります。
 この原理は、万有引力の法則や、エネルギー保存の法則が宇宙を支配しているのと同様に、人間世界を普遍的に支配しているもので、聖書の理解のためにきわめて重要です。
 その原理について見てみましょう。


1 神と「神の子孫」の間に見られる原理

 キリストの使徒パウロは、ある日、ギリシャのアテネで人々に語り、その中で次のように述べました。
 「私たちは神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから・・・・」(使徒一七・二八〜二九)
 パウロは、私たち人間は皆「神の子孫」であり、また「神の中に生き」ているのだ、と言っています。
 ここで人間が「神の子孫である」と言われている意味は、人が神の恵みによって新生し、キリスト者として「神の子になる」(ヨハ一・一二)ということとは別の意味です。
 ヘブル人は、実際に血をひいている子でなくても、親密な関係によって生み出された者を「子」と呼びました。
 たとえば使徒パウロは、自分の伝道によって回心した人物であるテモテを、「わが子」(一テモ一・二)と呼んでいます。
 このように聖書で「子」という場合、それは必ずしも血肉による子ではなく、非常に親密な関係をもって生み出された者を意味する場合があります。
 ですから聖書は、神がひじょうな愛着をもってお造りになったアダムについて、
 「このアダムは神の子である」(ルカ三・三八新改訳)
 と記しています。この場合、アダムが「神の子」と呼ばれているのは、彼が神の特別な愛顧の内に「神のかたちに造られた」(創世一・二七)からです。
 その意味で、アダムは「神の子」であり、また「私たちは神の子孫」なのです。
 さらに使徒パウロは、そのように「神の子孫」である人間は、皆「神の中に生きている」とも述べています。
 神を離れては、万物は存在しません。生きとし生けるもの一切は、神に抱かれているのです(ヨブ一二・一〇)
 つまり、"神というおひとりのおかたの内に、神の子孫全体が見られている"わけです。

 次に、もう一つの側面に着目しましょう。
 それはこのことと逆の面で、"すべての神の子孫の内に、神のかたちがみられる"ということです。
 聖書によれば、人間は「神のかたち」に造られたものであり、神に似せて創造されたものです。
 この「神のかたち」は、人間の「堕落」によって多少損なわれたにしても、完全に失われたわけではありません(創世九・六)
 ですから、「すべての神の子孫」の内に「神のかたち」が見られる、と言ってよいでしょう。
 こうして、今や次のことが明らかになりました。すなわち、
 "神おひとりの内に「神の子孫」全体が見られ、「すべての神の子孫」の内に、おひとりの神のかたちが見られる"
 です。こうした関係が、神と人の間にあります。そしてこれはまた、アダムと全人類、またキリストとキリスト者たちとの一体性を理解する上での重要な鍵となります。


2 父祖の内に子孫全体が見られ子孫すべての内に父祖が見られる

 さて、神が人をご自分のかたちに造られたとはどういう意味か、もう少し考えてみましょう。
 それは単に、人間が神のように自由な人格性や、道徳性をもっている、ということだけを意味するのではありません。それは実は、神に関する事実が、人間世界にも反映してくる、ということなのです。
 その良い例は、人間世界における夫婦の交わりが、神と人との間の交わりの「影」である、ということです。聖書は言っています。
 「神は・・・・人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された(創世一・二七)
 「彼」を創造し、(男と女に)「彼ら」を創造された、と言われ、単数形と複数形が同時に使われていることに注意してください。神は人間を「神のかたち」に造られたので、彼らを「男と女に」造られたのです。
 神は、ご自身が人間との間に持つ交わりの「影」とするために、人間の世界にも交わり――すなわち男女の交わりを創造されました。
 男女の関係は、神――人の関係を人間世界に反映させて造られたものであって、人が神のかたちに造られたことに基づいているのです。
 夫婦間の愛の交わりは、神と人との間の愛と生命の交わりの影です。キリスト教で結婚が神聖なものとされる理由も、ここにあります(エペ五・三一〜三二)
 このように、ある事柄について神に関する事実に類似したものが、人間世界にあらわされてくることがあります。
 神は、この世界のいくつかの事柄に、ご自分に関する事実を類似的に啓示されているのです。
 ですから、先ほど述べた神に関する事実"神おひとりの内に「神の子孫」全体が見られ、「すべての神の子孫」の内に、おひとりの神のかたちが見られる"に似た事実が、人間世界に見られるようになったとしても、不思議ではありません。
 実際、次に見るように、
 "一人の父祖の内に民全体がみられ、すべての民の内に一人の父祖(のかたち)がみられる"
 という関係が、人間世界に認められるのです。

 まず、このことの前半、つまり、
 "一人の父祖の内に民全体がみられる" から調べてみましょう。たとえばヘブル人への手紙七・九〜一〇に、こう書かれています。
 「レビ(ヤコブの子)でさえも、アブラハムを通じて十分の一を納めたと言える。なぜなら、メルキゼデク(祭司)がアブラハムを迎えたときには、レビはまだこの父祖の腰の中にいたからである」
 「レビ」は、アブラハムから四代目の人で、アブラハムよりずっと後に生まれた人物です。にもかかわらず、「この父祖の腰の中にいた」と言われています。
 そしてレビは、アブラハムのした行為を通じて、メルキゼデクに一〇分の一をささげたとされています。父祖のした行為は、その子孫のした行為ともされているのです。
 このように聖書では、子孫の一人一人は、その父祖である人物の中に含めてみられています。実際、民族の本質は、その父祖の中にすでにあるのです。
 同様な例は、父祖ヤコブと、その子孫であるイスラエル人との間にも見られます。
 たとえばホセア書一二・四を見てみると、その聖句は多くの場合、
 「彼(ヤコブ)はベテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた」
 と訳されています。しかしこれは原語を直訳すると、
 「・・・・その所で神は私たちに(イスラエル人に)語りかけた」
 です。つまり、ベテルで神がヤコブに語りかけられたのは、そのまま「私たち」、つまりイスラエル人全体に語りかけたことだ、というのです。


神がベテルでヤコブに語りかけられたことは、
イスラエル人全体に語りかけられたことであった
(ホセ12:4)

 父祖に語りかけられたことは、その子孫に語りかけられたことでもあるのです。
 このように、ヤコブという父祖の内に、イスラエル人すべてが見られています。イスラエル人は皆、ヤコブの「腰の中にあった」のです(その他、創世記二八・三、四六・三などを参照)

 また、最初の人類であるアダムとエバの二人は、アダム一人の内に見られた、という事実も大切です。創世記五・一〜二には、
 「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた」
 と記されていますが、ここでは明らかに、アダム一人の内に、人類の最初の男女(アダムとエバ)が見られています。エバはアダムから造られたので、エバの本質はアダムの内にあったからです。
 アダム一人の内に最初の人類が見られていることは、「アダム」というヘブル語が単に固有名詞として人類の始祖アダムをさすだけでなく、単に「人間」を意味することからも、うなずくことができます。
 「アダム」という語は、旧約聖書に約五六〇回も出てくる言葉で、そのほとんどが「人」と訳されています。ですからアダムは、ある意味で人類であった、と言っても過言ではないのです。
 実際アダム一人の内に最初の人類のみか、その後の全人類(の本質) が含まれていたのです。
 英国の大伝道者ジョン・ウェスレーは、説教の中で、全人類はエデンの園で、
 「アダムの腰の中に・・・・あった」
 と言っていますが、これは聖書的な考えです。レビがアブラハムの腰の中にいたように、全人類は、そのときアダムの腰の中にいたのです。このように、
 "一人の父祖のうちに、民全体が見られる"
 のです。

 次に、後半の部分、
 "すべての民の内に一人の父祖がみられる"
 については、どうでしょうか。
 創世記五・三に、
 「アダムは・・・・彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた」
 と書かれています。こうして"アダムのかたち"は、子孫に伝えられていったことがわかります。
 "アダムのかたち"は、以来、アダムのすべての子孫に見られます。実際、第一コリント一五・四九では、私たち人間はこの世に、「土で造られた者(アダム)のかたちを持って」生まれた、と述べられています。
 このように、
 "アダム一人の内に全人類が見られ、全人類の内にアダムが見られる"
 わけです。これを一般的に言うと、
 "一人の父祖の内に民全体が見られ、すべての民の内に一人の父祖が見られる"
 となります。これは一つの大きな原理として、人類を、時空を超えて支配しているものなのです。


アダム一人の内に全人類が見られ、
全人類の内にアダムが見られる。

 ある聖書学者は、このように父祖が民族全体のように見られる思想を、「共同体人格」という言葉で説明しました。
 しかし、もしこの思想に名をつけるとすれば、父祖と民族の一体性という意味で、「民一性(みんいつせい)とでも名づけた方が、日本人にはもっと親しみやすくなると思われます。

 この原理が人類を支配しているために、アダム一人の犯した罪は、全人類に影響を与えました。
 人類は、アダムにおいて一体です。ですから、アダムが不従順によって罪と死の支配する世界に堕ちたとき、全人類もまた、そこに引き込まれました。全人類は、「アダムにあって」罪を犯したのです(ロマ五・一二)
 しかし、アダムが罪を犯したというだけの理由で、その後のすべての人々が「罪人」とされたわけではありません。
 現在も、この世に生きる人々には、その一人一人の内に「アダムのかたち」、すなわちアダムの性質が見られます。
 そのために、それぞれの人がみな罪の性質を持ち、結局すべての人が罪を犯しました。こうしてすべての人が、「罪人」となったのです。


3 「ひとりの人」キリストの義が信じるすべての人に及ぶ

 しかし、聖書は言っています。
 「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです」(ロマ五・一七)
 このように、神のとられた人類に対する救いの方法は、人々を"アダムにおける一体性"から、"キリストにおける一体性"に移すことでした。
 ひとりの人によって罪と死が入ったように、ひとりの人によって義と命がもたらされるのです。
 アダムからキリストにいたるまでの時代にも、地上には数多くの人が生まれては死んでいきました。
 しかしその中に、神の前に完全な義の生活を送った人は、だれ一人いませんでした。聖書の言っているように、
 「義人はいない。ひとりもいない。・・・・すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ロマ三・一〇〜一二)
 のです。
 しかし、キリストはそうした人々のただ中で、"人間にもこのように完璧な生活が送れる"ということを示すかのように、ただ一人、神の前に完全な生活を送って見せてくださいました。
 ですから神は、人がある条件を満たすならば、その人をキリストと"一つの者"と見なし、キリストの義と命にあずからせてくださる、と約束しておられるのです。
 その条件とは、キリストに対する信仰(信頼と従順)です。
 私たちはみな、アダムとの連帯性を持って生まれてきました。私たちにはアダムの血が流れています。
 しかし、キリストとの連帯性は、生まれつき持っているわけではありません。私たちはキリストに対する信仰によって、キリストとの連帯性を得ることができます。そしてキリストとの一体性に移行することができるのです。
 つまり、人がキリストを信仰することによって、神はその人をキリストと一つの者と見なし、キリストの故にその人の罪を赦し、キリストの持っておられる「永遠のいのち」にあずからせてくださいます。
 私たちは、信仰によってキリストと一体になり、キリストの十字架の死、および復活とも一つになります
 キリストの十字架死は自分の古き人の死となり、キリストの復活は自分の新しき人への復活となるのです。私たちはキリストの十字架死と復活の時、
 "キリストの内にいた"
 と見なされます。そして今は、
 "私たちはキリストの内におり、キリストは私たちの内におられる"
 という関係に入れられているのです(コロ三・一〇、一・二七)


信仰によってキリストとの連帯性を
持つ者はみな、あのキリストの十字架の死
        と復活の時、”キリストの内にいた”と見なされる。  
バロキオ画

 "私たちがキリストの内にいる"ことによって、神は私たちを見るときにキリストの義を見てくださいます。
 また、"キリストが私たちの内におられる"ことによって、私たちは日々キリストに似た者に変えられていくのです(二コリ三・一八)
 ですから「罪の赦し」も、「義認」も、「新生」も、「聖潔」(聖化)も、「栄化」(栄光のからだに変えられること)も、またその他あらゆる祝福も、すべてはキリストと一つの者とされることによるのです。
 もちろん、このことはキリストとの区別がなくなるまで一つとなる、ということではありません。キリストと人々との区別は、どこまでも存在します。
 しかし、ちょうど夫婦が一心同体であるように、キリストとキリスト者とは一心同体となり、愛と生命の交わりによって、両者は一つとなるのです。


 このように、民一性の原理により、ひとりの人アダムの罪と、死が全人類に及びました。
 しかし、同じく民一性により、すなわち私たちが信仰によってキリストとの連帯性を得ることにより、キリストの義と命はすべての信仰者に及ぶのです。

                                 久保有政(レムナント1994年8月号より)

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