信仰に関するメッセージ

リバイバルのために用いられるもの
真理と働き人と聖霊について


韓国のクリスチャン200名以上と共に、長野県飯田市
において聖会が盛大に行われた(1994年)。
会場は600名以上の人々でうめ尽くされた。
写真は久保有政師(中央)と、韓国語通訳(左)。

 ハレルヤ。この幸いな時を感謝いたします。
 今日私たちは、イエス・キリスト様の見えない霊により導かれ、ここに集いました。
 イエス様は、私たち一人一人のうちに、私たちの人生に、大きなことをなそうとしておられます。また私たちのそれぞれの家庭に、私たちが住んでいる地に、大きなことをなそうとしておられます。
 それは福音のリバイバルです。リバイバルには、二つの意味があります。
 一つは、信仰の炎が再び燃え上がることです。それは信仰の回復です。
 もう一つは、魂の大収穫です。新しく魂が救われて、次々に永遠の命に入ることです。
 リバイバルは、クリスチャンが信仰に燃やされる回復の時であり、また神様を知らずに滅びに向かって歩んでいる人々が、次々に救われていく大収穫の時なのです。


キリスト教は全世界の人々のための神様の教え

 私たちの救い主イエス・キリスト様は、今から二千年前、東洋の一角、中東に降誕されました。
 そこはアジア大陸、ヨーロッパ大陸、またアフリカ大陸の接点となっている地域です。
 アジアには、黄色人種またはモンゴロイドと呼ばれる人々が住んでいます。
 ヨーロッパには、白色人種またはコーカソイドと呼ばれる人々が住んでいます。
 アフリカには、黒色人種またはニグロイドと呼ばれる人々が住んでいます。
 イエス・キリスト様は、これらアジア・ヨーロッパ・アフリカの三つの地域がちょうど交わる場所――パレスチナに降誕されました。イエス様は、全世界の中心に降誕されたのです。
 ですから、キリスト教は西洋の宗教ではありません。東洋の宗教でもありません。
 それは全世界の人々のための神様の教えです。全世界の人々のための福音、良き知らせ、グッド・ニュースなのです。
 イエス様が、公に人々に伝道された期間は、わずかに三年半でした。
 イエス様は三〇歳の頃に伝道を始められました。そして伝道を始めて三年半の後には、十字架の死をとげられ、また三日後には復活し、四〇日地上におられてから昇天されました。
 その三年半が、世界を変えました。
 それはイエス様のご生涯が、天地の造り主である神様のご計画によるものだったからです。また、イエス様は今も生きておられるからです。
 私たちが心の中心にイエス様をお迎えするなら、私たちの人生は間違いなく祝福に満ちたものに変えられます。


キリスト教は世界を一周する

 キリスト教は、パレスチナに始まったあと、はじめローマ帝国に伝えられました。
 次に、ヨーロッパに伝えられました。
 次にキリスト教の中心は、西に移ってイギリス、またさらに西に移ってアメリカに渡りました。
 今では、キリスト教の中心はアメリカをはじめ、南米のアルゼンチン、韓国など、太平洋の沿岸諸国に及んでいます。
 共産主義を続けるお隣の中国でさえ、今クリスチャンが一億人近くいると聞いています。
 さらにアフリカ大陸においても、リバイバルが進んでいて、クリスチャンが急速に増えているとのことです。
 キリスト教の中心は、パレスチナに始まり、その後西へ西へと移って、今や世界を一周しようとしているのです。
 じつは、この西まわりのキリスト教とは反対に、東まわりのキリスト教というのもありました。これも重要なのですが、それはまたの機会にお話ししましょう。
 パレスチナでも、すでにリバイバルが始まっています。ユダヤ人の中に、クリスチャンが増えているのです。
 彼らはメシヤニック・ジューと呼ばれています。ついこの間も、ユダヤ人のクリスチャンであるメシヤニック・ジューと、アラブ人のクリスチャンが、合同で数千人規模の大集会を野外で持ちました。
 クリスチャンには平和があるのです。兄弟愛があるのです。
 今や、福音の炎は、太平洋の沿岸諸国で最も燃え上がっています。私たちはこの流れに取り残されてはなりません。
 日本にも、かつてクリスチャンが多かった時代がありました。今から四五〇年前にフランシスコ・ザビエルが日本で伝道したとき、クリスチャンの数は非常に多くなりました。
 ある学者の計算によれば、当時日本のクリスチャンの数は、総人口の七%に及んだといいます。日本でも、再び福音の炎が燃え上がらなければなりません。


くすしい救い

 私は一七歳の時に、イエス様を救い主として信じました。
 それまではイエス様のことを全く知りませんでした。しかし、クリスマスが近くなったある日、近くの教会でクリスマス伝道集会が持たれました。
 私もチラシをもらいまして、そこへ行ってみました。アメリカのクリスチャンの高校生たちが、美しい讃美歌を歌っていました。
 続いて、聖書の話がありました。その中で私は、イエス・キリスト様の十字架の話を聞きました。
 私はイエス様が、私の罪のために十字架にかかってくださったことを知りました。あの十字架と復活は、私が罪を赦され、神様の前に義と認められ、永遠の命を得、神の子とされるためであったことを知りました。
 それは私が初めて聞いたイエス様の話でした。私は初めて教会に行ったその日に、イエス様を自分の救い主として心に受け入れました。
 以来私は、一度もそれを後悔したことがありません。イエス様は常に、私の人生を良いものにしてくださったからです。
 たとえ辛いことに出くわしても、それを乗り越える力を与えてくださったのです。今私たちがこの日本で福音を聞けるとは、何という幸いでしょうか。
 私の家内は、学生時代に、肺浸潤という病気にかかりました。レントゲンをとってみると、肺に影が映っていたのです。
 すぐに入院と言われたのですが、病室がなかったので、しばらく家で寝て待っていました。ところが、何日かしてもう一度レントゲン検査を受けると、影がなくなっていました。
 医者は、入院の必要はないと言ってくれました。肺浸潤はそんなに早く治るものではないと聞かされていましたので、家内や家族は意外な結果に大変驚き、ほっとしました。
 じつは、あとで知ったのですが、クリスチャンの友だちが彼女の病のいやしのために祈ってくれていたのです。
 家内は、そのときはまだクリスチャンではなかったので、それを神様のみわざだとは思わなかったようですが、クリスチャンになった今は、それが神様のみわざだと信じています。
 イエス様を信じると、ときおり私たちの想像を越えるような出来事が起きます。私が伝道者になったことでさえ、私にとっては想像を越えたことだったのです。
 しかし主が導かれたので、今私は神様の恵みをあかしする者となっています。


リバイバルは奇跡ではない

 聖書を開いてみましょう。新約聖書ヤコブの手紙五章七〜八節を、お読みしたいと思います。

 「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られるまで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです」。

 私は長い間、リバイバルというものを何かの奇跡、あるいは奇跡的なものと考えていました。
 確かに神様は奇跡をなさいます。先ほど言った私の家内の病がいやされたことも、奇跡です。
 また今日、世界中で神様はクリスチャンの祈りに答えて、病をいやされたり、不思議な御わざをなさっています。
 しかし、一九世紀のアメリカの大リバイバリストで、チャールズ・フィニーという人がいました。神様はフィニーを豊かに用いられ、彼を通して各地にリバイバルの炎を燃やされました。
 しかし彼は、リバイバルは奇跡ではない、と言っています。
 リバイバルの時には様々の奇跡が起きることがあります。また、リバイバルに先だって奇跡が起きることもありますが、リバイバル自体は奇跡ではないのです。
 奇跡とリバイバルは別のものです。チャールズ・フィニーは言っています。
 「リバイバルは、正しい方法を適切に用いるなら、当然起こる」。
 多くの人は、信仰が進み福音が拡大することは、何か特別な出来事だと思っています。
 通常の因果関係では計り知れないものだとか、人の働きとリバイバルは関係がないとか、用いる手段が結果をもたらすのではないとか、いうのです。
 しかし、これほど教会にとって危険な考えはありません。
 たとえば、誰かが農夫のところに行って、麦の種蒔きについて説教をして、こう言ったとしたらどうでしょうか。
 「ああ、お百姓さん。収穫を得ようとして耕したり、種蒔きをするのはよくありません。収穫は神様がお与えになるんです。神様は主権者でいらっしゃいますから、収穫は神様の気が向いた時だけ与えられます。
 人間が働くことは、神様のみわざを邪魔することです。神様の主権をおかすことです。あなたが働くのは良くありません。あなたが働いても、それは収穫には何の関係もありません」。
 もし農夫がみなこの言葉を信じたら、世界中が餓死してしまうでしょう。
 農夫は、自然の法則に従って土地を耕し、種を蒔き、害虫を排除したり手入れをしたりしながら、収穫を待ち望みます。そうした農夫の「働き」があるのです。
 そうした働きを祝福して、神様は雨を降らし、太陽を上らせて、やがて収穫を与えてくださいます。人間側の働きと、神様の側の働きがあるのです。どちらが欠けてもいけません
 リバイバルも同じです。私たちは収穫をもたらすために、働く必要があります。そうした働きを祝福して、神様は秋の雨を降らし、春の雨を降らし、太陽をのぼらせて、大地の豊かな収穫をもたらしてくださるのです。
 ですから、リバイバルは、私たちの働きと関係なく起こるのではありません。神様の気が向いたときだけ与えられるものでもありません。ただ待っていれば与えられるものでもありません。
 リバイバルは、農夫が働いて収穫を得るのと、同じ原理に基づくのです。リバイバルは正しい方法を適切に用いて私たちが働くなら、神様からの祝福を受けて、当然、起こるべくして起こるのです。


キリスト教時代における二度の雨期

 この「秋の雨と春の雨」は、別の訳では「前の雨と後の雨」と訳されています。
 パレスチナには、二度の雨期があります。秋と春です。
 人々は秋の雨の時に種を蒔きます。また冬を越して、春がやってくると、穀物が成長しますが、春の雨は穀物を実らせるので、そのあとに収穫をしました。
 ですから秋の雨は「前の雨」、春の雨は「後の雨」と呼ばれるのです。
 キリスト教の二千年に及ぶ時代においても、二度の雨期があります。
 「前の雨」は、初代教会の時代に降った聖霊の雨です。それにより、イエス・キリストの福音の種が全世界に蒔かれ、成長し始めました。
 その後、一時、キリスト教は冬の時代を迎えました。しかし二〇世紀に入って、再び聖霊の雨が降り始めました。
 この「後の雨」は、今や穀物を成長させ、実らせ始めています。大収穫は間近です。
 しかし、豊かな収穫をもたらすためには、働きを怠ってはなりません。正しい方法を適切に用いなければなりません。


リバイバルのために用いられる三つのもの

 神様がリバイバル――魂の大収穫のために用いられるものは、三つあります。
 第一に、真理です
 神様は人々を回心させるために、ある手段をお用いになります。その手段とは真理です。
 私たちは人々を回心に導き、神様のもとへお連れするために、真理を伝道の手段として用いなければなりません。
 神様は天地の創造主です。神様は私たち罪人を救いに導くために、ひとり子イエス・キリスト様をこの地上に遣わされました。
 イエス様は私たちを愛し、自ら十字架の苦しみを受けて、私たちの罪をあがない、救いの道を開かれました。そして復活して、私たちに永遠の命の確証をお与えになったのです。
 これが、私たちの用いるべき真理です。その真理は、私たちが「聖書」と呼ぶ書物の中に、あますところなく語られています。真理には、人を救う力があります。
 第二に、働き人です。イエス様は、「収穫は多いが働き人が少ない」と言われました。
 農夫が収穫を得るためには、土地を耕さなければなりません。種を蒔かなければなりません。手入れをしなければなりません。刈り入れをしなければなりません。
 そうしたことをしないで、「おお神様、収穫を与えてください」と祈るだけではダメなのです。
 私たちも魂の収穫を得るためには、祈るとともに、働かなければなりません。人々の心を耕し、福音の種を蒔くのです。
 そして人々に救いの証しをし、聖書の話をして、人々の信仰を成長させなければなりません。決心に導かなければなりません。
 私たちはあらゆる困難をも「耐え忍びながら」、福音伝道に励むのです。
 第三に、聖霊です
 神様は聖霊を送って、人々の心に回心を迫られます。あるときは、心の中にささやかれる「静かな細き声」として、またあるときは、圧倒的な輝きをもった光として、聖霊は人々の心に語りかけられます。
 人々に聞く耳があるとき、聖霊は働き人の語る言葉を、最も適切な形で心に浸透させてくださるのです。
 ちょうど雨が、地面をかため、土地の養分を穀物に吸わせるように、聖霊は、働き人の語る真理を人の心に吸わせるようにされます。
 このように、リバイバルのために神様がお用いになるのは、真理と、働き人と、聖霊です。
 私たち働き人が、真理という正しい手段を適切に用いて伝道するところに、聖霊が働かれるのです。
 そして聖霊は、人々を神様と救い主キリストに出会わせ、その魂を救ってくださいます。
 リバイバルという魂の救いが起きるためには、真理と働き人と聖霊の三つが揃わなければなりません。
 この三つが互いに強く結びつきながら働きが進められるところに、リバイバルは当然、起こるべくして起こるのです。


真理と働き人と聖霊

 真理と働き人と聖霊について、たとえを用いて説明してみましょう。
 たとえばある人が、高台の上、崖のふちに立って、前に広がる雄大な景色を眺めているとしましょう。
 ふと彼が横を向いてみると、少し離れた所に、よっぱらいがフラフラと崖のふちにやってきます。よっぱらいは、今にも落ちそうになります。
 そこで彼は、よっぱらいに向かって「あぶない!」と叫びます。
 その言葉を聞くと、よっぱらいはさすがにハッと気がついて、あとずさりして、恐怖に身を震わせながら崖のふちから身を遠ざけます。
 「ああ、あぶなかった」――下手をすれば彼は、崖から足をすべらせて数百メートル下まで落ちていたかも知れないのです。いっぺんで酔いがさめた彼は、お礼を言って、家に帰ります。
 家に帰ると、彼は「ああ、自分が助かったのは、あの人が声をかけてくれたからだ」と思い、声をかけてくれた「人」のおかげだ、と思うようになります。
 しかし、しばらくして彼は「ああ、自分が助かったのは、『あぶない』という言葉によったのだ」と気づいて、助かったのは「言葉」のおかげだ、とも思うようになります。
 さらに、彼は思います。
 「そうだ、自分が助かったのは、自分が声をかけられた瞬間にハッと思うことができたからだ」。
 もし、あの瞬間にハッと思うことができなかったならば、彼は崖の下にまっさかさまに転落していたに違いないのです。「もしハッと思わなかったら・・・・」――それに気づくと、彼は思わず祈るのです。
 「ああ神様、私を救ってくださってありがとう」。
 このよっぱらいは、声をかけてくれた人、「あぶない!」という言葉、またハッとすることができたこと、これら三つのことがあったから救われました。
 人々が罪と滅びから救われ、神の救いに入るときもそうです。
 人々が神の救いに入るためには、「あぶない!」と声をかける人が必要です。
 また「あぶない!」という言葉、すなわち真理を伝える言葉が必要です。
 またハッと気づかせ、本心に立ち返らせる聖霊の働きが必要なのです。
 みなさん、多くの人々は罪と滅びの道を歩んでいるのです。人々は今や崖っぷちに近づいています。イエス様は、言われました。
 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そしてそこから入っていく者が多いのです(マタ七・一三)
 私たちは人々に、「あぶない」と声をかけるべきではありませんか。真理の言葉を伝えるべきではありませんか。


真理の語られるところ聖霊が働かれる

 ある無神論者がいました。
 彼は「神なんていない」と言っていました。その人に、あるクリスチャンが伝道しました。クリスチャンは言いました。
 「神は存在される。私たちはみな罪を犯した。罪の支払う報酬は死であり、滅びである。しかし神は人を愛し、ひとり子キリストを遣わされた。キリストを信じる者は誰でも救われて、永遠の命を与えられる」。
 無神論者は、「いや、そんなことは信じない」と言いました。しかしクリスチャンは言いました。「でも、聖書はそう言っている」。
 無神論者は、「何がどう言おうと関係ない」と言いました。クリスチャンはそれでも、「でも聖書はそう言っている」と言いました。
 「とにかく僕は信じない」と無神論者は言いました。「でも聖書はそう言っている」――クリスチャンは繰り返しました。
 「聖書はそう言っている」――この言葉は、無神論者の心に焼き付きました。それは、逃れられない真理の言葉として、彼の心を圧迫し、回心を迫ったのです。
 真理が語られるところ、聖霊が働かれます。この無神論者は、やがて回心して、イエス・キリストを救い主として信じました。私はこの証しを、本人から聞きました。
 私たちは、働き人となって、真理の言葉を語っているでしょうか。農夫は、後の雨を待ち望みながら、日々、畑に出て働いています。
 私たちも後の雨である聖霊を期待して、日々祈りながら、外に出て伝道の働きに励むのです。それは主の来られるのが近いからです。イエス様は言われました。
 「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます」(マタ二四・一四)
 時は迫っています。これから私たちは、忙しい収穫の時を迎えようとしているのです。
 農家の方は、農繁期の忙しさをよく知っています。そのときは家族総出で、朝から夜まで働かないと追いつきません。みなさん、これから私たちは忙しくなります。


神様に信頼して働きに励もう

 私はこういう話を聞いたことがあります。
 アメリカのある地方で、夏に、カンカン照りの日々が長く続きました。日本や韓国でも、今年(九四年)の夏は雨が少なくてダムの水が渇いて大変でしたが、その地方もその年そうだったのです。
 その村で、人々が教会に集まって雨ごいの祈祷会を持つことになりました。当日、人々が教会にたくさん集まってきました。
 その日は、いつものようにカンカン照りでした。時間ぎりぎりになって、ある少女が汗だくになって、傘を小脇にたくさんかかえてやって来ました。
 すると、それを見た村の長老の一人がこう言いました。
 「なんてバカな子なんだね。こんなカンカン照りなのに、傘を持ってくるとは」。
 少女は答えました。
 「あら、今日は神様に雨を降らしてくださるようお祈りするんじゃなくって?」。
 私たちはこの少女のように、神様に信頼して歩んでいるでしょうか。
 後の雨はやがて降るのです。いや、もう降り始めています。しかし土砂降りになるのは、これからです。
 この雨は地面を潤し、穀物を実らせ、大収穫をもたらします。大収穫は間近です。あなたはこの収穫のために働きますか。
 収穫は多いが、働き人が少ないのです。あなたが働き、真理を伝道の手段として用いるなら、そこに聖霊が働かれます
 そして聖霊が、その人をキリストに出会わせ、神の愛の中に導いて救ってくださいます。神様の愛とその真理のために、また同胞の救いのために、私たちは自分自身をささげましょう。
 神様はあなたの人生を祝福し、あなたを通してご自身の栄光を現わされます。

                                 久保有政(レムナント1995年2月号より)

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