創造論

人間の霊(魂)とは何ですか
「霊」と「魂」は違うのですか?


 霊とか「魂」というと、「幽霊」などを思い起こす人も多くいます。しかし聖書において、「霊」あるいは「魂」は、どのようなものを意味しているのでしょうか。
 両者は、同じものを指しているのでしょうか。それとも別のものなのでしょうか。


「霊」とは?

 まず、「霊」(ヘブル語ルーアッハ、ギリシャ語プニューマ)から見てみましょう。
 「神は霊である」(ヨハ四・二四)
 とキリストは言われました。
 神は「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます」(エペ四・六)かたであり、万物に遍在し、なおかつ万物を超越しておられます。物質に束縛されていません。
 神が「霊」であるから、このようなことが可能なのです。神のこのような存在のしかた、つまりその"存在様式"を「霊」と呼びます。
 岩石や土などは「物質」という"存在様式"を持っていますが、神の"存在様式"は「霊」なのです。
 このように、「霊」は肉眼では見えませんが、存在の一つの様式を意味しています。それは物質とは全く次元を異にしているので、肉体の感覚で捉えることはできません。
 聖書によれば、人間も霊を持っています。ただし人間の場合、霊が活動できる範囲は、その霊が宿る肉体の内に限られています。
 人間の内に霊があることは、どんなことからわかるでしょうか。
 最近、臨死体験(near death experience)の研究が進み、人間は肉体の死後も、自分の肉体を離れて様々の経験をすることが明らかになってきました(レムナント出版刊「聖書にみる死後の世界」第四章を参照)
 また最近、大脳を研究する人々の中に、人間の内には無形の精神(霊)があることを認める人が増えています。
 たとえば、頭脳活動における神経接合期の機能に関する輝かしい発見によって一九六三年にノーベル賞を受賞したジョン・エクレス卿は、公然と唯物論的な考えに挑戦し、人間は肉体組織と無形の精神(霊)との両方からなる、と主張しました。そしてこう語っています。
 「もし人間の自己の独自性が、遺伝法則から説明できないとしたら、また経験から由来するものでもないとしたら、これは一体何から生ずるのだろう。私の答えはこうである。それは神の創造による。それぞれの自我は、神の創造なのである」。
 彼は、人間の内に神の創造による霊があって、それが人間の自我の個性・独自性をもたらしているとしたのです。
 また、カナダの優れた精神病理学者ワイルダー・グレイブズ・ペンフィールドは、頭脳の物質的構造を超えたところに非物質的精神(霊)がある、と唱えています。彼はその著「心の神秘」の中で、
 「(頭脳と精神の)二重構造という仮説が・・・・もっとも理解できるものだ」。
 と述べました。彼もやはり、物質的な頭脳と無形の精神(霊)とが互いに深くかかわり合って二重構造を形成している、としたのです。
 一九八一年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大脳生理学者ロジャー・スペリー博士も、こう述べています。
 「物質的な力、つまり分子や原子の働きからは、私たちの脳のモデルは描ききれない。それは部分のレベルであって、全体的レベルから部分のレベルをコントロールする意識というものを、考えなければならない」。
 彼のいう、全体的レベルから脳をコントロールするこの「意識」というものも、「霊」の考えに非常に近いものとなっています。


霊の働き

 では霊は、人間の内でどのような働きをするのでしょうか。
 聖書によれば、霊は人間にとって生命の座であり、すべての精神活動(心や思い)の主体です。
 人類の父祖アダムは、まず「土」の中の諸元素を用いて肉体が形成され、その後、「いのちの息を吹き込まれ」(創世二・七)て、生きた者となりました。
 聖書では、しばしば霊を「息」になぞらえているので、「いのちの息」とは霊のことと考えてよいでしょう。イザヤ書四二・五にこう述べられています。
 「地の上の民に息を与え、その上を歩む者に霊を授けた神なる主は・・・・」。
 「いのちの息」と「霊」とは同義語と考えてよいのです。
 生命の座は、神から与えられた霊にあります。人の内に霊があることにより人は生き、死ぬと霊は肉体から離れます。
 キリストが一人の死んだ娘を生き返らせた聖書の記事に、
 「娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった」(ルカ八・五五)
 と記されていますが、このように人が「生きている」というのは、人の内に霊があることによるのです。
 また霊は、精神活動(心や思い) の主体でもあります。
 霊のあるところに、知・情・意があります。霊は、「私」という自己意識の場であり、すべての思考、感情、心や思いの源泉です。
 ちょうど空気のあるところに風があり、風の音、風の力が生じるように、霊のあるところに、「考える」「思う」「喜ぶ」「悲しむ」「慕う」「怒る」「決意する」などの精神活動(精神現象)が起こるのです。


特殊な霊について

 このように「霊」は、人間の生命現象や精神活動の主体です。
 しかし聖書を読んでいくと、"人間の自己意識の場としての霊"以外にも、諸種の特殊な霊についての言及がみられます。
 たとえば、「マグダラのマリヤ」は「七つの悪霊」(マコ一六・九)を追い出してもらった女性として述べられており、また、ゲラサ人の地の墓場で暮らしていた「レギオン」は、多くの悪霊につかれていた人として述べられています(マコ五・九)
 このように聖書によれば、人間は自分の固有の霊以外にも、特殊な霊を持つことがあります。
 マグダラのマリヤやレギオンは、自分の内に悪い思いや精神的異常をひきおこす特殊な霊にとりつかれていました。
 また聖書は、「病の霊」(ルカ一三・一一)、「おしとつんぼの霊」(マコ九・二五)といった、病気や肉体的障害をひきおこす霊についても述べています。
 こうした「霊」が病気や肉体的障害をひきおこしているという記述は、決して古代の迷信的な考えではありません。病気をひきおこす病原菌に活力を与えているのは「病の霊」であり、肉体的障害の契機をつくっているのもそうした特殊な霊なのです。
 そのほか、「悟りの霊」、「知恵の霊」、「祈りの霊」、「主を恐れる霊」のような良い霊もあります。これらはみな、ある分野で人間に影響を与える霊です。
 以上述べたように、聖書には特殊な働きをする霊についての言及もあります。しかしふつう「人間の霊」と言えば、生まれつき神から与えられた、人間の固有霊のことです。この霊こそ、人間にとって最も本質的なものと言えるでしょう。


「魂」とは?

 では、「魂」(ヘブル語ネフェシュ、ギリシャ語プシュケー)とは何でしょうか。
 「魂」は、人間の霊的実体の総称です。
 「魂」と訳されているネフェシュやプシュケーという語は、「精神」「思い」とも訳され、また多くの場合、「命」とも訳されています。
 「命」と訳される場合、それはつねに肉体に生命活動をもたらす命を意味しています(神がお与えになる「永遠のいのち」には、決して用いられません)
 つまり「魂」は、「命」「精神」「思い」などから成る人間の実体の総称です。それは人間固有の霊、および精神現象(心、思い)等をもすべて含めた、総合的な霊的実体と解してよいでしょう。
 先に述べたように人間は、複数の特殊な霊を持つことがありますが、ただ一つの魂を持ちます。聖書で「魂」は常に単数形です。「魂」とは、人間の霊、命、心、思いなどをすべて含めた総合的な実体のことだからです。
 ですから厳密に言えば、「魂」と「霊」の間には若干の違いがあります(ヘブ四・一二)。第一テサロニケ五・二三でも、「霊、魂、体」の三つの言葉で人間を表し、霊と魂との間に区別をもうけています。
 しかし、「霊」と「魂」とは全く別のものではなく、基本的には共通しているので、多くの場合はほとんど同義語のように用いられます。たとえば聖書のルカ八・五五には、
 「娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった」
 とあり、肉体から離れていたのは「霊」だとされていますが、創世記三五・一八には、
 「彼女が死に臨み、その魂が離れ去ろうとするとき」
 という言葉が記されています。ここでは、肉体から離れ去るのは「魂」です。このように霊と魂とは、同義語のように用いられることが多いのです。

                                 久保有政(レムナント1995年4月号より)

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