キリスト

「わが神、わが神、どうしてわたしを
お見捨てになったのですか」
と言われたキリストの真意

キリストは、詩篇22篇にうたわれた偉大な救いが
十字架においてなされることを示された


 イエス・キリストは、なぜ十字架上で、あの悲痛な言葉、
 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 を叫ばれたのでしょうか。
 この言葉は、キリストの生涯を記した聖書の四つの福音書のうち、三つに記されており、聖書がこの言葉を、重要なものとして扱っていることがわかります。
 しかしこの言葉ほど、聖書をよく知らない人々の間で、誤解され、まちがって理解されているものはありません。実際、ある人々は言います。
 「キリストは神への信仰を人々に説きながら、いざ自分が十字架上で死を間近にした時、『神よ、どうして私をお見捨てになったのですか』と、神を恨んでいるではないか。この悲痛な言葉に象徴されるように、キリストの死は、一種の敗北であったのだ」。
 けれどもキリストがこの言葉を叫ばれたのは、はたして、キリストが最後の瞬間に神を「恨んだ」からでしょうか。
 またはたして、キリストはこの時、神への信仰を捨てたのでしょうか。あるいはキリストの死は、キリストが神に"見捨てられた"単なる悲惨な横死に過ぎなかったのでしょうか。
 いいえ、決してそうではありません。
 聖書を調べていくならば、キリストがこの言葉を十字架上で叫ばれたことの背後には、深い意図があったことが明らかです。
 この言葉には、キリストの十字架の死の意味が何であるか、つまり、キリストの死が単なる偉人聖人の殉教死ではなく、私たちの罪の"あがない"のための死であったことを知る、重要な鍵があるのです。


キリストの弟子たちは歓喜の中に殉教していった

 たしかにキリストの死は、いわゆる"偉人聖人"の殉教の死とは、様相を異にしていました。
 たとえば初代教会の時代に、キリストの弟子であったステパノは、迫害する者たちに石を投げつけられ、殺されようとしているその時にも、「聖霊に満たされて」(使徒七・五五)、その顔は喜びに輝きました。「彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた」(使徒六・一五)と、聖書は記しています。
 そして迫害する者たちが石を投げつけている間、彼は祈り続けて言いました。
 「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
 さらに、ひざまづいて彼が最後に叫んだ言葉は、
 「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」
 という言葉であったのです。


そのときステパノの顔は、
天使の顔のように輝いて見えた。

 また一六世紀に、イタリアの哲学者ジョルダノ・ブルーノが殉教したときも、その殉教のさまは、やはり果敢なものでした。彼は火刑に直面した際に、
 「私は受難者として死に、莞爾として死に就く。私の霊は積薪の火花とともに、天国に昇るだろう」
 と公言したと伝えられます。
 また長崎で、二六人のキリシタンが十字架刑によって処刑された有名な二六聖人殉教の事件のときも、その光景には驚くべきものがありました。
 その二六人を幕府はキリシタンへのみせしめとしたのですが、彼らは救われた者としての平安と、来世への輝かしい希望と、殉教者になり得た光栄に、喜喜として死に就いていったのです。
 そうした彼らの最期を、竹矢来(竹でつくった垣)の外で見ていた群衆は、強く心を動かされ、「竹矢来をこぼち、役人の制止もきかずに処刑場になだれこみ、殉教者の血潮を自分の着物にしみこませ、あるいは血のついた十字架を削りとり、あるいは殉教者の衣を切り取り、あるいは血潮に染まった土を持ち帰った」と伝えられます。
 そして「殉教者の最期を見た人々のほとんどが、キリシタンになった」ということです。


26聖人殉教図(モンタヌス著『日本誌』より)
彼らは、喜喜として死に就いた。

 このように、キリストの弟子であるクリスチャンたちが殉教して死んでいったとき、彼らは、希望と、平安と、さらに喜びさえ持って、死に就いていきました。
 しかし、そうであればなおさらのこと、彼らが主と仰ぐイエス・キリストが死を前にして、あのように悲痛な言葉を叫ばねばならなかったのは、なぜでしょうか。
 そこには、何か特別な理由があったのでしょうか。それとも死を前にして、弟子たちの方が勇敢で、彼らの主であり師であったキリストの方が臆病だったのでしょうか。
 いいえ、そのようなことは到底考えられません。それではいったい何故、キリストはあのように叫ばれたのでしょうか。


キリストの死は単なる聖人の殉教の死ではなかった

 それはキリストの死が、単なる偉人聖人の"殉教"の死ではなかったからです。
 殉教していったクリスチャンたちの場合、死は、天国に行くことであり、神のみもとに行くことでした。死は、クリスチャンにとっては神と共になることであり、神の祝福と慰めにあずかることです。
 しかし、キリストの十字架の死は、そうした死とはまったく異なっていたのです。キリストの十字架の死は、神から無限に引き離されることであり、神から無限の遠きに追いやられることでした。
 キリストの十字架の死は、すべての人々の罪を背負い、人々の身代わりとなって死ぬという意味を持っていました。キリストは、
 「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた」(一ペテ二・二四)のです。
 こうして私たちの罪をその身に負われたキリストは、その死の際に、私たちの代わりに神より「捨てられ」、霊的に神より無限の遠きに追いやられたのです。
 キリストにとって死は、天国に行くことでも、神のもとにいくことでも、神と共になることでもありませんでした。
 それは私たちの代わりに、罪人のようにして神から捨てられることであり、神の愛と恵みを遮断されることだったのです。
 イエス・キリストは、
 「わたしと父(父なる神)とは一つである」(ヨハ一〇・三〇)
 と言われたように、父なる神と、存在、および本質において一体なるかたでした。神は、キリストにとってすべての喜び、すべての愛、すべての力の根源であったのです。
 しかし、神とのその一体性を剥奪されるかのように、神は、キリストの死の瞬間に、キリストに対して無限に「遠く離れた(詩篇二二・一)かたとなられたのです。
 その時、キリストのお心には、ちょうど生木が裂かれるような痛みが、走ったに違いありません。
 祝福と喜びの根源である神から無限に引き離される――このことが、いったいどのようなことなのか、想像がつくでしょうか。
 私たちすべての人は、たとえ善人であろうと悪人であろうと、常に、神からの恵みを受けて生きています。
 「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて」(マタ五・四五)くださっているからです。
 私たちはどんな人でも、また、その人が気づく気づかないにかかわらず、神からの恵みを常に受けています。私たちの生命を支え、育み、守っておられるのは、実に神なのです。
 このように私たちが、いつも神からの恵みによって生きているのだとすれば、それを遮断され、まったく受けられなくなることは、いったいどのような状態を意味するのでしょうか。
 いわゆる「地獄」とは、消えない火が燃えさかっている場所とか、永劫の苦しみの場所とかいうことより、その本質的な意味は、神からの恵みが全く遮断された場所ということなのです。
 「地獄」とは、神の恵みのない所であり、また、神がおられない場所ということです。それゆえに「地獄」は、永遠の死と、苦しみの場所なのです。
 「地獄」とは何なのかということに関するこのような説明を、あるクリスチャンになったばかりの人が聞きました。その人は、その時それを聞いて、「なるほど」とは思いましたが、それ以上の思いは持ちませんでした。
 しかし何か月かたった後、その人はもう一度、同じような話を聞く機会がありました。そしてその時は、その人は地獄の恐ろしさというものに身震いし、鳥肌をたてたのです。
 その人は、クリスチャンになってからの何か月かというもの、自分が生きているのは神の恵みによること、また、自分はひとときも、神の恵みと愛を離れては生きていくことはできないということを、実感するようになっていました。
 そのような思いは、クリスチャンになる以前は、考えられないことでした。以前は、自分が生きているのは誰によるのでもなく、言ってみれば、ただ"偶然に"ここに自分が存在している、ということに過ぎなかったのです。
 しかし今や、その人は神の恵みを知るようになりました。そして神の恵みが全く取り去られてしまうこと、また、神の一切の祝福が遮断されてしまうということが、どんなに恐ろしいことであるかを思って、身震いしたのです。
 その人は、"神がおられない場所"が恐怖を意味することがわかるまでに、成長していました。
 一人のクリスチャンにとってそのようであったとすれば、ましてやキリストにとって、神から無限に引き離されることは、激しい痛みであったはずです。
 キリストは、あの十字架上で、ご自分の喜びの根源である神から、無限の隔たりに追いやられました。しかし救いの道は、そのような激しい痛みと、悲しみを通して開かれたのです。


キリストが経験された絶対的悲哀

 このように、キリストは(肉体の)死それ自体を、恐れたのではありませんでした。むしろ、神から引き離されることを恐れたのです。
 たとえ誰かがいなくなっても、神が共におられれば、悲しみも和らぎます。たとえば子が母を失っても、もし神が共におられるならば、その悲しみも、あたたかな御手のうちに包まれるでしょう。「悩みの底に神居たもう」からです。
 しかし、神が遠くに行ってしまったとき、その悲しみは絶対的なものとなります。"絶対に慰められることのない悲哀"というものが、存在するのです。
 ある幼いひとり息子が、病気で父を失いました。その子は、なきがらを抱きしめ、こぼれる涙をぬぐおうともせず、声をあげて泣きました。
 「お父さん、どうしてぼくを見捨てて死んでしまったんだ」。
 「どうして・・・・」、理由はわかっています。しかし、あまりの悲しみのために「どうして」と叫ばざるを得ない。そのように叫んでも、どうなるわけでもないことはわかっている。しかし、あまりの辛さに、「どうして」と叫ばざるを得ない。
 悲しみがあまりに強いとき、その言うにやまれぬ悲しみは、「どうして」「なぜ」という言葉になってあらわれるものです。キリストが十字架上で、
 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 と言われたときの心情も、それに似たものだったに違いありません。言うにやまれぬ悲しみ、キリストの絶対的な悲哀は、絶対的な悲哀のままで、この言葉となったのです。
 「どうして・・・・」、理由はわかっています。人々の罪の刑罰を代わりに受け、代わりに神より捨てられ、罪人をあがなう(救う)ためです。
 それはキリストご自身も望み、また決断されたことでした。しかし、あまりの悲しさ、痛みのゆえに、「どうして」と叫ばざるを得ない。
 最も尊い行為は、最も辛い行為でもあります。また最大の愛を全うするには、最大の苦痛が伴わなければなりませんでした。キリストは、このような激しい苦しみを味わってまでも、私たちのために、救いの道を開いてくださったのです。


これは詩篇二二篇一節の言葉

 しかしこうした事柄以上に、この言葉が旧約聖書・詩篇二二篇一節の言葉であるという事実に、私たちは注意を払うべきです。
 この詩篇は、紀元前一〇〇〇年頃イスラエルの王であり、預言者であったダビデが記したもので、絶望的とも思えるような苦しみの中から救ってくださる神を、賛美したものです。
 この類まれな詩篇の前半は、苦しみの中にある嘆きの言葉であり、後半になると、それが苦しみより救い出してくださる神への賛美と、感謝に変わります。
 「わが神、わが神・・・・」は、この詩篇二二篇の一節、すなわち一番初めの言葉なのです。
 この詩篇は、苦悩の極限というものをあまりにもよく描いており、その深遠かつ単純な詩句は、十字架上のキリストの苦難と、その心情を彷彿させています。
 この詩篇は、あたかもダビデが、キリストに代わって苦難の中にある心情を吐露したと思われるほど、キリストの十字架の苦難を想起させる詩篇です。
 それだけでなく、この詩篇のいくつかの詩句は予言的で、実際に、キリストが十字架にかかられた際に成就しました。たとえば、この詩篇の一八節に記されている、
 「彼ら(敵対する人々)は、私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」
 という言葉は、キリストの十字架のもとで、ローマ兵たちがキリストの着物をくじ引きにした時に、成就しました(ヨハ一九・二三〜二四)
 また詩篇二二篇七〜八節の、
 「私を見る者はみな、わたしをあざけります。・・・・『主(神)に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入なのだから」
 という言葉は、やはりキリストが十字架にかかられた時に祭司長たちが言ったあざけりの言葉、
 「彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(マタ二七・四三)
 において成就しました。
 このように詩篇二二篇は、明らかに、キリストの受難に関する預言的詩篇です。詩篇二二篇は、キリストの十字架の苦難と、そこにおいてなされる偉大な救いとを表していました。


くじ引き、あざけり・・・、そのとき
詩篇22篇の言葉が成就していた。

 内村鑑三師の言うように、キリストはあの「わが神、わが神・・・・」との叫びによって、
 「詩篇二二篇の全体を言おうとされた
 のに違いありません。
 実際、聖書にはキリストが十字架上で言われた言葉が七つ記されていますが、そのうち第四、第五、第六番目の言葉は、詩篇二二篇の言葉、もしくはそれに関連した言葉です。
 まず第四番目の言葉は、「わが神、わが神・・・・」という詩篇二二篇一節の言葉であり、第五番目の言葉「わたしはかわく」は、詩篇二二篇一五節の言葉です。
 そして第六番目の言葉「完了した」は、詩篇二二篇の最後の言葉、
 「彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう」
 の「なされた」に関連して言われたものに違いありません。
 (ちなみに十字架上の第七番目の言葉は、詩篇三一・五の言葉です)


「主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせる」(ビリーグラハム大会)


詩篇二二篇に描かれた壮大な救い

 このようにキリストは、「わが神、わが神」というあの叫びによって、詩篇二二篇の全体を言おうとされたのです。あるいはキリストは、十字架上で詩篇二二篇の一言一言を、心の中で暗唱しておられたのかもしれません。
 それは詩篇二二篇においては、極限の苦悩からの神による偉大な救いが、うたわれているからです。
 まず詩篇二二篇の前半では、苦悩の中にある嘆きの言葉が続きますが、それでもそれらすべての言葉は、なお神への信頼に貫かれています。
 その神への信頼は、詩篇の冒頭の言葉においても、失われているわけではありません。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ言葉は、極限の苦悩におかれた者の悲しみを表している一方、そうした言葉をなお神に向かって叫ぶところに、神への信頼が表されています。
 神を単に「神」と呼ぶのではなく、「わが神」と呼んでいるのは、そこに神への信頼が存在しているからにほかなりません。人は、最も信頼している相手の前でなければ、苦悩を訴えたりはしないのです。
 そして詩篇は続きます。
 「私は・・・・人のそしり、民のさげすみです。私を見る者は、私をあざけります。・・・・しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。・・・・生まれる前から、私はあなたにゆだねられました。・・・・どうか遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。・・・・私を救ってください。」
 次に詩篇の後半に入ると、驚くべき信仰によって、苦悩は感謝にかわり、嘆きは賛美にかわります。
 「あなたは私に答えてくださいます。私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう」(二一〜二二節 刊行会訳)
 この言葉によって始まる詩篇後半は、祈りが聞かれたという確信と喜びによって、偉大な神への賛美がなされます。
 といっても、実際にもう苦悩の中から救い出されたわけではありません。しかし祈りはすでに聞かれ、やがて神は苦悩の中から偉大な救いをなしてくださるとの確信に満ちて語られるのです。
 「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。・・・・地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう」。
 このように、神が苦悩の中から救い出してくださること、そしてその救いを通して、「地の果て果て」の多くの人々が、神の「御前で伏し拝む」ようになることがうたわれています。
 キリストは、ご自分の十字架上での苦難によって、罪と滅びからの解放という偉大な救いが、人々に与えられることを知っておられました。
 また、ご自分の死の向うには、神が用意されている栄光の復活があること、さらに、主に救われた人々が十字架のあがないのわざを、ほめたたえるようになることを知っておられたのです。
 十字架のあがないのわざは、かつて人間が経験したことのない激しい苦難を通して、なし遂げられました。このことをおぼえ、私たちのために「主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせる(詩篇二二・三一)ことこそ、私たちの使命なのです。

                                 久保有政(レムナント1995年7月号より)

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