その他

超能力か神の力か
超能力は人を幸福にするか。


プッサン画『エリコの盲人』(部分)

 現代人の多くは、「超能力」 を求めているように思えます。
 多くの人は、「自分に超能力があったら・・・・」と思い、それを得たいと思っています。また、超能力を持っている人がどこそこにいると聞けば、一目見ようとそこに群がるのです。
 しかし、超能力を求めることは、私たちを幸福にするでしょうか。


サイババによる物質化現象?瞬間移動?

 最近、インドのサイババと呼ばれる人物が、超能力者、また聖者として話題を集めるようになりました。
 サイババは、人々の見ている前で、手のひらを水平にくるくる回したかと思うと、その手の中から突然、指輪を出したり、ネックレスを出したり、聖灰を出したりして、これを信者に与えます。信者は、これをもらうことを大変な光栄と感じ、彼を聖者とあがめています。
 手の中から物を出すこのわざについて、信者はこれを手品とは考えず、「物質化現象」あるいは「瞬間移動」によるものと信じています。
 サイババの超能力によって、何もない虚空から「物質化」して出したもの、あるいは、どこかから「瞬間移動」させて持ってきたもの、と考えているのです。
 こうした超能力は、サイババが神性を有する聖者であると、人々に信じさせるものとなっているようです。
 サイババについて記して最近日本で話題になった『理性のゆらぎ』(青山圭秀著 三五館)という本には、サイババに日本のセイコー社の腕時計を目の前で物質化して与えてもらった、という人の話が出てきます。
 その腕時計は、確かに普通のセイコー・クォーツのように見えたといいます。また、裏側の刻印を写して帰り、セイコー社の人に見てもらうと、通常のものと特に変わらないと言われたとも記されています(一二五ページ)。しかし、これは本当に超能力によるものでしょうか。
 もし、その腕時計が本当にセイコーの時計だとすれば、それは何を意味するでしょうか。サイババはセイコーの工場、あるいは販売店、あるいはその腕時計を買った人から「瞬間移動」させてそこに持ってきたことになり、これは盗みになります
 では、瞬間移動させて持ってきたのではなく、虚空から「物質化」して出現させたのだとすれば、どうなるでしょうか。この場合は、サイババがセイコーの腕時計の海賊版を作ったことになり、やはり不法行為を行なったことになります。
 もし超能力によるものなら、彼はいずれにしても不法行為を行なったことになるのです。しかし、これが"手品"だとするなら、法律的には問題はないでしょう。


超能力への人々の感情を利用した麻原被告

 「超能力」は、たしかに人々の関心を引きつける力を持っているようです。地下鉄サリン事件や、松本サリン事件などの凶悪犯罪を引き起こしたオウム真理教の教祖=麻原彰晃・被告も、人々のこの感情を利用した一人でした。
 彼は、自分は解脱して「空中浮揚」などの超能力を身につけた、と言いました。座禅の足組みの状態でジャンプした時の写真を見せては、その証拠としたのです。
 また彼は、自分の解脱をマンガのビデオにして、自分が空中でずっと浮かんでいられるようになったと宣伝しました。
 しかし、「空中浮揚」と呼ばれたその"超能力"は、実際には座禅スタイルで行なった瞬間的なただの"空中ジャンプ"に過ぎなかったわけです。


麻原彰晃・被告は、座禅スタイルで行なった
ジャンプを写真にとって、「空中浮揚」と言ってみせた。

 ほかにも、彼は信者にしようとねらった人の名前をあらかじめ他の人から聞いておいて、初対面のその人の名前を呼び、その人を驚かせることなどもしました。その人が、
 「えっ、どうして私の名前を知っているのですか」
 と言うようにさせ、自分が名前を知っていたのはあたかも超能力であるかのように振る舞ったのです。また、自白剤を用いてあらかじめ個人の秘密を聞いておき、そのあとにそれを本人に言い当てた、というようなこともしたようです。
 これらは、超能力に対する人々のあこがれを利用して、自分を神格化しようとした悪質な手口と言わなければなりません。
 けれども、問題は単に麻原・被告の手口にあるのではなく、「超能力」という甘い宣伝文句にひっかかりやすい大衆心理にも問題があるでしょう。
 人々は、「超能力がある」といわれる人がいるとそこに群がり、さらに「あなたも超能力を持てる」と言われると、修行をしてそれを得ようとします。超能力を得ればあたかも本当の幸福をつかめるというかのように、超能力獲得のために奔走するのです。
 しかし「超能力」を得ることと、真の幸福を得ることとは、じつは何の関係もありません。超能力を得れば本当の幸福を得られる、というようなものではないのです。
 たとえ、超能力が全くなくても、本当の幸福をつかむことができます。真の神様を知ることこそが、私たちを真に幸福にするのです。


超能力への願望は人を幸福にしない

 超能力への願望というものは、私たちを決して真理に導くものではありません。
 最近、カトリックのあるシスターが本を出しました。彼女はその中で、自分は臨死体験をしたのち、病人への多くの癒しの奇跡をすることができるようになった、と記しています。
 しかし残念なことに、彼女はこれを、あたかも自分のうちに備わった「超能力」によるものであるかのように記しています。
 けれども、私たちはたとえ癒しの奇跡をすることができたとしても、それを自分に備わった「超能力」によるものであると考えてはなりません。それは、自分から出たのではなく、神の御恵みなのです。
 使徒ペテロは、生まれつき足のきかない男を奇跡的にいやしたとき、
 「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒三・六)
 と言って彼をいやしました。それで、いやされたその男は、ペテロの"超能力"を讃美するのではなく、「神を讃美しつつ」歩いたり、はねたりしました。


「イエス・キリストの名によって、歩きなさい」。
ペテロはこの奇跡を、自分の超能力としてではなく、
神の御力によるものとして行なった。
15世紀イタリヤのフレスコ画

 その後、ペテロは人々の前に立って、もう一度言いました。
 「この人がなおって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです」(使徒四・一〇)
 ペテロは、人々がペテロをあがめるようにではなく、主イエスをあがめるように説いたのです。
 キリスト教会でなされる奇跡のみわざも、もし人間の超能力として説かれるなら、それは害あって益なしでしょう。超能力は、人を高慢にするからです。
 たとえ私たちが癒しの奇跡や、悪霊追放等の奇跡を行なうことができたとしても、もしそれが「超能力への願望」によるものならば、神は決して祝福されません。
 私たちクリスチャンは、自分があがめられることを求めるのではなく、神があがめられ、讃美されることを追求する者たちです。
 たとえ奇跡を起こすことができたとしても、私たちは常にそれをイエスの御名によってなし、またイエスとその父なる神に栄光を帰するのです。
 もし、起こった奇跡を自分の超能力によるかのように思うなら、神はやがて遅かれ早かれ、私たちからその力を取り去ってしまわれるに違いありません。
 しかし、常に神に栄光を帰し、感謝するなら、神はますます私たちを祝福して、用いてくださるでしょう。聖書は言っています。
 「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい(コロ三・一七)
 私たちを幸福にするのは、超能力が自分に備わることではありません。そうではなく、神が共におられることなのです。神の御恵みが、私たちを真に幸福にします。
 幸福は人間の超能力からではなく、神ご自身の力から生まれるのです。


私たちの幸福の基礎は神の御恵みにある

 私たちの求めるべきことは、超能力が自分に備わることではなく、神の御恵みが共にあることです。
 イスラエル民族の指導者モーセは、神が共におられたので、八〇歳の時にイスラエル民族を奴隷から解放するために立ち上がることができました。そして多くの奇跡
をなし、イスラエル民族をエジプトから連れ出したのです。
 モーセの後継者ヨシュアは、神が共におられたので、多くの困難を乗り越え、ついにイスラエル民族を約束の地カナンに引き連れることができました。
 イスラエルのダビデ王は、神が共におられたので、殺されそうになった危機を何度も通りながら生き延びることができました。
 彼の子ソロモン王は、神が共におられたので、当時世界最大となったイスラエル王国を繁栄させ、また指導することができました。
 またキリストの使徒パウロは、神が共におられたので、多くの困難を乗り越えながら、地中海周辺の国々を三度にわたって伝道することができました。彼は、回顧して言っています。
 「私の労苦は・・・・多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
 ユダヤ人から"三九のむち"を受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(二コリ一一・二三〜二七)
 しかし、パウロはこうした数々の困難にもめげず、力強い伝道をなし、キリスト教の基礎を人々の間に確立しました。それは神が彼と共におられたからです。
 神が共におられ、神の御恵みがあることこそ、私たちの心を真に喜ばせ、楽しませるものです。それは、他のいかなる能力によっても替えることができません。
 神はかつてモーセに言われました。
 「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせる(出エ三三・一九)
 神は、ご自身を信じ愛する者たちのために、その人生に「あらゆる善を」通らせて下さいます。これこそ、他のすべてにまさるクリスチャンたちの幸福なのです。

                                 久保有政(レムナント1996年2月号より)

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