八咫鏡(やたのかがみ)にヘブル文字? 
        日本の「三種の神器(じんぎ)」の一つ「八咫鏡」に、 
        神の御名を示すヘブル文字が記されている 
        というウワサは、はたして本当か。 
          
         
         八咫鏡とは、古代から日本の天皇家に伝わる神宝であり、「三種の神器」の一つとされるものである。 
         三種の神器とは、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三つをいう。 
         八咫鏡の本物は、伊勢神宮に安置されている。だが、皇居内には、そのレプリカ(複製)がある。 
         八咫鏡を一般の人が見ることはできない。いや、伊勢神宮の神官でも見ることは許されていないし、天皇でさえも簡単に見られるわけではない。 
         しかし、大体の大きさはわかっている。その容器である御船代(みふなしろ)の寸法が古書に記されているからである。それによると、容器の大きさは「内径一尺六寸三分、外形二尺」。 
         つまり、八咫鏡の大きさは直径四九センチくらい、と想像される。 
         じつは、この神聖不可侵とされる「八咫鏡」の裏面にヘブル文字が記されている、という噂が昔からささやかれてきた。 
         その真偽について、私たちは可能な限り迫ってみたいと思う。 
         
         
        明治時代からある八咫鏡ヘブル文字説 
         
         八咫鏡にまつわる噂とは、どんなものがあるのか、それをまず見てみたい。 
         事の起こりは、明治時代、ときの文部大臣・森有礼(もりありのり)が唱えた「神鏡ヘブル文字説」である。 
         それによると森有礼・大臣は、伊勢神宮の八咫鏡の裏面に、ヘブル文字で、 
         「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」(「我は在りて有る者」のヘブル語 出エジプト記三・一四の言葉) 
         と刻まれているのを自分で見たという。 
         その後、昭和になって、日本が太平洋戦争で負けたとき、GHQのある将軍が強制的に八咫鏡を見た、という話もある。 
         またこんな話も伝わっている。 
         戦後、中田重治(なかだじゅうじ)監督の率いるホーリネス教会で発行されていた機関誌(昭和二三年五月一〇日付)に、同教会の生田目俊造(いくためしゅんぞう)牧師が、「神秘日本」と題する一文を載せた。それにこう記されている。 
         「その日、恩師夫人(中田重治監督未亡人)が、いつになく厳かに語られた。まず、 
         『今から語ることは口にも筆にもしてはいけない』 
         と堅くことわって言われるには、きのうA学院(青山学院)のS博士(左近義弼氏)が、突然わが聖書学院に来訪されて、非常に厳かなことを語られたという。 
         宮中の神聖な場所に、古くからご神体と仰がれている鏡(八咫鏡)があった。その鏡の裏にあらわされてあったものが、はじめは模様と見られていたが、それは模様でなく、驚くべきことにヘブル語である事が明らかになった。 
         さあ大変。賢き所の鏡にヘブル語が刻まれてある。ならば、日本においてヘブル語の権威者は誰か、ということになった。そこで選ばれたのがA学院のS博士である。さっそく博士が行くと、極秘裡にその写しを示された。 
         博士はこれは拝見すると、それはまさしくヘブル語であった。・・・・『我は在りて有る者なり』と刻まれてあった。 
         博士は、恐れおののいた。もとより、写真に撮ることも、写すことも、口外も許されないこと。 
         だが、わが恩師はかねてからユダヤ人問題には名高いので、さっそく来て、恩師にだけは、そのおごそかな秘密を打ち明けられた・・・・」(原文はもっと古い言葉だが、一部現代文に直した)。 
         つまり、この話の出所は、青山学院の左近義弼博士である。彼から、中田重治監督、そして中田夫人、生田目俊造牧師へと伝わったわけである。 
         宮原忠という牧師はまた、中田重治師より直接この話を聞いたとも述べている。 
         
         
        日猶懇話会(にちゆこんわかい)の席上で 
         
         昭和二七年頃のこと、元海軍大佐の犬塚惟重を会長として、「日猶懇話会」という団体が結成された。これは、日本とユダヤの関係を研究し、その親善を目指す団体である。 
         ホーリネス教会に属する尾崎喬一牧師も、しばしばこの例会に顔を出していた。 
         昭和二八年一月二五日の例会は、港区のミハイル・コーガンというユダヤ人の邸宅で開かれた。この例会には、皇族の三笠宮殿下も臨席した。 
         この席上で、尾崎牧師が、宮中の八咫鏡にまつわる話をした。すると、三笠宮殿下が、真相を調査してみようと語った。 
         これがまた当時、一つの波紋を投げかけることになった。というのは、やはりこのとき同席していた東京イブニングニュースの支局長が、 
         「神鏡のヘブライ(ヘブル)出所説を三笠宮氏が調査!」 
         と題して、翌日付の同紙にスッパぬいたからである。この記事は、当時たいへん話題になった。 
         この新聞記事の内容は、外国にも伝わったらしい。フランスの有名な東洋学者で、日本神道研究家のジャン・エルベール博士は、日本の八咫鏡のうしろには「我は在りて有る者」を意味するヘブル語が記されているだろう、と述べた。彼は新聞記事の内容を聞き及んだようである。 
         新聞記事によると、三笠宮殿下はこう語った。 
         「・・・・自分で問題の鏡を見ることはできない。なぜならば今日でも、鏡と玉と剣の三種の神器は、皇居内の奥深い聖所から取り出すにはあまりに恐れおおいと考えられており、天皇すらも鏡を見たことがあるとは思われぬので、宮内庁の記述か、口述か、いずれかの報告を基礎にして、自分が調査書を作成することになろう・・・・」。 
         しかし、その後、三笠宮殿下が調査結果を発表したという話は聞かない。 
         一説には、三笠宮殿下はタブーを破って深夜こっそりと八咫鏡の裏を見たところ、噂が本当だったので、恐れおののいて公表をはばかった。だが、殿下は探求心やみがたく、皇室の起源を探るためにあの「オリエント学会」を組織したのではないか、と想像する。 
         これについて、『日本のキリスト伝説』(大陸書房刊)の著者・武内裕氏は、 
         「確かに、噂がウソならウソと断言し、不明なら不明というはずだが、そののち宮(三笠宮)がダンマリを決めているところを察すると、『あるいは?』と思われる。 
         実際、オリエント学会の会員でもあり、三笠宮殿下の知遇を得ている大阪のH氏は、 
         『宮様自身から直接、八咫鏡の噂は本当であると聞いたことがある』 
         と筆者に語ったことがある」(一八三頁) 
         と述べている。 
          
        八咫鏡の実物は伊勢神宮にある。 
         
         
        三笠宮殿下と八咫鏡ヘブル文字説 
         
         実際、三笠宮殿下は考古学者でもあり、そのオリエント研究やイスラエル研究には、並々ならぬものがある。 
         その研究の背景には、やはり皇室の起源に対する強い探求心が働いているからではないか、とさえ思える。三笠宮殿下はヘブル語を自在に話せる方である、という一点をとっても、余程の探求心が働いたのではないか、と思えてくる。 
         「大阪のH氏」は三笠宮殿下の口から、八咫鏡の裏にヘブル文字が書かれているという噂は本当だと聞いたというのだが、一方で、ラビ・マーヴィン・トケイヤー氏の著書には、次のように記されている。 
         ユダヤ人であるトケイヤー氏は、八咫鏡にまつわる噂について、ヘブル語で三笠宮殿下自身に尋ねてみたことがあるという。 
         「はじめ私が三笠宮に会ったとき、伊勢の大神宮に保存されているという八咫鏡のうしろに、ヘブル語の文字が書かれているといううわさは本当かどうか、ということを尋ねてみた。・・・・ 
         三笠宮がそのとき答えたのは、彼自身それを報道した新聞記事の内容をよく知っているということであった。しかし、伊勢の大神宮に現在保存されている神器については、非常に厚い秘密の壁に取り囲まれており、非常に神聖なものであり、非常に神秘的なものであって、三笠宮自身その八咫鏡を見たことはないということであった。 
         また、三笠宮が自分の目で八咫鏡を見ることも許されていない、ということであった。彼の兄である天皇陛下も、また八咫鏡を実際に見たことはないということであった。 
         現在生きている誰もが、八咫鏡を見ることは不可能なのである、ということであった。だから、現在生存している人間であれば、その鏡のうしろにヘブル語が書かれているかどうか確認できるはずはない、ということであった。 
         三笠宮は彼自身、その報道について非常に疑いを抱いている、ということであった。しかし、この問題は、通常の会話の内容にすべきではない、ということであった。 
         この三種の神器に関するすべてのことは、日本民族の厚いタブーによって囲まれている。だから宮廷においても、皇族のだれもが、そのことについては話し合うことはないという答えであったのである。 
         伊勢の大神宮の鏡は、おおいをかけられて、箱の中に納められている。だから、この箱は誰もあけることはできないのである。 
         伊勢の大神宮の遷宮式(せんぐうしき)のとき、それを運ぶ人は、うしろ向きになってその箱を持つ、ということであった。そしてその八咫鏡を納めた箱は、船の形をしている『御船代』であるということであった。 
         つまりその神器は、船によって遠くから運ばれてきた、ということを意味しているのかも知れない」(トケイヤー著『ユダヤと日本――謎の古代史』産能大学出版部刊、一二六〜一二八頁)。 
          
        (上) ユダヤのダビデの星 
        (中) 伊勢神宮の石燈にも"ダビデの星" 
        (下) 元伊勢の真名井(まない)神社石碑 
         
         
        矢野氏が写したという八咫鏡の図 
         
         このように、もし誰かが実際に八咫鏡を見ることができるなら、噂の真偽を確かめられるはずだが、誰も見ることができないという。 
         ところが、その一方で、八咫鏡を見ることができた、と語る人がいる。先の森有礼・文部大臣や、青山学院の左近義弼博士もそうだが、そのほかに、矢野祐太郎氏がいる。 
         矢野氏は、元海軍のエリート将校であり、天皇崇拝の観点から、様々な方面へ神政復古を働きかけた人物である。 
         矢野氏は、皇室の宝である三種の神器の中でも、皇室の氏神を祀る伊勢神宮にある八咫鏡にこそ、天皇の真実の姿を伝えるカギがあると考えた。そして伊勢神宮に、この神宝を拝見させていただけるよう、礼を尽くしてかけあった。 
         その結果、矢野氏の情熱に打たれた当時の伊勢神宮の宮司から、極秘裡に許しを得たのだという。 
         矢野氏は、見ることのできた八咫鏡の裏面の模様を、自分の手で丁寧に書き写した。それが四一ページの図である。 
         矢野氏は、神宝を間近に見、細心の注意を払いながら写し取ったのだという。この写しは、氏の長女が運営する神政龍神会という団体に保管され、しばらくはトップシークレットとして、一切外部には出されていなかった。 
         しかし、やがてこの会の内部で、この写しを三笠宮殿下に渡すようにとの「神示」が下ったのだという。 
         そして、三笠宮殿下にこの写しを渡す役をしたのが、高坂和導(こうさかわどう)氏であった。高坂氏はその経緯について、自身の書物の中にこう書き記している。 
         「この写しを、三笠宮様に渡すようにとの神示が下った。 
         渡すようにと言われても、ものがものであるし、どうにかして確実に宮様ご本人に手渡しする方法を捜していたところ、ちょうど同じ竹内文書の研究に携わる私が、宮様とご面識があることを知ったという。 
         白羽の矢の立てられた私は、お引き受けするとともに、この写しを手にするという幸運に恵まれた」(高坂和導著『超図解・竹内文書U』徳間書店刊、一一八頁)。 
         そして、「神示」で示されたという昭和五五年一月八日に、元皇宮警察署署長であり元関東警察学校校長の仲山順一氏の取り計らいで、高坂氏は三笠宮殿下に対し、無事に写しをお渡しすることができたのだという。 
         さらに高坂氏は、この八咫鏡の写しを三笠宮殿下に渡すだけでなく、思い切って一般の人々にも日本の真実を知らせようと決心。自身の著書『超図解・竹内文書U』(徳間書店刊)の中で、すでにそれを公開している。 
         つまり、この図はもはや秘密のものではなくなっている。今回レムナント誌でもこの写しを公開したわけだが、公開はレムナント誌が最初ではないのである。 
         じつはレムナント誌は、この写しを、別のルートを通して入手した。これは、仲山順一氏が知人にコピーを渡し、それが巡り巡って当誌にまで伝わってきたものである。 
         この写しは、高坂氏の著書にあるものと同じ内容であった。 
         
         
        八咫鏡ヒフ文字説 
         
         八咫鏡の裏面の模様と称するこの写しによると、確かにそこには何かの文字が書かれている。 
         いったい何と書かれているのか。 
         これらの文字の解読については、二つの説がある。一つはヘブル語とする説であり、もう一つは、古代日本の神代(じんだい)文字の一種「ヒフ文字」とする説である。 
         神代文字というのは、漢字や、ひらがな、カタカナが日本で使われる以前にあったと主張されている、日本の古代文字である(ただし神代文字は後世の人々の創作、とする学者も少なくない)。 
         ヒフ文字は、その神代文字の一種とされる。まず、八咫鏡の文字はヒフ文字、とする説から見てみたい。 
         これは、矢野祐太郎氏自身の説である。彼によれば、これらの文字はいずれも右から左に読み、その解読は次の通りである。 
        ●上段の一二文字 
         「アマヒカミキオラカカミニ」 
        ●下段の一八文字 
         「タマツルキヒトリスミラヨカケルモナク」 
        ●円中の七文字 
         「ワレオナルカシ」 
         これを現代文に漢字を交えて書き改めると、 
         「天日神清(あまひかみきよ)ら鏡に 
          玉剣、独り皇(すめら)よかけるもなく 
          吾をなるかし」。 
         その意味は、 
        ●(上段)「天照大神(あまてらすおおみかみ)が世にも 清らかな宝である鏡と」 
        ●(下段)「玉と剣という三種の 神器をお与えになった。天皇は ただひとりと定める」 
        ●(円中)「(この鏡を見るときは) 吾(われ)(天照大神)を見るごとくせよ」 
         というものだという。 
         これは本当だろうか。いや、このヒフ文字説は全くのデタラメであると思われる。なぜなら、たとえば上段部をカタカナに直した解読文を見てみると、「カ」の文字が三か所含まれている。四、九、一〇文字目である。 
         しかし、それらに対応する文字を原文で見てみると、いずれも全く違う形の文字であり、全然一致していない(原文は右から読む)。 
         また、上段二文字目と、下段二文字目は同じく「マ」だが、原文では全く違う文字である。ほかにも、一致しない所が多々ある。これらのことから、ヒフ文字とする解読文は、デタラメと見なければならない。 
         また、ヒフ文字は現在は失われている、ということである。ヒフ文字が現在存在せず、それらがどういうものだったか正確にはわからないというのに、どうして八咫鏡裏の文字がヒフ文字だと言えるのか。 
         神代文字と言われているものは他にもあるが、いずれも八咫鏡の文字には似ていない。そしてなんといっても、神代文字はいずれも縦書きなのである。横書きの神代文字は知られていないし、見たこともない。 
         八咫鏡の文字は横書きだから、それは神代文字とは到底考えられない。これらのことから、八咫鏡ヒフ文字説は受け入れられない。 
         ヒフ文字説は、古代イスラエルとの関係を故意に排除しようとして、国粋主義的観点から創作されたものであるように思える。 
         
         
        八咫鏡ヘブル文字説 
         
         つぎに、八咫鏡の文字はヘブル語、とする説を見てみよう。 
         中央にある円の中に書かれた文字を見ると、確かにそれはヘブル語の文字によく似ている。 
         円の中の上段の文字は、三文字である。「我は在りて有る者」というヘブル語エヘイェ・アシェル・エヘイェ( )の真ん中の語アシェル( thatの意)も、三文字である。 
         一方、円の中の下段の文字は、四文字である。これは、エヘイェ(  I amの意)の四文字に似ている。 
         もし、上段の文字がアシェルで、下段の文字がエヘイェなら、エヘイェを二回読ませて、エヘイェ・アシェル・エヘイェ、すなわち「我は在りて有る者」の意味になる、と言えるかも知れない。 
         だが、これらの文字はヘブル語に似ていると言えば似ているのだが、よく見ると、全く違うようにも見える。 
         アシェルについては、どの文字も少し似たところがあるが、相違点が多く、全く似ていないとも言える。 
         エヘイェについては、ヘブル語アルファベットのヘー に似た文字が二つあるが、あとの二文字は違うようにも見える。 
         というわけで、ここらへんは依然として、ミステリーとして残ってしまう。 
         また、矢野氏は細心の注意を払って八咫鏡裏面の模様を書き写したという。だがヘブル語を知らない彼のことだから、どこまで正確に書き写せたか、という問題もある。 
         それに、八咫鏡は非常に古いものである。若干の傷みや、しみ等もあるであろう。そのために、もとの模様を読みとるのが難しい部分もあったに違いない。 
         現代ヘブル語と、古代ヘブル語のアルファベットの形は若干違う、という問題もある。古代ヘブル語も、地域によってまた違う。 
         これらの問題もあり、この写しの中央の七文字がはたして本当にヘブル語なのかということは、まだ断定できないのが実状である。 
          
        矢野氏が伊勢神宮の八咫鏡を見て書いたという写し。 
        円内の文字はエヘイェ・アシェル・エヘイェ(  
        我は在りて有る者)? それともオール・ヤハウェ( )? 
         
         
         
        中央の円のまわりの文字は? 
         
         では、この中央の円の周辺に記された文字は何なのか。 
         これらは一見、円内の文字とは違うタイプのもののようにも見える。これらは古代ギリシャ語の文字ではないか、という説もある。 
         一説によると、円外の文字はギリシャ語で、「これはたいへん大切なものである。八咫鏡の複製である」と読む。しかし、こう読むためには、多くの文字の書き違いや抜け字等があったと想定しなければならない。 
         また、矢野氏が写したのは伊勢神宮にある本物の鏡であるはずだが、なぜ「複製」となるのか、矛盾もある。 
         さらに、よく見ると円内下段右から四文字目の文字 と、円外上段七文字目とは、全く同じ形の文字である。 
         また、円内上段真ん中の文字(ラ)と、円外下段右から七文字目の文字とは、全く同じ文字であることもわかる。つまり、円内と円外のすべての文字は、やはり同一の言語に属すると考えたほうが適切であろう。 
         左に掲載したのは、現代ヘブル語、古代ヘブル語、古代ギリシャ語のアルファベット表である。この中で左から三番目は、紀元前一〇〇年頃のクムランにおけるヘブル語アルファベットである。これはアラム語の影響を受けた形のものである。 
         これなどを見ると、それ以前のヘブル語アルファベットに比べて、八咫鏡の文字に似たものが、より多く含まれていることがわかる。アラム語の影響を受けたヘブル語の文字は、八咫鏡の文字に、さらによく似ているのである。 
         したがって、はっきりは言えないが、八咫鏡の文字は円内も円外も、古代ヘブル文字が若干変形してできたもののように思える。 
         もし古代イスラエル人――たとえば失われた古代イスラエル一〇部族などが、日本にやってきたとすれば、彼らの持つ古代ヘブル文字は、幾段階かの変遷を経たと考えられる。 
         彼らは祖国を追放されたあと、しばらくアッシリヤにいた。そこでアッシリヤの公用語アラム語や、他の言語の影響をも受けた。また彼らがアッシリヤを出て東に向かったとき、アジア大陸を流浪する中で、さらに他の言語の影響をも受けたであろう。 
         そうした過程で、彼らの古代ヘブル文字は、八咫鏡の文字のようなものに変わっていった、ということは充分考えられることである。しかし、これを主張するにはもっと証拠が必要だから、今はもちろん想像の域を出ていない。 
         また、鏡の中央の円のまわりの文字に、単語間の区切りがないのは、これらがそれぞれ何かの一つの名前だからなのかも知れない。 
         いずれにしても、今後この分野でのさらなる学問的研究が進み、すべてが解読される日が来ることを期待する。 
          
         
         
         
        日本建国の神は聖書の神ヤハウェ 
         
         以上私たちは、矢野氏が八咫鏡を実際に見て書き写したという模様について見てきたが、この模様はじつに謎に満ちている。 
         また、矢野氏による写しは、本当に八咫鏡の裏面の模様なのであろうか。それは事実、八咫鏡なのか? 
         もし事実、八咫鏡なのだとしたら、円内やそのまわりの文字は、はたしてヘブル語なのか。 
         円内はエヘイェ・アシェル・エヘイェ(我は在りて有る者)だ、という説もあるが、円内下段の四文字は、むしろ神の御名ヤハウェを表す神聖四字(しんせいよんじ) 
        にそっくりである。また円内上段の三文字は、ヘブル語で「光」を意味するオール によく似ている[三文字の一番右は英語のBに似ているが、これはヘブル語のアレフ である。ヘブル語の古い書体では、アレフはこのような形にも書いたことが古い文献から知れる]。 
         とすれば円内は、"光なるヤハウェ"あるいは"ヤハウェの光"を意味するのかも知れない。聖書の詩篇三六・九にも、 
         「私たちは、あなた(ヤハウェ)の光(オール)のうちに光を見る」 
         とある。「神は光である」(Tヨハ一・五)。"光なるヤハウェ"は、神鏡に書かれる文字としてふさわしいものである。 
         また、八咫鏡に"光なるヤハウェ"と記されていたことから、日本建国の神は「天照大神」という名で呼ばれるようになったのではないか、という想像も出てくる。 
         つまり、「日の神」「光の神」とも言われる太陽神「天照大神」という神がはじめからいたのではなく、「天照大神」はもともとは聖書の神ヤハウェだったのではないか。それが「天照大神」と名を変えて信仰されるようになった、という推測である。聖書の詩篇八四・一一には、 
         「まことに神なる主は太陽です」 
         とある。この信仰がもとになって、八咫鏡に"光なるヤハウェ"と記され、日本建国の神は「天照大神」の名で呼ばれるようになったのであろう。 
         日本建国の神は、じつは天照大神ではなく、天地宇宙創造の神ヤハウェと思われる。そして天皇は、本来、その神に仕える祭司の役を果たすべきはずの者であった。 
         また、八咫鏡の文字がもしヘブル語ならば、古代の日本人の中にはヘブル語を話す人々がいた、ということになる。そして彼らは、聖書の教える神であるヤハウェを信じ、拝していた。 
         古代日本人はヤハウェを信じ、ヤハウェ信仰を日本建国の柱とするために、八咫鏡の裏にこの文字を記したのであろう。 
         ところが、日本人はしだいに多神教に傾き、ヤハウェ信仰を忘れてしまった。だから私たちは、本来、日本建国の真の神であるヤハウェに立ち帰るべきなのである。 
         いずれにしても、八咫鏡の実物が、日本人また世界に公開される日でも来ない限り、このミステリーに対する最終的な答えは出ないのかも知れない。 
         八咫鏡は、一種のタイムカプセルである。それがもし公開される日が来るなら、日本人にとっての「真の信仰」が明らかにされるであろうが、宮内庁によるタブー視がこれをはばんでいる。 
          
        古代日本人はヤハウェを信じていた。 
         
                                         久保有政著(レムナント1997年10月号より) 
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