信仰に関するメッセージ

主のみもとから来る祝福
主のみもとから流れ来る祝福の時間に触れて生きる。

[聖書テキスト]

 「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません」(使徒の働き三章一九、二〇節)


回復の時が主のみもとから来る

 今日はこの箇所から、「主のみもとから来る祝福」と題して、ご一緒に恵みを受けたいと思います。
 ペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が注がれた後、使徒ペテロは立ち上がってイスラエルの人々に対して言いました。
 「悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは主の御前(みまえ)から回復の時が来るためである」
 と。ある英語訳聖書は、この「回復の時」を、タイム・オブ・リバイバル(time of revival)と訳しています。主の御前からリバイバルの時がやって来る。命のリバイバル、主を知って人々が幸福に満ちあふれる時が来る、というのです。
 「回復の時」というのは、ギリシャ語では、カイロイ・アナプシュクセオースという言葉です。カイロイは時、アナプシュクセオースが回復と訳されています。
 このアナプシュクセオースは、「再び」を意味するアナ、それから「命」や「魂」を意味するプシュケーという言葉から来ています。ですからそれは、命が本来の躍動と充実、また輝きを取り戻す時です。
 それはタイム・オブ・リバイバル、あるいはタイム・オブ・リフレッシング――刷新の時というような意味です。「再び新鮮にする」「再び活気づける時」「再び息づかせる時」です。
 長い旧約時代が終わって、イエス・キリストがこの地上に来られました。それは「回復の時」――タイム・オブ・リバイバル、タイム・オブ・リフレッシングでした。
 また、私たちが今いる教会時代が終わると、やがてキリストの再臨があります。それは二〇〇〇年前の主イエスの初臨にまさる「回復の時」となります。
 私たちの今いる時代は、季節で言えば、冬のようなものです。冬は山々や野原から緑が失われてしまいます。殺伐とした光景が広がります。
 しかし冬は、春の息吹をすでに内側に宿しています。枯れたように見える木々も、よく見ると、はや、芽がふくらみ始めています。
 私の家の庭にあります藤も、もう芽がふくらみ始めています。梅の木や、桜もそうです。冬とはいえ、春の気配が始まりつつあるのです。
 やがて春が来ると、堰を切ったようにあちこちから新芽が生えてきて、周囲は美しい新緑と花々に満ちるようになります。
 「回復の時」が来るとは、そういうことです。この時代にも、またあなたの人生にも、やがて「回復の時」がやって来ます。


イスラエル エズレル平原の花



未来から流れ来る祝福の時間

 使徒ペテロは、「主の御前から回復の時が来る」と言いました。これはじつに深い福音の奥義を述べています。
 私たちはふつう、時間というものは過去から未来へ流れていくものと思っています。
 「自分の過去が悪いから、今の私も悪い。どうせ未来もつまらないだろう」
 と考えるのが、普通の人の時間観念でしょう。過去にひきずられて生きているのが、普通の人の時間観念です。
 ところが、聖書の時間観念は、これとは全く違います。主の御前から回復の時が来る。未来からやって来るものがある。「回復の時」が、未来からやって来ようとしている。
 それは過去にとらわれた未来ではない。確定された未来です。その未来から流れてくる祝福の時間があるんです。


ペテロは、「主の御前から回復の時が来る」と語った。

 聖書は、旧約聖書はヘブル語で書かれました。ヘブル語というのは、じつにユニークな言葉です。ヘブル語では未来のことは過去形で書かれ、過去のことは未来形で書かれる、とヘブル語学者は言っています。
 預言者イザヤの書の五三章などを見ると、それがよくわかりますね。イザヤは、約七五〇年後のキリストの十字架の場面を予言しているんですが、その光景を描写するのに過去形で書いている。
 あたかも、その光景をキリストの十字架のもとで自分が見ていたような書き方をしています。「〜するであろう」というような書き方をしていない。
 「彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(五)
 というような過去形の書き方です。
 「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちと共に数えられた」(一二)
 というような過去形の書き方です。未来のことが過去形で書かれている。つまり、それは確定された未来なんですね。
 過去の延長上にある未来ではない。偶然の積み重ねの延長ではない。確定された未来の事柄に向かって、歴史上の事柄が引き寄せられていくんです。


預言者イザヤは、未来のことを過去形で語った。

 ペテロは言います。「主の御前から回復の時が来る」と。私たちはペテロや、他の弟子たちがどのような時間観念を持って生きていたかを、よく知る必要があります。
 彼らの時間観念は、過去から未来へただ流れていく時間というものではありませんでした。彼らは主の御前から、未来から流れてくる時間というものに、触れながら生きていたのです。


主の御顔から来るもの

 この「主の御前から」と訳されている言葉は、原文では「主の御顔(みかお)(の前)から」(απο προσωπου κυριου)です。神の光り輝く御顔からやって来るものがある。
 ヨハネの黙示録を見ますと、来たるべき新しい天と新しい地では、神の御顔の光が全地を照らしていると、書かれています。そして人々は神の御顔を仰ぎ見ると。
 そして神のみもとからは、「水晶のように光る、いのちの水の川」が流れているとも記されています(二二・一)
 主のみもと、神の御座から、いのちの水の川が流れ出しています。それは時を超え、空間を超えて、信じる私たちの心にまで流れ込んできます。
 未来から流れてくる祝福と命。――信仰とは、この流れに触れることです!
 多くの人は、自分の過去だけを振り向いて、暗い過去を見つめます。しかし、人生にはもう一つの生き方があります。
 それは主の御顔から流れてくる祝福と命、未来から流れてくる「いのちの水の川」に浴しながら生きる生き方です。クリスチャンの生き方とはそれです。
 そういう生き方を知ると、
 「ああ、過去はもうどうでもいいです。神様! あなたが未来から、私の知らない未来から、滝のようにドーッと祝福の時を、リバイバルの時を来たらせて下さい。あなたが与えて下さるものを、私は喜んで受け取ります」
 と言う生き方になります。
 この生き方を知ると、自分の体の中にある時間の流れが、逆向きになります。今まで、自分の内側にある時間は、過去から未来へ流れるものだった。
 それが、主の祝福に満ちた未来へ引き寄せられていく生き方へ変わります。あたかも、未来から時間が流れ込んでくるかのようです。
 そしてその未来から流れてくる祝福と命の躍動が、日々、自分の内側で強くなっていくのを感じる。
 水の流れが変わると、水車も回転の方向が変わってしまいます。そのように、これまでは神に背を向けていた冷たい魂も、いまや主に向かって立ち返って、命にあふれるようになるのです。


主のみもとから、「いのちの水の川」が流れ出ている。
(イスラエル エンゲディの滝)



未来からの時間に生きる

 あなたは、このような生き方を知っていますか。
 過去に生きるのではない。未来に生きるのです。その未来とは、漠然とした未来ではありません。
 主なる神が私たちに約束して下さった祝福の時、回復の時、タイム・オブ・リバイバル、タイム・オブ・リフレッシングの流れに触れながら生きるのです。
 人生で大切なのは、自分の未来を変えるような力、またそういう時間の流れに触れることです。
 仏教では、因果応報(いんがおうほう)といい、悪因悪果(あくいんあっか)、善因善果(ぜんいんぜんか)といいます。悪い過去があれば、悪い未来がある、良い過去があれば良い未来がある。
 そういうふうに、未来は過去によって宿命づけられているといいます。そこには、過去から未来に向かう時間の流れしかありません。
 しかし、キリスト教の時間観念は全く違います。未来に、主なる神が用意されたものがあります。それに向かって、すべてのことが収束していくんです。
 地引き網の中では、魚はあっちに向かって泳いだり、こっちに向かって泳いだりしています。上に向かって泳いでいるものも、下に向かって泳いでいるものもいます。
 みんなが勝手に泳いでいるように見えますけれども、それらすべては地引き網と共に、漁師の手によって岸辺に向かって引き寄せられているんです。
 そして漁師は、網を岸に引き上げてのち、良い魚と悪い魚を選り分けます。
 私たちの歴史も、また人生も、そういうふうに未来のある一点に向かって引き寄せられています。一点に向かって収束していくんです。ある意味では、時間は未来から流れてくるんです。


地引き網の中の魚のように、歴史も人生も、
未来のある一点に向かって収束していく。

 ですから、その未来から来る祝福の流れというものを、とらえて生きる人と、そうでない人とでは、たいへんな差が出ます。
 過去に生きる人と、未来に生きる人とでは大きな差が出ます。お互い、過去に縛られて生きるのではなく、神が用意して下さっているものに生きていきたいものです。


人生の水車が回転を変えるとき

 この使徒の働き三章には、「美しの門」のところにすわっていた「生まれつき足のきかない男」がいやされたという記事が載っています。
 使徒ペテロとヨハネが、その男を見つめて、
 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」(六)
 と言うと、この生まれつき足のきかない男が歩きだしたというのです。いや歩きだしただけではない。跳んだりはねたりしながら、神を讃美しだしたといいます。
 この男には、暗い過去しかありませんでした。この乞食は、その暗い人生のまま一生を終わるはずでした。何の希望もなく、ただ朽ち果ててゆくだけでした。
 しかし、彼に「回復の時」がやって来ました。彼は、ペテロやヨハネを通して、主のみもとからやって来る祝福の時に触れたんです。
 主のみもとから流れ寄せてくる「いのちの水の川」に触れたんです。彼は「来たるべき世の力を味わった」(ヘブル六・五)
 仏教的に言えば、因果応報ですから、この男が生まれつき足なえなのは、悪い業(ごう)が積み重なったゆえです。しかし、福音の世界では、そうした宿命とか運命とかいうものを吹き飛ばしてしまう力があります。
 私たちも、この主のみもとからやって来る祝福の時、未来から流れてくる「いのちの水の川」に触れることによって、起死回生(きしかいせい)、人生の逆転勝利を体験することができます。
 あなたの人生の水車が、回転の方向を変えるのです。


なぜ教会に来るか

 私たちが、教会に毎週集っているのは何故でしょうか。それは人々が神社参りやお寺参りをしているのとは違います。
 私たちは、こうした礼拝や、聖会などを通して、こういう未来からの時間の流れに触れるのです。
 私は、兄弟姉妹であるみなさんと共に高らかに神様を讃美して、また祈っていると、もう嬉しさが魂の奥底からこみ上げてきて、しようがなくなる時があります。
 未信者の方々が見ると、「どうしてこの教会の人たちは、あんなに楽しそうに歌っているんだろうか」と思うかも知れません。
 しかしこの教会には、主の御顔から流れてくる祝福の時、未来から流れてくる「いのちの水の川」があるんです。
 その流れに霊的にタッチすると、私たちの命はリフレッシュされます。二千年前にあの足なえを歩かせたと同じ回復の時の流れ、命の水の川の流れがあります。
 キリスト教というのは、何かの信仰告白をただ唱えていればいい、というものではありません。教会詣(もう)でをしていれば、それでいい、というものではありません。
 大切なのは、一人一人が、この主の御前からやって来る時の流れをつかみ、未来から流れて来る命の水の川に触れることです
 使徒ペテロは、「悔改めよ」と言っていますが、これは自分で、自分の力で回心するということではありません。主の御前から来る時に触れるだけで、自然と悔改めが起こってしまう。その流れに触れるだけで、
 「ああ、今までの自分は間違っていた。今までの自分にはこれが足りなかった」
 と知って、翻然と神に立ち帰るのです。だからペテロは、それをやったらどうですか、と言っているわけです。
 自分の力でふんばって回心するのではなくて、主の御前から来る命の流れに触れると、もう神に立ち帰らずにはいられなくなる
 松沢秀章先生が、かつて不良少年の人生を送っていながら、翻然(ほんぜん)と神に立ち帰って、そののち伝道者になった。それはやはり、主の御前から来るこの祝福の時に触れられたからだと、私は思います。
 この教会には、そういう霊の流れ、また血統ならぬ霊統というものがあります。一人一人が、主のみもとから怒濤(どとう)のように押し寄せてくるその霊の流れに触れるなら、人々の運命は贖われます
 「主は贖(あがな)う者としてシオンに来たる」
 と聖書は言っています。
 あなたはこの霊の流れに触れ、またその流れに乗ったでしょうか。
 海には海流というものがあります。日本の太平洋側には、日本海流(黒潮)というものが南から北に向かって流れています。
 日本海側には、対馬(つしま)海流というものがやはり南から北に向かって流れています。こういう海流は、全世界の海にあります。
 海流に乗ると、船は早く目的地に着くことができます。


海には海流がある。船は
その海流に乗って、早く目的地に達する。

 また、大気にも気流というものがあります。航空機はみな、この気流というものにうまく乗って、早く目的地に着けるように飛んでいます。
 人生にも、霊の流れ、命の流れ、というものがあります。それを見極めて、神の命の流れに触れ、その流れに乗るときに、あなたは祝福の世界へ、命の世界へ、喜びと愛の世界へと導かれるのです。


イエス様に触れる

 ただ「主よ、主よ」と言っていれば、それで祝福の世界へ導かれるのではありません。ただ「イエス様、イエス様」と言っていれば、それで命の躍動する世界を体験できるのではありません。
 名は実体を表すものです。「イエス様」という発音が大切なのではありません。「イエス様」というときに、そのイエス様の実体に私たちが触れているかどうか、イエス様の命に触れているかどうか、が大切なんです。
 私たちに与えられた福音が、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけの空念仏(からねんぶつ)と違うのは、永遠の世界から私たちに流れ込んでくる「永遠の命」というものを体験することにあります。
 そのときに、水車の回転が逆転するように、私たちの心の歯車は方向を変えて、天を目指すようになります。心が、栄光のキリストの世界に結びつけられて、地上にいながらにして、その世界の幸福に生きるようになるのです。
 イザヤ書五九章に、
 「主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている」(一九)
 とあります。この実在にぶつかって神を知る信仰、この巨大な流れに触れるのが、あなたの人生の「回復の時」、タイム・オブ・リバイバルです。
 かつて塚本虎二(つかもととらじ)という人も、そういう実在との出会いを体験した人でした。彼は大正一二年の関東大震災のときに、最愛の夫人を失いました。奥さんは、家の下敷きとなって、一瞬にして亡くなったんです。


塚本寅二

 そのとき、塚本虎二は天をのろったそうです。「神は愛ではない。残酷である。没義道(もぎどう)であると思った、しかし、炎々たる焔、もうもうたる黒煙を仰ぎ見ながら、ペチャンコになった家の前に座して、思い悩みつつあった時に、たちまち、一つの静かなる、細き、しかし強き声が響いた――神は愛なり! と」。
 またこう言っています。
 「私の目から鱗のごときものが落ちた。私は私の両肩から大きな重荷が、地響きして地上に落ちるのを感じた。私に初めて神の愛がわかった。神の愛がわかった。神が愛であり給うのは、人が彼を愛と認めるからではない。神が愛であり給うからである。
 私は生まれ変わった。聖書が生きた書となり、私の書となった。私は自分の中に奇しき力のみなぎるを感じた。私はじっとしていられなくなった。
 前言を翻(ひるがえ)して私は伝道生涯に入った。入るべく神に強要された。かくて今日に至った。私は信ずべき理由があって信じたのではない。神は私が求めざるに、しかり、私が欲せざるに、強(し)いて私に御姿を現わし、私を信仰に入れ給うた」。
 これは、「激しい流れのように来られる」主なる神という実在との圧倒的な出会いです。
 「神とは何ぞや」「神とはかくかく、しかじかである」といった、定義された神との出会いではありません。自分の眼前に現われた生ける神に触れた経験です。
 ひとたび、この神の流れに出会って回復の時を経験すると、人生は大きく変わります。「過去が悪いから現在も駄目だ」と言って嘆いていた人も、一転して神を目指す魂になります。未来の永遠の世界からやって来る流れに乗った、新しい人となります。
 この流れに触れるその場所を、「霊の接触点」といいます。スピリチュアル・ポイント・オブ・コンタクト(spiritual point of contact)です。
 電灯は、コンセントにプラグを差し込まないと、つきません。プラグを差し込むと、電気の流れに接触して、電気が流れ込んできます。
 かつて福音書に載っています長血の女は、主イエスの「衣のふさ」にでもさわれば、自分の病気はきっといやされると信じて、イエスの衣に触れました。それが霊の接触点です。
 肉体の手が触れただけではない。そのとき、彼女は、主イエスの中から流れ出ている命の水の川に触れたのです。主は、
 「わたしの内から力が出た」
 と感じたと言われました。こうした霊の接触点というものを、私たちも持たなければ、本当にイエス・キリストを知ったことにはなりません。


ガリラヤのカナ。
イエスはここで最初の奇跡を行なわれた。



二種類の人間

 主イエスを知るというのは、単に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるようなこととは違います。それは触れることなのです。
 命に触れることです。そのとき、あなたの命の内に、キリストの命が展開し、躍動し始めます。
 主のみもとから流れてくる時に、引き寄せられるように生きる生き方が始まります。この流れは、神の御座から流れ出している「水晶のように透き通った、いのちの水の川」でもあります。神の川とも、聖霊の川ともいいます。
 主イエスは、
 「わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハ七・三八)
 と言われました。これも、同じことを言われたものです。
 主イエスを信じて、神のみもとから流れ出る「いのちの水の川」に触れますと、私たちの心の奥底から、それは「生ける水の川」となって泉のようにコンコンとわき出てやまないのです。
 人間には、二種類の人間がいます。過去から流れる時間に押し流されて生きているだけの人と、本当に未来を所有したいと願って生きている人です。
 過去からの時間に押し流されて生きているだけの人は、神や、宗教には関心を示しません。しかし、本当に未来を所有したいと願っている人は、神を知ろうとします。
 かつてイスラエルに、ダビデという王がいました。彼は人生の中で、数多くの試練に会いました。しかし彼は、神に祈って言いました。
 「わたしは、正しい訴えで御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」(詩篇一七・一五)
 と。今、この地上の人生の中では様々な艱難辛苦(かんなんしんく)、喜怒哀楽、いろいろあるけれども、やがて復活の日に神様の前に立つ時には、神の御顔を仰ぎ見て、その神の御姿に私は満ち足りるでしょう、というのです。
 ダビデは、そうした未来を所有したいと願いました。神ご自身をありありと見あげることのできる日が来るなら、もうそれだけで幸せだというのです。
 現在のことしか考えていない人には、こういう心境というのは、わからないかも知れません。「顔を見ることができれば幸せだなんて、つまらない。おいしいものでも食べていたほうがいい」というかもしれません。
 しかし、私はこの前、若いお母さんが、生まれたばかりの赤ちゃんをあやしている光景を見ました。生まれたばかりで、耳も聞こえず目も見えないというのに、話しかけてあやしている。
 赤ちゃんの顔をいつまでも見ていて、飽きないでいる。もうその顔がうれしくてうれしくてしようがないんですね。
 ダビデは、よく祈って、
 「主よ、御顔(みかお)を隠さないで下さい。御顔を隠さないで下さい」
 と言いました。地上においても、神の御顔をじっと見つめていたい。
 また天上に目覚めるときには、なおのこと主の御姿を見て満ち足りたい――そう願ったのがダビデという人でした。
 私たちに必要なのは、こういう主ご自身を慕い求める信仰ではないでしょうか。そういう人が、本当に主と共に、輝かしい未来を所有できるんです。


霊の接触点

 私たちは、霊の接触点というものを持つと、ときおり電気に打たれたようになることがあります。
 私の家内は、洗礼が「浸礼」ではなく、頭から水滴をかけられる「滴礼」で受洗しました。ところが、その洗礼の水滴が頭の上に注がれたとたん、気を失ってバタッと倒れて、気絶してしまったんです。
 しばらくして、気を取り戻したんですが、びっくりしましたね。あとで「どうしたの?」と聞きましたら、
 「何だかわからないけれども、気を失ってしまった。そのとき、鳩が自分のほうに飛んでくるのを見ました。鳩って、何か意味があるんですか?」
 と聞く。もちろん、そこは室内でしたから、誰も鳩は見ていません。
 ところが彼女は、鳩が自分のほうに飛んできたのが見えたという。彼女はそのとき、信仰に入ってまだ間もない時だったんですが、どうも鳩が、聖書では聖霊の象徴だということを知らなかったようなんです。
 「鳩は聖霊の象徴として聖書によく出てくるんですよ」
 と言いましたら、驚いた様子で、とても感慨深げでした。こんなことがありましたから、私は、主の恵みに触れて「倒れる」という現象を否定はしないんです。
 イギリスを救ったとも言われる大伝道者ジョン・ウェスレーの日記を読みましても、ウェスレーが説教していましたら、聴衆の中で「あっちで倒れる人がいた」「こっちで倒れる人がいた」というようなことが書いてあります。
 中田重治(なかだじゅうじ)先生の集会でも、そういうことがありました。しかし、これは各自が本当に主の恵みに触れて、感きわまって倒れたということで、何かの演出があってそうなったわけではありません。
 「みなさん、手をつないで一緒に倒れましょう」などというものとは違うんですね。主のみもとから流れてくる時に触れて、本当に圧倒されて倒れてしまう人は、いてもかまいませんし、実際いますけれども、そうした現象を売り物にしたり、求めるようにするなら、それは私は嫌いですね。
 倒れるのもいいですけれども、倒れなくてもいいんです。倒れるときは、何もしなくたって倒れます。頭を押さなくても、説教を聞いているだけで倒れますよ。椅子にすわっている人だってバタッと倒れます。
 私はそういう経験を知っています。ダマスコ途上のサウロが突然倒れてしまったような経験が、今でも時々起こります。それはそれで意味のあることです。
 でも、倒れないと特別な恵みがないから倒れなければ、と考えるなら、それは誤りです。『使徒の働き』を読んでみると、聖霊に満たされたというときに、倒れたという人々はあまりいないことがわかります。
 彼らは、意識もはっきりしながら、聖霊に満たされる経験をしている。つまり、倒れる「必要」はないんです。大切なのは、本当の意味で、魂の内で、主のみもとから来る命の流れに触れることです。


預言者エリシャが、
悪い水に塩を投げ入れて泉を清めた
 (U列王2:19−22)  
エリシャの泉(エリコ)



人を生まれ変わらせるもの

 この命の流れに触れると、人間は本当に変わってしまいます。
 ここでペテロが人々に説教していますけれども、ペテロはこの説教の前に、生まれつきの足なえの人をいやしています。
 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」
 と言って、いやしている。何と大胆な言葉でしょうか。使徒の働きの前半は、ほとんどこのペテロの活躍で占められています。
 また、そのペテロのすごさを見て、人々は、
 「病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった」(使徒五・一五)
 と言った記述まであります。「使徒の働き」の中に書かれているペテロといったら、本当にすごい人としか、いいようがありません。
 けれども、では彼は生まれのいい、優れた家系に生まれた人物だったのかというと、そうではありません。生まれつき何かの優れた才能を持っていたとかいうのでもありませんでした。
 ペテロは、片田舎の一介の漁師にすぎませんでした。主イエスの弟子となってからも、失敗ばかりしていました。主イエスにひどく叱られたことだってあります。
 彼は、鶏が鳴く前に主イエスを三度否定して、外に出て男泣きに泣いたこともあります。それが、これほどまでに大胆不敵な人物に生まれ変わっています。
 その秘訣は、どこにあるんでしょうか。彼自身の修養・努力でそうなったんでしょうか。
 そうではありません。ペテロは、主の御顔からやって来る祝福の時、未来から来る神の命の流れに触れたのです。そしてその流れに乗った。
 お互い、人生で本当に必要なのは、この体験ではないでしょうか。


ヤッフォ(ヨッパ)の聖ペテロ教会。ペテロはここで、
亡くなった女性をよみがえらせた。ペテロはしばらく、
この地にある皮なめしシモンの家に滞在していた
(使徒9:43)

 私はかつて、神学生として奉仕していた教会の祈祷会で、牧師に按手(あんしゅ)して祈っていただいて、その後自分で一心不乱に祈っていましたら、まばゆい光を感じて、次の瞬間には魂の内に言いようもない喜びがこみ上げてきたことを覚えています。
 それまでは何時間祈っていても、不安と恐れにとらわれていました。ところが、突如、雲の間に裂け目が生じて、そこから太陽の光が差し込めるように、私の魂を照らしたのです。
 「あっ、神様が共にいて下さる」
 と、つかんだ。 以来、不安は過ぎ去って、平安が満ちました。その平安は、今日も続いています。


一心不乱に祈る

 私たちはときに、一心不乱に祈ることが必要です。いつも上品な祈りばかりしていたんでは、神様に聞いてもらえません。
 美辞麗句を並べた祈りよりも、自分の心の中をさらけ出した単純な祈りのほうが、神様にはよく聞いていただけるんです。
 昔、石井十次(いしいじゅうじ)という人がいました。この人は、明治時代に、一〇〇〇人以上の孤児たちを養ったという人です。マザー・テレサと同じようなことを、明治時代にやったんです。
 この石井十次先生の甥にあたる方が言われるに、
 「石井先生は祈りの人でした。大きな声で、四方八方に聞こえるような声で、方舟館(はこぶねかん)という建物の屋上で、『神様、こうして下さい、ああして下さい』と祈っていました」
 ということです。石井先生は雄叫びして祈った。一心不乱に祈った。だからこそ、一〇〇〇人以上の孤児たちを養えたんだと思います。
 私はなにも、静かな祈りはいけないと言っているのではありませんよ。静かな祈りもいいんです。しかし、本当に何かを求めるときは、一心不乱に祈ることも必要です。
 実在に触れるという経験は、しばしばそういう時に起こります。そういうときに、忽然(こつぜん)と神が現われて下さいます。
 昔、アメリカにD・L・ムーディという有名な伝道者がいました。この人も、深く祈るひとでした。祈る人でしたから、不思議な力がありました。
 ところで、大酒飲みのやくざ者がいて、ムーディはこの男を何とか救いに導きたいと思いました。でも、この大酒飲みは、まず祈るということを知りません。祈らなければ救われない。そう思って、ムーディが男に言いました。
 「おい、あなたが祈ることを覚えたら、私が牛を一頭あげよう。それで祈ってみよ」
 「そうですか、それじゃあ祈ります」
 と言って、「天にまします我らの父よ・・・・」と唱え出しました。ムーディは、
 「違う! そんなのは祈りじゃない。私の知っている祈りは、祈っている間は一心不乱で、人が来ても感じないくらい、神の前に跪(ひざまず)く経験だ。大声出しても祈れ」
 と言いました。
 「それじゃ、もうちょっとやってみよう。どうか神様! 私を真人間にして下さい」
 と言って声を出して祈りだしました。けれども、時々その祈りが途絶えます。
 「おい、どうして途絶える?」
 「祈っていると、もうこのくらいで先生が隣の部屋から『よかろう』と言って、牛が出て来るんじゃなかろうか。牛一頭売れば、またそのお金で酒が飲めますから」
 というわけで、牛ばかりが彼の心にあった。そんな話がムーディの伝記に書いてあります。
 これは私たちにも経験がないでしょうか。祈っているんだけれども、「あれ、台所にかけた煮物がもう吹きこぼれてはいないかなあ」とか、すぐ祈りが中断しないでしょうか。
 まあ、そういうのが私たちです。だからこそ、ある時は一心不乱になって、人が来ても感じないくらい神の前に跪いて、神の命の流れにひたる祈りの時が必要なんです。


神に出会う体験

 キリスト教というのは、神に出会う経験です。実在の神の命に触れる経験です
 今まで「神はどこにあるんだろうか」「どこにもいないさ――no where」と言っていたのが、「見よ、今ここに私と共におられる now here!」と神を経験することです。
 私たちの求めるべきは、何より神ご自身です。神ご自身を求め、得さえすれば、神は豊かにあなたに報いて下さいます。
 私たちに必要なのは、神を瞑想することではありません。神について議論することでもありません。神ご自身から来る命の流れに、あなたの身を置くことです。
 ペテロは、生まれつきの足なえに、
 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう」
 と言いました。「私にあるもの」――ペテロが持っていたものとは、それでした。彼は神のみもとから来る命の流れを知っていたのです。
 昔、中世の時代のことですけれども、トマス・アクィナスという神学者がいました。彼がある日、イノセント二世というローマ法皇を訪ねました。
 ちょうどそのとき、ローマ法皇はたくさんの献金なのか、一人で金銀を数えていました。法皇はあわててそれを隠そうとしたのですが、そのとき、
 「やあ、何をしておられますか」
 というトマス・アクィナスの声がしました。
 「あなたの見ている通り」
 と法皇は答えたので、アクィナスは言いました。
 「法皇様、お隠しになることもありませんが、お金が沢山ありますから、(ペテロの後継者と言われた)法皇様は、かつてのペテロのように『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう』とは、もう言えませんよね」
 と皮肉ったという、有名な話があります。
 私たちにとって一番必要なのは、金銀ではありません。神ご自身です。金銀は無用だ、というのではありません。しかし、金銀以上に大切なものを知っていたのが、ペテロでした。
 その点、賀川豊彦(かがわとよひこ)先生は偉かったと思います。「死線を越えて」という彼の書いた本がベストセラーになって、うなるほどのお金がころがり込んだ。でも、入って来るお金を日々人々に与えてやまず、ご自分は貧しい貧民窟に住んで、貧民と共に生活された。
 それはやはり、主のみもとから来る命の水の川にひたって生きる喜びを知っていたからです。それこそ、また私たちの生き方でなくてはなりません。
 賀川豊彦という人は、幼くして四つ五つの頃にお母さんが死んでしまいましたから、徳島の田舎にある父親の実家にひきとられました。彼は妾(めかけ)の子だったので、そこで非常な冷遇をされました。
 二言目には、「落とし子だ。あんたは敵の子や」と義母に言われながら育ちました。「徳島の空は私に暗く冷たかった」と述懐しておられます。
 因習的な田舎で、それに輪をかけたような生活を送らねばならなかった少年時代は、本当に残酷でした。やがてマヤス先生という、宣教師のバイブル・クラスに出席して聖書にふれて、光を見出しました。
 そして宣教師に愛されて、神学校に入ったものの、ひどい肺病に悩まされました。そののち、豊橋で猛烈な路傍伝道をやりましたが、喀血(かっけつ)して倒れて、死の境をさまよいました。
 しかし不思議な神との出会いを経験して、それから、療養中にある決心をしました。それは、自分は一生見込みのない人間だけれども、どっちみち死ぬなら貧しい人々の友となって死のうと、神戸の貧民窟に入っていったのです。
 そして、そこで貧民と暮らすだけじゃない。彼らの生活を向上させるために努力しながら、伝道しました。また労働者の悲惨な状況を打開して、安心して働ける社会になるよう、ずいぶん貢献されました。
 あるとき、耶蘇教(やそきょう)の講演会と銘打って、伝道会を開きました。
 「私は妾の子です。芸者の子です。日陰者です。しかし、神様は私を愛してここまで育てて下さった
 という話をし始めました。すると、そこに来ていた何人かの芸者さんが感動して、シクシク泣き出しました。彼女たちは、帰ってから他の芸者仲間にもその話を伝えました。
 すると、その芸者たち皆が、「賀川さん、賀川さん」と言って沢山押しかけてきたというのです。それを賀川豊彦先生は、
 「わしのように人気のある者はおらん」
 と笑っておられました。福音書を読むと、取税人や遊女たちもたくさん主イエスを慕って、その近くに押し寄せていたと書いてありますけれども、賀川豊彦先生の生涯もそうでした。
 賀川豊彦先生には、悲しい過去がありました。けれども、(あがな)われた経験のある人には、もう過去なんか、どうでもよくなるんですね。


主のみもとにある未来に生きる

 主のみもとからやって来る祝福の時、回復の時、未来から来る命の水の川にひたることを知ると、ただ主のみもとにある未来に生きることができるんです。
 主のみもとにある永遠の世界に生きることができる。
 みなさん、おわかりでしょうか。私たち信じる者にとって、時間は未来から流れてくるんです。主のみもと、主の御座から流れて来るんです。
 主の御座から流れてくる、水晶のように透き通ったいのちの水の川が、あなたの魂の中に流れ込んでくるとき、あなたは神の人となります。
 未来から流れ来る祝福の時間に生きる、その流れに触れ、それに浴しながら生きていく――それがクリスチャンというものです。
 大切なのは、自分の力で回心することではありません。実在なるお方に触れることです。
 ここに、マイクがあります。このスイッチを入れていないと、マイクは働きません。私が話しても、みなさんは小さい声でしか聞こえないでしょう。
 しかし、マイクのスイッチを入れると、大きな声で聞くことができます。人生も同じです。
 「ああ、自分は今までスイッチが入っていなかった。実在から来る流れを受けないでいた」
 と、まず知ることです。そして、信仰の手を伸ばして、実在なるお方に触れることです。日々、祈りを通して、そのお方と交わるようにするのです。
 人は、こうして大きな世界、命に満ちた世界を知るようになりますと、
 「ああ、今までのスイッチの入っていなかった人生は、何と間違っていたことだろう」
 と思うようになります。そして、この大きな世界、命に満ちた世界から二度と離れたくないと思うようになります。
 これが、ペテロの言っている「悔い改めなさい」「神に立ち帰りなさい」ということです。主のみもとから来る命の流れにふれると、翻然(ほんぜん)と神を愛してやまない人間に変えられるのです。そして今までの自分が間違っていたと気づく。
 今までの自分が間違っていたとわかったから、神のもとに立ち帰るというのではありません。神を知って、その命の流れに触れるとき、ああ、今までの自分は間違っていたと、はっきりわかるんです。そして、その命の流れが嬉しくて嬉しくてたまらなくなります。


イスラエルヤッフォの聖ペテロ教会

 私たちは祈ろうではありませんか。こまごまとした日常のことだけではなく、主ご自身を求める祈りです。
 「神様、私に必要なのはあなたご自身です。霊なるキリスト様、どうか私の内に生きて下さい。昔のように、ありありと私の内にご自身の実在を現わして下さい。
 どうか私が、あなたご自身以外のものを求めることがありませんように。私にとって必要なのは、あなたご自身以外にありません」
 という祈りです。それを毎日祈るようにして下さい。そうすれば、あなたの人生は必ず輝きを放つようになります。
 主ご自身が共におられるようになります。主は、ご自身を求める者と、必ず共にいて下さるからです。

                                  久保有政(レムナント1998年5月号より)

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