比較宗教(仏教とキリスト教)

仏教の「家庭生活」
キリスト教の「家庭生活」

仏教とキリスト教では、家庭生活に関する考え方が大きく違う


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 仏教とキリスト教では、「家庭生活」に関する考え方が、大きく違います。どのように違うのか見てみましょう。


小乗仏教では家庭を捨てなければ仏になれない

 仏教には、大きく分けて、いわゆる「小乗仏教」と「大乗仏教」があります。
 小乗仏教は、大乗仏教の成立以前からある仏教です。大乗仏教は、小乗仏教を批判する人々が、後に起こした仏教です。小乗仏教はおもに東南アジア方面に広まり、「大乗仏教」は、中国や日本等に広まりました。
 最初に、小乗仏教の「家庭生活」に対する考え方から見てみましょう。小乗仏教は、「出家主義」の仏教です。
 「出家」は、文字通り「家(家庭)を出る」ことです。家庭を捨てて、父母、妻子を捨てて、ただ独りになって、修行に専念するのです。
 ですから出家者は、結婚はできません。また結婚していたとしても、妻子を捨て、別れなければなりません。
「出家」は、すべての家庭生活、性生活、またすべての経済行為、商売や生産行為を捨てることを意味します。仏教初期の経典である『スッタ・ニパータ』には、こう書かれています。
「この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない
子を欲してはならない。友人はもちろんである。犀(さい)の角のように、ただ独り歩め。交わり(家庭生活・結婚生活等の交わり)をしたならば、愛情が生じる。愛情にしたがって苦しみが生じる。愛情から災いの生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」
 つまり家庭生活を営むなら、様々の愛情が生じ、執着心が生じ、それが苦しみを生み出すから、涅槃に至ることはできない。
 だから、草原を悠然と歩く「犀」の角のようにただ独り歩み、家庭生活をせず、修行に専心して執着心を捨てよ。そうすれば輪廻の生存から脱して仏になれる、というのです。
 このように小乗仏教は、出家した者だけが救われる可能性を持っている、という教えです。家庭生活を営む者には、仏になる可能性はないのです。
 ただ、仏になる可能性が全くないのかというと、そうでもありません。
 仏教は輪廻転生説に立っていますから、仏教によれば人間は「来世」(来生)で、また別の者に生まれ変わることになります。もしこの世で善行を積み、出家者を経済的に支援したりして功徳を積むなら、きっと来世で良い環境に生まれることができるでしょう。そして自分も、今度は出家者として修行できるかもしれません。そうすれば救われる可能性も出てくる、というわけです。
 その意味では、在家者にも救われる可能性はあると言えます。しかし、結局は出家して家庭生活を放棄しなければ救われない、という原則に変わりはありません。
 これが、大乗仏教成立以前の、仏教の考え方です。


大乗仏教では、"家庭生活を営むにもかかわらず"仏になれる

 大乗仏教の考え方はどうでしょうか。
 小乗仏教が"家庭生活を捨てなければ仏になれない"という教えであるのに対し、大乗仏教は"家庭生活を営むにもかかわらず仏になれる"という教えです。
 シャカの死後数百年たって、紀元頃になると、旧来の小乗仏教の出家主義に不満を覚え、「在家」の者も救われる可能性はないものかと模索する人々が、多くなってきました。彼らは新しい仏教を展開し、経典をつくり、「大乗仏教」を起こしました。
 大乗仏教は、在家の者も仏になる可能性がある、と説きました。彼らの考え方を、もし"山登りのたとえ"で説明するなら、次のようになります。
 だれも登ったことのない山に登るには、最初は登山の専門家が登る必要があります。ちゃんとトレーニングを積んだ登山家が、きちんと装備をして、人跡未踏の山に登ります。
 最初のうちは失敗もあるでしょうが、そのうちに誰かが成功して、先鞭をつけてくれるでしょう。そうすると、あとから登る者は、ずっと楽になります。この"登山の専門家"が、「出家者」なのです。
 ところが出家者たちは、自分の登山ばかりに専心していて、いっこうに登山の素人たち(在家信者)のことを、考えようとはしませんでした。本来なら在家信者も登らせるために、地図をつくったり、山小屋を建てたりすべきなのに、それをやろうとはしなかったのです。
 つまり、大乗仏教が小乗仏教に対して投げかけた批判は、こうです。
 教祖シャカは、まず出家者を山に登らせました。そして出家者が、あとで在家信者も登れる道を開くよう期待しておられたのに、彼らはそれをしようとはしなかった・・小乗仏教は自分本意の独善的思考に陥ってしまって、シャカの根本精神を忘れてしまった、と大乗仏教徒は批判したのです。
 そして、大乗仏教こそシャカの本来の意図に立ち返ったものであり、出家者ばかりでなく、在家の者も登山できるようになった教えなのだ、と主張しました。こうして、在家の者も仏になれるとする教えが、考え出されたのです。
 なお、「小乗仏教」という名は、大乗仏教側が投げかけた貶称(けなし言葉)です。小乗仏教徒自身は、もちろん自分たちの仏教を「小乗」とは呼びません。「上座部仏教」と呼んでいます。
 上座部仏教の人々(小乗仏教徒)は、大乗仏教に対して、鋭い批判を寄せています。
 その第一は、大乗仏教が「非仏説」である、ということです。大乗仏教は、シャカの死後何百年もたってから出てきた新興宗教であって、シャカの説いた教えではない、という批判です。
 第二は、大乗仏教の考え方だと仏教は堕落してしまうということです。
 現に東南アジアのお坊さんたちは、日本の僧侶の多くが妻帯しているのを見て、顔をしかめています。じつは、結婚している僧侶のいるのは、日本だけなのです。
 日本の僧侶の中には、平安時代頃から、すでに人に隠れて妻帯したり、妾を囲ったりする者たちがいました。しかし仏教に身をささげた人々・・空海、最澄、道元、日蓮、源信、法然などは、生涯を独身で通しました。
 一三世紀になると、僧侶として初めて親鸞(浄土真宗の開祖)が、堂々と妻帯しました。それ以来、日本では僧侶の妻帯が広まり、明治以後になると、あらゆる宗派にわたって僧侶が結婚するようになったのです。
 サンスクリット語で「僧侶」といえば、本来は出家した人をさします。しかし日本では、僧侶も在家にとどまるようになりました。
 これは上座部仏教の人々の目から見ると、仏教の「堕落」なのです。しかし日本の僧侶たち自身の弁によれば、彼らは在家にとどまって仏教を信奉することにより、"たとえ在家であっても"仏になる可能性があるのだ、ということを自ら示そうとしている、ということになるわけです。


キリスト教は家庭生活の完成を目指す

 つぎに、キリスト教の考えを見てみましょう。
 小乗仏教は、"家庭生活を捨てなければ救われない"という教えでした。大乗仏教は"家庭生活を営むにもかかわらず救われる"という教えでした。しかしキリスト教はむしろ、"家庭生活の完成"を目指します


キリスト教は家庭生活の完成を目指す

 キリスト教は、この世における生活や「家庭」に、重大な意義を認めるのです。
 神がアダムに、エバをお与えになったのは、「夫婦」をつくるためでした。神が人を、男と女に創造されたのは、両者の間に「家庭」をつくるためでした。
「家庭」は、神がつくられました。聖書にはこう書かれています。
「……それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創世記二・二四)
「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイの福音書一九・六)
 このように、「父母」、またその子どもたちの「結婚」や「夫婦生活」は、すべて神によって、創造されたものです。そのためクリスチャンは、結婚や家庭生活には大きな意義があると主張します。
 もっとも、クリスチャンの中に、生涯にわたって結婚をせず、独身を通す人がいないわけではありません。カトリックの神父やシスターなどは、生涯独身で通します。
 彼らは、自分たちの場合は、家庭を持たずに独身者として神に仕えたほうが、さらに良い奉仕ができると考え、自発的にそうしているのです。家庭生活の大切さを、否定しているわけではありません。
 一方、プロテスタントの牧師や伝道者の場合は、一般に自ら結婚をして、家庭を持ちます。彼らは、家庭をつくることが自分たちにとっても大切であると考えて、そうしているのです。
 どちらの場合も、自発的な意思と、自由な考えによるものです。家庭生活を大切にするということでは、カトリックもプロテスタントも変わりありません。
 キリスト教では、家庭は神の豊かな祝福の宿り得る場である、と考えます。麗しい健全な家庭をつくることは、クリスチャンにとって一つの大きな目標です。
 クリスチャンは、夫婦の完成は神・男・女の三者が、お互いに愛によって強く結ばれ、いわば"三位一体"になることにある、と考えています。
 また、家庭の完成は、神・親・子の三者が、お互いに愛によって強く結ばれ、"三位一体"になることにある、と考えます。
「家庭の完成」は、神が人を創造された目的の一つです。キリスト教は、家庭の放棄ではなく、むしろそれを完成させるべきことを説くのです。
「家庭」は、人類存続の基本単位です。家庭なくして、どうして人類があり得ましょうか。
 真の宗教は、家庭という最も基本的な生活の場にこそ、永続的な幸福を追求するものでなければなりません。家庭は、幸福の獲得を妨げるものではなく、人間として一つの基本的な幸福を建設し得る場であると、クリスチャンは考えるのです。


幸福な家庭を築く

 クリスチャンの考える「幸福な家庭」について、もう少し詳しく見ておきましょう。
 家庭は、夫婦関係と、親子関係から成り立っています。しかし家庭の基本となるのは、やはりまず夫婦でしょう。
 キリスト教は、男女関係や夫婦関係について、両極端の考え方を嫌います。
 一方の極端は、「男尊女卑」の考えです。封建制のように女性を"地位の低いもの"と見る考え方に、キリスト教は賛成できません。
 夫も妻も、神の御前に人間として対等です。妻は夫の"所有物"ではありません。夫の"しもべ"でもありません。
 もう一方の極端は、行き過ぎた女性解放運動です。すべての男女差別を撤廃すると称して、"女性らしさ"まで見失ったような考え方をしてしまうと、これは行き過ぎです。
 不当な女性差別は、撤廃しなければなりません。しかし、男女は同権でも、必ずしもすべての分野で同業である必要はありません。
 男には男らしさを生かす場があり、女には女らしさを生かす場があるはずです。要は男も女も、自分の能力と個性を最大限に生かせる場に自分を置くことが、最も良いのです。
 夫婦の場合も、男は夫として男らしさを発揮し、女は妻として女らしさを発揮することが望ましくあります。
 キリスト教は、両極端の考えを排し、夫婦は人間として対等だが役割は異なっている、と考えるのです。
 夫は、家庭の"大黒柱"です。一家を支える者です。
 しかし大黒柱だけあっても、壁や窓や屋根がなければ、家はできません。それを考えれば、大黒柱・壁・窓・屋根は、みな対等の存在です。
 夫婦も同じです。夫は家庭の「大黒柱」であり、妻はその「助け手」(創世記二・一八)です。しかし、両者がそろわなければ家庭にならないことを考えれば、両者は対等の存在なのです。
 異なっているのは、役割です。両者は、それぞれの役割にふさわしい自覚を持つべきです。夫は一家の大黒柱としての自覚を、妻は助け手としての自覚を、確実に持つべきです。
 夫は、家庭の精神的支柱として、その責任を果たさなければなりません。家庭をかえりみずに身勝手なことばかりして、家族を悲しませてはなりません。
 また妻は、家庭に潤いを与える「助け手」として、女性らしさを役立てるべきでしょう。わがままを通して、夫を悲しませてはいけません。
 夫と妻は、主にあって協力して、家庭を築き上げるのです。
 ですから、夫と妻はお互いに尊敬し合わなければなりません。夫が妻を「助け手」として尊敬せず、妻が夫を「大黒柱」として尊敬できないようになると、そこに家庭の不幸が始まるのです。
 聖書は、夫および妻に対して、次のように諭しています。まず夫に対しては、
妻を自分のからだのように愛さなければなりません」(エペソ人への手紙五・二八)
 と言われています。エバがアダムの「骨の骨、肉の肉」(創世記二・二三)であるように、妻は夫の「骨肉」なのです。妻を「自分の体のように」愛さなければなりません。
 妻を"自分の体から造られた者のように"愛するのです。妻とふたりだけの時間を大切にし、会話を持ち、触れ合い、心を通わせることが、なによりも必要です。
 妻に対しては、
妻たちよ。あなたがたは……自分の夫に従いなさい」(エペソ人への手紙五・二二)
 と言われています。妻は、神によって夫と「一心同体」(エペソ人への手紙五・三一)になった者として、夫に従うべきです。女中のようにではなく、自発的な「助け手」として夫と意思を一つにし、悲喜を共にし、家庭を支えていくのです。
 夫婦間において最も大切なのは、お互いの尊敬と理解、そして最後に、忍耐です。
 一方、子どもたちに対しては、こう言われています。
あなたの父と母を敬え」(出エジプト記二〇・一二)
 また、
主にあって両親に従いなさい」(エペソ人への手紙六・一)。
 さらに、両親に対しては、自分の子を「主からの授かりもの」(創世記四・二五)と認識して、子を、
主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペソ人への手紙六・四)
 と教えられています。


離婚をどう考えるか

 最後に、「離婚」について考えてみましょう。
 キリスト教では、離婚は罪(神の教えに対する離反)の一つ、と考えられています。しかし離婚を単に罪と考えるだけでは、離婚家庭の不幸は解消しません。
 現在、離婚率が最も高いのは、アメリカとロシアです。統計によるとこれらの国々では、結婚した夫婦の約半数は離婚に終わる、とのことです。
 日本はこれらの国に比べると、まだ率が低くあります。しかし率が低いからといって、必ずしも日本の家庭が、それらの国の家庭より幸福であるとは言えません。
 離婚に至らなくても、家庭内の不和のために、自分は幸福な結婚生活を送っていないと感じている人々は、きわめて多いと思われます。
 キリスト教会は、これまで離婚に対して、概して"予防"的な働きをなしてきました。しかしこれからは、それだけでは足りないでしょう。
 現実に離婚に至ってしまった人々が、社会に増えてきているからです。
 離婚を予防するのがキリスト教なら、離婚に至ってしまった人々を温かく包み込むのもキリスト教であるはずです。現在のキリスト教会は、まだまだ、この認識が欠けているように思えます。


キリストが話しかけられたサマリヤの
女は5度も離婚経験があった

「罪」は、離婚だけではありません。離婚した人が離婚していない人より「罪深い」、とは言えません。
 神は離婚を嫌われますが、離婚してしまった人々をも、愛しておられます。キリスト教は罪人を裁くためにあるのではなく、罪人を生き返らせるためにあるのです。
 これからのキリスト教会は、幸福な結婚生活を送るにはどうしたらよいかを説くだけでなく、不幸なことに離婚に至ってしまった人々が、いかに幸福な生活に立ち戻れるかをも、真剣に考えるべきでしょう。
 キリストは、五回も離婚歴のあるあの「サマリヤの女」に対して、真の幸福にいたる「いのちの水」の話をされました(ヨハネの福音書四・一四)。キリストは、彼女を断罪されたのではなく、真の幸福に至る方法について説かれたのです。
 その結果、彼女は救われ、その喜びを町の人々に話さずにはいられないほどになりました(ヨハネの福音書四・三九)。これからのキリスト教会は、そのような豊かな抱擁力を身につけるべきでしょう。
 もちろん、離婚がないのに越したことはありませんから、キリスト教会は、離婚への予防力と、離婚男女への抱擁力の双方を持つべきなのです。
 キリスト教においては、生涯でひとりの良き伴侶を持つことが、やはり理想です。若い時から神にあって、幸せな結婚生活の築き方を学ぶことがなにより大切なことだと言えるでしょう。

久保有政













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