自虐史観から
真実の歴史認識へ
日本を悪者とする自虐史観はもうやめよう
インドのオールドデリー市街、チャンドラ・ボース公園の
「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸に注目)。
日本兵はインド兵と共に戦い、それがインド独立の基礎となった。
ある日本人の学校教師が、戦後、マレーシアを訪れました。
かつて日本軍は大東亜戦争(太平洋戦争)中に残虐非道を尽くした、と思っていた彼は、マレーシアにおける日本軍の活動を調査しようと思ったのです。
彼は、マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチックに会って言いました。
「日本軍はマレー人を虐殺したに違いありません。その事実を調べにきました」。
すると、ノンチック議員は驚いて言ったのです。
「日本軍はマレー人を一人も殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。それに、日本の将兵も血を流しました」。
そのような話が、『教科書が教えない歴史』(扶桑社文庫)という本に紹介されています。
日本軍はマレー人を一人も殺さなかった
じつはこのノンチック議員は、かつてマレーシアの独立に半生をかけた人です。
マレー半島は、かつて150年もの間、イギリスの植民地支配に苦しんでいました。マレー半島だけではありません。当時アジア諸国において、独立国は日本とタイだけであり、他のほとんどは欧米列強の植民地と化していたのです。
当時、欧米列強は、アジアは白人のために資源を供給すべき国々、白人に隷属すべき国々とみなしていました。彼らはアジア諸国から収奪し、搾取を続けていたのです。
しかし1941年、日本は真珠湾攻撃と同時に、マレー半島に進撃。イギリス軍を打ち破りました。日本軍はその後、マレーシア独立のために訓練所を造り、マレー人青少年の教育に力を注ぎました。
訓練生と共に汗を流す日本人の姿は、マレー青年たちに大きな感銘を与えました。
「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」
――そうした機運が彼らの内に育てられたのです。さらに日本政府は、南方特別留学生制度を創設。アジア諸国独立のため、指導者養成を目指しました。
マレーシアのラジャー・ノンチック上院議員
「日本軍はマレー人を一人も殺していません」
ノンチックは、その第一期生の一人でした。彼は、同じように独立の熱意に燃えるアジアの青年たちと共に、留学生として日本に派遣されます。
日本人教官たちは留学生たちを、わが子のように厳しく優しく指導し、「独立を戦いとるためには、連戦連敗してもなお不屈の精神を持つことだ」と励ましてくれたといいます。
日本政府は食糧難の中にも、苦労して留学生の食糧まで集めました。この日本留学の経験は、ノンチックの人生を変えるものとなったのです。
そののち1945年、日本は敗戦を迎えます。ノンチックは、そのとき決意を新たにしました。
「日本はアジアのために戦い疲れて破れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」
ノンチックらは、祖国独立のための戦いを続け、ついに1957年、祖国独立を果たしました。さらに、彼ら日本に来た南方特別留学生たちが中心となり、現在のASEAN(東南アジア諸国連合)が設立されたのです。
ノンチックは、こんな詩を残しています。
「かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。アジアの国の誰にでも、自分のことのように一生懸命尽くしてくれた」。
かつて日本軍は、東南アジアを舞台として戦いました。しかし東南アジア人を相手に戦ったのではなく、東南アジアを東南アジア人の手に取り戻すために、欧米人を相手に戦ったのです。
日本は「とてつもなく悪い国」だったか
今日、大東亜戦争中の日本軍の「侵略」行為や、「残虐」行為が取りざたされることがあります。しかし私たちは、歴史というものを偏り見てはいけません。誰かが、
「日本はアジア諸国を侵略した」
と言えば、それで日本軍の行動がすべて侵略だったように思うなら、間違いです。
現在の日本の学校で使われている歴史の教科書は、第二次世界大戦前後の日本のことを、「とてつもなく悪い国だった」と教えます。そのような教育を受けた日本人が、先のノンチックの話などを聞くと、
「えっ、そんなことあったの?」
「信じられない」
と驚きます。このような日本人たちを見て、ノンチック自身、たいへん歯がゆい気持ちでいたそうです。
私たちが教科書を通して教えられてきたことは、あまりにも一面的なものだったのではないでしょうか。
歴史というものは、様々な出来事の積み重ねから成っています。私たちは、そうした歴史のすべてを知ることはできないでしょうが、少なくともバランスのよい理解をすることは、大切なことです。
日本は悪いことだけをしたという考えに偏るのではなく、また、日本は全く悪くなかったというのでもなく、公平に歴史の真実を見つめる歴史観が必要です。
戦後、タイの首相になったククリット・プラモートは、まだ自分が新聞記者だった頃に、こんな記事を書きました。
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」(「12月8日」サンヤム・ラット紙)。
ククリット・プラモート(タイの元・首相)
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した」
この言葉の通り、日本軍の東南アジア進出という一撃は、欧米列強による植民地支配を崩壊させました。大東亜戦争後、アジア諸国はすべて独立したのです。
インドネシアを独立させた日本人
欧米列強の植民地だったのは、インドネシアも同じでした。インドネシアは、じつに約350年もの間、オランダの植民地だったのです。
オランダの行なった「愚民政策」「貧民政策」――つまりインドネシア人を愚民、貧民のままに押さえ込むという政策のもとで、インドネシア人の平均寿命は、一説によれば35歳にまで低下していました。
それだけにインドネシア人のオランダへの反感は根強かったのです。それで人々の間で、
「いまに北方から黄色い強者が空から降り、圧政者を追放してくれる」
という12世紀の王、ジョボヨヨの予言が信じられるようになりました。
ですから大東亜戦争が始まった翌年、日本軍がインドネシアに上陸すると、現地の人は日本軍を歓迎し、積極的に作戦に協力しました。彼らの目に日本軍は、自分たちを解放してくれる「北方の黄色い強者」と映ったのです。
日本軍はオランダ軍を破り、インドネシアに軍政をしきました。しかし、その軍政は、オランダの政策とは大きく違っていました。
それはインドネシア人の自覚を高め、独立を勝ち取らせることを目指したものだったのです。事実、日本軍は、オランダ語に代えてインドネシア語を採用し、インドネシア人を軍事訓練し、住民組織を作らせ、また行政組織の重要な仕事をインドネシア人に委譲しました。
これらのことは、たとえば1958年発行のインドネシアの学校用歴史教科書にも、日本占領の利点として記されています。
また日本軍は、インドネシア義勇軍(PETA)を編成。日本人が隊長となって、防衛のための様々な訓練をインドネシア人に行ないました。
ところが、そののち日本は敗戦。インドネシア義勇軍も解散させられますが、その4万人の隊員たちは、続くインドネシア独立戦争のための主力となります。
インドネシアは、日本敗戦の2日後の1945年8月17日に独立を宣言しました。しかし、オランダやイギリスは再びインドネシアを植民地にしようと、一方的に攻撃してきたのです。
これがインドネシア独立戦争です。このときインドネシア独立のために、自分の意志でその戦いに参加した日本人たちが数多くいました。
その数は、千人とも2千人とも言われます。彼らは「共に生き、共に死ぬ」(共生同死)を誓って独立戦争に参加。その多くは戦死しました。しかしこの血の犠牲を通して、インドネシアは独立を果たしたのです。
日本の軍政に問題がなかったわけではありません。しかし、インドネシアでは独立記念日に向けての記念パレードで今もなお、インドネシア人によって日本の軍歌が誇らしげに歌われています。
フィリピン、ビルマ、インドを独立させた日本人
一方フィリピンでは、日本人、原禎元大尉の率いる義勇隊が、フィリピン独立運動を支援。フィリピン人と共に、米国の軍隊と戦いました。
ビルマでも、鈴木啓司大佐をはじめ、多くの日本人がビルマ人と共にビルマ独立義勇軍を編成し、独立運動を展開しました。
インドでも、インドの独立のために援助した日本人が数多くいました。インドは1947年に独立。それまでのイギリスによる植民地支配に終止符を打ちました。
この少し前に、インド法曹界の長老、パラバイ・デサイ博士はこう語りました。
「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで、30年も早まった。
インドだけではない。ビルマも、インドネシアも、ベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう」。
また、東南アジア諸国独立における日本人の貢献について研究した、台湾の黄文雄(こうぶんゆう)氏もこう書いています。
「犬養毅、頭山満をはじめ、明治維新以来、アジア各地の革命や独立運動のために自らの命や財産をかけた日本人は、数え切れないほど多い。……民族・国家を超えて献身的に尽くす日本人の精神は、世界でもまれに見る特筆すべき義侠心である」。
このように東南アジアの人々の日本に対する思いには、中国や韓国の人々の感情とは、まさに逆のものがあります。
とはいえ東南アジアでも、しばしば反日デモが繰り広げられることがあります。これはなぜでしょうか。
私たちは、その反日デモをしている人間が誰なのかを、よく見きわめなければなりません。黄氏はこう述べています。
「反日運動……を主導しているのは、華僑と、何らかの政治的意図のある日本のマスコミなのである。東南アジアの住民は基本的に親日的であり、大規模なデモになるような反日感情は持っていない」。
東南アジアには、昔から「華僑」と呼ばれる中国人がいます。彼らは欧米列強による植民地時代には、白人と結託して現地人から搾取をしていました。
当時、華僑は居住地の民族とは決して同化しないだけでなく、現地人を蔑視し、利益をほとんど地元に還元せず、吸い上げるばかりだったのです。
またインドネシアなどではとくに、その商業活動は悪質で、統治者と結託し、彼らの手先となって、オランダ人よりも過酷にインドネシア人から搾取するほどでした。
東南アジアの現地人と、華僑との間には、このようなわけで今も根強い反感と対立があります。それはこうした過去があるからなのです。
かつて日本軍は、東南アジアから欧米人を追放するだけでなく、華僑の追放も行ないました。ですから華僑の中には、今も根強い反日感情を持っている人々が少なくありません。しかしそれは、東南アジアの現地人の感情ではないのです。
台湾で仁政を敷いた日本人
一方、台湾ではどうだったでしょうか。
台湾は、日本にとって最初の植民地となった地でした。かつて日清戦争の結果、台湾は、国際条約である下関条約によって日本に割譲された地だったのです。それは合法的に日本の領土となりました。
日本領有当初の15年間は、住民による激しい武力抵抗が続きました。日本政府は、ゲリラの討伐に明け暮れました。けれども台湾の武力抗争は、日本統治時代に始まったことではありません。
それ以前の清国による統治時代のほうが激しかったのです。しかし大正デモクラシーの影響が及ぶようになると、台湾では無政府主義者も、共産主義者、独立運動家、議会主義運動家などもみな武力を捨てて、平和的な政治運動に変わりました。それは時代の流れでもあったのです。
一方、韓国も日本の植民地となった地でした。今日、韓国人が日本の統治時代に関して述べる批判は痛烈です。ところが台湾はどうかというと、かつての日本の統治時代をそれなりに評価する、親日的な人々が多くいます。
これには幾つかの理由があるでしょう。しかしその一つに、統治者となった人々の方針や人柄の違いもあります。
1940年から44年まで、台湾総督をつとめたのは、長谷川清という日本人でした。
長谷川 清 台湾総督
その仁政は台湾の人々から慕われた
長谷川は、台湾総督になり、日本人の現地人に対する不当な差別を取り締まりました。台湾人に対して公正な態度で臨むよう、政策を進めたのです。その結果、台湾では、現地人に対する不当な差別や、いじめがほとんど見られませんでした。台湾出身の金美齢は、これを思い、
「日本精神は公正の精神である」
と書いています。
長谷川はまた、前任の総督の時代に行なわれた台湾の伝統宗教や伝統芸能の弾圧を取りやめ、その復活を認めました。皇民化とは、形だけ日本人に見せることではなく、今日のアメリカのように、人種・宗教が違っても日本国民としての愛国心を育てることだと、彼は主張したのです。
彼の治世は、長谷川「仁政」と言われ、今も台湾人から高い評価を受け、慕われています。
台湾における日本の治世に、全く問題がなかったわけではありません。しかし長谷川以外にも、台湾の人々と共に働き、台湾の人々のために活動した日本人が数多くいました。
そうした働きのゆえに、日本人の働きを高く評価する人々が、台湾には少なくないのです。
日本が敗戦国となるまで、台湾は日本の植民地でした。しかしそれは、欧米の植民地政策とは大きく異なるものでした。
欧米諸国は、植民地からの収奪を続け、利益を現地に還元することはほとんどありませんでした。現地の人々は欧米諸国から、取られる一方だったのです。
それに対し日本は、台湾を内地の延長と考えていました。その地の近代化のために、日本は莫大な国家予算をつぎ込んだのです。
当時、台湾は辺境の地であり、流刑地だったような所で、道路はほとんどなく、ダム、水道、電気、衛生など、インフラ(公共設備)は全くといっていいほど整っていませんでした。
そこに技術者を送り込み、お金をつぎ込み、現地の人々と共になってインフラ整備を進めたのが、日本でした。植民地時代に日本が台湾から得た利益より、台湾への支出のほうが、はるかに上回っていたのです。
日本にとって、台湾の植民地時代は、出る一方でした。今日の台湾の経済発展は、この日本による植民地時代の恩恵によるところが大きい、と言えます。黄文雄氏はその著『捏造された日本史』(日本文芸社刊)の中で、
「台湾の近代化は、日本人の経営なくしてあり得なかったことは、誰も否定できない」
と書いています。
なぜ日本は明治維新に踏み切ったか
つぎに、中国や韓国について見てみましょう。
大東亜戦争に至る時代の日本の行動に関する中国や韓国の批判は、痛烈です。なぜでしょうか。日本は悪いだけだったのでしょうか。
いや、事情は単純なものではありませんでした。
話は、明治維新から始まります。日本は、それまでの幕藩体制を放棄して、明治維新を断行し、近代国家に生まれ変わりました。
それは古い体制のままでは、野蛮国として、やがて欧米列強の植民地とされてしまうことが、火を見るより明らかな状況だったからです。
欧米列強による植民地獲得競争が、当時すでに激化し始めていました。たとえば日本がまだ徳川時代だったとき、隣の中国で「アヘン戦争」が起きました。
それまでイギリスは、中国から大量にお茶を買って、輸入していました。その代金として、イギリスは中国に大量の銀を支払っていました。
そのときイギリスは、きたない手を使って、その大量の銀を取り戻そうと考えたのです。
まず、密貿易でアヘンを中国に入れます。そして人々の間に、はやらせます。アヘンは麻薬ですから、喫煙者は中毒になります。中毒になれば、もっと欲しがります。
そうやって大量のアヘンを中国に売り込んだのです。こうして銀を取り戻すことに成功しました。
この出来事は、欧米人の多くが当時、有色人種であるアジア人を人間とは思っていなかったことを、端的に示しています。
しかし中国側は、イギリス側のこの策略に気づき、怒ります。アヘン患者の蔓延を国家の危機と考え、アヘンの密輸を禁じたのです。そして約2万箱ものアヘンを廃棄させました。
これにイギリスが反発し、「アヘン戦争」が勃発したのです。結果は、兵器に優れたイギリス側の圧勝でした。
アヘン戦争以後、中国はしだいに欧米列強の植民地と化していきます。日本人は、こうしたことを伝え聞いたのです。当時、中国の上海でこの様子を見た高杉晋作は、こう書き記しました。
「中国人はほとんどが外国人の召使いのようだ。英仏の人が街を歩けば、中国人は傍らによって道を譲る。上海は中国の領土だが、英仏の植民地ともいえる」。
そして、わが国もこのままでは欧米列強の植民地になってしまう、という強い危機感を持ちました。実際、欧米列強によるアジアの植民地化は、どんどん進行中でした。
イギリスによるインド植民地化は明治維新の十年前には終わっていました。ビルマ植民地化は明治19年、マレー半島の完全な植民地化は明治42年、フランスがベトナムを奪ったのが明治20年、インドネシアが正式にオランダ領となったのが明治37年でした。さらにアメリカのハワイ併合が明治31年、フィリピン奪取も同じ年でした。
他方、北からは不凍港を求めて南下してくる最大の脅威ロシアがあったのです。
こうした野盗の群れが走り回る世界にあっては、自立国家を守るために、どうしても明治維新によって近代化を達成する必要があったのです。
近代国家に生まれ変わった日本
日本は明治のこの大改革に成功し、それまでの封建制度を改めて、近代的国家に生まれ変わりました。
明治維新というのは、とくに武士階級の人々の多大な犠牲によって実現したものです。それまで武士たちは、藩に属していました。それぞれの家柄に応じて、給料(禄)をもらっていました。
その給料のもとになったのは、農民から集まった年貢です。しかし、明治政府はこの年貢が藩に集まるのではなく、すべて政府に集まるようにしました(廃藩置県)。
こうして藩を廃止するのみならず、江戸時代までの主役であった武士階級を一挙に廃絶したのです。これは武士とその家族約180万人が失業し、収入を失なうことを意味しました。
もしこんなことをヨーロッパで行なったら、ひどい反乱となったでしょう。実際、当時東京にいた外国人は、ヨーロッパでこんなことをしたら、血で血を洗う大惨事になっただろうと言いました。
しかし、反乱は起きなかったのです。藩主以下、武士達は、天皇の布告に従いました。そして刀を置いて、町民になり、商売や事業を始めたのです。
その背景にはまた、先見の明のある数多くの武士たちがいたからでもあります。明治維新とは、世界に例をみない「無血革命」だったのです。
日本が幾つもの藩に分かれていてバラバラでは、外国が攻めてきたとき、とうてい太刀打ちできません。また当時、藩ごとに別々の通貨や尺度があったので、豊かな経済活動のための基盤ができていませんでした。
そのために藩を廃止し、中央集権にしました。また士農工商の身分制度を捨て、みなを「国民」となしました。憲法をつくって法治国家とし、共通の通貨や尺度をつくって、産業発展の基礎をつくったのです。
学校制度を充実し、生まれや家柄によらず、努力さえすれば地位や富を得られるような社会にもしました。こうして日本は、近代国家への変貌を遂げたのです。
旧態依然とした当時の中国と朝鮮
しかし、ただひとり、日本が近代国家への変貌を遂げても、すぐ近くの朝鮮や中国は旧態依然としたままでした。
それどころか、中国や朝鮮の国内状況は混迷を深め、ひどく弱体化していたのです。統治者は国益を考えず利己的に行動し、役人の間には賄賂が横行して、腐敗が国家をおおい、内戦が多発していました。
日韓併合前、1897年の韓国・ソウルの南大門。国家は破産状態
で、国民も為政者もアジアに迫り来る危機を理解していなかった。
かつて幕末に勝海舟などは、東アジアに侵略してくる欧米勢力に対し、日本は中国や朝鮮と手を携えて当たるべきだと主張していました。ところがその中国と朝鮮の実状を知れば、まことに頼りにならないものだったのです。
このままでは、中国も朝鮮も、食うか食われるかの弱肉強食の世界の中で、欧米列強の植民地と化すのは必至でしょう。そこで日本は、まず朝鮮とこの問題を話し合うため、外交官を派遣しました。
しかし当時の李王朝(李氏朝鮮)の政府は、この日本の申し出を冷たくあしらったのです。
というのは当時朝鮮の人々は、中国を世界の中心と見る「中華思想」、およびその中国からへだたるほど文化的に遅れた野蛮国であると見る「華夷秩序」の中に、どっぷりつかっていました。
それで朝鮮の人々には、日本人が欧米のものまねをして国をつくりかえ、洋服を着始めた姿が、たいへん愚かに見えたのです。彼らは日本人を軽蔑し、嫌悪して、日本の使節を追い返すことまでしました。当時ニューヨーク・タイムズは、
「日本人が話し合いを持とうとした試みを、朝鮮人が非友好的な横柄さであしらった結果、両国の関係は日々険悪となっている」
と報じました。朝鮮はまことに扱いにくい相手だったのです。それなら日本は、朝鮮とのつきあいをあきらめて、放っておけばよかったじゃないかというと、そうはいきませんでした。
地図をみればすぐわかるように、朝鮮半島はユーラシア大陸から日本列島に向かって、グイと突き出た形になっています。もしこの朝鮮半島にロシアまたは欧米諸国の勢力が居座ってしまえば、日本にとっては、のど元に凶器を突きつけられたような格好です。
実際、ロシアはすでに手ぐすねを引いて、朝鮮や清国のほうへ領土拡大をねらっていました。欧米列強も清国に進出しつつありました。
そうなれば日本も、安んじてはいられなくなります。当時ロシアや欧米が、植民地からいかにひどい搾取を続けていたかについて、日本のリーダーたちはよく知っていたからです。江戸時代を通じて武家社会であった当時の日本人は、中国や朝鮮の人々に比べ、危機意識に格段の差がありました。
この状況は、たとえば長屋に住んでいるお隣同士の関係に似ていました。壁一枚を隔てたお隣の家が火事になれば、自分の家も類焼をまぬがれません。ですから、内政干渉と言われても、日本は隣の家の火の始末に関心をもたざるを得なかったのです。
「そこで、明治の日本が最も願ったことは、朝鮮半島に、日本と同じ独立の気概をもった、外国に侵される心配のない近代的な国家が誕生することでした」
と東大の藤岡信勝教授は述べています。
日本が朝鮮を無理に開国させたのも、そのためでした。かつてアメリカの黒船が、鎖国日本を無理に開国させたように、日本も朝鮮に対してそのようにしたのです。
それまで、朝鮮は清国の属国でした。しかし、日本が朝鮮を開国させたとき、日本はその条約の第一条に、
「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有」
する旨を明記しました。これは日本が、朝鮮は清国の属国ではないことを宣言したもので、画期的なものでした。以後日本は、朝鮮の自立と近代化に、手を貸していきます。
日本は何とか、朝鮮が列強の支配を受けない近代的な独立国家になってくれるよう、努力を重ねていきました。しかし朝鮮の自立的な近代化の道は、やがて挫折します。
そのとき、日本は自ら朝鮮支配に乗り出しました。けれども、そうやって乗り出せば乗り出すほど、やがて日本は朝鮮と中国の内戦の泥沼にひきずり込まれていきます。
そして気づいたときには、もはや抜け出せなくなっていたのです。
朝鮮と中国を近代国家にしようとした日本
日本は明治時代に、日清、日露の戦争を経験します。これらは両方とも、朝鮮半島をめぐる争いでした。
日清戦争は、朝鮮で起きた内乱を契機として始まりました(1894年)。それを鎮めるため、日本と清国の両軍が朝鮮に出兵しました。
これにより、朝鮮内の反乱(東学党の乱)は抑えられましたが、今度は、日清両国に対立が深まりました。
清国は、朝鮮をあくまで自分の属国と主張し、日本を懲らしめようとしました。一方日本は、朝鮮を独立国として認め、朝鮮から清国の支配を排除するために戦ったのです。
こうして日清両国の間に、戦争が始まりました。欧米は日本の敗北を予想していましたが、結果は日本の圧倒的勝利でした。
兵員の数からいえば、じつは清国のほうが圧倒的にまさっていたのです。しかし清国軍はよく訓練された兵士ではなく、統制もきちんととれていなかったので、劣勢になればすぐ降参してしまうような者たちでした。
そのうえ彼らには、盗賊なのか軍隊なのか、区別できないような性格もありました。『日清交戦録』第16号の外国人の手記によると、清国軍はソウルから平壌への撤退中に、沿道の村々を略奪したうえ、四方に逃亡したといいます。
また、国民意識の差も大きかったと言えます。当時、日本では戦時公債を発行して戦費を集め、国民の関心づくりも徹底していました。
ところが、清国は戦費をイギリスから高利で借りていました。かの孫文の談によれば、当時、清国の民衆で、清国が日本と戦争をしていることを知っていた者はほとんどいなかったとのことです。
日本が清国との戦争に勝利したとき、日本はその勢いで行けば、北京にまで進み、清国を倒すこともできたでしょう。しかし、伊藤博文はそこまでしませんでした。彼は講和に持ち込み、清国の保全をはかりました。
清国の民衆はそののち、清国が日清戦争に負けたことを知るようになります。けれども当時、清国の民衆の中には、日本に脅威を感じる者はいても、日本との戦争を日本の「中国侵略」と思うものは一人もいませんでした。
むしろ東夷(東の野蛮国)の小国が、天下国家の清帝国を打ち負かしたという事実に、ある種の畏敬を覚えました。
そして、もし清国も日本のように「明治維新」をやるなら、欧米列強の支配を受けるのではなく、彼らと対等の独立国家となる力をつけられるのではないか、という希望が生じたのです。
それで中国のリーダーたちや民衆の中に、維新派の人々が生まれていきました。
維新派の人々の中には、日本に学びに来る者も多くいました。そして日本は、彼ら留学生を積極的に受け入れたのです。それは、
「清国が近代化し欧米列強に抗することができれば、アジアにとっても日本にとっても好ましい」
という「清国保全論」が日本国内にあったからです。日本に学びに来た清国の留学生たちは、優に1万人を超えました。
また日本に留学生が来るだけでなく、日本人教師たちも、清国に派遣されました。それは清の実力者、李鴻章らの招きによるものです。その数は約2000名にのぼりました。
こうして日本から学んだ中国人らは、のちに中国近代化運動のリーダーとなっていきます。
北京市民に慕われた日本軍人
日清戦争で、清国が日本に負けたことからもわかるように、清国は図体は大きくても、その内情は混迷を深めていました。
そうした中、「義和団事件」が起こります(1900年)。これは中国から欧米勢力を排除しようとする民衆の反乱でした。しかしそのやり方は、かえって中国の混乱を増すばかりでした。
このとき、彼ら暴徒を鎮めるためにイギリス、フランス、アメリカ、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストリア、日本の8カ国連合軍が出動します。
日本も出兵したわけですが、これは日本にとっては難しい選択でした。同じ黄色人種でもあり、うかうか介入するのはどうかという意見もありました。
しかし、イギリスの強い後押しもあり、日本政府は兵力派遣を決意しました。これは日本政府のPKOの前身ともいえるものです。
日本の兵力派遣は、中国の国内の混乱を平定することを目的としていました。しかしこの混乱に乗じて、自分の領土拡大をはかった国がありました。
ロシアです。義和団事件が満州に飛び火し、ロシア人が殺傷される事件が起きると、ロシアはそれを口実に、満州占領を行ないました。
ロシア軍は怒濤のように満州に流れ込み、街を焼き、一般兵士は好き勝手に略奪し、虐殺し、市民の生活を脅かしました。
こうした軍隊の横暴は、中国人には昔からよく知られたことでした。ロシア軍だけでなく、中国の軍隊も同じ様なものだったからです。
とくに中国の敗残兵が、好き放題に略奪を働き、婦女暴行を働き、虐殺するのは、中国の伝統文化の一つといっていいほどでした。
しかしその中国人たちを驚かせたのが、日本の軍隊だったのです。北京に入城し、そこを平定した日本軍の規律は厳しく、末端の兵士に至るまで非行をすることがなかったからです。
「この様子は、北京市民にとって有史以来初めて目にする光景だった」
と中国人歴史家が述べています。そのため北京市民は、布や紙に「大日本順民」と書いて日本軍を歓迎しました。
日本軍は略奪や暴行を厳しく取り締まり、そのために治安はすぐに回復し、商店も営業を再開できました。
これに引き替え、ロシア軍に占領された地域は悲惨でした。その地の住民たちは続々と日本占領区に逃げ込み、保護を求めてきました。ロシア軍管区を日本軍管区に替えて欲しい、という懇願が出されたほどです。
柴五郎中佐
彼の軍隊は中国の庶民から尊敬された
日本軍管区を指揮していたのは、柴五郎中佐でした。しばらくして、柴中佐に日本から帰国命令が来ました。そのとき、町の老若男女はこぞって別れを惜しみ、涙ぐんだといいます。
東アジアからロシア軍を追い払った日露戦争
ロシアは満州を占領し、支配下におきました。義和団事件がおさまっても、ロシアは満州から軍を引き揚げず、そこに居座りました。
ロシアは膨張主義をとった国です。強引な領土拡大を次々に行なっていました。そして土地を支配すると、そこから略奪していました。
そのロシアにとって、次のターゲットは朝鮮でした。日本の近代史は、このロシアの脅威に動かされたものであると言えます。
もし朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、日本はもはや、首もとにナイフを突きつけられたようなものです。
ところが当時の朝鮮は、日本ほどの強い国家意識を持っておらず、政治経済の近代化もできていませんでした。兵力も微々たるものでした。それで朝鮮半島の領有をめぐり、やがて日本とロシアの間に、日露戦争が勃発します(1904年)。
それは朝鮮半島と満州からロシアを追い払うための戦争でした。日本がその開戦を決意した背景には、ロシアの南下に反発するイギリスやアメリカの支持もありました。
日本軍はよく戦い、連戦連勝して、ロシア軍を打ち破りました。朝鮮と満州からロシア軍を追い払ったのです。
その日本の勝利は世界を驚かせました。黄色人種がはじめて、白人に戦争で勝利したからです。しかも相手は、大国ロシアでした。
これはまた、白人支配に苦しんでいたアジア諸国にも、大きな希望をもたらしました。
「我々も日本のように維新を行なうなら、欧米の支配から脱し、独立国家になれる」
という気概を彼らの間に生んだのです。日露戦争における日本の勝利は、植民地の束縛の中にあったアジア諸国やアフリカ諸国に、計り知れない希望と勇気を与えたのです。
そうした意味で、日露戦争は世界史的意義を持つものでした。
ロシアにとって日露戦争は、極東における彼らの侵略政策が、一時的に失敗に終わった出来事にすぎません。しかし日本にとって、それは国家の存亡を賭けた戦いだったのです。
また、この日露戦争の時の話として、日本軍に捕まったロシア人捕虜たちの話があります。
当時、ロシア人捕虜の収容先の一つとして、四国の松山がありました。そこには約6000名の捕虜が収容されました。そのとき県は、
「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して破れた心情をくみとり、一時の敵愾心にかられて侮辱を与えるような行動はつつしむこと」
と県民に訓告していました。
松山に来た捕虜の大半は、傷病兵でした。彼らに対し赤十字の医師や看護婦らは、懸命に治療と看護に当たりました。手足を失った者には、当時の皇后陛下より、義手、義足が贈られました。
当時捕虜だったF・クブチンスキー氏は、日記にこう書き記しています。
「敵国でこのようなやさしい思いやりを予期したであろうか……。医師や看護婦の献身的な心くばりは、真の人間愛の表れである。それは神聖にして不滅のもので、キリストの愛と名づけられるものである」。
また日本政府は、日露戦争後の明治40年、戦死したロシア兵たちのために忠魂碑を建てました。まず敵兵のための忠魂碑を建てたのです。その2年後に、戦死した日本兵のための忠魂碑を建てています。
満州は「無主の地」だった
「もし日清・日露戦争で日本が負けたら」という仮定をするなら、どうでしょうか。朝鮮は、中国よりはロシアの一部になっていたことでしょう。ロシアの勢力は、たいへん巨大だったからです。
日本の大陸政策は、よく「中国侵略」ととらえられてしまいます。しかし、じつは日本の朝鮮政策と、満州進出は、ロシアの南下を防ぐのが目的でした。
日本にとっては、なによりロシアの膨張主義に対抗することが、危急の課題だったのです。
日露戦争後、日本は、朝鮮が二度とロシアの勢力と結びつくことがないよう、朝鮮の外交権を奪います。そして日本の従属下におきました。これには欧米の支持もありました。
さらに1910年になると、日本は朝鮮を併合(日韓併合)。朝鮮を日本との合邦国家とします。朝鮮は日本の一部とされました。
しかし、この日韓併合は行き過ぎだったとの批判もあります。なぜなら当時、すでに日本は日露戦争で南満州を手に入れていました。それでロシアがただちに朝鮮に侵入してくる心配は、なくなっていたからです。
しかし当時、朝鮮の国家財政は破綻。朝鮮の指導者には腐敗がはびこり、国内は荒れ、自立的再建はもはや不可能という状況にありました。これ以上放置しておけば、アジアに混乱をもたらす呼び水になったと考えられ、日韓併合はやむを得なかったとの意見もあります。
一方、満州について見てみると、満州はかつての万国公法の基準から言えば、当時まだ「無主の地」でした。アメリカ国務長官ヘンリー・スチムソンはかつて『極東の危機』の中で、
「日露戦争当時、満州はほとんど空き地同然の辺境で、最初に植民に成功した国民の手に帰すべき、競争の目標物として放置されていた」
と書いています。事実はまさにそうで、日本は日露戦争後、移民競争に負けじと、盛んに満州移民を推進していきます。
そしてそこに、一大文明圏がつくられていきました。それは中国人からみると別天地、パラダイスのように見えたほどです。そのため中国人の流民も、日本人以上にそこに移民してきました。
そもそも当時の中国は、地方軍閥間の争いによって内戦が続いていました。しかも彼ら地方軍閥は、住民に重い税を課し、搾取していました。
それは先取りで、むしり取る税です。数年先や、数十年先まで、なかには百年後の租税まで取り立てるものまでありました。
そんなふうですから、日本の経営する満州の地は、彼ら苦しめられてきた者たちにとって、パラダイスのように思えたのです。そして年に百万を超える中国人流民が流れ込んで来ました。
日本は満州の荒野に鉄道を敷き、殖産興業につとめ、教育に力を注ぎました。この殖産興業は、戦後、中国への置きみやげとなり、今も社会主義中国の工業の基礎となっているほどです。
では、なぜその後、中国と日本との間に戦争が起こったのでしょうか。
中国の内戦の泥沼にひきずり込まれていった日本
それには複雑なものが、からみ合っています。しかし大きな目で見ると、日本は中国の内戦の泥沼に巻き込まれていったことがわかります。
中国は、あたかも巨大なブラック・ホールのように、日本をその泥沼にひきずり込んでいったのです。
当時の中国を、まとまった一つの国家のように考えたら誤りです。当時、中国は内戦によってズタズタに引き裂かれた地であり、国家の体をなしていませんでした。
さて中国の内部では、欧米や日本のような近代国家になることを目指す維新派と、ロシアのような共産国家になることを目指す共産主義勢力とが対立していました。
維新派勢力の代表は蒋介石、共産主義勢力の代表は毛沢東です。当初、蒋介石の軍隊は毛沢東の軍隊よりも圧倒的に優勢でした。
一時、共産軍は全滅に近いところまで行ったほどです。ところが共産軍は劣勢を挽回するために、あることを計画します。
それはこれ以上、蒋介石軍と真っ向から戦っては、もはや勝ち目はない。だから日本軍をこの中国に引きずり込み、日本軍と蒋介石軍とを戦わせて、どちらか生き残った方と戦う、ということでした。
毛沢東の戦略は、日本軍と蒋介石
軍を戦わせることだった
そうすれば日本軍と蒋介石軍が戦っている間に、自分たちの戦力の回復を計れます。また、日本軍と蒋介石軍のどちらが生き残ったにせよ、その時点では弱体化していますから、それと戦えばよいのです。
さらにこうすれば、日本国内の力も弱体化し、日本を共産化する道も開けます。こうして共産主義勢力は、日本軍を戦争へと挑発し始めたのです。
じつは当時日本は、中国側との間に起こり始めていた抗争や、いざこざを、何とか和平に持ち込みたいと願い、様々な努力を続けていました。
蒋介石の顧問にW・H・ドナルドというオーストラリア人がいました。彼がのちに証言したところによれば、日本は1938年から1941年の間に中国側に対し、12回も和平提案を行なっていたのです。
しかもその条件は、中国側に有利なものでした。中国に対する領土的要求は含まれていませんでした(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』メディアファクトリー刊)。
日本はもともと、中国の領土を支配しようなどと妄想していたわけではないのです。日本が繰り返し和平提案を行なったことからみても、日本は好きこのんで戦争を続けたわけではありませんでした。
日中戦争の発端と言われる蘆溝橋事件(1937年)にしても、日本軍と、蒋介石の国民党軍との間に起きた、小さな衝突事件にすぎませんでした。
またこの事件でさえ、じつは犯人は共産軍だったと指摘する人もいます。この事件の翌日、中国共産党は、日本との開戦を主張する激烈な声明を出しました。そして蒋介石に対日開戦を強く迫りました。
また共産党は、現地の停戦協定が成立し戦争が終わりそうになると、各地で日本人に対するテロを繰り返し、戦争を挑発しました。
中国共産党の活動は、日本軍と蒋介石軍とを戦わせるという、コミンテルン(国際共産党)の方針に基づいたものだったのです。日本は、その戦略にまんまと乗せられてしまいます。
そして日本軍と蒋介石軍が戦っている間に、共産軍は勢力を回復、やがて蒋介石軍を打ちのめし、政権を取り、中国を共産化してしまいます。中国が共産化したとき、毛沢東は高らかに笑って言いました。
「中国が統一され、人民共和国政権が誕生したのは、みな日本の中国侵略のおかげだ。我々は日本に感謝しなければならない」。
ずいぶん皮肉な言い方をしたわけですが、日本のこの中国「侵略」は、毛沢東率いる共産軍の策略に乗せられたものだった、ということを忘れることはできません。
共産主義の理念の中では、いかなる策略も、暴力も、共産主義世界実現という大義の前には正当化されます。目的のためには手段を選ばなくてよいとされるのです。
そして共産主義では、過去の歴史もすべて、共産主義体制に都合のいいように解釈されます。
今日も中国共産党の指導者は、日本の政治家に会えば、「日本の戦争責任」や「正しい歴史認識」を口にします。それを聞いて、日本の政治家がうろたえる姿がテレビに映ります。
しかし、うろたえる前に、過去の歴史をよく知っておかなければなりません。
「南京大虐殺」はあったか
今日、中国大陸で日本軍が残虐行為を働いたとして、「南京大虐殺」などが取りざたされることがあります。日本軍が南京の市民30万人を虐殺したというのです。
この「南京大虐殺はあった」「いや、なかった」など、意見は真っ向から割れています。
戦後に連合国が日本を裁いた、いわゆる「東京裁判」では、南京攻略時の司令官であった松井石根(まついいわね)陸軍大将が、南京大虐殺の責任者とされ、死刑判決を受けました。
しかし松井大将とはどういう人物だったかというと、かの孫文とも親交があり、孫文の唱えた「大アジア主義」に深く共感している人でした。
彼は南京攻略の前にも、日本軍の規律を厳しく定め、決して罪なき人を殺傷したり、中国の人々を軽んじたりすることのないよう事前に強く指示を出していました。
ですから、東京裁判の時にただひとり日本無罪論を展開したあのインドのパール判事は、この松井の事前指示を根拠に、彼の無罪を主張したほどでした。
また今日、「南京大虐殺」が中国共産党の広げたデマによるものであることを示す、多くの証拠が出てきています。
南京攻略時の南京の人口は約20万人でした。しかし占領1ヶ月後には、戦闘の終わった南京に住民が戻ってきて、人口は25万人に増えています。彼らに日本軍が食糧を配布したという記録があるのです。これだけみても、「住民30万人の大虐殺」が大ウソであることがわかります。
虐殺のあったところに、中国人住民が戻ってくるでしょうか。しかし彼らは何万人も、1ヶ月後には安心して戻ってきて、日本兵に物を売ったり、また農業を始めたり、商売をしたりしているのです。そういう記録写真、記録映画があります。
日本軍による南京占領5日目の写真(朝日新聞)
(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。
(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手
製の日の丸の腕章をして笑っている。
「南京大虐殺」がなかったことを如実に示す証拠写真である。
ナチスドイツがユダヤ人虐殺を国是として推し進めたのとは、わけが違うのです。戦争文化的に見てみると、住民虐殺や略奪の行為は、日本の戦争の歴史には見られなかったものです。たとえば関ヶ原の合戦のときなど、百姓衆は弁当を持って、朝から山にでかけて戦闘を見物していました。
賤ヶ岳の戦のときは、民衆は傘をさし、山の斜面を埋め尽くして観戦に興じたといいます。日本の戦争文化には、住民虐殺や略奪は存在しなかったのです。
それに対して、住民の虐殺と略奪は、中国ではごく普通の、伝統的な戦争文化でした。中国には「屠城」という言葉があり、これは城(都市)の住民を殺し尽くす大虐殺をいいます。
また、いわゆる「三光」作戦(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)というのも、もともと中国の言葉であり、中国の伝統的な戦争文化です。
実際に都、南京では、昔から王朝が替わるたびに虐殺が行なわれていました。その様子は、正史の列伝に詳しく書かれています。
日本軍の南京大虐殺の「証拠」として、よく髑髏を山にしてある写真が紹介されますが、あれは「万人塚」といって、中国人が戦争のあとによくやったものです。それが日本軍によるものではないことは、多くの専門家によって見破られています。
万人塚は斬り取った敵の首数を誇るためのもので、中国の古い歴史書には、よく5万、10万の首をとってそういう塚をつくったという記述があります。
日本には首塚というものはありますが、あのように敵の首をたくさん集めて塚にする文化はありませんでした。
戦後の東京裁判の時、アメリカはすでに長崎、広島に原爆を落とした後であり、日本住民の大量無差別殺戮を行なっていました。これは当時の国際法にも違反する残虐行為です。その被害者は計約30万人。東京大空襲でも、アメリカは日本住民約10万人を殺していました。
それでアメリカは、日本の戦争行為の中にも、それと「五分五分になるような」戦争犯罪を探していました。日本が「とてつもなく悪い国だった」という証拠を出さなければ、アメリカの行為が正当化されません。
ところが、探しても見つからなかったのです。数千人規模の虐殺ならどの国の戦争にもありますから、その程度の数字では迫力がありません。
そこで突如出てきたのが、日本軍による南京での「30万人大虐殺」説でした。
その根拠とされた証言は、あやふやなものでした。「証拠写真」として提出されたものも、全く別の場面のものであったり、捏造されたものでした。そこには中国軍の情報戦略、プロバガンダが見えているのです。
また、中国にある南京大虐殺の記念館に行くと、日本兵が人間の肝を食べている像が展示されています。しかし、はたして日本兵はそこまでやったでしょうか。
人食いは中国の食文化にはありましたが、日本ではそうではありません。明の李時珍の『本草綱目』には、人間の肝は薬用効果があると紹介されています。
また記念館には、日本兵が銃剣で赤ん坊を串刺しにしている描写があります。しかし、これも中国の戦争話にはよく出てくるもので、日本の戦争文化ではありません。
南京大虐殺として言われているものの中には、中国共産党の情報戦略と、戦後日本人の誤解があるのです。
朝鮮に対する日本統治はどんなものだったか
つぎに、日本と韓国との関係を見てみましょう。
アジア諸国の中で、韓国人の反日感情は今も根強いものがあります。
先に述べたように、統治者の方針や人格が、住民の感情に深い影響を与えることがあります。台湾の人々に慕われた長谷川総督のような人物も、日本の朝鮮総督府にもいたことはいたのです。
そして日本が朝鮮半島を支配していた時代、日本人と朝鮮の人々は概して仲良くやっていました(「日韓併合時代の真実」を参照)。実際、朝鮮では官公庁でも学校でも軍隊でも警察でも、日本人と朝鮮人が共に働いていました。朝鮮人の上司のもとで、日本人が働いていることも多かったくらいです。そして、もめ事というもめ事も、ほとんどなかったのです。
それがなぜ、戦後の韓国や北朝鮮の人々は、こんなにも反日になってしまったのでしょうか。
それは、戦後に日本人が去ったあと、それらの国々を支配した支配者のイデオロギーによるのです。戦後、韓国を支配した初代大統領・李承晩は、日本による朝鮮半島支配の間中、アメリカに亡命していた人です。彼は日本による朝鮮半島支配を経験していません。
彼は、徹底した反日の人で、アメリカによって戦後、韓国大統領の座を与えられると、親日の韓国人をすべて追放し、反日の韓国人だけを登用して、全土に反日の思想統制、反日教育をしきました。北朝鮮の金日成も同様です。こうして韓国も北朝鮮も、以後、反日一色となってしまったのです。
歴史的にみると、じつは朝鮮の人々は、最初に日本人を蔑視しました。
朝鮮には「衛正斥邪」(えいせいせきじゃ)といって、朱子学(儒教の一派)の伝統を守り、欧米勢力を排除する思想がありました。これは、
「欧米人は金と色にまみれた汚らわしい害獣であるから、世界で唯一の汚れなき地である朝鮮を守るために、欧米を撃退しなければならない」
という思想です。これは単に反欧米というだけでなく、反近代化の思想でもありました。
そのために、アメリカの商船を焼き払って乗組員を皆殺しにするといった暴挙さえ、多発していたほどです。ましてや、欧米文化の真似をして明治維新をした日本など、とんでもない輩に見えました。
また、朝鮮には先に述べたように、世界文明の中心である中国から遠ざかるほど野蛮な劣等国だ、という考えがありました(華夷秩序)。
ですから、自分たちより「劣る」日本民族に支配されたという屈辱は、朝鮮の人々の激しい反発となって表れたのです。このように日本と朝鮮の関係は、初めから困難を極めました。
そうした中、1910年、日本は朝鮮――当時の大韓帝国を併合し、日本との合邦国家としました。いわゆる「日韓併合」です。これは、イギリスの連合王国でたとえるなら、イングランドとスコットランドの関係にも似ています。
「日韓併合」は、日韓併合条約にあるように、少なくとも形の上では双方の「合意」に基づいてなされたものでした。しかし、日本側の強い圧力で行なわれたものであったのも事実です。これにはまた、欧米からの支持もありました。
当時、新渡戸稲造などは、もし朝鮮が自立できるならば、ヨーロッパのベルギーのように小さくても独立したほうがよい、と考えていました。しかし日本が手を離したら、いずれ中国かロシアの植民地にされてしまう運命にあると考える者が、大勢を占めました。
アメリカのルーズベルト大統領なども、朝鮮が自立できないなら、むしろ日本と合併したほうがよいという意思を示しました。実際、1905年1月に、韓国の保護国化に承認を与えています。
また韓国人の間にも、この併合を熱心に推進したグループがありました。「一進会」といいます。
その指導者、李容九は来日した際、樽井藤吉の『大東合邦論』という本に出会いました。当時、欧米諸国は東洋に進出し、次々に植民地を広げていました。樽井は、欧米諸国に対抗するため、こう主張していました。
「ドイツがプロシアを中心に連邦を組んだように、日本と韓国が合邦し、支那(中国)と連合して欧米にあたらなければならない」。
この意見にすっかり感動した李は、韓国と日本の合邦を積極的に唱え始めたのです。彼は韓国で同志を集め、日本に協力して、反日的勢力と戦いました。彼ら「一進会」は、最盛期には百万人を号しました。
中国の統治に比べるとはるかに優遇されていた日本統治下の朝鮮
一部の日本人学者を含め、多くの韓国人・朝鮮人の学者は、日本による朝鮮統治時代を、史上最悪の植民地統治と書き立てます。そして日本政府関係者が、
「日本の統治では良いこともした」
などと一言でも発言すれば、すぐに「妄言を吐いた」とされ、蜂の巣をつついたような騒ぎになります。しかし、日本の植民地統治のすべてが悪夢のようにひどかったわけではありません。
日本統治以前、清国が朝鮮を属国支配していた時代には、清国の朝鮮に対する扱いは奴隷以下でした。朝鮮の国王の地位は、清国朝廷の延臣以下とされたのです。
さらに清国は、属国や地方からの収奪を続けていました。そのために朝鮮国内は混乱し、一揆や争乱は絶えませんでした。朝鮮の国家財政は破綻。自力で建て直すのは不可能という状態にありました。
一方、日本統治下になると、韓国人の皇族・貴族は一貫して日本の華族と同等の扱いを受けていました。
またすでに日本統治下の1896年に、朝鮮人の士官が11人も、日本陸士に入っていました。以後終戦に至るまで、朝鮮人は日本人と同じように軍事教育を受け、中将まで出ていたのです。
さらに、イギリスやフランスなどが植民地からしぼり取っていたのとは逆に、日本は朝鮮の近代化のために莫大な投資を続けました。日本は国庫から出す一方だったのです。
日本は朝鮮に鉄道を敷き、道路をつくり、港湾を築き、製鉄、造船、重化学などの工場をつくり、農業を改良しました。
保健衛生施設の普及などに力を注ぎました。伝染病やアヘン中毒患者は激減しました。
日韓併合以前、朝鮮の教育事情をみれば、就学率はわずかに1%。しかし昭和18年には、61%に達しています。
いま韓国人が使っているハングル文字は、15世紀につくられたものですが、日本統治以前は、漢文を用いる貴族階級から軽蔑されていたため、実用化していませんでした。しかし日本はハングルを普及させ、それを初めて小学校教育に導入したのです。
フランスの人文地理学者のマサビュオー氏は、『新朝鮮事情』(白水社)の中で、冷静かつ客観的見地から、日韓併合が韓国に近代化をもたらしたことを、率直に認めています。
日本統治中のソウル南大門
日本統治によって、朝鮮は大きく発展した
こうしたことは韓国の教科書には書かれません。しかし歴史的な事実なのです。
また、よく日本の「武断政治」(武力による力づくの統治)が非難されます。しかし、それは大韓帝国時代の皇帝や「両班」(やんぱん 官吏)による恐怖政治ほど「武断」ではありませんでした。
日本統治以前の朝鮮は、硬直した官僚国家ということでは中国以上であり、専制君主国家として世界屈指の恐怖政治を行なっていました。両班と呼ばれる官僚が、民衆に対し生殺与奪の権をふるい、目に余る横暴を行なっていたのです。
韓国人エッセイスト呉善花氏によれば、当時の朝鮮人は、日本の憲兵警察による両班取り締まりを、大いに感謝したほどだったといいます。
つまり日本の朝鮮統治は、「強者が弱者をむりやり支配する侵略」というような単純な状況ではなかったのです。
日本の憲兵警察は、じつは日本人だけで成っていたのではありませんでした。半数以上は、朝鮮人の補助憲兵らでした。ところがそれまで内紛が絶えなかった朝鮮では、朝鮮人憲兵の中に、ひそかに朝鮮人同胞に私怨を持つ者が少なくありませんでした。
彼らの中には、日本の権力を借りて、朝鮮人に怨みを晴らす者がいました。これは後に、朝鮮の人々の日本に対する悪感情を生みました。
また韓国のキリスト教について見てみると、かつての王朝時代にキリスト教は何度も厳しい弾圧を受け、ほとんど広がりませんでした。それは先に述べた朝鮮の「衛正斥邪」の思想が、激烈な反キリスト教、反欧米思想であったからです。
では、いつ韓国のキリスト教が急成長したかというと、それは日本の植民地時代においてでした。19世紀末からプロテスタントの宣教師が数多く朝鮮に入り、社会福祉や教育にも力を入れながら宣教をなしたのです。
のちには日本の「皇民化政策」による迫害を受けたものの、それでも平壌などでは、日本の植民地時代を通じてキリスト教が盛んでした。これは日本統治の初期・中期などの朝鮮は、それ以前の王朝時代に比べ、かなりの自由があったことを示しているのではないでしょうか。
当時、日本は「内鮮一体」(内地と朝鮮の一体)のスローガンを掲げていました。少なくとも日本政府は、朝鮮の人々を見下すのではなく、相互に支え合う連合国家の形成を目指していたのです。
日米戦争はなぜ起きたか
つぎに日米戦争について見てみましょう。
日露戦争の前から、また日露戦争中も、アメリカは概して日本に好意的でした。小国が大国ロシアに立ち向かったというだけで、アメリカ人は感動しました。
当時、日本は、戦争に勝ったら満州をロシアから解放し、各国の自由な経済活動の場にすると約束していました。
アメリカ実業界は、以前から中国にビジネス進出することを夢見ていましたから、日本のこの約束を信じ、イギリスと共に日本の戦費のかなりの部分を肩代わりしてくれたのです。
ところが、日本は日露戦争で戦死者が10万人を越えてしまいました。その尊い犠牲の結果、ロシアから講和で得たものは南満州における鉄道経営権などにとどまり、賠償金はゼロでした。
国民は憤激し、新聞は国民の怒りをあおり、東京では大暴動事件までおきました。「十万の地であがなった満州」「満州を失うな」は国民的スローガンとなりました。
日本は以後、満州の開発に乗り出していきますが、かつて約束していたアメリカなどとの共同開発をしない方向に行ってしまいます。これはアメリカには、日本が満州をひとり占めにしようとしているものと映りました。
その後、日本が主張していた人種差別撤廃法案をアメリカが拒否する出来事や、アメリカにおける日本人移民排斥などの動きが起こります。
じつは日本は、もともとアメリカとは戦争をする気など毛頭ありませんでした。敵視もしていませんでした。アメリカとは出来るだけ仲良くやって行きたかったのです。
しかし日露戦争以来、アメリカのほうが最初に、日本を仮想敵国と考えるようになります。それは白人のロシアを打ち破るほどの強国、黄色人種の日本の存在は、あなどれないと見るようになったからです。
アメリカと日本の対立を決定的にしたのは、1940年の日独伊「三国同盟」でした。
しかし、三国同盟を結んだ当時の元・外相、松岡洋右の念頭にあったのは、アメリカとの戦争を防ぐこと、そして日中戦争を解決することでした。この思惑とは逆に、これはアメリカとの戦争を誘発するものとなってしまったのです。
当時の世界は、1929年以来の世界恐慌を乗り切るため、英米を中心に自国経済圏内の貿易を優先する「ブロック経済政策」がとられていました。しかし貿易しか活路のない日本にとって、この排他的・閉鎖的で日本を占め出すブロック経済は、真綿で首がしめられるような苦しみを与えました。
こうした現状を打破し、国家と国民の生存を確保するため、日本政府は「大東亜共栄圏」建設構想を打ち出します。これは、満州・台湾・朝鮮からなっていたミニ・ブロックを、本格的なものに拡大しようとしたものでした。
しかしこの計画は、米英仏などの利害と激しく対立しました。
そのため日本政府は、これらの行き詰まりを一挙に打開する方法を模索したのです。そうして締結されたのが、日独伊の三国同盟でした。
イギリスを敵視するこの同盟に加わることで、アメリカの譲歩を引き出せるのではないか、そしてアメリカとの国交を正常化し、中国との戦争も終わらせられる、と踏んだのでした。
けれども、これは綱渡りのような危険な戦略でした。また、アメリカという国のあり方を、余りに知らなすぎたやり方だったと言わなければなりません。
この意図は、アメリカには通じるはずもありませんでした。三国同盟の報を聞いたルーズベルト政権は、ガソリンなどの日本への輸出禁止、中国の蒋政権への資金・武器援助の大幅増で応えたのです。
三国同盟締結は、日本の意図とは逆に、日米関係を悪化させてしまったわけです。怒ったアメリカは、日本と戦争をして、この問題に決着をつけることを願いました。
最近明らかにされた事実によると、日本の真珠湾攻撃の約5ヶ月前に、アメリカは日本の本土爆撃を含む日本攻撃を計画していました。大統領のゴー・サイン、自署名入り作戦文書が、アメリカの国立公文書館で発見されたのです(産経新聞1999年7月15日朝刊トップ記事)。
日本の真珠湾攻撃は、「宣戦布告なき卑劣な奇襲攻撃」と言われています。しかしじつはアメリカは、日本の真珠湾攻撃より前に、自ら宣戦布告なき攻撃を計画していたわけです。
しかし、この「最初の一発」をアメリカ側が打ったのでは、国際世論はアメリカを非難し、味方してくれないでしょう。決闘を行なうにしても、相手に最初にピストルを抜かせ、それに早撃ちで応戦するのが理想とされるところです。
つまり最初の一発は、日本に打たせなければなりません。それでアメリカは、「ハル・ノート」と呼ばれる無理難題を日本に突きつけます。日本軍の真珠湾攻撃の10日前のことでした。
これはアメリカ議会も、アメリカ国民も全く知らないところで、大統領の独断で秘かに日本政府に提出されたものでした。この無理難題は、日本に開戦を決意させるに十分な内容を盛り込んだものだったのです。
そして日本の真珠湾攻撃が行われたとき、大統領は日本の「だまし打ち」を非難し、米国国民は日本の「卑劣さ」を怒りました。こうして日米戦争が開始されたのです。
当時病床にあった松岡は、真珠湾攻撃の報を聞き、泣きながらこう語ったといいます。
「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、今さらながら痛感する」。
日米開戦こそ、本当は松岡が最も防ぎたかったことだったのです。
背後にコミンテルンの謀略
では、日米戦争は、日米間の衝突だけで起こったのでしょうか。そうではありませんでした。
その背後には、もっと複雑な力が働いていたのです。アメリカのW・ビュリット駐ソ大使は、1935年7月19日に、
「アメリカを日本との戦争に引き込むのがソ連政府の心からの願望」
だと本国に知らせています。当時、コミンテルン(国際共産党組織)の戦略は、日米を戦わせて両者を弱体化させ、その機に乗じて、中国、またやがては日本、そしてアメリカをも共産化させることにありました。
ちょうど蒋介石軍と日本軍を戦わせて、両者を弱体化させ、その間に共産軍が力をつけて、ついには中国を共産化してしまったのと同じ戦略です。
アメリカはこの報告を受けていましたが、それでもある程度、この共産勢力の策略に乗せられてしまった形だったのです。
アメリカは、共産主義の拡大を何としても防ぎたい、と願っていました。しかし、アメリカはのちにソ連と結託して日本と戦います。そして中国から日本を追い出しますが、その結果、中国の共産化を許してしまうのです(大東亜戦争終結の4年後の1949年)。
また、アジアにおけるソ連の勢力を拡大させてしまいます。それによってベトナムは共産化し、朝鮮半島は分断され、北朝鮮は共産化してしまいました。この点で、明らかにアメリカの極東政策は失敗だった、ということができるでしょう。
さらに、コミンテルンの魔の手は、日本国内にも及んでいました。
1933年、リヒャルト・ゾルゲという人物が、ドイツの新聞記者を装って来日しました。彼はドイツ大使館に出入りして大使の信頼を得、通常の取材では入手できないような情報まで知るようになりました。
このゾルゲは、じつはコミンテルンのために働くソ連のスパイでした。また、ゾルゲに協力した日本人の中に、尾崎秀実がいました。彼は近衛首相の側近であり、私的にも親しい間柄でした。
彼らは近衛内閣に偽情報や意図的な影響を与え、日本がさらに中国に首をつっこむようにさせました。またそれによって日本が米英と対立を深めるように、仕向けたのです。
こうして、日本を「北進」させず「南進」させて日中戦争を拡大し、日米戦争をも引き起こすというコミンテルンの謀略が実ったわけです。
ゾルゲと尾崎は、大東亜戦争の始まった年の1941年、スパイ活動がばれ、逮捕されます。翌年、死刑判決を受けました。しかし、そのときには日米はすでに戦争をしていたのです。
偽書が及ぼした影響
また日米戦争において、「田中上奏文」と呼ばれた偽書の影響も、決して小さいものではありませんでした。偽書というのは作り話、でっちあげです。
これは1927年当時の田中義一首相が天皇に提出したものという体裁をとった文書で、日本はやがてアジア全土を侵略、征服し、またその後は世界征服を目指す、という内容を語ったものでした。
この偽書は、中国でつくられ、日本の侵略の意図を暴露するものとして喧伝(言いふら)されました。この偽書を作った犯人は、ユダヤ人を陥れた『シオン長老の議定書』と同様、コミンテルンであったといわれています。
「田中上奏文」の英訳コピーは、米国議会の議員たちの間でも、まわし読みされました。そして日本の邪悪な意図を示すものとして、その後の米国指導者たちの判断と行動に少なからぬ影響を与えたのです。
戦後、連合国が日本の戦争を裁いた「東京裁判」でも、日本断罪をなしたアメリカ人らは、この偽書を偽書と知らなかった読者でした。
そしてその影響は今日も残っています。なぜなら、いま日本の学校で教えられている歴史教科書は、おもにこの「東京裁判史観」および占領軍の、
"War Guilt Information Program"(戦争についての罪悪感を日本人に植えつける計画)
をそのまま受け継いで書かれているからです。つまり当時のアメリカ側の論理――日本は一方的にアジアを侵略した、悪者だったという歴史観に立って記述されています。ある高校生は、歴史の授業の日に、
「ああ、また日本の悪口か」
とこぼしました。こんな授業では、若者が日本に誇りを持てないのは当然でしょう。日本の悪いところを悪いと言うのは、よいのです。悔い改めるべきことはあります。
しかし日本だけが悪かった、あるいは、日本は悪いことだけをしたと言うなら、これ以上の歴史の歪曲はありません。一面的な偏向教育は、青少年の健全な育成をもたらしません。
勝てば官軍、負ければ賊軍
東京裁判というのは、戦後、勝者が敗者の戦争犯罪を一方的に裁いた裁判です。
大東亜戦争が終結したとき、日本の総理大臣は東条英機首相でした。彼は裁判の被告席にすわったとき、戦争をするに至った日本の立場を次のように説明しました。
まず戦争の直接の原因は、1929年以来の世界恐慌に始まったと、東条は述べました。
それによってアメリカなどの国が、いわゆる「ABCD(米、英、中、オランダ)ライン」の経済封鎖によって、資源を持たない日本を追い込んだことを述べました。
また武力包囲、日本資産の凍結、物資の禁輸などによって日本を排除しようとしたこと、それによって窮地に立たされた日本は、もはや実力(武力)で資源獲得をする以外になくなったことを、主張しました。
つまり東条にとって、この戦争は明確に自衛戦争であったのです。日本の存亡をかけた、生きるか死ぬかの戦争でした。
またその一方、東条は、日本は東アジアの保全と中国との協力を求めていながら、中国に対して強引な武力行動に出たしまったことの反省を述べました。
日本は、国際連盟で人種平等を唱えながら、中国に不平等条約を強要し、維持し続けたという矛盾をおかした。またそのために、半植民地の状態から抜け出そうとしていた中国の民族主義と、激しく対立してしまったとも述べました。
東条はまた、東京裁判を批判して言いました。世界戦争が勃発する背景には、歴史的に根深い原因が相互にある。戦争責任を一方の指導者にかぶせても、それは解決にならない。また国際法上、外交上の開戦責任を論じても、本質的な原因を究明することにはならないと、主張しました。
それは東京裁判が「文明と人道」を法基準とするなら、戦争犯罪の追求は当然、連合国側にも及ぶべきものではないか、という主張だったのです。
東条の弁明は、堂々としたものでした。戦争をして、一方が完全な悪玉で、一方が完全な善玉であるということはあり得ないのです。
しかし、東京裁判はもともと、勝者が敗者を一方的に裁くものでした。東条の主張が聞き入れられるはずもありません。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉もあるように、勝った方の行為は正当化され、負けた方が悪とされるのが世の常です。
しかし、アメリカ人の中にも、日本を弁明して立つ人がいました。
ベン・ブルース・ブレークニー弁護人は、1948年3月10日の最終弁論において、連合国側、とくにアメリカがいかに経済的・軍事的に日本を追い込んだかを、論証しました。そして大東亜戦争は、連合国の「不当な挑発」によって引き起こされたものだと、訴えたのです。
彼は日本を去るとき、日本の全被告に対してこう述べました。
「わたしは最初日本に着いたときには、これはとんでもない事件を引き受けたものだと、後悔しないでもありませんでした。
けれどもその後、種々調査、研究をしているうちに、私どもがアメリカで考えていたこととは全然逆であったことを知りました。
つまり日本には、20年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて断じてなかったことに、確信を持つに至ったのです。したがって起訴事実は当然、すべて無罪です」。
トインビーの評価
このように、かつての大東亜戦争は、様々の出来事が重なり、こじれあって起こったものです。
しかし、雨降って地固まるといいましょうか、日米はかつてケンカをしましたけれども、ぎくしゃくした過去を乗り越えて、今や両者の関係はこれまでになく仲のいいものとなっています。
私たちは過去を知った上で、未来の平和を築いていかなければならないのです。
英国の歴史家、アーノルド・トインビーは、日本の近代史についてこんな分析をしました。
19世紀以来の食うか食われるかの帝国主義時代の中で、日本の取るべき選択肢は一つしかなかった。それは明治維新を断行し、近代国家に生まれ変わることだった。それがなかったら、日本は欧米の植民地になっていただろうと。
また日本に来たこともあり、日本を愛したトインビーにとって、大東亜戦争は悲しい出来事でした。しかし彼は、日本の無謀さを批判しながらも、戦後は、
「日本は米英を一時的に打ち破り、植民地帝国を解体へ追い込んだ。そしてアジア諸国民のためになる働きをした」
と、その一面を評価しました。
トインビー。彼は「日本はアジア諸国民
のためになる働きをした」と述べた。
明治維新以来、日本の外交は、悪戦苦闘の連続でした。その歴史を、一面的にだけとらえて自虐史観に偏ることは、今後の日本の歩みにマイナスになるだけです。
韓国への賠償問題は?
次に、いわゆる「賠償問題」を考えてみましょう。
今も韓国ではしばしば、日本による個人への賠償を求める声があがります。しかし、日本は韓国への賠償をまだしていないのでしょうか。
いいえ、かつて1965年、日本と韓国は日韓条約を結び、すべての賠償問題を終了しました。岡田邦宏著『「戦後補償論」は間違っている』によれば、そのとき日本は無償で3億ドル(約1080億円)、有償で2億ドル(約720億円)、さらに民間借款で3億ドルを支払ったのです。
また日本は、韓国内に持っていた財産を放棄し、その上で、
「両国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決された」
ことで両国は合意しました。民間借款を除いた5億ドルだけでも、当時の韓国の国家予算の1・45倍にあたる膨大なものです。
韓国の人々の中には、「あれは単なる経済協力にすぎなかった」と説明する人もいます。しかし「請求権に関する問題」が「完全かつ最終的に解決」されたと条約にあるのですから、これは賠償問題の終了を意味します。
韓国は、このお金を「軍人、軍属、労務者として召集・徴収された」者で死亡した者の遺族への補償に、一部使いました。
しかし大部分は、道路やダム、工場の建設など国づくりに投資しました。その結果「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げたのです。
韓国はこのように、日本から得たお金を個人補償として人々に分配することよりも、全国民が豊かになることを選びました。それは韓国自身がとった行動であり、出した日本がその使い道についてあれこれ言うことはできません。
個人に対する補償を日本政府に求める韓国人は、こうした事実を知る必要があります。日本人も、貧しかった中で、一生懸命働いて賠償要求に応じてきたのです。
しかし日本にとって歯がゆいのは、韓国政府がこうした過去の条約を知りながら、国民から補償を求める声があがったときに何も言わないことです。それは、言えば、偏った反日教育ばかり受けてきた韓国人の感情を抑えられないからかもしれません。
補償問題については、こうした歴史の経緯を正しく理解しなければなりません。
日本はアジア諸国に賠償をしなかったか
では、韓国以外のアジア諸国への賠償はどうでしょうか。
1951年、日本はサンフランシスコ条約を結んで、連合55カ国中、48カ国と講和をしました。その条約とそれに続く個別の国との協定において、日本は、戦争で与えた損害に対して賠償を行なうことを約束。そこから戦後処理が始まりました。
岡田氏の前著によれば、日本はたとえばフィリピンに賠償金約1980億円、借款約900億円、インドネシアには賠償金約803億円、借款1440億円を支払いました。
このほか賠償、補償の総額は約3566億円、借款約2688億円で、合わせて6253億円にのぼります。これ以外にも事実上の賠償として、当時日本が海外に保有していた財産は、すべて放棄して現地に残しました。
たとえば日本政府が海外に持っていた預金、鉄道、工場、建築物、はては国民個人の預金、住宅まで含み、当時の計算で約1兆1千億円にも達しています。
なお中国の蒋介石政権は、対日賠償請求権を当然持っていましたが、「以徳報怨」(怨みに報いるに徳を以てせよ)の精神に立ち、一切の賠償請求権を放棄してくれました。彼は、今後日本と中国が手を取り合って「大同の世界」(真の平和が実現した世界)を実現していこうと、呼びかけたのです。
この蒋介石の賠償請求放棄は、敗戦国日本にとって、どれほどありがたいことだったでしょう。ただし日本は、中国や台湾に莫大な資産をそのまま残してきたので、その残してきた資産は、単なる賠償以上にその後の中国、台湾の発展の基礎となったのです。
また、1972年に日中国交回復がなされ――このときの中国は共産主義政権でしたが――以来、日本は中国に対し莫大な「財政支援」を続けてきました(約6兆円)。
これは、日中間の賠償問題はすでに決着がついているので、日本は隣国・中国への友情のしるしとして、財政支援という形でしてきたのです。
しかし、中国の共産主義政権は、国民にいまだにこれを知らせていません。中国の国民は、中国は賠償権を放棄して日本に恩義を与えたということだけを、聞かされているようです。
いずれにしても、このように日本は、戦争被害を与えた国に対し、賠償を行なってきました。一方ドイツは、国に対する賠償を行なうのではなく、個人に対する賠償の方法を取りました。
ドイツ人の考え方は、ナチスの戦争責任は国家にはなくすべて個人にあり、したがって戦争被害者もすべて国家ではなく個人である、というものです。それで、個人に対する賠償を行ないましたが、ドイツは戦争被害を受けた国家に対する賠償は一切行なっていません。ドイツは、被害国との講和を一切結んでいないのです。
このように日本とドイツの賠償の仕方は、異なる形のものです。どちらがいいというのではなく、両方ともそれぞれの仕方で賠償を行なったのです。
日本は戦後の貧しい時代に、賠償を約束した国々に対して、それをきちんとすべて実行してきました。毎年の返済額は、国家予算の3割近くにも達しました。
ちなみに1955年のスチュワーデスの初任給は、7000円でした。今日、こうした事実が忘れられ、戦後補償の問題が間違った形で討議されることがあります。
しかし補償問題が言われるとき、私たちは右往左往するのではなく、歴史の経緯をよく理解した上で対処していかなければなりません。
キリストは、「平和をつくる者は幸いです」(マタ5・9)と言われました。真の平和をつくるには、過去の歴史に対する偏らない理解も必要です。その上でこそ、積極的で効果的な平和活動も生まれてくるのです。
[参考文献]
◎「教科書が教えない歴史」(藤岡信勝/自由主義史観研究会)扶桑社文庫
◎「捏造された日本史」(黄文雄)日本文芸社
◎「国民の歴史」(西尾幹二)産経新聞社
◎自由主義史観研究会ホームページ
久保有政著
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