韓流歴史観を正す
日本は、破産状態にあった朝鮮を建て直し、救った
日韓併合前、李朝末期の朝鮮の人々は、極貧の中にあった
かつて「日本は朝鮮の人々に対して、とてつもなく悪いことを繰り返してきた」ということが、よく言われてきました。
これはもともと韓国の人々が叫んだものです。いわゆる「韓流歴史観」です。それに同調した日本国内のいわゆる「反日的日本人」もそう叫んできました。
しかし、朝鮮半島の日本統治時代は、彼らが言っているほど悪いものだったのでしょうか。いいえ、もしあの日本統治の三六年間がなかったならば、今日の朝鮮半島、とりわけ韓国の繁栄は決してなかったでしょう。
破産状態にあった朝鮮
一九世紀から二〇世紀前半にかけての世界は、弱肉強食の植民地化の時代でした。西欧の列強諸国はアジア各国を次々に植民地化し、アジアの国々から搾取して、自国を富むものとしていました。
大東亜戦争(太平洋戦争)前には、アジアのほとんどの国は、西欧諸国の植民地となっていたほどです。そうした中、ただひとり、西欧諸国の植民地とはならずに、アジアで自主独立を保ち、近代的な国家を築き上げた国がありました。
日本です。日本は必死な思いで明治維新を成し遂げ、西欧諸国と同じような力をつけようと努力し、それに成功していました。これによって日本は西欧の支配をまぬがれ、対等の立場で生き抜こうとしていたのです。
そうした中、お隣の朝鮮は、国造りの面で非常にたち遅れていました。当時の朝鮮は、いわゆる李朝(りちょう)末期の時代で、混乱し、国としての体さえなしていない状態であり、崩壊寸前でした。防衛力もなく、財政は破綻し、国家的破産状態にあったのです。
朝鮮の民衆はつねに、飢餓と、疫病と、重い税金にあえぎ、極貧の中を細々と命をつないでいました。支配者層は支配者層で、その貧しい民衆から搾り取ることしか考えてない独善的な人々でした。
彼ら王族と「両班」(ヤンバン・官吏貴族)は、労働を蔑視する人々で、みずからは決して労働をしませんでした。そして、人口のほとんどを占める一般民衆を、生かさず殺さずの状態におき、そこから搾取していました。
当時朝鮮にいたイギリス人旅行家、イザベラ・バードは書いています。
「朝鮮には二つの階級しか存在しない。盗む側(王族・両班)と、盗まれる側(平民・奴隷)だ」
「朝鮮には二つの階級しか存在しない。盗む側(王族・両班)
と、盗まれる側(平民・奴隷)だ」(イザベラ・バード)
また朝鮮では、学問は排他的な朱子学があるだけで、科学も、医学もありませんでした。学校も病院も治水施設等もほとんどなく、中国の文豪・魯迅からは「世界一貧しい国」とまで呼ばれた国が朝鮮でした。
外国人は、ソウルを「世界有数の不潔な街」と評し、道で糞尿を踏まずに歩くのは不可能だったと述べています。街には鼻をつく悪臭が満ちていました。また当時の朝鮮にいた宣教師は、あまりに水がきたないので、風呂に入れば、入る前よりも汚れてしまうほどだったといいます。
商売はいまだに物物交換が主流で、ろくな産業も道路もありませんでした。また人々は、冬の寒さをしのぐ薪とするために山の木をみな切ってしまうので、山がいたるところハゲ山と化していました。そのために泥水が流れだし、農業も壊滅状態にありました。
しかし一番の問題は、そんな極貧の状態で、内乱が頻発していることでした。政治は混乱し、いまや李朝末期の朝鮮は崩壊寸前だったのです。国際連盟の事務局次長であった新渡戸稲造は、「枯死国朝鮮」と呼び、国家的な死に瀕したのが朝鮮だと述べました。
また当時、朝鮮人の玄永燮は、
「日韓併合前の朝鮮は地獄であったといってもよい」
と述べています。
助け舟を出した日本
そんな状態でしたから、朝鮮が西欧の植民地となるのは、もはや時間の問題だったのです。あるいは中国(清)の一部となるか、ロシアの一部となるか、といった状態でした。こうした朝鮮の実情を、「他国のこと」として放置しておくことは簡単なことだったでしょう。
しかし日本には、これを放置しておくことのできない事情がありました。地図をみればわかりますが、ユーラシア大陸から日本列島に向かって、グィと突き出た形になっているのが、朝鮮半島です。
この朝鮮半島に、もしロシア、中国(清)、または西欧の勢力がいすわってしまえば、日本はその侵略から自国を守る方法がなくなってしまいます。そうなれば、朝鮮は、いわば日本の喉元(のどもと)に突き出されたナイフのような役目を果たしてしまうでしょう。
ですから日本にとっても、朝鮮半島の実情は決して無視できないものだったのです。朝鮮が自立的な独立国家として力をつけてくれない限り、日本も危うい状態が続くでしょう。
また朝鮮は、かつて古代の日本に、大陸の先進文明を伝えてくれた国です。いわばお世話になった国です。その国がいまや崩壊しようとしており、外国の餌食になっていく姿を、日本がじっと見ているわけにはいきません。
これは、たとえば長屋に住んでいる人の場合にも似ています。お隣でボヤがあったり、ドロボウが入り込めば、決して無関心ではいられないでしょう。また、お隣の家族が病気であったり、極貧の状態におかれていれば、やはり何かしらしてあげようと思うのが人情というものです。
それで明治の日本が願ったことは、朝鮮半島に、外国に侵されることのない、日本と同じ独立の気概と力を持った近代的国家が誕生することでした。そのために日本は、官民をあげて朝鮮の近代化運動を支援していきました。
日本は、朝鮮に助け舟を出したのです。
李朝末期のソウル南大門
それにはまず国交がなければなりません。日本は、朝鮮との間に対等な国交を求めました。友情を持っておつき合い出来れば、朝鮮の近代化を支援していくことも可能になるでしょう。それで日本は、外交官を朝鮮に派遣しました。
ところが当時の李王朝(李氏朝鮮)の政府は、この申し出を冷たくあしらったのです。というのは、中国の属国であった朝鮮には、旧態依然とした唯我独尊的な思想が幅をきかせていたからです。
朝鮮には「中華思想」というものが強く支配していました。これは、中国は世界文明の中心であり、そこから遠ざかる国ほど「野蛮で」「劣った国」であるという思想です。
この思想を持った朝鮮からみると、中国から遠い日本は「野蛮な国」であり、「劣った国」です。彼らは、日本が西欧列強の支配から独立を守るために明治維新を成し遂げた意味がわかりません。
朝鮮の人々は、洋服を着て西洋のマネをし始めた日本人を、「禽獣」にも等しい者とみなし、軽蔑して、日本の使節を追い返すことまでしました。
東亜のトラブルメーカーだった朝鮮
日本と朝鮮の関係について書いたある中学生用の歴史教科書には、
「日本人の心の中には、朝鮮人を差別する間違った意識がありました」
と書かれています。しかし、これは歴史の事実の半分しか述べていません。実際は、このように朝鮮人が、先に日本人を蔑視したのです。
とはいえ、朝鮮人による日本人への蔑視は、日本人にとって大きなことではありませんでした。それは朝鮮人の自由として、ほっておくとしても、朝鮮がこのような旧態依然とした体制でいる限り、いずれ朝鮮が崩壊し、そこに列強の勢力がいすわってしまうことは目に見えています。
そこで、日本は朝鮮を、強引なかたちでですが開国させます。それまで朝鮮は、かたくなに鎖国政策を続け、自分の中にこもっていたのですが、通商を始めさせ、外国に対して門戸を開かせたのです。日本もかつて黒船のペリー提督によって無理矢理、開国させられました。しかしそれが結局は良かったということを、日本人は知っていたのです。
朝鮮は、日本に対して開国すると、続けて西欧諸国に対しても開国しました。しかし、朝鮮の内部では、近代化を推し進めようとする人々と、それまでの旧態依然とした伝統にこもろうとする人々が対立し、内乱やクーデターが起きていました。
こうした不安定な中、王族は「勢道(せいどう)政治」――すなわち王の一族が国を私物化し、国政を欲しいままにする政治を続けていました。
日本の大使館も二度襲われ、多くの日本人が虐殺される事件も起きました。しかし大使館を襲うことが、国際社会の中でどんな意味を持つかということも、朝鮮の支配者にはわかりません。
また朝鮮の支配者は、あるときは近代化のために日本と手を組んだかと思うと、今度は自らの保身のために清国(中国)に媚びを売り、次にはロシアに媚びを売るというように、一貫性のない、行き当たりばったりの政治を行ないました。
その無節操な行動に、日本だけでなく周辺の国々も振り回されていきます。当時の朝鮮は、世界から「東亜(東アジア)のトラブルメーカー」と思われていました。そして日本は、この朝鮮のために、日清・日露の二つの戦争を戦わざるを得なくなったのです。
朝鮮を独立させるために動いた日本
日清戦争は、清国が条約を破って朝鮮に軍隊を出したことから始まりました(一八九四年)。
清国は、それまでにも朝鮮を属国化し、年貢を取り立てていましたが、朝鮮に対する支配を強化しようと働きかけてきました。朝鮮を隷属させようと働きかけてきたのです。
中国には、もともと「天下、王土に非らざるものなし」といって、見えるところすべては中国の王の領土、中国の版図だという領土意識があります。要するに、手の届く世界はぜんぶ俺のもの、という意識です。
今日も中国は、台湾は俺のもの、チベットは俺のものというように、見えるところは全部自分の領土という姿勢を取り続けています。本当はそんなことを言える資格は全くないのですが、当時、清国は、朝鮮に対してもそのような強引な態度に出てきました。
清国によるこの朝鮮の奴隷化を放置しておくならば、朝鮮はますます自立できず、近代化に取り残されるでしょう。それで日本は、清国のくびきを朝鮮から排除しようとします。日清戦争がこうして勃発しました。
当時の日本人には、日清戦争は決して侵略戦争ではなく、義戦であるという明確な認識がありました。明治天皇の詔勅に、
「朝鮮は、(日本)帝国が、そのはじめより、導き誘って諸国の仲間となした一独立国である。しかし清国は、ことあるごとに、自ら朝鮮を属国であると主張し、陰に陽に朝鮮に内政干渉し、そこに内乱が起こるや、属国の危機を救うという口実で、朝鮮に対し出兵した」
それで、やむを得ず、朝鮮を清国から解き放つために戦いを決意した、としています。当時、クリスチャンの内村鑑三も、これは朝鮮独立のための義戦だと書きました。
内村鑑三はまた、この義戦は「文化を東洋に施きたく、その平和を計るにあり」とし、「日本は東洋における進歩主義の戦士、ゆえに進歩の大敵である支那(清国)諸国を除けば、日本の勝利を希望しないものは、世界万国にあるわけがない」と書いています。
日本はこの日清戦争に勝利し、朝鮮を清国から独立させます。一〇〇〇年にわたって中国の属国であった朝鮮は、このとき初めて独立国家となりました。その宣言(下関条約)に、
「朝鮮は自主独立の国であって…」
と明記されています。永年の中国のくびきから朝鮮を解き放ち、独立国としたのは日本でした。
日清戦争時の広島予備病院。日本は
朝鮮の独立のために清国と戦った。
しかし、日清戦争が終わった後、今度はロシアが朝鮮半島にねらいを定めてきました。ロシアは当時、膨張主義と侵略を繰り返し、領土を広げていました。朝鮮がロシアの手に落ちれば、朝鮮の未来がないばかりか、日本も危ない状況となります。
そこで、ここに日本とロシアが戦う日露戦争が勃発しました(一九〇四年)。日露戦争も、やはり朝鮮半島をめぐる戦いでした。ロシアは、強大な白人の帝国でした。もし、この戦いに日本が破れれば、朝鮮も日本もロシアに占領され、ロシアの一部となったでしょう。
つまり、これは朝鮮と日本の存亡をかけた戦いだったのです。しかし、日本はこの戦いにも完全な勝利をおさめます。そのとき、世界中の人々が驚愕したことは言うまでもありません。東洋の黄色人種の島国が、白人の強大な帝国ロシアを打ち倒したからです。
朝鮮を救う残された道
日本はこうして、清国とロシアのくびきを、朝鮮半島から何とか排除しました。けれども、それで朝鮮人自身に、自主独立の国造りの意識や、気運が生まれたわけではありません。
このあいだも、ずっと日本は、朝鮮が近代化して力をつけていけるように、あらゆる側面から支援していました。かつて日本に明治維新の志士たちがいたように、朝鮮人の間にも、朝鮮の維新を成し遂げようとする志士たちがいました。日本に留学して学ぶ朝鮮人も多くいました。
日本はそうした朝鮮人を援助していきます。日本が願ったのは、「朝鮮人による朝鮮人のための朝鮮維新」でした。しかし彼らの働きは、朝鮮国内の根強い「華夷秩序」(かいちつじょ 中華文化圏以外を野蛮な国とする)思想や、「衛正斥邪」(えいせいせきじゃ 朱子学の伝統以外を排除する)思想に阻まれてしまいます。
そして朝鮮人による朝鮮維新は、残念ながら、失敗に終わります。クーデター、裏切り、あざむきが渦巻きました。朝鮮を自立させるために尽力してきた伊藤博文も、満州のハルピンで朝鮮人に暗殺されてしまいます。
朝鮮を自立させようと尽力した伊藤博文
朝鮮はもはや、ひとり立ちできない状態でした。こうして朝鮮人自身による近代化の道が挫折したとき、日本はみずから朝鮮統治に乗り出しました。日本は、日本と朝鮮を一つの国家、合邦国家としたのです。いわゆる「日韓併合」(にっかんへいごう)です(一九一〇年)。
これには、朝鮮側でも「一進会」のように日韓併合を推し進めた朝鮮人グループがありました。彼らは、日本と一つになることが、朝鮮を救う唯一の残された道だと考えていました。彼らの協力のもと、日韓併合が実現したのです。
日本が朝鮮を併合したのは、朝鮮という領土を欲しくてのことではありません。朝鮮という貧しい国と一つになることは、日本にとって大きな荷物となることは目に見えていました。
しかし、朝鮮を自立させることは、日本の望みであっただけでなく朝鮮国内の開化派の切なる願いであり、日本はそれを助けたかったのです。
併合国家、合邦国家というのは、近代ヨーロッパでも、たとえばノルウエーとスウェーデン、ノルウエーとデンマークなどが、かっては同君合邦国家を作ったことが知られています。オーストリア・ハンガリー帝国、チェコスロバキアなどもそうです。
それは世界でもよくある方法であり、国を建て直すための効果的な方策だったのです。日韓併合は、正当な法的手続きによったものでした。当時の列強諸国も承認し、また賛成しています。中国も反対せず、ロシアも承認しました。これは、朝鮮を救い、自立させる最後の手段と考えられました。
これは、たとえば家長に仕事がなく、病気がちで収入のない崩壊寸前の家庭に、国が生活保護の制度を適用することに似ていないでもありません。その家庭が立ち直るまで、援助をしながら自立を助けていくのです。
同様に、日本は直接、朝鮮の再建と自立に取り組んでいったのです。日韓併合により、以来、三六年間、朝鮮は日本の領土の一部となりました。
生まれ変わった朝鮮
日韓併合当時、日本人は決して朝鮮を「植民地」とは考えていませんでした。むしろ日本本土の延長と考えていました。西欧の植民地ではどこも、搾取が行なわれていましたが、日本は朝鮮に対し巨額の投資を行なって、国造りをしていったのです。それは朝鮮を、日本本国の延長と考えたからです。
朝鮮統治は、最初から最後まで、日本にとってはいつも「持ち出し」でした。日本の税金によって朝鮮の建て直しを行なったのです。もともと朝鮮には、搾取できるような富も、資源もありませんでした。搾取というなら、日本政府は日本人から搾取して莫大な富を朝鮮半島につぎ込んでいったのです。
たとえば黄文雄著『韓国は日本人がつくった』(徳間書店)によると、朝鮮での歳出はいつも一五〜二〇%の赤字で、その赤字分はいつも日本本国から補填されていました。また朝鮮の京城帝国大学の図書館予算は、東京帝国大学の一〇倍にものぼりました。
地租(土地の税金)にしても、日本国内が二五%だったのに対し、朝鮮ではたったの三・八%。それだけ朝鮮人の負担を軽くしたのです。
米価の設定も、生産者の手取り価格は一石あたり五〇円であるのに対し、消費者価格は四三円(一九四一年)。逆ざやです。つまり、生産者からは高く買い取り、消費者には、買った値段より安く売っていたのです。
いかに朝鮮の人々が手厚く保護されていたか、この一事をみてもよくわかります。
日韓併合時代、朝鮮における政治の中心だった朝鮮総督府
また、日本による統治以前、朝鮮は衛生事情がきわめて悪く、西洋医学もなかったため、毎年、疫病によって多くの人々が死にました。しかし日本は、朝鮮国内の衛生事情を改善し、医学知識を教え、病院を建てました。その結果、疫病も猛威をふるうことはなくなりました。
日本統治以前の朝鮮は、どこへ行ってもハゲ山で、土地はやせていて、毎年、多くの餓死者を出しました。当時の朝鮮を旅したジェロトケビチの『朝鮮旅行記』や、シャルル・ダレ神父の『朝鮮事情』にも、その惨憺たる状況が描かれています。
しかし、そこにダムを造り、治山、治水事業を行ない、やせた土地を開墾し、荒れ地を農地に変えていったのは日本人たちでした。日本人はまた朝鮮人に愛林思想を教え、山に木を植え、また効率のよい農作技術も教えていきました。
こうして「日帝三六年」の間に、農業生産は飛躍的に拡大したのです。朝鮮の人口も、二・四倍に増加しました。これには衛生事情の改善や、医療、また食糧事情の改善などが影響しています。
日本統治以前、朝鮮にはろくな道路も、港湾も、鉄道も、空港もなく、整った貨幣制度もなく、近代的な法律体系もなく、産業の基盤となるインフラはほとんどありませんでした。しかし日本は、それらのものを、わずか三六年で疾風怒濤のように整備していきました。
李朝末期の朝鮮はまた、ソウルを除くほとんどの地域で、強盗のはびこる社会でした。内乱も頻発し、道にころがる死体を見るのは日常的なことでした。けれども日本統治下で治安は安定し、強盗の多くは姿を消し、また李朝末期に比べれば内乱もはるかに少なくなったのです。朝鮮人の玄永燮は、
「日韓併合によって旧来の習はすべて改められ、生命に満ちあふれた新朝鮮に生まれ変わった」
と述べました。
日本は奴隷制を廃止した
日本が朝鮮を併合したとき、朝鮮の王族は尊重され、日本の皇族からの厚い待遇を受けました。これは、かつてのフランス革命のときにルイ一六世がギロチンにかかったことや、ロシア革命の際に王室が滅ぼされたことと、きわめて対照的です。
またイギリスがビルマを植民地としたとき、ビルマの王室は悲劇の運命を歩みました。しかし日本統治下の朝鮮王室は、存続しただけでなく、きわめて厚遇されていたのです。
一方、日本は、朝鮮にそれまで存在していた奴隷制を断固、廃絶しました。朝鮮には、あのインドのカースト制にも匹敵するひどい階級差別が存在していたのです。これは日本の江戸時代の士農工商とも違い、東アジア社会ではほかに見られない最も頑強な階級差別でした。
とくに最下級の奴婢は、売買される奴隷であり、財物とみなされ、家畜と同様の扱いを受けていました。主人が奴隷を殺しても、殺人罪にはなりませんでした。奴隷は、朝鮮人口の約四三%もいました。
朝鮮の奴隷(奴碑)。日本はこれを廃止し、万民平等とした。
日本はその奴隷制度を廃止し、階級差別をなくし、そこに万民平等を敷いたのです。
朝鮮の国土開発計画は、こうした元・奴隷を「労働者」として雇うことによって行なわれました。その際、日本は彼らに「日当」を支払いました。当たり前のことと思うかもしれませんが、かつての李朝朝鮮時代には奴隷に給料が支払われることはなかったのです。
日当が支払われたことは、朝鮮半島の歴史始まって以来、破天荒のことでした。日本統治時代は彼らにとって、文字通り奴隷からの解放であったのです。日本の強権統治を批判する向きもありますが、このような未開社会を改革するには、強権統治以外にはなかったでしょう。
李朝時代の朝鮮の階級別人口は、奴婢(奴隷)が約四三%、良民(常民)が約五〇%、残りの約七%は「両班」(ヤンパン)と呼ばれる人々でした。良民は普通の人々、「両班」は特権階級の官吏、公務員です。日本はこうした階級制度の廃止を断行しました。
階級制度の廃止で、奴婢と良民は喜びました。しかし両班にとっては、それは特権の喪失を意味しましたから、彼らは日本に対し恨みを持ち続けました。日本が大東亜戦争に負けて朝鮮半島から引き上げていったとき、朝鮮の指導者となったのは、この両班の流れをくんだ人々でした。
彼らは、朝鮮の教育界を反日一色にしていきました。
両班が反日運動の流れをつくった
日本に恨みを抱いたこの「両班」と呼ばれた人々について、もう少しみてみましょう。
李朝時代の朝鮮に君臨した支配層は、王族とこの両班でした。一方、江戸時代まで日本を支配していたのは、武士たちです。
支配層の考え方や思想は、国全体の国民性に深く影響します。
日本の武士たちは、忠実、誠実、勤勉、正直、勇気、先取性、自主独立等を人間の徳と考える人々でした。また「滅私奉公」という言葉があるように、私利私欲は悪であり、公に奉仕することこそ人の道という考えを持っていました。
一方、朝鮮の両班の人々は、労働を蔑視し、「箸と本以外に重いものを持たない」といわれるほどの労働蔑視論者でした。彼らは、額に汗して労する農民たちをさげすみながら、その農民たちから搾取して自分たちの生活を支えていました。
両班は、儒教の一つである朱子学を奉ずる人々でした。朱子学では、人間を「君子」と「小人」に分けます。小人とは一般の働く人々で、君子は、働かずに身を動かさないことが原則なのです。聖人君子は働いてはいけないとされ、彼らは極端に労働をさげすみました。
スポーツも、彼らは忌み嫌いました。すなわち、本を読み、労働せずに暮らすのが彼らにとって正しい生き方なのです。怠惰と、異常に高い気位が彼らの特徴でした。その最高の美徳は、働かずに得る不労所得でした。両班の実態について、グレゴリー・ヘンダーソンは『朝鮮の政治社会』のなかで、
「国家と民衆を食い物にして私腹を肥やすことしか考えていなかった」
と記しています。彼らは「公」に奉仕するのではなく、私利私欲に生きる人々だったのです。そして、国内では極度に頭を下げる事を嫌い、少しでもプライドが傷つけられるような事になれば、烈火のごとく怒りだす人々でした。
しかしその一方、両班は、中国に対しては「事大主義」(じだいしゅぎ)を通しました。事大主義とは、大きな勢力に逆らわず、ペコペコして、追従して生きる態度をいいます。
一〇〇〇年にわたって中国の「属国」であった朝鮮では、宗主国・中国の意向にいつもペコペコして、年貢を納め、中国の要求には何でもお従いしますという態度がしみついていました。両班はその代表的な人々だったのです。
中国に対するその卑屈な態度は、そのうっぷんを晴らすかたちで、国内では逆に、彼らの異常に高い気位となって現われていました。
自己批判をした韓国人
この事大主義は、ほかにも、その後の韓民族の民族性の多くの源泉となりました。朝鮮の作家であり、思想家でもある李光洙(一八九二年〜?)は、李朝の成立によってゆがめられた韓民族の民族性を、次のような言葉で表しています。
「虚言、詐欺、相互不信、美辞麗句、空理空論、阿諛迎合、面従復背、大勢従応、無知、悪口、卑屈、臆病、無決断、反社会的利己心…」
属国根性はこれらを韓民族に植えつけた、というのです。
大東亜戦争後にも、韓国の優れたリーダーであった朴正熙大統領(一九七九年に暗殺された)は、自著の中で韓国人の民族性の欠点をきっぱり指摘し、自己批判をしました。彼は、韓国民が克服すべきものとして次の事柄をあげています。
1 事大主義
2 怠惰と不労所得の観念
3 開拓精神の欠如
4 企業心の不足
5 悪性利己主張
6 健全な批判精神の欠如
7 党派意識
8 特権・エリート集団意識
いずれも、一見してかつての両班たちの伝統から来たものであることが、わかります。どんな民族にも、もちろん欠点はあります。日本人にもあります。しかし、韓民族が今日も持つこれらの欠点は、両班の精神性を受け継いだものであることを知る必要があるでしょう。
これらは、日本統治時代に形成されたものではありません。それ以前からあったものです。そして、日本統治時代が短かったために両班の特質が消し去られず、それが今も韓民族の中に生き続けていることが問題なのです。
もし日本に罪があったというなら、日本の最大の罪は、朝鮮での統治が短かすぎて両班の精神性を消し去れなかったことでしょう。
強制連行、従軍慰安婦は本当か
近年、かつての日本軍による朝鮮人の「強制連行」が騒がれたことがあります。朝鮮人を無理矢理連れてきて、日本で働かせたというのです。これを言い出したのは、在日朝鮮人でした。
しかし、事実は全く逆です。日本統治時代に、多くの朝鮮人が貧しい朝鮮を離れ、われ先にと、裕福で高い給料をもらえる日本に働きにやって来た、というのが事実です。
彼らの流入は、日本の内地の失業者を増やしただけでなく、犯罪者となって悪事をする者も多くいました。それで政府は、これ以上朝鮮人が日本に流入しては困ると、制限をかけたほどです。
強制連行どころか、阻止したいほど勝手に入ってきたのです。そして日本の敗戦後は、彼ら朝鮮人は、望むなら「タダで」朝鮮に帰ることもできました。費用は国が払ってくれたのです。しかし多くの朝鮮人が日本に残りました。
そして戦後五〇年もたってから、在日朝鮮人は、自分たちは「強制連行」されて連れてこられた、と騒ぎ立てたのです。
しかし、もし強制連行なら、なぜこの五〇年間、韓国から帰還要求がなかったのかの質問に、彼らは答えようとしません。また、もし強制連行ならなぜこの五〇年間、韓国に帰ろうとしなかったのか、の質問にも彼らは答えません。
さらに、彼らは日本での劣悪な労働環境などを口にしますが、当時は日本人もみなそうだったのです。たとえ劣悪な労働環境であっても、朝鮮で働くよりは給料が高かったので、彼らは望んで日本に働きに来ていました。
にもかかわらず、彼らは自分が被害者であると言いたがるのです。このような被害妄想は、日本人には到底理解できません。しかし、ここに両班以来の精神性が今も生きているのをみるのです。
いわゆる「従軍慰安婦」にしてもそうです。韓国は一九八〇年代意向、日本に対してしきりに「従軍慰安婦」問題を追求してきています。しかし、韓国の歴史をひもといてみるならば、「慰安婦」というのはもともと韓国の文化であったことがわかります。
朝鮮半島は昔から、アジア最大の「貢女」の産地とみなされていました。そこからいつも中国に対して、「慰安婦」が届けられていました。そうした「慰安婦」は、日本の吉原などの大衆文化とは違い、国家管理売春として行なわれていたのです。
最近まで韓国は管理売春国家として有名でした。「妓生」などは今でも存在します。韓国では昔から「慰安婦」の輸出や売却、韓国人経営の「慰安所」の輸出などがなされてきたのです。
韓国人は、かつて日本が多くの朝鮮女性を「従軍慰安婦」として強制連行したと非難しますが、そもそもその事実を示す客観的証拠など存在していません。また、たとえあったとしても、日本を非難するよりもまず、自国がなしてきた数多くの慰安婦の歴史を反省するほうが先決でしょう。
台湾の歴史家・黄文雄氏は、韓国人の欠点として、「悪いことを反省するのではなく、他人のせいにする」ことをあげています。残念ながら、ここにも両班以来の精神性が残っているのです。
韓国は他国を侵略したことがない?
今も韓国では、両班の流れを汲んだ反日的な人々がつくった教科書を用いて、歴史教育が行なわれています。そこには一体どんなことが書かれているのでしょうか。そこには、
「韓国は、他国から侵略されたことはあるが、他国を侵略したことは一度もない平和愛好の民族である」
と書かれています。そして多くの韓国人は、教えられたとおり、これを事実として疑いません。けれども、実際には韓国は何度も他国を侵略しています。
元寇のとき、朝鮮半島の高麗軍約一万人は、モンゴル軍に合流して日本を二度侵略しました。その際、彼らは壱岐(いき)、対馬(つしま)の住民を虐殺しています。また二〇〇人の童男童女を強制連行して、高麗の王に献上しました。
壱岐にある元寇の船の碇(いかり)石。左京鼻沖で
発見された。高麗(朝鮮)軍は、二度にわたって
日本を侵略し、壱岐・対馬の住民を虐殺した。
ソウルの「戦争記念館」には、韓国も二度にわたり日本を侵略したことがある、と明記されています。また、朝鮮が清国の軍隊と合同で五回にわたって明を討ちに出たことや、羅禅遠征などは、「征伐」だから、あるいは強制された不本意な参戦だから、「侵略」ではないというのでしょうか。
最近では、韓国軍は、ベトナム戦争のときアメリカ軍に合流し、「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線)叩きに出かけています。あれが侵略でなくていったい何なのでしょうか。
このように、韓国が一度も他国を侵略したことはないという話は、韓国人に自信を与えるものでしょうが、作り話であり、史実とはまったく関係のない虚言です。
これに限らず、韓国の歴史教科書は、多くのウソと偏向した知識とで書かれています。両班以来の自分本位の伝統は今も生きているのです。韓国の人々は、もっと自国の歴史を直視する眼を持つ必要があるでしょう。「正しい歴史認識」は韓国人にも必要なのです。
韓国が「侵略された」という話にしても、かつて朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)のとき、中国共産軍は、朝鮮半島の北から南までをくまなく蹂躙しました。このときの韓民族の犠牲者は、「日帝三六年」の比ではありません。
「日帝」時代の反日運動の犠牲者は、多く見積もっても一万人以下です。そして日帝時代に、朝鮮半島の人口は倍増したのです。一方、朝鮮戦争の推定死傷者は五〇〇万人にも達し、半島の人口は激減しました。そのうち、かなり多くの者が中国共産軍による犠牲者です。
にもかかわらず、韓国人は中国による侵略には一言もふれず、日本による「侵略」は声高に叫びます。いまだに両班時代の「中華主義」が、韓国人の知性をくもらせているとしか言いようがありません。
韓国人が、自分の民族の優秀性を誇る性向は、決して悪いことではないでしょう。しかし、いつまでも被害者意識から抜け出せず、「悪いのはすべて日本」と責任を他に押しつけ、自己批判できないのであれば、世界は誰も相手にしないでしょう。
「日韓併合時代の真実は長老に聞け」で述べたように、今日の韓国人の反日主義は、戦後の初代韓国大統領・李承晩の徹底した親日派排除、および虚偽に満ちた反日教育によって生じたものです。それは戦後になって作られたものなのです。
私は以前から不思議に思ったものです。韓国には「犬も歩けば教会にあたる」といわれるほど教会が多く、クリスチャンが人口の三〇%もいるというのに、なぜ神の祝福が中程度にとどまっているのか。
韓国人の反日感情は、韓国に対する神の祝福を押し下げているのです。聖書には、憎しみを持っていては祈りは聞かれないと、書かれています。韓国は、本当はもっと神の祝福を受けていいはずなのに、存分に受けないまま終わってしまっているのです。
もったいない話です。もし韓国人クリスチャンが率先して、自国の歴史を客観的かつ冷静な目で見、反省すべきことは反省し、感謝すべきことは感謝できるようになるなら、韓国は偉大な神の祝福を受け、もっと大きな世界的貢献をなす国となっていくことでしょう。
日本人クリスチャンは、その韓国の同胞のために祈っていくべきではないでしょうか。
久保有政著
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