キリスト

予言されたキリストの国
この世の国の興亡と「永遠の国」


 キリストの到来について、預言者ダニエルは、もう少し別の角度からも予言を行なっていました。
 第二章でも述べたように、世界にはバビロン帝国の後にメデア・ペルシャ帝国が興り、次にギリシャ帝国、次にローマ帝国が興る。そのローマ帝国の時代にキリストは降誕される、とダニエルは予言しました。ダニエルはまた、その時キリストは「永遠の国」を樹立される、とも予言しました。
 キリストによってたてられたこの「永遠の国」について詳しく見てみましょう。


人手によらずに切り出された石=キリスト

 預言者ダニエルは、紀元前六世紀の人で、イエス・キリストを象徴的に、
 「人手によらずに切り出された
 と呼び、その到来について予言しました。
 古来、旧約聖書では神を、象徴的に「」と呼ぶことが多くありました。たとえば申命記で、
 「主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい」(申命三二・四)
 と言われています。イザヤ書では、
 「わたしのほかに神があるか。わたしのほかにはない」(イザ四四・八)
 とあり、またダビデ王は、神に向かって、
 「わが神、わがより頼む(詩篇一八・二)
 と呼びかけて、全幅の信頼を寄せました。
 このように「岩」という言葉は、古来、特別な意味を持っていました。
 神は「とこしえの岩」(イザ二六・四)、「救いの岩」(申命三二・一五)なのです。嵐の中でも岩山の洞窟にかくれれば安全なように、「岩」は、神の救いを表す言葉でした。
 また「岩」の堅固さは、神の絶対性を象徴するために、ふさわしいものでした。神は"原因されない原因""動かされない動かすおかた"なのです。
 この神が、私たちの人生の土台であるならば、人生は揺るぎないものとなります。そう考えると、聖書がこうした不動堅固な絶対者であるかたを象徴的に「岩」と呼んでいるのも、うなずけることです。
 預言者ダニエルは、イエス・キリストを、この「救いの岩」(神)から「人手によらずに切り出された」と言い表して、その到来について予言しました。その予言は次のようなものでした。


ダニエルは予言的な夢を解きあかした

 預言者ダニエルの時代、つまり紀元前六世紀に、中東の全域はバビロン帝国(新バビロニア帝国ともいう)によって支配されていました。
 ある夜、バビロン帝国の王ネブカデネザルは、ただならぬ夢を見ました。それは"巨大な人間の像"の夢でしたが、その光景の鮮明さと恐ろしさのゆえに、彼には単なる"夢"とは思えませんでした。
 王は、それが何かの意味を持った夢であることを予感し、思い悩んでいました。そしてその意味を解きあかしたのが、預言者ダニエルでした。
 ダニエルは夢の内容を王から聞くことなく、その夢がどんな夢だったかを、王の前で次のように言い当てました。

「王よ。あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観を持っていました。その像の、
 頭は純金、
 腕と両腕とは銀、
 腹と、ももとは青銅、
 すねは鉄、
 足の一部は鉄、
 一部は粘土

 です。あなたが見ておられた時、一つの石が、人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました
 こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。
 ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました(ダニ二・三一〜三五)

 これは一体、何を意味しているのでしょうか。ダニエルは言いました。
 「王よ、神は後の日に起こるべきことを、あなたに示されたのです」。
 じつは、夢に現われた巨大な人間の像は、"人間世界"をひとりの人間の姿に象徴化したものなのです。
 この像は、頭が純金でした。この金の頭は、バビロン帝国を表す、とダニエルは告げました。
 「あなた(バビロン王ネブカデネザル)は、あの金の頭です」(ダニ二・三八)
 ダニエルは続いて、銀の部分、青銅の部分、鉄と粘土の部分について解きあかしました。
 「あなたの後に、あなたに劣る一つの国が起こります (メデア・ペルシャ帝国)。また第3に、青銅の国が起こって、全世界を治めるようになります(ギリシャ帝国)
 第4の国は、鉄のように強いでしょう(ローマ帝国)。鉄は、よくすべての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく砕くように、その国はこわし砕くでしょう。
 あなたはその足と、足の指とを見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。
 その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう」(ダニ二・三九〜四二)
 第2の国(銀の国)がメデア・ペルシャ帝国であることについては、ダニエルは別の箇所で、
 「あなた(バビロン王ネブカデネザル)の国は分かたれて、メデアとペルシャの人々に与えられる」(ダニ五・二八)
 と、名指しでも述べています。さらに第3の国(青銅の国)がギリシャ帝国であることについても、預言者ダニエルはやはり、
 「ギリシャの王(ダニ八・二一)
 と名指しで述べました。
 ダニエルは、そののち「鉄のように強い国」が現われる、と言いました。中東地域はバビロン帝国――メデア・ペルシャ帝国――ギリシャ帝国の順に支配され、次に「鉄のように強い国」ローマ帝国によって支配されるようになる、と彼は予言したのです。
 このローマ帝国は、一部は鉄のように強く、一部は粘土のようにもろくある、という予言の通り、AD三九五年には分裂国家となり、東ローマ帝国はその後も千年ほど存続、一方西ローマ帝国はその後百年たらずで滅亡しました。


ダニエルは、予言的な夢を解きあかした。
それは人間世界の帝国の興亡を、
ひとりの巨大な人間の像で表したものであった。



ローマ帝国の時代にキリストが降誕される

 ダニエルの予言は続きます。
 「一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕いた」(二・三四)
 ――これは何を意味するのか、彼は次のように解きあかしました。
 「それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえって、これらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は、永遠に至るのです」(ダニ二・四四)
 「それらの王たちの世に・・・・」とありますが、具体的には、これがローマ帝国の時代であることは明らかです。なぜなら、この「石」がまず砕いたのは「鉄と粘土の足」(二・三四)であり、その後、像全体が砕けたからです。
 ダニエルは、ローマ帝国の時代に、神の"永遠の国"が立てられることを、予言しました。それは、キリストによる国です。
 キリストは、イスラエルがローマ帝国の属国であった時代に降誕され、十字架のみわざを全うされました。そして、永遠の国の基を築かれたのです。
 予言の中で、キリストは、岩「山から」(二・四五)「人手によらずに切り出された石」と呼ばれています。「人手によらずに」――では誰によって切り出されたのでしょう。
 もちろん神によってです。キリストは、「救いの岩」である神から、来られたかたなのです。
 キリストは神から出て、神によって生まれたかたです。「石」と「岩」が同質のものであることは、キリストが神と本質的に一体であることと関連して、適切な表現と言えるでしょう。
 キリストは、神がお立てになった永遠の国の君です。しかしキリストの国は、地上にあるもろもろの王国や帝国とは、性格を異にします。
 「わたしの国は、この世のものではない」(ヨハ一八・三六)
 とキリストは言われました。キリストの国は、暴力や武力によって民を支配する国ではなく、義と恵と愛によって支配する、心の国であり、霊的な王国です。
 それは目に見えない国なのです。また物質的国土ではなく、神を愛する人々自身を国土とする国家です。それは、クリスチャンたちが(公同の)「教会」と呼んでいるものに相当します。
 ちょうど一粒の小さなからし種が、次第に成長して大木になるように、この国は初来のキリストに始まり、キリストの使徒たち、教会を経て、やがて来たるべき栄光の「神の国」に至ります。
 ですから永遠の国が現われた以上、地上的王国や帝国は事実上、吹き払われて「あとかたもなくなった」(二・三五)というのも理解できます。
 永遠の国の前には、栄枯盛衰をくり返す地上の国は無きに等しく、夢、幻にすぎません。
 また「その像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました」(二・三五)とあるように、キリストを信じるクリスチャンは、いまや全地に増え広がっています。


神は歴史に介入される

 この「人手によらずに切り出された石」が、像を「撃った」ということは、神が人間世界に、また人類の歴史に"介入された"ことを意味しています。
 「石」は神的なもの、帝国はこの世的なものです。神的なものが、この世の歴史のただ中に介入するのです。
 この"介入"ということが、神の、歴史に対するかかわりかたなのです。
 神は決して、世界の中のすべての事柄を"あやつっている"のではありません。この世界に起こる事柄は、基本的には"人類の内なる善悪"の展開にほかなりません。
 しかし神は、歴史を救いへと導く御自身の計画にしたがって、歴史に関与され、歴史の様々な時点に介入されます。それは"干渉"と言ってもよいでしょう。
 人が罪を犯してから、人々は、
 「みな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザ五三・六)
 とありますが、そのように人類の歴史も、「自分の道」を歩んでいます。そのため、すべての人が真理を知るようになることを望んでおられる神は、歴史に干渉し、人々を導こうとされるのです。
 神が歴史に干渉し、介入なさるのは、ご自身を人々に知らしめ、人々が神を知り、真理に至るようになるためです。
 「あなたがたは・・・・わたしが主なる神であることを知るようになる」(エゼ二三・四九)
 神は預言者を通して語り、様々な出来事によってご自身を現わし、ご自身を啓示されます。そのようにして、人々にご自身を知らしめることにより、人の生きるべき道を示し、それに対する人々の態度を問われるのです。


「人手によらずに切り出された石」は永遠の国の礎石となった

 さて実は、「人手によらずに切り出された石」については、ダニエルより約二〇〇年前に、預言者イザヤも預言していました。
 「見よ。わたし(神)はシオン(エルサレム)に、一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない」(イザ二八・一六)
 鉄と粘土の足を打ち砕き、永遠の国を打ち立てたこの「石」は、永遠の国の「礎」の石として、すえられました。これは「試みを経た石」です。その「試み」とは、キリストの十字架の苦難をさします。
 旧約聖書の詩篇にはまた、「礎の石」について次のように書かれています。
 「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主(神)のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」(詩篇一一八・二二〜二三)
 「家を建てる者たち」――つまり神の家(神殿)に仕える祭司長や、律法学者、パリサイ人たちは、キリストをねたみ、キリストを拒み「捨て」ました。彼らは、キリストを死に追いやったのです。
 キリストご自身も、この詩篇の言葉をご自分の死と関連して引用され(マコ一二・一〜一二)、この言葉が十字架死の予言であることを示されました。
 しかし捨てられた「石」=キリストは、神の家、および永遠の国の「礎の石」となりました。イエスは身代わりの死によって、神の家(教会)の土台を築かれたのです。
 ある人々は、
 「キリストは良い教えを説いたが、あのように十字架で殺されて、無残にも死んでしまった」
 と言います。しかしキリストの十字架は、決して"敗北"ではありませんでした。キリストはこのために世に来られたのであり、神はこのためにすべてを、準備してこられたのです。
 キリストは、十字架から降りようと思えば、降りることができました。
 「それとも、わたし(キリスト)が父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今、わたしの配下に置いていただくことが、できないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある (旧約) 聖書が、どうして実現されましょう」(マタ二六・五三〜五四)
 と主は言われました。十字架から降りようと思えば、主は降りることができたのです。しかし、主は私たちのために、その苦難をしのばれました。キリストを十字架上にとどまらせたのは、釘ではありません。愛が、彼をそこにとどまらせたのです。
 一見"敗北"に見える十字架は、神がはるか昔から準備してこられたご計画の実現の場であり、"勝利"の場でした。
 義なる神は、罪人を罰しなければなりません。また愛なる神は、罪人を赦すことを望みます。このディレンマ(矛盾)を、神は十字架において解決されました。
 十字架において、神の義と愛は"クロス"(交差・十字)し、そこにおいて義なる神は、信じるすべての人を赦すことができるのです。これは罪のないかたが、私たちの身代わりに刑罰を受けてくださったからです。
 十字架というような奇(くす)しい方法を、一体だれが考えたことでしょう。まことに、
 「これは主(神)のなさったことだ。私たちの目には不思議に見える」
 と言えましょう。


人間の苦悩を知り尽くしておられるキリストこそ永遠の国の君

 キリストは十字架にかかられた時、神の御子であったとともに、完全に人間でもあったことを、私たちは忘れることはできません。
 キリストは、頭にかぶったいばらの冠による、激しい痛みを感じられました。両手の釘の痛みも、背中のむち打たれた傷の痛みも、激しいのどの渇きも、みな人間として感じられました。
 私たちがそうした状況に置かれれば感じるであろう痛みと同じ痛みを、キリストは味わわれました。さらに、本来私たちに下されるべき刑罰を一身に引き受けるという、とてつもない重圧が、キリストの身に加わりました。
 しかしそれでも、自らその苦難に立ち向かい、私たちの救いを全うしてくださったのです。
 この苦難を通して栄光に入られたイエスであったからこそ、私たちの主、また永遠の国の「礎」として、ふさわしいかたなのです。
 彼は、私たちの人生の苦しみ、悲しみ、人間としての悩みを、知りつくしておられます。彼は、
 「私たちの弱さを思いやることのできないようなかたではなく」(ヘブ四・一五)
 私たちの成り立ちを知り、私たちの良きことも悪しきことも理解しておられます。彼以上に、深い人間理解を持ったかたはいません。
 だからこそ神は、彼を私たちの王、また主としてお立てになったのです。神はキリストを、永遠の国の君とし、教会のかしらとされました。
 ですから聖書は述べています。
 「あなたがたは、使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身が、その礎石(そせき)です。このかたにあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリスト・イエスにあって、あなたがたも共に建てられ、御霊によって神の御住(みす)まいとなるのです」(エペ二・二〇〜二二)
 キリストは、永遠の国の「礎」であるとともに、生ける神の宮(教会)の「礎石」なのです。
 読者は、アメリカ・ニューヨークのマンハッタン地区に、一〇〇階以上のビルが幾つも立ち並ぶ超高層ビル街があることを、知っているでしょう。マンハッタン地区は、地下に固い岩盤があるため、そのような超高層ビル街の建設が可能だったのです。
 同様に私たちも、イエス・キリストという最も確実なおかたを、人生の土台、また「礎石」として心にお迎えするならば、私たちの人生は堅く立てられるのです。

                                            久保有政著  

キリスト教読み物サイトの「キリスト」へ戻る

感想、学んだこと、主の恵みを掲示板で分かち合う

レムナント出版トップページへ 関連書籍を購入する