聖書 聖書に見る予型

ダビデ
ダビデの詩篇がキリストにおいて
「成就した」といわれるのはなぜか。

 イエス・キリストは、「神の御子(みこ)」「救い主」「王」、そのほか「教師」「預言者」「大祭司(だいさいし)」「友」等の、様々な側面を持っているおかたです。
 聖書に出てくるイスラエルの偉大な王「ダビデ」(紀元前一〇〇〇年頃) は、キリストの「としての側面をとくに表す、"予型的人物"でした。
 ダビデは、試練を受け、のちに高く上げられた王です。キリストも、受難し、のちに高く上げられた王なのです。
そこでキリストの"予型"としてのダビデ王について、見てみましょう。


ダビデの生涯とイエスの生涯の類似

 ダビデの生涯とイエスの生涯を、まず比べて見てみましょう。
 ダビデは、ユダヤの「ベツレヘム」村で育ちました(一サム一七・一二)。おそらく生地も、そこだったでしょう。
 彼は三〇歳で王になりました(二サム五・四)
 王位にあるときダビデは、自分の息子アブサロムに反逆され、また部下であり「信頼した親しい友」であったアヒトペルにも、裏切られる経験を持ちました。
 アブサロムはのちに首を木にかけて死に(二サム一八・九)、アヒトペルは首をくくって自殺しました(二サム一七・二三)
 ダビデは四〇年王位にあったあと、エルサレムで死に、そこで葬られました(一列王二・一〇〜一一)。それは彼が七〇歳のときでした。
 一方イエスも、ベツレヘムでお生まれになり、三〇歳で公生涯に入り、弟子ユダに裏切られ(彼は首をくくって自殺 マタ二七・五)エルサレムで死に、そこで葬られました。さらにイエスの公生涯の期間は、ダビデが王位にあった期間四〇年と対応するかのように、約四〇か月(三年半)でした。


ダビデの生涯は、イエスの生涯の一予型となった。

 このようにダビデの生涯の概略は、イエスの生涯に対する、予型的な意義を有しています。ダビデの書いた『詩篇』中の多くの語句が、新約聖書で、イエスにおいて「成就した」と言われている一つの理由は、ここにあります。
 ダビデの詩篇は多くの場合、彼自身が経験した事柄を語ったものです。しかし彼の経験は、単に彼自身の経験にとどまらず、イエスにおける出来事をも、さし示していたのです。たとえば、
 「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた」(詩篇四一・九)
 というダビデの詩篇の言葉は、ダビデの経験を語ったものであり、直接的には「予言」とはいえません。
 それにもかかわらず、イエスが、この言葉がご自分の上に「成就する」であろうと言われたのは、このダビデの経験が"予型的性格"を持っていたからなのです。ダビデの出来事は、イエスの出来事の予型となったのです。
 ダビデがイエスの予型的人物である、という理解なくしては、聖書でダビデの詩篇の多くの語句がイエスの生涯において「成就した」、と言われていることの理由を理解することはできません。


イエスの十字架上の言葉のうち4つは、ダビデの詩篇の言葉

 また、イエスが十字架上で発せられた七つの言葉のうち、後半の四つは、すべてダビデの詩篇の言葉であった、という事実も重要です。
 イエスの生涯を記した新約聖書の『福音書』には、イエスが十字架上で発せられた七つの言葉が記されています。ほかにも十字架上で言われた言葉があったかもしれませんが、福音書に記されているのは、七つです。そのうち前半の三つは、次のことばです。

 (1)「父よ、彼ら(イエスを十字架につけた人々)をお赦(ゆる)しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)
 (2)「よく言っておくが、あなた(悔い改めた盗賊)はきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ二三・四三)
 (3)「婦人(イエスの母マリヤ) よ、ごらんなさい。これ(ヨハネ)はあなたの子です」
 「ごらんなさい、これ(マリヤ)は、あなた(ヨハネ) の母です」(ヨハ一九・二六〜二七)

 そして後半の四つは、すべてダビデの詩篇の言葉です。

 (4)「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ二七・四六、詩篇二二・一)
 (5)「わたしは、かわく」(ヨハ一九・二八、詩篇二二・一五)
 (6)「完了した」(ヨハ一九・三〇、詩篇二二・三一)
 (7)「父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます」(ルカ二三・四六、詩篇三一・五)

 まず(4)の言葉は、ダビデの詩篇二二篇の冒頭の句そのままです。
 この「わが神、わが神、どうして・・・・」という言葉が、イエスの最後の言葉だと誤解している人が世の中に多いようですが、これは最後の言葉ではありません。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」が最後の言葉です。
 (5)の「わたしはかわく」は、同二二篇一五節の言葉、また(6)の「完了した」は、二二篇三一節(最終節) の「主のなされた救い」の、「なされた」に関係した言葉です。
 つまりイエスは、十字架上でダビデの詩篇二二篇中の、おもな句を三つ言われたのです。二二篇の最初と、真ん中と、最後の句です。
 (4)の「わが神、わが神、どうして・・・・」という言葉を発せられたとき、すぐにそれが二二篇冒頭の句であると気づいたユダヤ人も、いたことでしょう。ユダヤ人は毎日『詩篇』を暗唱しており、冒頭の句を聞いただけで、それがどの詩篇か、すぐわかったからです。
 しかし、イエスが二二篇のおもな言葉を三つも言われたのは、まさにその時、二二篇に語られた「主の救い」が成就しようとしていることを、明確に示そうとされたからです。
 じつは詩篇二二篇は、ダビデの「預言詩」と言われるもので、キリストの受難と神の救いについての、預言的性格を持った詩なのです。それは「神に捨てられた」と思えるような激しい苦難のさ中で現される、神の驚くべき救いについて語った詩です。
 ですからもしあなたが、詩篇二二篇をまだ読んでいないなら、イエスの十字架を理解するために、すぐ読んでほしいものです。詩篇二二篇は、苦悩のなまなましい描写と、そこから救ってくださった神への深い感謝、そして讃美に満ちています。
 また十字架上の最後の言葉――(7)「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」は、ダビデの詩篇三一篇五節の言葉です。そこにはこう書かれています。
 「わたしは、わが魂を御手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました(救われました)」。
 このように、十字架上の七言のうち後半の四つは、すべてダビデの詩篇の言葉です。ダビデは、のちの日にイエスが語られる言葉を、語りました。
 その意味では、彼はイエスの予型であるとともに、「預言者」だったのです。聖書はダビデについて、
 「彼は預言者であって・・・・」(使徒二・三〇)
 と言っています。
 「予言」と「預言」は異なります。「予言」は単に未来のことを言うことですが、「預言」は、神の"言葉を預かって"人々に言うことです。それは過去・現在・未来を問わず、神の言葉(メッセージ)を語ることなのです。
 ダビデの「預言」は、預言者イザヤのように明確なかたちで未来のことを語る、というものではありませんでしたが、彼は神の霊感により、将来キリストが語るはずの言葉を、預言したのです。
 ダビデは、自分が"キリストの予型"であるという事実に基づいて預言しました。彼はキリストの予型として、キリストに関して預言したのです。


旧約聖書は、再来のキリストを「ダビデ」と呼んでいる

 ダビデがキリストの予型であることは、次の事実からもはっきりします。旧約聖書は、世の終わりに「王の王」「主の主」として再来されるキリストのことを、象徴的に「ダビデ」と呼んでいるのです。
 「わがしもべダビデは、彼らの王となる。・・・・わがしもべダビデが、永遠に彼らの君となる」(エゼ三七・二四〜二五)
 これは預言者エゼキエルの予言ですが、彼は時代的には、ダビデより"四百年も後の人"です(紀元前五七〇年頃)。それにもかかわらず、「ダビデ」が"将来"終末の世に現れて、王となるというのです。
 すなわちこの「ダビデ」は、文字通り紀元前一〇〇〇年頃イスラエルの王であったダビデのことではありません。これは、"ダビデが予表していたおかた""ダビデのような名君""ダビデ的王"のことです。すなわちイエス・キリストのことなのです。
 また預言者ホセアも、次のように予言しました。
 「イスラエルの子ら(イスラエル民族) は、多くの日の間、王なく、君なく、柱なく、エポデおよびテラピムもなく過ごす。そしてその後、イスラエルの子らは(パレスチナへ) 帰ってきて、その神、主と、その王ダビデとをたずねもとめ、終わりの日に、おののいて主とその恵みに向かってくる」(ホセ三・四〜五)
 この予言通り、イスラエル民族は二千年もの「多くの日の間」、国を失い、王なく、神殿なく、祭儀なく過ごしましたが、二〇世紀に入ってパレスチナへ帰ってきて、ついに一九四八年、イスラエル共和国として国を再建しました。
 そして今や、「その王ダビデ」という言葉で示される救い主――「王の王」「主の主」である再来のキリストを、待つばかりになっているのです。

                                            久保有政著  

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