聖書 聖書に見る予型

大祭司
キリストは永遠の大祭司

 イエス・キリストは、私たちのために十字架上で「(あがな)」の死を遂げられ、「贖罪者(しょくざいしゃ)」また「救い主」となられました。
 「贖い」とは「買い戻す」の意味で、代価を払って自分のものを取り戻すことをいいます。キリストは、ご自分の血潮という代価を払って、罪と滅びの中にあった私たちを神に取り戻してくださったのです。
 この、贖罪者としてのキリストの予型となっていたものとして、「大祭司(だいさいし)」というものがあります。大祭司は昔、イスラエルの神殿に仕え、諸祭儀をとりおこなう人でした。彼の行なっていた様々な事柄は、キリストによる贖罪の予型ともなっていたのです。


大祭司は幕屋に入った

 かつてイスラエル民族は、紀元前一四四〇年頃、エジプトの地を出て「約束の地カナン」(パレスチナ) に向かいました。有名な「出エジプト」の出来事です。
 イスラエル民族はエジプトを出たとき、神から「幕屋(まくや)」と呼ばれるものを造るように、命じられました。これは神が臨在を置かれる場所で、のちの「神殿」の原型になったものです。
 イスラエルの人々は「幕屋」を、神を奉るためであると言って、自分たちで勝手に造ったわけではありません。幕屋をどう造るかは、神ご自身が指示されたことなのです。
 神はシナイ山において、イスラエルの指導者モーセに、幕屋の造り方を示してこう言われました。
 「よく注意して、あなたが山で示される型どおりにつくりなさい」(出エ二五・四〇)
 幕屋は、神の指示通りに造られました。モーセは、「示された型」どおりに幕屋を造ったのです。
 これは一体、何をもとにした「型」だったのでしょうか。じつは新約聖書・黙示録によれば、天には一種の「神殿」がある、と言われています。
 「それから、天にある神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。・・・・」(黙示一一・一九)
 という言葉が黙示録にあります。天には霊的な神殿があって、それに型どって地上の「幕屋」、また「神殿」が造られたわけです。地上の「幕屋」は、天の神殿の「影」あるいは"模型"なのです。
 さて地上の「幕屋」(神殿)では、「大祭司」と呼ばれる人が、民のために犠牲の供え物などについての諸祭儀を、とりおこないました。
 大祭司は、神と人との間で仲介者となって、諸祭儀を行なったのです。神はあまりに聖く、また人間は汚れているので、人間が神に受け入れられる儀式をするためには、こうした神に特別に聖別された人が必要だったのです。
 民の罪の贖いの日とされた「大贖罪日(だいしょくざいび)」と呼ばれる年一回の特別な日に、大祭司は、罪祭(罪のためのいけにえ) としてほふられた動物の血をたずさえ、幕屋に入っていきました。
 幕屋の中は二つの部屋に分かれており、それらは「聖所(せいじょ)」「至聖所(しせいじょ)」と呼ばれました。大祭司は血をたずさえて、まず幕屋の聖所に入り、さらに奥の至聖所に入って、民の罪のために贖いの祭儀をとりおこなったのです。


キリストは真の大祭司

 しかし、これら大祭司がとりおこなった儀式は、それら自体に贖いの力があったというわけではなく、むしろキリストによってなされる真の贖いの予型でした。聖書はこう言っています。
 「キリストは、すでに成就したすばらしい事柄の大祭司として来られ、手で造った物でない、言い換えればこの造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な(天の)幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた(ヘブ九・一一〜一二)
 キリストは「まことの大祭司」として天の幕屋の奥にまで入り、永遠の贖いを成し遂げられた、というのです。
 新約聖書・福音書の記者は、キリストの死の瞬間、地上のエルサレム神殿の「へだての幕」が、真っ二つに裂けた、と記しています。「へだての幕」とは、神殿の聖所と至聖所とをへだてている幕のことです。
 「すると、見よ、神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた」(マタ二七・五一)
 もしこの幕が人間によって裂かれたのであれば、その人たちはこの巨大な幕を下のほうから引き裂き、幕は下から上へ裂けたことでしょう。しかし幕は、「上から下まで真っ二つに裂け」ました。
 あたかも天よりの力によって裂けたかのように、そして、裂かれた幕の間を大祭司が通り過ぎたことを示すかのように、裂けました。このことは、天の幕屋でおこったことを地上でも見せるかのようにして、神がなされたことなのです。
 つまりキリストは死の瞬間、天の幕屋(神殿)の聖所に入り、さらに至聖所に入って、ご自分の血により、人々の贖いを全うされたのです。
 人々の罪の贖いをなすということは、目に見えない、霊的な、天的な事柄です。イスラエルの神殿に仕えていた大祭司の行なっていた贖いの儀式は、この予型です。
 また、天での霊的な贖いを目に見えるようにするためであるかのように、地上の神殿の幕は裂けました。幕は「開いた」のではありません。「裂けた」のです。それはキリストの贖罪はただ一回で充分であり、有効なので、もう幕が閉じられる必要がなかったからです。


天上で起きたことを地上でも見せる
かのようにして、神殿の幕は裂けた。

 英語で「贖罪」のことを、atonementと言います。これは at-one-mentで、「ただ一回で」という意味の言葉に ment をつけて、名詞化したもの(造語) です。
 キリストの贖いは、ただ一回のみわざによって完成された、永遠の贖いなのです。キリスト者が今日、旧約聖書に記されている神殿での動物のいけにえなどをしないのは、そのためです。
 キリストが、すべての人のために贖いを完成してくださったので、キリスト以後はもうそうした儀式は、必要ないのです。

                                            久保有政著  

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