おかえり.jp 放哉 孤高の詩 一句拝掌(最新の俳句) 愛句連々(過去に紹介した俳句) 放哉年譜

愛句連々

尾崎放哉の俳句をイラストと一緒にご紹介します.



うつろの心に眼が二つあいてゐる

須磨寺時代の作品。

これから先がますます見えない時代に至り、人心の荒廃も極まれりといった現代ですが、それでも世に見捨てられた者にさえ、親兄弟のようにまだ甘えられる対象があるだけまだ救いはあるのでしょう。
 淋しい、淋しいと訴える人達でも、この句の背筋の凍るような空虚な孤独感までには至っていないでありましょう。肉体も魂もそがれてしまったような放哉の究極の表現であります。

京都一燈園での奉仕作業にも、須磨寺での穏やかな寺男としての毎日にも今一つ没頭できずにふらふらと彷徨う放哉の魂は、うつつのすみかを常高寺にみつけました。それでもまだ自らのプライドやメンツといったものが引っ掛かっているのか、かつてのサラリーマン時代の緊張感からすっかり弛緩してしまった心の置き場所が見当たらなかったようです。

そんな役立たずのこの頭を体を持て余して、長い夜を過ごしていると、いつか目は冴えて、聞こえるのは自らのか弱い心音だけです。その心音さえもなにやら洞穴にこだまするような反響音ばかりで、存在感のかけらもない。ああわたしはどんどん無に近づいている。いや吸い込まれていく。それは決して悟りの境地の「無」ではなく、無意味の「無」、虚無の「無」なのだ。
 他人はもちろん自分にさえも感じる不信に嘖まれてみれば、自分の存在自体が、このうつろな心と妙に冴え渡る眼に少しずつ凝縮されていくのでした。

そこには、人間の気配すら感じない空虚な空間だけがあります。救われない、誰の眼にも留まることのない「意識」だけがかすかに残響として感じられるだけなのです。


★放哉の他の俳句にもご興味のある方はこちらへ → 愛句連々(過去に紹介した俳句)

         


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