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山頭火

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しみじみ食べる飯ばかりの飯である


今回は、『草木塔』の「鉢の子」という章から。
 相変わらず絶えない偽装食品問題。「飽食」日本の影の部分があります。「美味いものを安くいつでも食べられる」ということが成り立つために、いかに多くの矛盾を抱え込まなければならないのか、今一度我々はじっくり考え直すべきなのかもしれません・・・おっと前振りが長くなってしまいました。
 今回は、山頭火の食に関する句をご紹介してみたいと思います。

山頭火の生きた明治から昭和始めにかけて、西洋の食材がどんどん入り込んでいましたが、まだまだ庶民の食事といえば「ご飯」中心でした。とはいえ、「白いごはん」よりは、玄米だったり雑穀や野菜と混ぜたものが主であったでしょうし、電気炊飯器もないのですから人が顔から手から真っ黒になりながら竈(かまど)で苦労しながら炊いたのです。

だからこそご飯が目の前にあるだけで感謝の念が湧いてきたのも自然なことだったのでしょう。日々行乞の山頭火の身であれば、なおさらのことでした。

山頭火が泊まる木賃宿(きちんやど)は、宿賃は安いけれども、自分が食べる米、そしてそれを炊くための薪代も客が出すのです(木賃というのはまさに燃やす木の代金ということ)。

自分が人に頭を下げていただいたお米。それを朝早く起きて自分で炊き、朝飯に食べた残りは、自分で昼の弁当をつくって持って行きます。もちろん梅干しもおかかも鮭も入らない、気持ちだけ塩っ気のある握り飯です。ごっつい男の手が握る不格好なおにぎりです。
 昼間道端に腰を下ろして、その握り飯を食べます。しみじみと。それは感謝の念だけではなく、旅にしか生きられない自分の境涯をつくづく考えながらでもありましょう。

ところで、世界広しといえども「食事」を「ご飯」と言い換えて通じる国は希ではないでしょうか(たとえ実際にはおそばを食べるにしても「めし食いに行こうぜ」と言いますよね)。アメリカでお昼になって「さあ肉にしましょうか」とは言わないでしょう。それだけ我々の生活と「ご飯」とは切り離せない関係にあるのだと思います。米の石高で大名の力を示したのも日本だけでしょうし。

それにしてもこの句は、現代の我々が、口当たりの良いおかずに囲まれて「ご飯」の美味しさを忘れつつあることをあらためて思い起こさせてくれます。今日は最初の一口くらいご飯だけで味わってみましょうか。


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