トップページ

放哉の生涯

放哉肖像

孤高の自由律俳人
尾崎放哉の生涯をご紹介


明治18年(1885)

1月20日、鳥取市に生まれる。本名は尾崎秀雄。父・信三(鳥取地方裁判所の書記)、母・なか の次男。 ただし、長男は夭折しており、事実上は嫡男として大事に育てられる。

明治24年(1891)

立志尋常小学校入学。
 この頃のエピソード。本が非常に好きだった彼は、屏風などで自分の周り及び天井に壁を作って外界との交渉を一切断ってその中で読書をすることを好んだ。
 彼の本を読む速度は非常に速く、友達と一緒に読むときには、他が読み終わる頃には既に内容について深く考え込んでいたことがしばしばであった。
 『警官は泥棒のおかげで暮らしているのに、何故泥棒だけが悪く云われるのか』などと思っていたと云われる。
 また、裕福な彼は、大抵の子が昼飯は自宅へ帰って済ませてきたのに対し、毎日家から弁当が届けられた。 潔癖症で、床屋に顔を剃ってもらったり頭を洗ってもらうのも嫌ったという。

明治32年(1899)

鳥取県立第一中学校第三学年になる。このころから短歌や俳句創作を始める。

明治33年(1900)

この年従姉妹の沢芳衛(よしえ)の一家が鳥取に引っ越してくる。
 学友会雑誌「鳥城」に俳句を寄せる。

明治35年(1902)

9月、第一高等学校文科に入学する。

明治36年(1903)

一高俳句会に参加し、荻原井泉水に会う。
 漕艇部で毎日のように隅田川まで往復する。
 沢芳衛は、この年日本女子大学国文科に入学する。(放哉は芳衛を慕っていたが従姉妹ということで結婚は許されなかった)

明治38年(1905)

9月、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部に入学。千駄木で友3人と自炊を始める。
 この前年、同級生であった藤村操が、『万有の真相は不可解ついに死を決す』という「厳頭之感」を残して華厳の滝で投身自殺している。
 放哉は「死ぬことより生きること」という主旨の「俺の記」を書いて複雑な思いを心に納めている。

明治40年(1907)

これまでの「芳哉」から「放哉」の号になる。
 この頃、同門の学生について「彼等は出校後は中流以上の社会に入る人ならずや、その人々等が何のために勉強してゐるのやら自分にはわけのわからぬこと多し。彼等はもともと何の為、何をなさんが為に知名の士となるべきや、について決心もなく主義もなし。又何の為とする処あらんや。毎日通学して勉強している同輩を見る度に、それと語る度に、その物足らぬ心持するは之が為なり。此頃はホトホト嫌になれり。」と或る手紙に書いている。

明治42年(1909)

10月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。ただし本試験ではなく追試験での卒業。
 酒や文学に興味を覚えていた彼は、勉学にはこの頃は関心を殆ど持っていなかったらしい。

明治43年(1910)

日本通信社に入社したが一ヶ月程で退社。この辺の理由は明らかではない。
 鎌倉の円覚寺で禅の修行に打ち込んだこともあったという。

明治44年(1911)

東洋生命保険株式会社(現在の朝日生命)に就職し、契約課に所属した。
 1月26日、鳥取市在住の遠縁の娘、19歳の馨と結婚。小石川で新婚生活に入る。
 4月、荻原井泉水は自由律俳句誌として後に名を馳せる「層雲」を創刊。

大正2年(1913)

6月、契約係長に昇進。
 10時に出社し3時に帰るという規則正しい勤務ぶりであった。段取りが余程よかったらしくそれでも業績は上がり部下の人望もあった。

大正3年(1914)

大阪支店次長として赴任、天王寺に住む。
 ここで「東京出のエリートは女と酒で殺せ」の支店長以下のかけ声の元、会社内で陰湿ないじめを受けたらしい。

大正4年(1915)

1年足らずで東京本社に帰任、一般社員に降格。これが第2の挫折となった。
 12月、「層雲」に初めて俳句が掲載される。

大正9年(1920)

前年の忘年会の時に職場で幹事を務めた折、日本橋の路上で会費の拾円紙幣を通行人にばらまいてしまうという奇行あり。だいぶ会社勤めに疲弊していたようである。
 2月、東洋生命社長、尾高次郎死去。これをきっかけに今までの放哉流の勤務態様が困難になってくる。会社を休みがちになっていった。

大正10年(1921)

10月、契約課長事務取扱を免ぜられる。これにより辞職の意を固める。

大正11年(1922)

東洋生命を辞職し、郷里の鳥取に帰省。
 4月頃、東洋生命時代の同僚からの紹介により朝鮮火災海上保険株式会社支配人としての再起を決意し、朝鮮の京城に渡る(このころは朝鮮は日本の統治下にあった)。父に禁酒を誓ってのことであった。
 5月16日に生母なか、死去するも、会社多忙のため、馨だけに帰国させる。非常に意欲的に仕事に没頭した。
 10月に左肋膜炎を病み、これ以降病に生涯苛まれることになる。

大正12年(1923)

6月頃、社長から免職処分を受ける。禁酒が守れなかったという立て前であるが、一説にはやはり部下の裏切りがあったようである。この第3の挫折で放哉は実社会で生きることを断念するに至った。
 8月末より左湿性肋膜炎のために満鉄病院に2カ月ほど入院する。
 9月に関東大震災の報を聞き、東京行きは諦める。
 10月に馨と大連から帰国し、長崎の知人に身を寄せる。
 ついには妻と別居し、12月には単身にて、西田天香が主宰していた修繕団体、京都の一燈園に入る。世間からはみ出して心理的には追いつめられていくが、このころから放哉の句は輝きだす。皮肉なものだ。

大正13年(1924)

3月、寒い京都一燈園での奉仕に徹した仕事は、病をもつ体はもとより、エリートの放哉には精神的にも苦痛が多く、頼み込んで東山の知恩院塔頭常称院の寺男になる。
 4月、井泉水が寺を訪れた折、久方ぶりの再会で羽目を外し、ついに住職を立腹させ寺を追われる。女性関係の誤解も理由の一つであるらしい。
 6月、神戸の須磨寺に入る。トップページの写真はこの時のもの。

大正14年(1925)

3月、須磨寺の内紛のため寺を去り、翌月一燈園に戻る。
 5月、福井県小浜町の臨済宗寺院常高寺の寺男になる。 7月、同寺破産のため去る。
 8月、井泉水らの尽力により、小豆島は西光寺奥の院、南郷(みなんご)庵に入庵し、ようやく落ち着く。「入庵食記」を書き始める。
 10月、医師の診察により「左肋膜癒着」の診断を受ける。
 小豆島はこの冬、未曾有の寒気に見舞われる。

大正15年(1926)

2月、「湿性肋膜炎、癒着後からくる肺結核」と診断され、不治の病に冒されたことを知る。
 3月、咽頭結核が進行し、食物が喉を通らなくなる。
 4月7日、南郷庵裏の漁師の老妻シゲの見守る中瞑目した。馨は間一髪間に合わず。
 4月9日井泉水、姉の並らが来庵し、西光寺に埋葬。
 享年42(即ち本厄であった)。戒名「大空放哉居士」。

辞世の句は、
 「春の山のうしろから
  烟(けむり)がでだした」。
 小豆島の春の訪れはもう目前であった。


このページの先頭へ
トップページへ

Copyright(C) 2015
endoy All rights reserved.