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山頭火の生涯

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酒を愛した放浪の俳人
種田山頭火の生涯をご紹介

孤高の自由律俳人
尾崎放哉の俳句をご紹介


種田山頭火。
 本名は種田正一(しょういち)。

明治15年(1882年)に山口県防府市の大地主種田竹冶郎の長男として生まれるが、11歳のときに母は井戸に投身自殺し、父は放蕩三昧で妾宅通いと、さんざんな子供時代を過ごす。
 当人も大学時代から酒に溺れ、良家の娘の妻(咲野【さきの】)を得てからも生活はまったく改まらなかった。

そのうちにこの父子二人はみるみる財産を食いつぶし、なんとか立て直そうと酒蔵を経営するも2年続けて酒を腐らせたことがきっかけでとうとう破産し、一家は離散した。

山頭火は妻子と共に熊本に落ちのび、妻と「我楽多(がらくた)」という古本・額縁屋を開く。
 ところがやっぱり帳場には落ちつけず、たびたび酒の上での乱痴気騒ぎを起こし、ついには44歳の時に泥酔の上路面電車の前に立ちはだかるという暴挙に出て、とうとう寺に預けられる身となる。

そこで意を決して出家し、耕畝という名を戴いて僧として味取観音堂の堂守となった。
 一時は甲斐甲斐しく掃除などに精を出すも長くは続かず、妻にも一人息子(健)にも何も言わぬまま、45歳で当てのない托鉢行脚の旅に出てしまった。

その後は約8年間、行乞から得られる米や喜捨銭、木村緑平をはじめとする友からの援助などに支えられながら、句作しつつ西日本を中心としてほぼ日本全国を旅した後、山口は小郡の其中庵(ごちゅうあん)、湯田の風来居(ふうらいきょ)と移り住み、最後は四国松山の一草庵(いっそうあん)で本人の希望通り「ころり往生」した。
 享年58歳(昭和15年没)。

托鉢僧のなりはしているものの、時折羽目を外して、ただ酒を飲むは女性と戯れるはで、俳句仲間に多大な迷惑をかける、言うなれば飲んだくれのだらしない男であった。それなのになぜか多くの人に好かれその人たちからの金銭の援助もあって、その中で珠玉のような俳句を残した。

彼の俳句は自由律に属し、季語や字数にとらわれない特徴がある。そしてそこには人間の性(さが)が赤裸々に表れている。


※春陽堂書店の山頭火文庫 を参考にさせていただきました


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