ロケット新聞とその前身である産業ロックスの歴史

1.産業ロックスの歴史

1996年8月:Morry森田(ベース・ボーカル)、林ヒデヲ(ギター・ボーカル)が互いの知人である宮原さんから紹介され、グループを結成することになった。1994年から96年にかけてGENというバンドに林、森田の順で一時期参加していたことが二人を結びつけたことになる。
この後、生駒山頂遊園地野外ステージにて伝説の幻想ライブ。当時森田が主催していたLowBitsのステージの時、突如どしゃ降りになり友人3人を除き観客がいなくなるという壮絶なものであった。ちなみに宮原さんはステージ上でそのよれよれの白いTシャツ、汚れたジーパンといういでたちゆえに、司会者からローディー(裏方さん)の人ですかと突っ込みを入れられていた。この時友人の一人として林も来ており、その帰路「産業ロックス」というグループ名に決定。

当初は70年代のロックのコピーとオリジナル曲を演奏しようという話であったが、コピーに選んだのは西条秀樹「傷だらけのローラ」、ツイスト「あんたのバラード」。この時点で既に当初の話とはずれ始めていた。 

1996年10月:年末にライブを行うことになったがドラマーがおらず林ヒデヲの職場の後輩である三浦龍二にサポートを頼む。三浦は本来ギタリストであったがなかなか良いドラマーでもあった。

1996年12月:産業ロックス初ライブ。三浦のサポート期間が終了。森田、林のオリジナル曲が女性ボーカルを必要としたこともあり新たなドラマーと女性ボーカルを探し始める。

1997年1月:ドラマーとして原 圭一が加入。

1997年5月:初代女性ボーカリスト岡上摩三子加入。

左から、岡上、森田、林、原

1997年8月:神戸スタークラブで初ライブ。この後、岡上摩三子が掛け持っていたもう一つのバンドに力を入れるため脱退。強烈なライブパフォーマーであった。

1997年9月:森沙織が新しいボーカリストとして加入するもわずか2週間で脱退。すぐさま井上朋子(トモゾー)を替りに連れてきた。テスト期間の後、正式加入。

岡上摩三子加入以降のこの時期はパンク、ハードロックが多く、「バカヤロー」「トーフーボーフー」「サンタは死んだ」など最近では演奏しない曲もある。またこの時期はライブ活動を盛んにおこなっていた。だいたい2ヶ月に1度、大阪難波のライブハウス等に出演していた。

左から、原、森田、井上、 林

1998年7月:産業ロックス解散、約2年間の活動であった。

 

2.ロケット新聞の歴史

1998年夏:林&森田で新たにロケット新聞社設立。ボーカルに「郁美」を迎えるも彼女が多忙でライブは一切できず。レコーディングを中心とした活動。この時期「夜の中之島」「好いたらしい人」「フライデーナイトフィーバー」など録音。

1999年春:橋本久美が2代目ボーカリストとして加入。バンド等の経験がまったくなく、好きな音楽はと尋ねたところ、音楽はあまり聴いたことがないと答え周囲の度肝を抜いた。この時期「テレパシー」「東京箱入娘」を録音。7月と9月に大阪難波クラブウォーターにてライブを行った。

1999年秋〜2000年春:メンバー各々が多忙で1996年以来初の完全休業。林はタイに出稼ぎ、森田は結婚そして新居購入、橋本久美が音信不通となり行方が知れなくなる。 イギリスに留学するとの情報を得ていたのでおそらくイギリスにいるのではないかと思われるが未だ確認は取れていない。

2000年7月:突如として復活、活動を再開する。10ヶ月ぶりのライブを林&森田で神戸にて決行。10ヶ月ぶりだというのに事前の練習は一度もなかった。
3週間後、ロケット新聞3代目ボーカリストとして「ユキ」が加入。彼女もバンド経験がなかったが、そのことを後悔しているということなので強引に引き込む。  

2000年12月:「老木」を録音。古くからある曲であるにも拘わらず今まで録音したことがなかった。大晦日に「ハイキング行こう」録音。かれこれ2年以上も暖めていた曲がようやく日の目を見ることにる。 

2001年1月:21世紀の幕開けは20世紀最後の日に録音した「ハイキングに行こう」の発表から始る。アコースティックな響きを増したこの曲は21世紀型ロケット新聞の始まりとなった。

2001年2月:「ハイキングに行こう」のビデオクリップ作成を決定。2月24日に「靫公園」と「スタヂオサンライズ」にてビデオ収録を行う。その後ビデオ編集に数ヶ月を要す。

2001年5月:「無意味音頭」発表。ビデオクリップ「ハイキングに行こう」発表。

2001年7月: 7月14日、「泉の森ホール」で行われる「ロックバトル in 泉州」(通称泉州ロックバトル)の予選に「ハイキングに行こう」で参加するも見事撃沈。練習不足が祟った。ボーカルの「ユキ」がタンバリン担当へ。

2001年10月: 夏ごろより頻繁に曲を発表していたインディーズサイトのテーマ曲「MP3-TOKYOのテーマ」を何の断りもなく勝手に発表。

2001年12月:仕事で疲れた帰り道に思い付いた「とぼとぼ歩く」を発表。

2002年1月:ロケット新聞結成以来ずっと暖めていた曲「ロケット新聞のテーマ」を発表。森田が流行性感冒に冒されつつ書いた詞に林が10分で曲をつけた「インフルエンザ」を発表。ビデオクリップ「文化の歌」発表。

2002年6月:ビデオクリップ「テレパシー」を発表。

2002年9月:ゴリゴン清水がドラマーとして加入。ロケット新聞としては待ちに待ったドラマーの加入であった。同月ソフトマシーンにてライブ2回。そのうち1回は初代ボーカル「郁美」がゲスト参加し「テレパシー」「夜の中之島」の2曲を歌う。実はこれが彼女にとってロケット新聞での初めてのライブであった。

2002年12月:ソフトマシーンにてライブ。

2003年1月:「music-Tokyoのテーマ」「ボクハデンワ」を発表。

2003年2月:「こよみ」ボーカルによる「愛してだまして」を発表。

2004年:このあたりから長期休暇に突入

2006年7月:ロケット新聞初のデュエット曲「長堀ラプソディ」を発表。

2010年8月:「ハーバーライト神戸」を発表。

2011年4月:「心の痛み」を発表。
(敬称略)  

(これらの文章は社史編纂課 林ヒデヲの記憶のみを頼りに記載しておりますので間違いに気付かれましたら御連絡下さい)


(社史編纂課)
更新日: 2012/04/21