まえこうの卒業研究における独白


なぜわたしは「対人地雷」を取り上げることになったか?
おかげさまで、卒論の評価は主査の先生からA+をいただきました(^○^)。
TOPそもそものきっかけ摸擬裁判と名誉ある(?)撤退そして、ラストスパート
(そもそものきっかけ)
 本当は「核兵器の違法性」というテーマで、ICJ(*1)の「核兵器の違法性に関する」勧告的意見(*2) の分析を中心にした論文を書く予定でした。しかし、核兵器については先行研究が数多くありすぎて、うちの学類(*3)の卒論で要求される「独創性」を発揮することが難しいことや「核兵器の違法性についての議論はもう倫理学の領域に入らないと新しい研究は無理かもしれないね」という院生の方々からのアドバイスであえなく断念(笑)。
 代わりのテーマを何にしようと思っているところに「第9回摸擬国際連合全日本大会」(私は今年の第10回記念大会も参加しました。)(^^;;。私は第1委員会のフランスを担当して「地雷問題」について討議を行いました(詳しいドキュメントはここです。)。その時の討議がそもそものきっかけといってもいいでしょう。はじめは「特定通常兵器使用禁止制限条約」の改正第2議定書(*4)と対人地雷についてのモラトリアムについて研究して対人地雷の規制の限界や人道法上の問題を研究すればいいかなぁと思っていたのです。しかしぃ、その後の対人地雷廃絶への動きは当時のデリゲートの予想を越える速さで進み、「対人地雷禁止条約(*5)」が1997年9月18日に採択されました。ついでにこの条約について日本が12月3日に開かれる調印式に参加する!
 これは当初の論文構想にこの条約の内容の紹介と問題点の検討に加えて、「通常兵器の規制は軍縮条約のように全廃を目的とするべきか、それとも人道上、この兵器は使用を控えることを規制すべきか?」を論じていこう!そう決めたのは中間発表(*6)の1週間まえのこと。とりあえず、中間発表のレジュメを作り発表をしました。
 で、これが一部から「でっちあげ」という噂の高い中間発表のレジュメ。
  卒業論文中間発表レジュメ                 平成9年10月29日
                           発表者:941289/前田耕輔
                           指導教官:尾ア重義 教授
               題名:「対人地雷の国際的法規制」

1.問題意識
 1997年9月18日に対人地雷全面禁止条約案(以下、便宜上、今年の12月に調印式が行われる都市を冠して、オ
タワ条約案とする)が採択された。この条約案は対人地雷の規制の履行を確保するための手段を付け加えた軍縮
条約に類される内容である。ここに、地雷の規制に「過度に傷害を与えまたは無差別に効果を及ぼすことがあ
ると認められる通常兵器の使用の禁止または制限に関する条約」(以下、CCW条約とする)「地雷、ブービー
トラップ及び他の類似の装置の使用の禁止または制限に関する議定書」(以下、第2議定書)による人道法から
のアプローチとオタワ条約案による軍縮法からのアプローチによる2つの枠組みが併存することになった。
 CCW条約は署名・批准をしていない国家も多数あるが、多くの国家はこの第2議定書若しくは改正議定書の内
容の一部やすべてをモラトリアムという政治的な約束により実施している。一方で、オタワ条約案は、12月の
調印式には100を超える国家が調印する予定であるが、米、中は署名を拒否、ロシアも批准に関してあいまいな
態度をとるなど、条約の実効性が疑問視されている。
 本稿ではCCW条約の改正第2議定書を国際人道法のアプローチから、オタワ条約案を軍縮法というアプローチ
から分析、評価し、これら条約自体の実効性について明らかにした上で、今後の対人地雷の禁止の普遍化に向
けてどちらのアプローチが有効か示唆を行うことを目的とする。

2.研究方法
 まず、序章において、対人地雷の兵器としての特性と被害の状況を述べ、問題を提起する。次に国際人道法
の原則とされている「文民の保護」と「過度の傷害を与える兵器の禁止」、軍縮法において重要な要素である履
行確保制度について概観する。その上で、1996年CCW条約改正第2議定書の内容を分析を行う。そして、各国に
よるモラトリアム、1990年頃からの国際連合を中心とした地雷廃絶についての運動について触れながら、オタ
ワプロセスまでの経緯と対人地雷全面禁止条約採択までの経緯を述べる。その後に、同条約の内容を検討しそ
の実効性を評価する。
 
3.章構成

 序章	
      第1節 対人地雷の特性とそれによる被害の現状
      第2節 問題提起と研究方法
 第1章    国際人道法の目的と原則
      第1節 文民の保護
      第2節 過度の傷害を与える兵器の禁止
 第2章    軍縮関連条約における履行確保制度
      第1節 検証、査察、申告の定義
      第2節 軍縮諸条約における検証・査察・申告制度
      第3節 検証・査察制度と主権侵害の関係
 第3章   CCW条約
 	第1節	条約設立までの経緯
 	第2節	条約本体及び第2議定書の内容
 	第3節	モラトリアムと国連を中心とした地雷禁止の動き
 	第4節	改正第2議定書の内容とその評価
 第4章   オタワ条約案
 	第1節	オタワプロセスによる条約策定の経緯
 	第2節	対人地雷全面禁止条約の内容
 	第3節	履行確保制度からの対人地雷禁止条約の評価
      第4節    CCW条約との関係
 終 章   対人地雷の禁止に向けて
 
4.主な参考文献
浅田正彦 「化学兵器禁止条約の基本構造−下−」、『法律時報』第836号、1996年2月
浅田正彦 「特定通常兵器使用禁止制限条約と文民の保護(一)」、『法学論叢』第114巻2号、1983年
浅田正彦 「特定通常兵器使用禁止制限条約と文民の保護(二・完)」、『法学論叢』第114巻4号、1983年
小山哲哉 「日米が「悪い子」になった対人地雷禁止条約交渉」、『世界週報』、10月28日号、時事通信社、1997年
黒沢満  「軍縮条約における検証」、『阪大法学』、第96号、1975年
堤功一  「対人地雷の法規制について」、『立命館法学』、第250号、1997年
藤田久一 『新版 国際人道法』、(有信堂、1993年)
森下伊三夫 「対人地雷の規制強化(特集第140回国会注目の法案・条約の紹介−注目の法案・条約)」、『立法と調査』、199号、1997年
目賀田周一郎 「特定通常兵器使用禁止制限条約の締結について」、『ジュリスト』第776号、pp.79-pp.83、1982年
レイ・マクグラス 新田久美 訳 「戦略?それともただの言い訳?―日本の対人地雷政策についての一考察―」、『軍縮問題資料』、第199号、1997年6月
第140回国会衆議院外務委員会議録、平成9年4月18日
B. Boutros Ghali, The Land Mines Crisis, Foreign Affairs, Sep./Oct. 1994
M. Matheson,  New Land Mine Protocol Is Vital Step Toward Ban, Arms Control Today, vol.26, no.5,July 1996
Norman. B. Smith, A Plea For The Total Ban Of Land Mines By International Treaty, Loyola of Los Angels International and Comparative Law Journal, Apr.1995
S. D. Goose, CCW States Fail to Stem Crisis, Arms Control Today, vol.26,no.5,July 1996

Topに戻る
(摸擬裁判と名誉ある(?)撤退)
 しかし、我が尾アゼミには「摸擬裁判」という飽くなきまでのアカデミック企画(*7)がある。これは裁判形式で国際法の形成についてまなび、リーガルマインドを養おう!というすばらしい企画である。しかし、これは同時に4年生から卒論執筆に必要な資料収集と議論を展開させるために考えを巡らす時間を奪うことになる。
 ちなみに、中間発表のレジュメがでっちあげといわれるのは、私が模擬裁判の方の資料を漁ったり、判決書きなどをしていたゆえんである(そう、私は摸擬国際司法裁判所(MICJ)の裁判官でした)(*8)。さて、この模擬裁判は9月初旬から10月中旬まで原告の訴状とメモリアル提出、被告のメモリアル提出、裁判官団からの質問状の提出という書面手続が続く。そうして、裁判官にしっかり(?)事件を審理してもらった後、口頭弁論と判決朗読、パフォーマンスを含む評価点の勝敗決定は、11月終わりのゼミ合宿で行われる。つまり、私を含む尾アゼミの卒論は12月が実質的な執筆開始となる(*9)
 しかし、私は他に重大なものを抱えていたのである。
Topに戻る
(そして、ラストスパート)
 それが摸擬国連全日本大会であった。申し込みをしたときは「まぁ。この時期には大方の卒論の構想はできていて、2章ぐらいまでのドラフト」と考えていたのである。しかし、12月の中旬には序章と1章のドラフトこそはできていたが、全体の構想は「おれはどこへ行ってしまうのだろう」という状態であった。
 ともかく、10日ほど卒論を中断して、摸擬国連に向けての準備。そして、卒論に不安を抱えたまま、一路、東京港区の高輪プリンスホテルへ。詳しくは別に書くとして、この時、実家に帰って2章以降のカードの整理をしようというあほなことを帰りの新幹線で企んでいた。しかし、実家に帰ると、餅つきやら初詣などでやるわけなかった。
 年が明けると、それはそれはもう地獄の日々であった。図書館に朝の9時から入って、閉館の午後10時まで食事をろくにとらずに原稿を書き書き。家に帰るとそれをパソコンで清書するという繰り返しだった。結局、〆切との関係で関連性が薄い(*10)章を執筆しないことに決定した。
 卒論が完成したのは締め切り日の午前5時。2日連続の徹夜でふらふらであったが、ここで寝ると期限の15時に遅れそうな気がして、校正作業の後、そのままコンビニでコピー。午前10時に提出先の第3学群B棟の会議室へ。そして、提出用紙に必要事項を記入した後、
午前10時32分 卒業論文提出、受理!!!

 その後、近くの教室で友人と待ち合わせる。昼までに卒論を提出した友人達と、打ち上げのランチを食べ ゲーセンへ。そのあと、開放感からか私はまる1日半寝てしまうという偉業を達成(笑い)。
それでは、卒論本編へどうぞ。
GigaHit
MAEDA Kosuke (maekoh@mwc.biglobe.ne.jp)