はじめに一首を引いておこう。とても微妙な感覚を歌っているように見える作である。
『虚空日月・虚空日月 二の抄』
時は「あかとき」である。これはどういう時間なのだろうか。夜が明けようとする気配をわずかにみせつつもいまだに暗い時のことであると理解しておいてよいであろう。未だ明けない夜の時間。この歌には『みずかありなむ』の「会明」で問われた問題のなかのひとつは問い継がれているだろう。それは、あかときの深い時の中でひとは何に会うのか、何かに会うのか、というような問いである。『みずかありなむ』にこめられた思いの中で、山中智恵子はみづからを、ただ夜の時間の中でのみ神と会う存在と規定していた。たとえば、
『みずかありなむ・会明』
の歌である。三輪山伝承のなかの、大物主神に訪われる、
朝ひらくひかりにも
そして、このかかわりの中で、山中智恵子は、百襲姫の現実にありえたであろう立場を詞にしている。「天皇
◇ 『梁塵秘抄』とあかとき
この『みずかありなむ』と三輪山伝承の脈絡の中で、ひとは夜、神と会っている。しかし、この大神、大物主神のある種の死、祀り上げることによる無力化とともに、何ごとかが起こる。それは一方ではヤマトの神々を中心にした神統譜が確立されてゆくことであるが、他方では夜の時間の中で働く別の力が探求されてゆくことである。山中智恵子の歌も、その、よりひそかな夜の力に目を凝らし、耳をすませてゆくのである。そうして、あかときという時は、むしろ「ひとり覚め、五更の夢におどろく」(『空也聖人御和讃』)時に近づいてゆくようにみえるのである。
つまり、言い方を変えれば、冒頭に引いた「耳盗」の歌の背景には、あの『梁塵秘抄』のおそるべき問いが隠れているようにみえるのである。いわく、
佛は常に
『梁塵秘抄・巻第二・佛歌』
法華経の寿量品の思想を引きつつ、経典の語るドグマをこえた、ひとの心の熄みがたい思いを捉えた歌である。神仏に会うこと、それはこの新しい境位においては、ある種の夢を与えてもらうことなのである。夢の中で何ごとかが語られる。何ごとかが告げられる。佛は、ただ夢の中においてだけ何ごとをか語るのである。『虚空日月』から何首かを引いてみよう。
ひとひとり在りとしみえて茜さすなにもみえねば醒めざらましを (虚空日月)
草ひばりいのちに向ふ夢みきとさめてののちをいふよしもがな (虚空日月二の抄)
これらの歌にはあるめざめと、希求と、そしてあかときの時間がある。「ひとひとり」のひとは、梁塵秘抄が「佛」と呼び指していた存在とほとんど違いがない。救済を、究極の希求の受け止めをしてくれるかもしれない存在、ほのめきのなかにその思いを期待させる存在である。そのようなひとが在るとみえて目覚めたが、そちらを見やると、ただわずかに茜のさし初めたあかときの空が広がっているばかりだ。そうであるならば、会うことが、見ることができないならば、いっそ何にも気づかずにねむっていたらよかったのに。そのものの気配に、あの究極の希いが目覚めてしまったことをむしろ恨むのである。
◇ いのちに向かふ夢
「草ひばり」の歌は藤原定家『拾遺愚草』の「夜もすがら」の歌を本歌とする。
夜もすがら月にうれへてねをぞなく命にむかふ物思ふとて (続後撰七三三)
「命にむかう」には古来「命に向かう」という解釈と「命に反う」とする解釈があり、決着しないが、いずれにせよ「命懸けの」という意味になるとする点では大差がない。生きものがすべて自らの意志とは関係なくすでに与えられてしまっている命。だがその命は別の命とつながることによって、あるいはそのつながりを志向することによって、大きな充実に達することができる。その充実をふたたび同じ「命・いのち」の語で呼ぶなら、「命」はやはり向かわれるものであるだろう。定家の歌は、秋のひと夜を鳴きつづける虫の音を命をもとめてなきつづける虫の孤独な声と読み取り、それを月にそのなぐさめを求めているものとみて描く。声の音(ね)はここでは他の虫には向かわず、月に向かっている。そこには何かの理由があるはずだ。物思いは、もともと他の同類の命に向かうはずであり、そこで「命」に達するためには、いつでも、ただひとり孤独のうちに踏み越えるべき大きな距離があり、そしてあたりにはそのための失敗の多くの姿がある。「月にうれへてねをなく」ものは自分自身でもあり、そのやぶれた、あるいはやぶれかかった自らの姿でもある。物思いは、その究極の姿において、すべていのちにむかひ物思いである、とこの歌は語っている。
山中智恵子の「草ひばり」の歌もそのコスモロジーにおいて定家と異なっているわけではない。だが、智恵子が「いのちに向ふ夢みきとさめてののちを」と歌う時、断然違うのはこの歌がその覚醒の瞬間、覚醒の出来事を歌っていることである。そして、みずからの希求といとなみが「いのちに向かふ夢」であったというこの覚醒は、ある究極の絶望にひとを直面させるのである。定家の歌には命あるものたちの営みをつつむ月の光があった。智恵子の覚醒の外には何もない。それを被いつつむべき何ものもなく、その絶望を語るべき誰もいない。そしてその絶望を語るべきどのような言葉も存在しない。なぜなら言葉によるいとなみのすべても、命に向かう、命あるものたちのいとなみであるからだ。草ひばりがみずからの姿であることも定家の歌の場合と変らない。この境位において、ひとはみずからのたましいと直面する以外のことができない。そしてそれが山中智恵子の多くの時間である。そしてこの時間の中で、そのたましいのなかに、真に新しい命の形が、どこからともなく生成してくるのである。
◇ 耳盗り
そして冒頭に引いた「耳盗り」の歌である。わたしはこの「耳盗り」の語が、山中智恵子の造語であるのかそれとも先例のある言葉なのかを詳らかにしない。ご存知の方があれば御教示いただければ幸いである。
ここでもう一度その歌を引いておく。
この歌が際だって魅力的なのは、そこに出会いが歌いとめられているからである。出会いという命の充ちる出来事がである。〈私〉はほのめきの気配のなかにある声を聞く。それはこの上なくリアルな声である。その声は〈私〉を大虚(おほぞら)に呼び、いざなっている。それはほとんど無のようなところである。現(うつつ)ならぬところである。常住の佛のいますところである。そのような場所に〈私〉は呼び、いざなわれた。少なくともそのほのかな夢は〈私〉にそう語っていた。そう〈私〉には感じられた。
その声の主は「耳盗り」と名づけられた。盗るとは、『字統』によれば、もともと血盟の皿に水を注いで盟誓を正式に破棄する行為だという。この耳盗りは、命あるものが、生まれる以前から、あらかじめ加入させられている「命に向かういとなみをする」という盟誓を破棄するように耳に語りかける。その耳とりの声を智恵子ははっきりと耳にするのである。あかときの夢の中で、智恵子はほのかな語りを聞き、そして別の盟約の下に生きることを呼びかけられたのである。そのほのかな語りには深く深く耳を奪うものがあった。
ここでさらに『虚空日月』から「あかとき」「あかつき」の歌を引いておこう。そこに「夢」の語りが読み取れるかどうか、それぞれに考えていただければ幸いである。
さみどりの声絶え入ればあかときの帰投者ひとりよびさましなむ (蜻蛉記)
くれなゐの
動乱の雪は降りつつ
あかときの飛花落葉をとどめむに白鳥花を
春暁を堪へたり鳥の一身を献るといはばきみも歎かむ (殘櫻記)
友よ
そして次の歌は夢とこゑについてである。
思ひゆゑ夢にもあはぬ青草の湖閉ぢて舟はしづもる (同前)
夢の中での語りということに関心をもっていただければ幸いである。夢は後に山中智恵子の歌の方法になってゆくであろう。
◇ 斎王への道
ともあれこの耳盗りの歌の中に梁塵秘抄の語った祝言は成就されている。佛が、仄(ほの)かに夢に見えたまふたのである。そして時はまさに「人の音せぬ暁」であった。その佛は、智恵子を大虚にいざなった。いわばうつつならぬあの世に連れてゆこうとしたのである。
山中智恵子がその大虚にいざなう佛の声に従わなかったとしたら、それはまだ何かし残した仕事があったからである。それは何にせよ新しい命の探求と言いうるものであろう。そこにはなおも恋があり、そして彼女が「十一面悔過」と呼ぶものもあっただろう。そしてさらに特別な命の形として斎王の探求ということがあったであろう。これらの探求のすべてが、この國のたましいの運命の形を見極めようとするものである。
われわれの考察もゆっくりとそちらの方に道を辿ってゆくことにしよう。