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『存在の扇』は山中智恵子の最初の評論集である。昭和五十五年(1980)に小沢書店から発行されたその本には、昭和四十五年の「拉鬼幽玄行」から、昭和五十四年七月の「源氏物語から斎宮女御集を」までの二十三篇の文章が収められている。これは歌集でいえば『虚空日月』『青章』『短歌行』の時期に当たる。いわば山中智恵子の関心が存在論から斎王論に移行して行く時期の論集である。著書としてはその間に『三輪山伝承』(1972)、『斎宮女御徽子女王』(1976)、『斎宮志』(1980)の三著が上梓されている。
本書に収められた「遠東暁の書」(1973)は山中智恵子の折口信夫論である。折口の仕事の継承として彼女の仕事を位置づけてみようとするわれわれにとって、この論の検討は欠かすことができない。たとえばそこに「「大嘗祭の本義」「天子非即神論」や、「民族史観に於ける他界観念」をつきつめて行けば、天皇制を空無化するほどの思想をはらんだものと思はれ、その他界観念は、国境を越えて、人類の未来の生の情熱ともなるべきものだった」という指摘をみるとき、われわれはその先見性に瞠目するのみならず、山中智恵子の思想そのものもこの脈絡の中で捉えなおす必要を強く感じるのである。
しかしともあれわれわれは急ぎすぎないようにしよう。まずは山中智恵子が遺した多様な糸を、取り残さないようにしたいのである。まず今回は、山中智恵子がしらべの最も高い歌を詠んでいた時期の歌体論を検討しよう。わたしは『短歌』誌上に「幻住箚記」が発表されたすぐ後のころに山中さんのお宅をひとりで訪ねたことがある。わたしは恐れ気もなく音楽家シュトックハウゼンの話などをもっていったのだが、そのとき山中さんは、ご自分の歌を「しらべがゆるくなってしまって、だめですね」と評しておられた。またふたたび高いしらべの歌に取組む気持ちは当然のようにうかがえたのだった。
またその一首めの、「いつみきか」の歌は、電話で前(登志夫)さんが褒めてくれた、といっていた。それは、
いつみきかいつみきとてか泉なる空にうつせば満目の花
『虚空日月・幻住箚記』
の歌のである。確かに「逍遥遊」までの歌がぎりぎりもっていた高いしらべはそこにはない。だがこの泉の歌のゆったりとしたしらべはそれはそれでとても心地よいもので、この歌もわたしの好きなものになっていた。それともう一首、
蕗刈れよ互みのことばさしこめて幻住玄武夏のいろなる
も好きな歌だった。「互みのことばさしこめて」には暖かい祝福があるのだ。
だが、今この歌群を見ると、わたしはむしろ次の歌に驚くのである。
拉鬼行はてなむ空か岬にて潮干潮みちひとひあそびつ
「拉鬼行」が終わる。山中智恵子にとっても一つの時期が終わったことはよく理解されていたのだ。私見では、二つの「虚空日月」そして「王必(ヒツ)」がもっていた最高度に高いしらべは、その後二度と戻ることはなかった。
だが性急なもの言いはやめよう。まずは山中智恵子がみずからの最高の歌の歌体として語る「拉鬼心尚心兄(ショウコウ)体」について理解を進めよう。拉鬼体は藤原定家が『毎月抄』の中でわずかに触れている歌体である。山中智恵子はその拉鬼に、『楚辞』のから取った「心尚心兄(ショウコウ)」を加えてみずからの歌体をさすものとした。それは『存在の扇』に収められた論考「拉鬼幽玄行」の中でもっとも明確に語られている。まずはその論考を検討しよう。
◇ 「拉鬼幽玄行」
余談だがわたしがこの「拉鬼幽玄行」を読み直したのは実に十七年ぶりのことである。その時わたしは藤原定家の「拉鬼体」についてものを考えていたのであった。そのころわたしは友人長野隆の拉鬼体論に触れ、しかし『三五記』に基づいて拉鬼体を家隆の神歌風の歌とみなすその考察に少なからぬ不満をいだいていた。この定家偽書に示されている例歌が拉鬼体についての定家自身の考えをどれだけ伝えているか、疑問だったのである。しかしながら他の真書に例歌が記されているわけではない。とすれば鎌倉初期までの数々の歌に定家の歌体論の分類をあてはめて、そこから「拉鬼体」に当てはまるべきものを自分の感覚で選り出してくるしか方法はない。山中智恵子の「拉鬼幽玄行」はまさにその作業から生みだされてきた論考であった。それはどのようにしても学術論文の体裁に収まるものではないのである。<>br>
その「拉鬼幽玄行」のなかで、山中智恵子は藤原良経と式子内親王のいくつかの歌を挙げ、これらこそ定家が考えた拉鬼の歌ではないかと語った。その示唆はわたしにはまことにめざましいものであった。
幾夜われ波にしをれて貴船川袖に玉散るもの思ふらむ 良経
うちしめりあやめぞかをる郭公啼くやさつきの雨のゆふぐれ
明日よりは志賀の花園まれにだに誰かは訪はむ春のふるさと
さそはれぬ人のためとやのこりけむ明日よりさきの花の白雪
行くすゑは空もひとつのむさし野に草の原より出づる月かげ
いはざりき今来むまでの空の雲月日へだててもの思へとは
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
ほととぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ 式子内親王
ゆふだちの雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山に日ぐらしの声
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
桐の葉もふみ分けがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど
しるべせよ跡なきなみに漕ぐ舟の行方も知らぬ八重のしほ風
生きてよも明日まで人はつらからじこの夕暮を訪はばとへかし (一字修正、引用者)
しづかなる暁ごとに見わたせばまだ深き夜の夢ぞ悲しき
これらの歌を「優艶にして、鬼とりひしぐ高いしらべの歌」と山中智恵子は語るのである。鬼をとりひしぐのは、何よりも「高いしらべ」だと智恵子は考えているのである。
◇
当時わたしにとってもっとも示唆的なのは良経の貴船歌の指摘であった。わたしはこの歌に「高いしらべ」とともに「思いの清らかさ」をみるのであるが、この歌を例歌のはじめに置いた智恵子の配慮には、和泉式部のあの例の貴船歌が、貴船明神の返歌を伴ったあの貴船歌のことがあったにちがいない。それは言うまでもなく後拾遺集の、
もの思へば沢のほたるもわがみよりあくがれいづるたまかとぞみる
の歌のことである。鬼になるとは、このようにたましいをわがみからとき放ち、とび散らせてしまうことではなかったか。定家みずからは「ほたる」の歌をひとつも詠まなかったといわれる。それは定家の心の中で、この式部の歌のために、ほたるが必ず鬼とつながる思いをもたらし、それゆえ拉鬼の歌としてしか詠み出せなかったためではないだろうか。しかもそこにはすでに良経の拉鬼の秀歌があったのである。拉鬼の歌は定家にはにがてな歌体であったように見えるのである。
山中智恵子があげる他の拉鬼歌も、とり拉がるべき思いを式部の貴船歌に置けばその論理は見やすくなる。式子のほととぎす歌であれば、「ほのかたらひし空ぞわすれぬ」という思いの形にとどまることによって、たましいをひきとどめるのである。それが鬼を拉ぐことであろう。その心の形を、その心の形の継承を、歌は「高いしらべ」において証しするのである。
◇
わたしはあまりに自分の考えを語りすぎたかもしれない。もう少し智恵子に即して語ろう。『三五記』が拉鬼体の例歌としてあげているのは、
ぬれてほす玉ぐしのはの露のまにあまてる光幾世へぬらむ 良経
神かぜや伊勢のはま荻折り敷きて旅寐やすらむあらき濱べに
思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲の跡の山風 家隆
などの歌である。『三五記』はさらに「強力体」をこの歌体に含めて説くが、それら『三五記』のあげる例歌を、山中智恵子は「その例出の歌は、表皮の強力のみを採った選出で肯ひがたい」と言う。わたしも同感である。良経からの歌も「賀」の歌の詞によって採られたにすぎないものとみえるのである。
こうして山中智恵子の「拉鬼体」論は、先に引いた、良経、式子の十四首と、さらに定家の、
夕ぐれはいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ
の一首をあげて、ひとまず完了する。
◇ 拉鬼ショウコウ(心尚心兄)体
山中智恵子がこの拉鬼にさらに「心尚心兄(ショウコウ)」をつけ、拉鬼心尚心兄体という歌体を語り始めるのは、『存在の扇』で見る限り、昭和四十七年の前川佐美雄論「八がしらの猛きすがたは」である。「定家が『毎月抄』に、ひかへ目につけた鬼拉体。さらに私の気恥しい造語を交へるならば、鬼拉幽玄体、また拉鬼心尚心兄体ともいふべき歌のすがたを、この一首や万緑の鳥にみる」、と言う。この一首とはすなわち、
しののめの渚にありてわが母のみ足洗ひゐしを夢と思はず
『白鳳・流沙』
の歌である。
さらに二首、
万緑のなかに独りのおのれゐてうらがなし鳥のゆくみちを思(も)へ
『大和・夏夢』
ゆふ風に萩むらの萩咲き出せばわがたましひの通りみちみゆ
『大和・石響く』
を智恵子は引く。「佐美雄の心尚心兄(あくがれ)とは、〈たましひの通りみち〉なる、かかる風洞のの中に、うつしみのまま入つて行く幽玄行であり、……わが内外(うちと)の鬼をまがなしみつつ、その意識の水深の暗部を、歌をもって拉することだった」と智恵子は言う。歌をもって鬼という意識の水深の暗部を拉することは拉鬼の歌のいとなみそのものであろう。それでは心尚心兄はどのようないとなみなのであろう。
『字統は』「尚は窓明りのところで神を祀り、神気の彷彿としてあらわれる意。その神気を迎えて忘我の状態にあることを、心尚心兄という。心兄も巫祝の自失の状をいう字。目にものを見ず、耳に声を聞かぬ状態をいう」と説く。忘我になってぼっとしている状態といってよいであろう。しかし外部からの刺激への対応を失ったその状態においても、何かの心の思いはあるのである。山中智恵子が引く『楚辞』「遠遊」のその用例においても、「心尚心兄として永く懐う「(おもう)ふ」と言われ、「意」はぼっとしていても、「心」は働き、愁い悲しむのである。佐美雄の歌に即せば、たましいはたましひの通りみちの中にうつしみのまま入ってわれをわすれながら、こころには永く懐いがつづくのである。山中智恵子は佐美雄から拉鬼心尚心兄の歌体を学ぶのである。
しかしそうなると先に引いた和泉式部の貴船ほたる歌も、同じように拉鬼心尚心兄歌といえるのではないだろうか。山中智恵子の心尚心兄概念は、さらに検討する必要があるであろう。