山中智恵子論
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--- 鬼拉・拉鬼・乱神・誄歌 ---







Presented
by


中路 正恒
Masatsune NAKAJI


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 鬼拉・拉鬼・乱神・誄歌
  

 現代短歌文庫の『山中智恵子歌集』(一九九八年、「砂子屋書房)は今日一般にもっとも手に入りやすい山中智恵子の歌集であろう。そこには第十二歌集『夢之記』(一九九二年)の全篇が収められているとともに、『風騒思女集』までの十一の歌集の自選歌と、その他に山中智恵子が書いた歌論と、さらに解説として春日井建、吉本隆明、菱川善夫、谷川健一、塚本邦雄各氏の山中智恵子論が収められ、大変充実した一冊になっている。今回は主にこの本の内容を問題にしてみたい。多少デリケートな問題に関わるかもしれないが、予めお許しを願っておきたい。

 歌集として『夢之記』は昭和天皇の大葬を正面から歌った「雨師すなはち帝王にささぐる誄歌」が収められているために世に注目されている歌集であり、また天皇制が問題にされるときには常に注目され、参照されるべき歌集である。それゆえにデリケートな問題を含む歌集であるわけだが、またそれゆえにわれわれのこれまでの考察の連関からして、避けて通れない歌集であり、歌群である。だがまず始めに紹介したい歌は、前回いささか紹介して論じた拉鬼体論(「拉鬼幽玄行」一九七〇年、「八がしらの猛きすがたは」一九七二年)を智恵子みずからがが捉え直したものである。次の歌である。

  思ひきり心をつかみ出(いだ)せるを拉鬼といふかすさべむらぎも
                  『夢之記・うつろ舟』

ここにおいては「鬼」のきわめて激しい位相での捉え直しが見て取れる。昭和四十五年前後の智恵子の鬼の規定は、およそ「存在に飢ゑてあらくれるわが内なる鬼」(「八がしらの…」)に見て取れる。そこでは「鬼」は、高いしらべをもった歌によって、拉せられ、鎮められるべきものであった。だが、右の歌から「拉鬼」を考えようとする時、「拉鬼」とは鬼がひとの心を取りひしぐのと同じような激しさで、何者かが鬼の心を取りひしぐもののようである。定家の『毎月抄』等においても、その歌体は「拉鬼体」と記されたり、「鬼拉体」と記されたりしていた。この歌では、鬼をひしぐことと鬼がひしぐことが一体となったような激しい動きとして、「拉鬼」が捉えられているのである。そして、「すさべむらぎも」という措辞は、鬼拉=拉鬼にいたるまで臓腑が荒れひしめき、心の情動が暴れまわることを肯定しているのである。とすると、歌体としての拉鬼体は、ここではどういうことになるのであろうか。歌には特別の力があるのだろうか。管見山中智恵子はこの時期「拉鬼体」の論を立てていない。しかしわれわれはその少し前の時期に、彼女が夥しい数の歌を生みだしたことを知っている。そのことこそが歌の拉鬼の力を証ししていることになるであろう。それでは拉鬼体とは、あの『星醒記』『星肆』『神末』などの歌の歌体なのであろうか。それらはむしろ正述心緒の歌であった。歌の拉鬼の力は、われわれに正述心緒の歌を詠ましめるものなのであろうか。われわれはこの問いを歌体論の重要な課題の一つとしておくことにしよう。

       ◇

 ところでわたしがここで本題として扱いたいのは、塚本邦雄の「精霊記---山中智恵子の「蜻蛉記」解題」(一九七八年)という論文である。わたしは塚本の文章から明晰な内容を取り出すことに長けているわけではないが、この「精霊記」には幾つかの明確な主張、あるいは山中智恵子に対する希いが、見出せるのである。まずはそれについて検討してみよう。
 塚本は、次の歌を山中智恵子の「代表作」と語る。次の歌である。

  水くぐる青き扇をわがことば創りたまへるかの夜へ献(おく)る
          『みずかありなむ・夜、わが歌を思ひ出づ』

歌の源になった夜の心の格闘と、その夜への素直な感謝の歌である。まさにその夜が、彼女にことばを創り、与えたのである。それはすべてへの肯定であり、すべてへの感謝であるが、それは彼女が夜からことばを賜り、清らかな歌が生まれたことによって可能になった肯定であり、感謝なのである。「水くぐる」が心の格闘を指し示し、「青き扇」が夜に生まれた歌を指し示している。

 このようなみずみずしい感謝と肯定の思いを歌う歌は、山中智恵子の本領とするところであり、智恵子の歌には終生見られるものである。そしてその源にはいつも、歌のことばをたまわるという創造の奇跡のような出来事があるのである。この歌を賞讃することにわたしは何の異論もない。
 しかしながら塚本はこの「青い扇」を、「存在の扇」と対立させ、そちらの傾向の歌と彼が考えるものを執拗に拒否する。

 さはかへりみつつなほ私は否まねばならぬ。「乱神を語らぬ掟」「時を糺す」「水行千里」「亡命の夜」さらには「存在の扇」を。この不狂人めいた畸語の底にはもはや孵した星さへ映らない。他は諾はうとも「存在の扇」を諾ふなら、青扇を献じた言葉の創り主が哭かう。

 塚本はこれらのカッコの中の言葉を「述志」と理解するのである。述志とは文字どおりこころざしを述べることである。

 詩歌は言葉の華たるべし。殊に短歌を述志の器とし時分の花とひきかえにすることを私は拒む。述志は陥穽である。心ばへの高さと反比例して詞華は枯れ枯れとなる。

 塚本の論は明快であり、特に注釈する必要はないであろう。そして塚本は、この「心ばへ」は高いが、「詞華は枯れ枯れ」となり、「みづからを悲愴孤高の境に逐ひ」やった詩歌の典型を屈原の作品「離騒」に見る。だが離騒は和歌の系譜には有り得ないものであり、もしあり得たとしても山中智恵子の取組むべき道ではない、と考えるのである。
 塚本のこのような主張は、わたしには、きわめて大まかな分類であり、そもそも山中智恵子の仕事の本領を捉えることができない理論ではないかと思うのである。たとえばそこで塚本が秀歌としてあげている歌、

  われらことばの肉を恃まず一陣の夢に散り敷く沙羅の花はも 
            『虚空日月・虚空日月二の抄』

は、むしろ述志の歌と言うべきではないだろうか。述志の高さと詞華の豊かさは決して矛盾するものではないのではないだろうか。そしてまた塚本が拒否する「存在の扇」とは、畢竟して何なのだろうか。それは、

  たまかぎるほのかに瞼あはせたる存在の扇流れゆくはや
          『虚空日月・虚空日月二の抄』

の歌を指しているのは確かだが、管見、塚本自身この歌の解釈をしたものをわたしは知らない。わたしにはこの歌に述志の要素はまったく見出せないのである。とすれば塚本の論には一貫性が欠けている。あるいは塚本は、みずからが流れてゆくという、智恵子の流れてゆく自分の自己肯定を嫌ったのではないであろうか。「存在の扇」とは智恵子のみずからの比喩でしかありえないであろう。

      ◇

 この連載の第一回の注の中で、わたしは拙論「山中智恵子のキリスト教」の私家版を、二名に送るように山中智恵子氏自身から頼まれた、と言った。その二名とは、塚本邦雄氏と、原田禹雄氏であった。ちなみに紀要版は前登志夫氏に、著著版は谷川健一氏にそれぞれ山中智恵子氏の指示でお送りした。そのことが何を意味するかを、拙論をお読みいただいた上で勘案していただければ、それらの高名な歌人・著作家の書かれたことの意味が多少とも理解しやすくなるのではないかと思う。そのような公的な意味合いを勘案して、ここにそのことを公表しておく。最初の送付依頼先に前氏の名前がなかったことが、当時のわたしには意外であった。

       ◇

 吉本隆明の論に移ろう。周知のように、吉本隆明は山中智恵子の歌の中にしばしば読み込まれている。『夢之記』の「風歌倒語」にも次の歌がある。

  心音の速さを源氏によみとりし隆明の書のなぐわしきかな

 わたしが二度目に山中氏の家をお訪ねした時にも吉本隆明のことは話に上った。彼の『共同幻想論』に関してだが、その論の組み立てに必要な言語感覚の素晴らしさを彼女は賞讃していた。『山中智恵子歌集』には吉本の論文「写生の物語 ---私家集(2)」(一九九六年)が収められている。この論文の「声調が一呼吸ひき伸ばされている」ということの意味を残念ながらわたしは理解できず、そのため全体としてこの論文について論じることはできないのであるが、しかしその論の最後の部分に関しては少なからぬ疑問をもつので、それについて論じてみたい。

 『夢之記』の歌を十首引いた後で論の最後を吉本はこう結ぶ。「しかし山中智恵子の詠んでいるこの昭和天皇挽歌ともいうべきものは、同時代に比肩すべきもののない完備した情念と感覚と時代の死の宣告の表現になっていると思える」と。吉本が引く歌は、「含蝉」の前川佐美雄の哀悼歌四首を除くと次の六首である。

  氷雨ふるきさらぎのはてつくづくと嫗となりぬ 昭和終んぬ(誄歌)
  雨師(うし)として祀り棄てなむ葬り日のすめらみことに氷雨降りたり(夢之記)
  深き夜を深靴(ふかぐつ)の音歩みゆく世紀果てなむ夜までのこと(誄歌)
  そのよはひ冷泉を越え賢王と過ぎたまふ、そよ草生(ひと)を殺しき(誄歌)
  青人草(あをひとぐさ)あまた殺してしづまりし天皇制の終を見なむ(誄歌)
  昭和天皇雨師([ルビ]うし)としはふりひえびえとわがうちの天皇制ほろびたり(誄歌)

「夢之記」の一首を除いて他の五首はみな「雨師すなはち帝王にささぐる誄歌」からの引用である。「誄歌」については大方の読者も本を手にとって、吉本がどの歌を取りどの歌を取っていないかご検討いただければ幸いである。わたしが問題にしたいのは、先の引用の中で吉本が、これらの歌が「時代の死の宣告の表現になっている」と言っているところである。これはよく言って、読み違えではないだろうか。「時代の死の宣告」とは一体何であろうか。「時代の死」とは?

 「時代」が「昭和」を指すのであれば、時代は死んだのではなく、終わったのである。記すならそう記すべきだろう。山中自身は「昭和終んぬ」と記しているのである。では時代とは何で、時代の死とは何か? 昭和天皇の大葬とともに何かが終わったとして、その何かだろうか? 「時代の死」という漠然とした表現によって吉本が指そうとしているのはおそらくそのような「なにか」というような漠然としたことであろう。しかしそうだとすると、そのようなものの死は「宣告」されるものであろうか? 山中智恵子の一連の誄歌はそのようなあいまいなものの「死の宣告の表現」であろうか? まったく違う、と言わなければならない。そして、そもそもそのようなものの死はいったい誰が「宣告」するものなのだろうか? 少なくとも山中智恵子はそんな曖昧な死の宣告を何一つ下してはいないのである。

 そして何よりも問題なのは、昭和天皇の死後も天皇制は相変わらずに続いており、山中智恵子自身は、「天皇制の終を見なむ」「わがうちの天皇制ほろびたり」と、非常に明確に、天皇制の終焉への希望と、みずからの内でほろびた天皇制について語っているということである。そしてさらに言えば、吉本の引用していない歌の中で、山中智恵子は黒翁としての昭和天皇への敬慕を、きちんと語っているのである。これらの非常に重要な問題について、吉本隆明はまったく何も語っていない。それはいったい何なのであろうか?

       ◇

 さきほど塚本のところで論じた「述志」の「志」は、その時代、その少なからぬ部分を吉本隆明が代表していたであろう。そうであれば塚本邦雄の智恵子への懸命の語りは、決して空しいことではなかった、と言うべきであろう。吉本のこうしたあいまいな語りの遠く及ばぬところに、山中智恵子はしっかりとした記念碑を打ち立てたのであるから。ホラーチウスとともに言わせてもらおう。青銅よりも永遠なる記念碑を。
 次回は智恵子の誄歌が切り開き、打ち立てた場所について考察を進める。

2007.02.02
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このテクストは、『日本歌人』2007年4月号(2007年4月1日発行)に掲載されたものです。
HTMLにするに際して若干の変更を加えました。
2007年4月29日


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