山中智恵子論
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--- 離騒・屈原・肯定 ---







Presented
by


中路 正恒
Masatsune NAKAJI


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 離騒・屈原・肯定
         

 三月十一日、鈴鹿市の山中さんの地元で開かれた「山中智恵子先生を偲ぶ会」に行って来た。近くの子安観音の境内に歌碑が作られ、寺ではその披露もかねて追善供養が行なわれた。また庵室では山中さんの手書きの扇や額などか展示されていた。私が見慣れていた葉書の字とは少し書き方が違っていて、こちらの方が読みやすいものだった。少し違う山中さんの姿がうかがわれるようだった。
 その後白子のホテルで「偲ぶ会」が行なわれた。地元の方々の主催によるものだけに山中さんの普段の姿をいろいろと教えてもらえた。なかでもご主人の暢仁さんの人となりを語ってもらえたのが有り難かった。視野が広がった気がした。私は、お目にかかる機会をもてなかったのだった。

     ◇

 前号で私は、次は誄歌について論じると予告した。期待してくれた読者にはまことに申しわけないが、誄歌について論じるのはもう一回先に延ばすことにしたい。というのも、前号を書いた後に浮かんできた問題があり、それは誄歌の後ではやや場違いになってしまいそうだからである。お許しをいただければ幸いあるである。
 新たに浮かんできた問題とは「離騒」の問題である。前回私は塚本邦雄氏の「精霊記---山中智恵子『精霊記』解題」(『山中智恵子歌集』一九九八年、砂子屋書房、所収)について論じた。その塚本氏の論の中には「離騒は和歌の系譜になどあり得ない。假にあつたとしても未だ時分の花咲きにほふ山中智恵子の創るべき系譜ではなからう。立志慷慨、かかる乱がはしい言挙は屈強の士に委ねておくがよい。落魄を糧とし反骨を粮として野に立つますらをに托すべきであらう」という部分があるのである。この主張は、屈原の「離騒」を典型として取り出し、そのような「志述」の歌は山中智恵子の進むべき道ではないと述べているものであり、塚本の歌への姿勢を述べたものとして十分納得のゆくものである。
 しかしながら塚本が、それに直続するところで、「『みずかありなむ』の歌のいづれに与しいづれを避けるかは冗言を要すまい」と語っているのを見るとき、私はここに多少の疑問を感じざるをえないのである。ここで、塚本が、山中智恵子の

  蝉(せび)ひとつわが胸に置きねむれとぞ歩めとぞひとよ互みの離騒
                 『みずかありなむ』「離騒」

の歌を念頭に置いているのは間違いがないであろう。そして塚本はこの歌を、「立志慷慨」の述志の歌と考えているのである。実際彼はこの論の中で山中の「離騒」歌を引くことすらしていないのである。彼がその「離騒」の歌を退けているのは明らかであろう。
 しかしながら、われわれが虚心坦懐に山中智恵子の「離騒」の歌を見るとき、われわれはこの歌がほんとうに、塚本が言うような述志の歌なのだろうか、という疑問を感じざるをえないのである。むしろ塚本の方が、「離騒」の語に引きずられすぎているのではないだろうか。その漢文学のひとつの源流をなす、屈原の「離騒」という作品と、その評価の文学史的な伝統に。
 この山中智恵子の歌は、私には、それをはじめて目にしたとき以来、恋の歌としてしか読めないのである。まずはこの疑問について考察してみることにしたい。ここには山中が漢籍を引く場合の基本的な姿勢もまた確認できると思うのである。

     ◇

 山中智恵子の歌集『みずかありなむ』の中には、「われはことば/見捨てぬほどのうれひなれ」の詞から始まる「離騒」と名づけられた歌群がある。そこには、

  つかのまの愛(かな)し和音(くわおん)や声あふれつもれるつみと葛城をいふ

  あはれことばに遇ひきと言はばくだつ夜の千筋の瀧のなほも夜なる

  高見山(たかみやま)青透くばかりすがた立つつくづくと今をよき咲(えま)ひあれ

などの代表的な秀歌が収められ、問題の離騒の歌もその一連の中にある。もう一度引こう。

  蝉ひとつわが胸に置きねむれとぞ歩めとぞひとよ互みの離騒

この歌一首の語るところはおよそ次のようなものであろう。
「そもそもはだれが置いたものかわからない。しかしわが胸には蝉がひとつ置かれ、それが騒ぐ。ねむることも、あゆむことも、思うままにならない。それはあなたが置いたのだ。あなたわたしをがこんな苦しい状態にした。だがこの状態は互いのことなのだ。」 疑いもなく恋の歌である。そしてそれを「互みの」と、互いの身の上のことと思うところにひとつの要点があるであろう。

     ◇

 問題は「離騒」である。「離騒」の語がこの歌の中でどのような意味をもっているか、ということである。
 文学史的な知識を排したところでこの歌を見ると、ここで「離騒」は「離れていても心が騒ぐ」という意味で用いられているように見える。「離」は「離れて」という副詞的な修飾語で、「騒」のありかたを説明していると見られるのである。「騒」はこころの乱れであり、騒ぎであり、『字統』によれば、騒擾を本義とし、「掻」の仮借で、憂なり愁なりの意味をも含むという。激しい憂いをも含むこころの動きである。放っておくことができない。蝉が鳴き出すように、胸の中で、事あるごとにこころが騒ぎ出すのである。
 他方、この「離騒」語の起源におかれるのは、『楚辞』に収められた屈原の作品「離騒」である。かつて司馬遷は、屈原の「離騒」を註して、「離騒とは猶離憂のごときなり」と語った。この解釈を示したとき、司馬遷もまたこの「離」を、離れてと副詞的に理解していたともとれる。離騒とは「離れて騒ぐ」ことであり、それはすなわち「離れて憂う」ことである、と、そのように理解していたとも考えられるのである。
 しかしながら、このような司馬遷の解釈は、「離」の字の意味を解いていないと批判されることがある。たとえば星川清孝氏は新釈漢文大系の『楚辞』(明治書院)の解説の中で、『楚辞』諸篇の中の類似語とその古今の諸家の説を検討し、司馬遷のあいまいな「離」の解釈をより正確な解釈へむけて考察している。
 星川氏の説くところによれば「離」は、「遭ふ」もしくは「罹る」の意味で、動詞に読むべきものであるという。「離騒」とは、「騒に遭ふ」、もしくは「騒に罹る」の意味であるというのである。ここで「騒」はおよそ「憂い」とか「憂愁」とかの意に解されており、それは『字統』の説くところと変らない。私なりにまとめれば、「離」とは予期していなかった事態に遭い、罹り、陥ることを言う語であり、ここには人生において出会う出来事の偶然性への認識が、鮮明に現われていると見えるのである。
 また『字統』は、「離」はトリモチと隹(とり)からなり、「トリモチにかかった隹」の意で、「離」には、そのトリモチを離去するという意味と、そのトリモチに離(かかる)という相反する意味がある、と説く。「離騒」は、トリモチにかかるように騒(憂)に罹ることであるというわけである。この説明も、「離」の字にふくまれる出来事の偶然性を言い当てているであろう。
 「離騒」は、その語においては、決して「立志慷慨」を意味せず、「落魄を糧とし反骨を粮として野に立つますらを」の技たるを意味するものではないのである。塚本邦雄が山中智恵子の「離騒」の語に憤りを示すとき、塚本は山中が「離騒」に込めた意を誤解しているのである。塚本は、その「離騒」を、あまりに屈原に近づけ過ぎたのである。塚本が山中の「離騒」について語ることは、屈原の「離騒」には当然のように当てはまることだが、山中智恵子の「離騒」はそうした屈原のような立志慷慨からは相当に遠いところに位置しているのである。

    ◇

 そのことは歌群「離騒」についても言えることである。先に上げた歌を簡単に点検してみよう。

  つかのまの愛し和音や声あふれつもれるつみと葛城をいふ

の歌は、心が「和音」として通じ合う一瞬のことを歌っている。その一瞬にあふれるもの、声。その「つみ」はひとの歴史の普遍の中で確認され、そして葛城の神の名がよばれる。「葛城」はまずは(雄略紀の一言主神というよりも)流竄される高鴨の神の名であるが、それは同時にその神を知るひとびとへの訴えとなる(1)。ドイツの詩人ヘルダーリンは「われわれが一つの対話であってより……」(『宥和者 第三稿』)と語ったが、ひととひととが一つの対話になるという奇跡のような出来事のことを、ここで山中智恵子は歌っているのである。そしてその時、ヘルダーリンも言うように、天上的なものが名ざされるのである。愛惜の思いのすべてを賭けて。

     ◇

  あはれことばに遇ひきと言はばくだつ夜の千筋の瀧のなほも夜なる

の歌は、ことばがどのようにして与えられるかを語っている。ことばは、夜に、いつ明けるとも思えない夜のくだちのなかに出会われるのである。
 この歌は、

  水くぐる青き扇をわがことば創りたまへるかの夜へ献(おく)る
          『みずかありなむ』「夜、わが歌を思ひ出づ」

の歌と同じ事態を語っているが、「青き扇」の歌が、歌人としての立ちどころから、不退転の姿勢で、その立ちどころのことを歌っているのに対して、「くだつ夜」の歌は、その水くぐる夜の苦しさをありありと語っている。ことばは夜に遇われる。偶然であり、遭遇である。その夜の偶然をこえて、その先に何があるわけでもない。神がいるわけでもない。神というならば夜そのものが神であり、ことばに遇うことがその神の恩恵のすべてである。しかしそのような遭遇があることを、山中智恵子の歌は、その歌そのものが証ししているのである。

     ◇

  高見山(たかみやま)青透くばかりすがた立つつくづくと今をよき咲(えま)ひあれ

の歌はまじりけのない最高の肯定と祝福の歌であり、私の最も敬してやまない歌の一つである。これは『虚空日月』の、

  陽はめぐりなむ虚空青山風祝(かぜはふ)り春鳥声にいでて愛(かな)しむ
                         『虚空日月』「虚空日月」

の歌とともに山中智恵子の歌の双璧をなし、ひとの精神が到達しうる極限的なことを歌っている。これらの歌には一片の陰りもなく、否定のかげ一つもない。どのような否定によっても汚されることのない肯定についてニーチェは語ったが、われわれはこの二首のうちに、そのまぎれもない肯定の姿を見ることができるであろう。

     ◇

 今一度引く。

  蝉ひとつわが胸に置きねむれとぞ歩めとぞひとよ互みの離騒

 この「離騒」の歌は、このような脈絡の中に位置している。それは塚本邦雄のいうような「立志慷慨」の歌であろうか。ありえないことである。
 さらに今ここで補足をするとすれば、その「ひとよ互みの離騒」という措辞において、互いの離騒が、いわば互いの遭難として捉えられていることである。この互いの憂いに対して、誰も責任を負う者はいない。その出会いの偶然に、ひとはここでまっすぐに向かっているのである。


(1)安森敏隆は「つもれるつみといふ」の中で「葛城」を役行者との縁で語り、野間亜太子は「不条理の超克」の中で「契りのむなしさ」につなげる(いずれも『山中智恵子論集成』砂子屋書房)。しかし私はどちらの説にも賛同できない。この歌の「葛城」が(雄略記の)一言主神を念じていることはすぐ次の歌「六月の白羽の甲矢に反すべく一言の霧くれなゐ流る」から明らかである。まずは山中智恵子『三輪山伝承』一五三頁を参照されたい。

2007.03.14
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このテクストは、『日本歌人』2007年5月号(2007年5月1日発行)に掲載されたものです。
HTMLにするに際して若干の変更を加えました。
2007年6月2日


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