四月二日、この日京都は一日中黄砂に覆われていた。重たいものが街中を包んでいた。雲ではない。かつてないほど厚いもので、エキゾチズム的な中国大陸へのあこがれをもたせるようなものではなかった。むしろこの黄砂とともに、大陸の工場から排出された汚染物質が運ばれてきているのだろうと思わせるものだった。数年前までは黄砂が降ると、遠い西の異国を憧れとともに思っていた気がする。中島みゆきの「黄砂に吹かれて」は一九八九年のリリースだった。時代は確実に変っている。昭和天皇の御大葬はこの年の二月二十四日だった。すでに十八年の時が流れているのだ。そして山中智恵子の『夢之記』が発行されたのはその三年後、一九九二年十月である。
山中さんからお送りいただいたその歌集を見て、まず目に飛び込んできたのは「雨師すなはち帝王にささぐる誄歌」であった。わたしに疑問がなかったわけではない。なぜ「雨師」なのか、それが疑問であった。昭和天皇が祈雨祭のようなことを催したことがあるのか、寡聞にして知らなかった。おそらくそのようなことはない。この「雨師」と呼ぶことで、山中智恵子は、昭和天皇を、旱天に悩む民のために祈雨祭を催した古代の王になぞらえているのだろう。王とはいえ、古代にあっては、祈雨に失敗すれば命をもってそれを贖わなければならないものであった。昭和天皇にとって古代の祈雨祭に相当するものは何であったか。大東亜戦争の戦勝祈願であったか。それとも敗戦後の国の復興であったか。前者であれば、祈雨は失敗したと言わねばならない。後者であれば成功したと言えるであろう。山中智恵子はどう考えたのであろうか。大正十四年の生まれである歌人にとって、人生の過半は昭和につながる。この国の歴史の中の昭和にとって忘れることのできない重要な日付の一つは、ポツダム宣言受諾の翌年、昭和二十一年一月一日である。そ日の発せられた「年頭の詔書」では次の言葉が言われていた。「朕と汝ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず」と。天皇は現人神ではない。そういう考えは架空のものだ。そう言われている。日本は神国ではないと、そう宣言したものである。これは「天皇の人間宣言」と呼ばれ、理解されているものであり、それはわたしの考えによれば、崇神天皇肇國に由来する神国日本の終焉の宣言である。
雨師であるからには、祈雨が失敗した場合には王を廃され、みずからも死ななければならない。この古代的な思想が、そしてその思想の正当性の主張が、山中智恵子の誄歌の基本的な思いであるように見える。われわれもまたその古代的な正義の場所に一度立ち戻るべきではないだろうか。ともあれ昭和の時代の終わりに立つ山中智恵子の歌を検討してみよう。
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はじめに歌集『夢之記』の「雨師すなはち帝王にささぐる誄歌」から何首か上げてみよう。「誄歌」は十六首をもって構成されているが、その初めの二首はこれである。
ちはやびときみ歩みくる水の辺に春のうしほののぼりくるかな
天皇制はいかにあるべき大喪の誄歌(るいか)ながれて氷雨降るとき
不思議な歌たちである。とりわけ第一首は不思議である。「私」は水辺にいる。そこで歩みくる「ちはやびと」なる「きみ」に出会う。「ちはや」は勢いが強いという意味だろうか。そのひとの到来とともに、海からの逆流のごとく、春のうしほがのぼりくるからには、ある勢いのつよさがそのひとにはあるのであろう。しかし、あるいはより「いちはやし」に近く、なによりもそのスピードの早さにアクセントがあるのだろうか。とすれば、この「ちはやびと」とは昭和の激流を生き終えた昭和天皇のことをさすであろう。その両方の意味が含められているであろう。そのちはやびとを「私」はこの世ならぬところの水の辺で待つのである。その死を迎え取るように。こうした歌い方には、どこまでもいたわりをつくす山中智恵子の配慮の形が読み取れるであろう。そしてその死の後にも、この世に春はうしほをなしてやってくるのである。
第二首の歌もまた別の意味で不思議な歌である。歌い描かれているのは、平成元年二月に雨の中で執り行われた昭和天皇の大喪の場面である。不思議なのは、なぜこの時に「天皇制はいかにあるべき」という問いが立てられるのかということである。周知のように折口信夫は終戦後進駐軍によって新しい憲法の制定が急がれていたとき、大至急この問いに答えようとしていた。それについてはまた考察する機会があるであろうが、わたしが問いたいのは、敗戦時ではなく、なぜこの大喪のときに、天皇制のことが問われるのかということである。その答えこそこの「誄歌」一連から読み取らなければならないことであろうが、山中智恵子が日本国憲法に基づく象徴天皇制に、きわめて不徹底なものを読み取るからであろう。あるいは更にいえば、昭和天皇ただひとりが崇神肇國から始まる神国日本の王の終焉をその身において経験しているからである。昭和天皇こそ神国日本の最後の王であった。その王が死んで、何のために天皇制が存続するのか。その死とともに、大喪とともに、「天皇制はいかにあるべき」の問いが問われるのは当然の事である。
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山中智恵子には、一方で統(すめら)を捨てた昭和天皇への敬慕の思いがあり、紛れない。すめらを捨てたとき、昭和天皇は「翁」である。
いつしかに統(すめら)を捨てて春の筏とうとうたらりあそぶ黒翁(くろおきな)
翁とはすめらなりける氷雨降り誄歌ながるるきさらぎのはて
歌で翁は、筏を舞台に能楽の足を踏んでいるようである。この筏にも雨師のイメージがついている。そして次の歌では、この国の文化において「翁」とは、すめら(=すめらみこともち)のもともとの姿でなかったかと問い直しているのである。そのことを大喪の列の中、翁になったと思われる大行天皇の姿に思うのである。それはおそらくあの世とこの世にかよう姿なのである(1)。歌中のややあいまいな「なりける」の連体形の後には、終助詞の「や」とか「よ」とかが略されていると考えられるだろう。
しかし他方では、昭和天皇に「失敗した祈雨」たる敗戦と、その戦争において草生の民を殺したことの責めを問うている。
深き夜を深沓(ふかぐつ)の音歩みゆく世紀はてなむ夜までのこと
そのよはひ冷泉越え賢王と過ぎたまふ、そよ草生(ひと)を殺しき
また「夢之記」の章にも、
深沓(ふかぐつ)をはきて昭和の遠ざかる音ききすてて降る氷雨かも
がある。「世紀はてなむ夜」とはいつまでのことなのであろうか。この深沓の軍靴の音は、二十世紀の終りとともに消えるのであろうか。それとも「世紀」とは西洋風の百年紀のことではなく、昭和天皇世紀のことなのであろうか。ここは後者の意味であろう。昭和天皇の死後は昭和天皇に責めは問えない、そう語っているのである。
そうであるとすれば、昭和天皇の死までの敗戦後の日々は、一種の贖罪として理解されていると考えねばならない。象徴天皇としての贖罪の日々。山中智恵子にとって象徴天皇制とは、昭和天皇ひとりの贖罪のための制度として理解されていたように見えるのである。それゆえにこそ、われわれが最初に出した問い、つまりなぜ大喪を機に「天皇制はいかにあるべき」の問いが問われるのである。
それゆえ大喪の後には、何のための天皇制かということが改めて根底から問われなければならないのである。
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そして山中智恵子は、自らのうちで天皇制を問う。天皇制は自分にとって必要か否か。問うべきことはこれだけである。
青人草(あをひとぐさ)あまた殺してしづまりし天皇制の終を視なむ
昭和天皇雨師(うし)としてはふりひえびえとわがうちの天皇制ほろびたり
天皇制の無化ののちわが死なむかな国栖奏(くずそう)の邑過ぎて思ほゆ
自らのうちで問うというこの問い方はきわめて重要である。というのも、久しい間天皇制は天皇みずからの意志によってというよりはそれを利用しようとするさまざまな力によって必要とされ、それゆえに存続してきたからである。それは象徴天皇制になってからも変らない。自分の精神的な安定や欲求のために天皇制を必要とする者もあるであろう。自分の権力のためにそれを利用しようとする者はさらに多いであろう。自分の商売のためにそれを利用したがる者も数を知らない。「宮内庁御用達」の看板が、製品の品質保証の標となれば、それは商売繁盛のためにもおおいに役立つからである。また、自然保護団体などで、みずからの奉ずる思想のために天皇制を利用しようとする者も多い。はたして自分は天皇制を必要とするか。何かのために利用しようとするか。これこそが問われるべき問いである。そして国民のひとりひとりがこの問いに潔癖に答える事だけが、天皇制を終わらせるのである。
山中智恵子はそのことをこれらの歌で模範的な仕方で示している。わたしのうちでは天皇制はほろびている、と、天皇制の終りを見たいと、そして天皇制が無化されて後に自分は死にたいと。そうこれらの歌は語っている。
山中智恵子がこれらの歌で行なっていることは、吉本隆明の「山中智恵子の詠んでいるこの昭和天皇挽歌ともいうべきものは、同時代に比肩すべきもののない完備した情念と感覚と時代の死の宣告の表現になっていると思える」というきわめて曖昧な感想とは全く違ったものである(2)。その吉本の「時代の死の宣告の表現になっている」という語りについてはこの連載の第四回で批判した。山中智恵子は戦士である。ひとは天皇制とどうすれば戦えるかということを、率先して、完璧に示しているのである。象徴天皇制の存否もまた国民の総意によって決定されるべきものだからである。
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この歌集の最初の章において、山中智恵子は明確につぎのように歌っていた。
王の罪によりて流星そそぐとぞスパルタの夜は月なく晴れむ
「夢之記」
雨師(うし)として祀り棄てなむ葬り日のすめらみことに氷雨降りたり
「夢之記」
「雨師として祀り棄てなむ」と。山中智恵子がそのように考えるのは、王の罪についての古代的な正義の基盤に立ち戻ろうとするからである。
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われわれはさらに多くのことを探求しなければならない。山中智恵子にとっては、先述のような「翁」の発見もまた師前川佐美雄から学び得たことなのである。
永遠に童子(わらは)なるもの翁とこそ 思ふときすでにきみは過ぎます
「含蝉」
天皇制をめぐる山中智恵子の未曽有の探求にもその師の支えは生きつづけていたのである。
注
(1)父よきみ千歳のきみ黒翁 歩み来むとき異境の愁
われはいま虚無に語りて風吹くと父には告げよ 黒き翁よ
『夢之記』「錫杖」
を参照されたい。
(2)吉本隆明「写生の物語 ---私家集(2)」『山中智恵子歌集』1998年、現代短歌文庫25砂子屋書房、所収。