四月に合同歌会が石山寺で開かれた時、仲努さんから、こんなものが送られて来たけれど知っているかと、一冊の歌集を見せられた。原田禹雄氏の『老眼昏華』という名の集であった。「如月挽歌」以降が山中さんの追悼歌です、とのメッセージが添えられていた。原田禹雄氏のことはここで説明するまでもないであろう。わたしには、山中さんにとって、きっと親しい弟のように思えていた人なのではないかと感じられていたのだが、こんな物言いも失礼なことかもしれない。二〇〇六年の九月に発行された集である。山中さんが亡くなられて半年ほどのこと。追悼歌集とも呼びうるものがこんなにも早く出されていることに驚きとも畏怖ともつかぬものを感じた。
仲さんから拝借して読ませていただいた。そこにはわたしの予想もしなかった山中智恵子の捉え方が示されていた。そしてそれがとても納得の行く見方だったのだ。まずはその紹介からはじめさせてもらおう。
「如月挽歌」
やさしき女人は般若佛母なり紅梅の香のなかにおもほゆ
「般若佛母」
空蝉の薄き地獄へ歸りゆくひとりありけりわれらをおきて
「同前」
彼岸會の
「比良八講」
信じてもなほ信ずべし南無三世佛眼佛母般若波羅蜜
「小満芒種」
わたしがとても納得してしまった見方とは、山中智恵子を「佛母」と見る見方である。山中智恵子さんのその瞳の澄明さは比類ないものであったが、それこそが佛母たる女人の徴であっただろう。そう思えば山中さんの救済の力のすべてが納得されてしまうのである。遭いがたくして佛母に逢った、その思いが、山中さんから恩恵を受けたと感じるひとの心のどこかにひそんでいるだろう。
三首目の「無漏となりにし山中智恵子」には著者原田氏の注がついている。「無漏: anasravaの漢訳。煩悩のないこと」、とである。彼岸会の結願の日の澄み渡った空に山中智恵子の煩悩からの解放を感じたというのである。死が、そしてある日ある時の澄み渡った空が山中智恵子の悩みや苦しみを永久に消してくれるのなら、それは何よりも望ましいことだろう。そしてその時には空蝉の薄き地獄も消え去るに違いない。
◇
われわれはここからゆっくりと山中智恵子の斎宮論に向かってゆきたい。第一回に予告したところを目指してである。そのためにはまだ何歩か踏まなければならない道がある。ゆっくりと進ませてもらうことにしたい。
ところで前号でわたしは山中智恵子の昭和天皇への誄歌を論じた。それに関係してここで問うておきたいことは、その誄歌について春日井建が述べていたことである。「夢のあとに」という論において春日井が智恵子の誄歌を非常に丁寧に読み取っているとわたしは思うのであるが、にもかかわらず春日井は天皇制についての智恵子の思索の徹底性、一貫性を読み取りそこなっていると見えるのである*。つまり、前号でも記したように、
昭和天皇
『夢之記』「誄歌」
の一首のうちに、天皇制がほろびる論理が完備していると読み解かないならば、智恵子の語りは畢竟夢にしか見えないであろう。「山中智恵子は今、移り行き、過ぎてゆく時の果てを見ている」と春日井は言う。そして春日井は、智恵子が見ていたものが「時の先」ではなく、「時の果て」であったと解釈するが故に、智恵子の見ていたものを「夢」とみなし、さらに「いつかはその夢からさめることもあるだろう」と言うのである。しかし山中智恵子が「この世紀の終を、かく生きて在ることの不思議を思ひ、〈夢之記〉と名づけました」と言ってこの歌集を『夢之記』と名づける時、その「夢」はいつかは覚める夢ではない。夢とは「かく生きて在ることの不思議」以外のことではない。それはハイデガーが「被投性」(Geworfenheit)と呼んだことと別のことではない。みずからの意志によってではなく、いわば偶然の縁起によって、みずからがこの今を生きていることの不思議そのもののことである。山中智恵子は「時の果て」を見ているのではない。この今の時を見、そしてこの時の先を見ているのである。そこには論理があるのである。それを春日井は誤解している。春日井は天皇制が無化されることはありえない、と言いたいのだろうか? もしそうでないならば、「天皇制の無化ののちわが死なむかな」という形の意志の他に、象徴天皇制を語る『日本国憲法』第一条の内容を無化する方法があることを春日井は語らなければならない。夢を見て、その「夢のむこうにさらなる夢」をみていたのは、山中智恵子ではなく、春日井建の方なのである。
◇
読者の方々は山中智恵子の歌があまりにも凄まじい闘諍に取り巻かれていることに暗澹たる思いを懐かれるのではないだろうか。しかしこれまで見てきたような誤解や曲解、それをめぐる闘諍の数々は、われわれがすなおに歌の言葉を聞くことができるならば、だれもが難もなく飛び越えうるものなのである。ここでドイツの詩人ヘルダーリンの詩の一節を紹介しておきたい。
多くのことを人間は経験した。多くの天上の者たちが名づけられた、
われわれが一つの対話となり
たがいに聞くことができてより。
(「宥和するもの」第三稿、拙訳)
Viel hat erfahren der Mensch. Der Himmlischen viele genannt,
Seit ein Gespräch wir sind
Und hören können voneinander.
山中智恵子の歌の理解においても、聞くことが何よりも重要である。そして一つの対話となるまで問いを重ねることが。『夢之記』から何首か引いておこう。この歌集は作者の短歌歌人としての再生を記す集であろう。それは巻頭の一首が語っていることである。
短歌への最短距離を生きてきてとほく日常をとほざかりぬる
「夢之記」
この「短歌への最短距離」とは何だろう? もちろん生活のすべてを短歌に向けて整え、そのために日常生活がおろそかになるということは当然そこに含まれているであろう。しかしこの歌のエッセンスはそこにはない。原田禹雄氏が前掲の歌集で言う「語密の時」のこの上ない正しさのことなのである。原田氏はこう歌う。
微妙の慧 智慧の眼にまもられて 語密の時の深かりしかな
『老眼昏華』「如月挽歌」
山中智恵子は、作歌の時、すなわち「語密の時」、何よりもそのことばを与えてくれる〈もの〉へ、まことを貫く。最短距離とは、ひとつにはその「語密の時」への近みにみずからを保つ態度であり、さらにその「語密の時」において、「あめつちの言霊」の賜うてくれる「ことはり」への忠実のことである。この「短歌への最短距離」にみずからをたもつという自覚が、歌集『夢之記』の新しい境位であるとわたしには見えるのである。その例証のために数多くを引く必要はないであろう。わたしの愛する歌を数首だけ引こう。
ほのかなる人のけはひか人声はつひにひとつの恋の空音(そらね)よ
「夢之記」
〈ことごとく
「殲す」
われわれは恋の空音に終わる人のけはいも、春歌のようにしてする殲滅も(映画『地獄の黙示録』のワルキューレのようなものか)、あめつちのことわりのなかに存在していたことを否定するわけにはゆかない。「誄歌」に歌われたことも、まさにものの「ことはり」に他ならない。今ここで確認しておくべきことは、その「最短距離」が、狂といわれることとの関わりにおいても同じように第一に選び取られている、ということである。生活よりも先にことばに向かう。
〈扇とはげにそらごとよ
「星芒状静脉」
「扇」と「彗星」はその芒状に広がる形において似ている。「扇」はかつて山中智恵子がその存在の象徴として用いていた語である。しかしいまや智恵子は、その不狂人としての仮象をそらごととして脱ぎ棄て、よりのびのびと「彗星」の象徴を纏うのである。そしてこころの波動のままに、おおらかに、狂ひにも入ってゆくのである。そして何を待つのか?
あのともしびを消したまへとよ春の夜はいとしきものの降りくるを待つ
「星芒状静脉」
かつて和泉式部が夕暮れ時に待ったもの、いとしきひとの天降りを、山中智恵子はさらに正体のつかみがたい〈もの〉として、春の夜に待つのである。その天上のものは、事代(ことしろ)という名を与えられるのであろうか。天つつみいますその〈もの〉は智恵子に対してもみたまふりをしてくれるのである。
「涼【さんずい偏をを王偏に】花」
こうしてたまふりを得て、最短距離で短歌に至り、あめつちの言霊に祝福されて、このよの「ことはり」を歌に静かに語るのである。
◇
これは蛇足のようなことだが、最近わたしは塚本邦雄の山中智恵子論「いづれ寂寞」(『山中智恵子論集成』砂子屋書房、所収)を、記憶する限りはじめて読んだ。『短歌』誌一九九一年十月号に初載のものだという。私事で恐縮だが、わたしが山中さんの指示で塚本邦雄氏、原田禹雄氏に拙論「山中智恵子のキリスト教」(私家版)をお送りしたのは、多分その前年のことであった。塚本氏からは直接の返答をいただけなかったのだが、この論考「いづれ寂寞」には、拙論への塚本氏らしい返答が含まれているように感じたのだった。おそらくは山中さんから塚本氏への直接のことづてもあったのであろう。「キリスト教」の角度からの山中論の可能性の示唆のことばかりではなく、むしろ何よりも氏の『虚空日月』の評価に、拙論が何らかの寄与をしていたら嬉しいと思うのである。氏の亡き今、わたしもまた「いづれ寂寞」の思いを噛みしめる他ないのである。
*注
春日井建「夢のあとに」、『山中智恵子歌集』現代短歌文庫25、砂子屋書房pp.118-121。