山中智恵子論
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--- 虚数世界・正述心緒・巫女・斎宮 ---







Presented
by


中路 正恒
Masatsune NAKAJI


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 虚数世界・正述心緒・巫女・斎宮
         

 『山中智恵子全歌集』が届いた。上巻のことだが。奥付によればこの五月二十四日の発行である。すでに発行された元の歌集があるとはいえ修正もあったことだろう。早くに出たものだと思う。夜に昼を継ぐような編集作業だっただろうと思う。出版社のご苦労が察せられる。これで山中智恵子の歌の全体が大いに見やすくなる。非常に意義の大きい仕事と思う。ここでまず、私にとって、この『全歌集』によってはじめて目に入ってきた歌をひとつ紹介させてもらおう。それは『星肆』「花火」の、

  虚数世界に生くるものらのやさしくて植物のごとき手足をひらく

おそらくは「鈴鹿山麓の水沢高原の病院」の患者たちの姿を歌っているものだ。「虚数世界に生くるものら」という名ざし方はとてもやさしく、そして真実をついている。そこでひとびとはおおむねこのように「虚数世界」に生きているのだ。実在しない世界に。だからそのひとらが何を生きているのか、どのような意味の生をいきているのか、ひとはほとんど知ることができない。その生において手掛かりにし、またそれに頼っているその「意味」を、その「意味の世界」を、その余のひとは知ることができない。にもかかわらず彼らにはその頼っている「意味の世界」があるのであり、ひとには見えず、頒つこともできないその「虚数」のような「意味の世界」でみずからを解釈することによって、やさしい生をいきえているのである。そしてその手足を、介護の人たちに、あらがうことなく開くのである。そのやさしさが心にしみる。そして山中智恵子自身も、そのやさしき植物のごときひとびとのひとりとなって、そのひとりとして、水沢におり、そしてここに歌われているのである。しかし山中智恵子の場合は歌があった。そしてそれによってその「意味の世界」は、「虚数世界」から救い出され、正しく心のはし(緒)を言葉に結びとめる数々の歌になったのである。その無力な者たちの生によせるやさしいことばとまなざしが美しい。
 わたしがこのような歌に心が行ったことには、最近の小泉義之氏のおどろくべくねばり強い思索に目を覚まさせられたということがあるかもしれない。氏の近著『病の哲学』(ちくま新書)は、脳死状態・植物状態・末期状態が、そのままで意味をもっているとする思想を成立させようとして、その成立の根拠をねばりづよく、とことんまで探求しようとしているのである。山中智恵子のこの歌には、このような生を肯定する根拠の何かがつかみ取られているであろう。それは、誤解をおそれずに言えば、「正述心緒」の可能性そのものであろう。

   ◇

 この『山中智恵子全歌集 上巻』の巻末には、馬場あき子氏の解説と黒岩康氏の解題が付けられている。その解説を馬場氏は次のようにはじめる。「私は山中智恵子の歌を〈巫女的〉と評することを好まなかったが、本人は必ずしも否定的ではなかった。現代においてその言葉が醸す非論理性や難解性を、この天賦の才人はこともなげに無視し、むしろ高貴な古代の魂の保持者の矜持として受容したからであろう。この称号を献じたのが山中に深い理解を寄せつづけた親友の原田禹雄であり、『三輪山伝承』に先立つこと十数年前というのであるから、山中は安んじて現代の巫女たり得たのであろう」、と。
 なかなか複雑なもの言いである。馬場氏は好まないかもしれないが、わたしは山中智恵子の仕事の中には何か〈巫女的〉なものがあると考えている。それは何なのであろうか。「古代の魂の保持者の矜持」と言いうるものなのだろうか。「古代の魂」? それはそもそも何なのだろうか? 
今の時代にこうした問題についてものを言うためには倉塚曄子の仕事に触れないですますわけにはゆかない。倉塚の仕事に対しては、山中智恵子自身『斎宮志』『続斎宮志』の中で、それぞれ「伊勢神宮の由来」上下、/『巫女の文化』を参考文献に上げている。その倉塚の巫女論の中心をなす概念は「女の霊能」というものである。「古代の女の呪的霊能の問題ととりくむからには……」と、たとえば『巫女の文化』の「あとがき」で倉塚は自分の仕事の狙いを語る。「古代の女の呪的霊能」なるものに倉塚はこだわりつづけるのである。しかしわたしには、このだわりこそ逆に、倉塚自身にその「霊能」がないことを証しつづけているように見えるのである。
 他方で山中智恵子には、そのような「霊能」へのこだわりのようなものはほとんど感じられない。すべてが自然なのである。もちろん言葉へ、歌へのこだわりはある。しばしば引かれるように「短歌への最短距離」(『夢之記』)を生きることだけを念じてみずからを律してきたように見える。そこにはしかしみずからの能力に関して、何かをとりたてて語ってきたことはないように見える。『崇神紀』に倭迹迹日百襲姫について「能く未然のことを識る」と記されるように、ただ能く未然のことを識るばかりであるように見えるのである。山中智恵子にはみずからの能力に関して何のこだわりも無いようにみえるのである。そのために逆にわれわれは倉塚曄子に対して「女の呪的霊能」とは何なのか、と問わなければならなくなってくるのである。それは何か特殊な能力なのか、と。わたしは山中智恵子が『敦忠集』の歌を註して「敦忠と雅子が、真実逢ったかどうか、この歌からみて、『生け殺し身をまかせつつ』という激烈な歌いぶりからみれば、まさしくいくたびも逢った後に逢えぬ、肉と心の苦しみにみちみちている。これは敦忠の絶唱であり、この切実さは古今を絶している」(『続斎宮志』)というとき、山中智恵子に、女であることの非常に豊かな自然さを感じるのである。おそらく次の歌も、自然に女であることの豊かさを語っているであろう。

  女青(かはねぐさ)水に伏したり生くる日の限りにありて(むか)ふこころを
               『虚空日月』「虚空日月 二の抄」

 「古代の女の呪的霊能」なるものに特別な実体はないのである。逆に、この「生くる日の限りにありて対ふこころ」こそが、ひとに「呪的霊能」のようなものを身に着けさせるのである。

     ◇

 姫彦制の追究ということであれば、山中智恵子は倉塚曄子と共通する研究目標をもっていたと言いうるであろう。たとえばわれわれは「堪えず紅葉」(『存在の扇』所収)のような文章を、姫彦制が、斎宮みずからの心においてどのようなものであったかということの探求として理解することができるであろう。「大伯皇女が、……、泊瀬から、伊賀伊勢の国境、青峠を越えたのは、もみぢ美しい日だつた」という読み取りから、そしてそれを『万葉集』の、

  二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ  (106)

と重ねて読むことによって、われわれは、「オナリ神」の力の限界と、その限界を知る悲しみを、その動かしがたい形で理解することができるのである。
 われわれはいずれ姫彦制の論議において、倉塚曄子と山中智恵子の仕事を評価してみたいと思っているのだが、ここで倉塚の「斎宮論」にふれておけば、その要点は、天武以降の斎宮の歴史の中で、「斎宮が欠けているのは女帝の代に限られ」ていることに着目することにある。そして「神と人をとりもつのは、元来兄弟の傍らにある姉妹の役割であった」ということを主張した後で、「それが祭祀組織における職掌として中臣氏に任ぜられるようになる時、組織化以前の女の霊能は不要となり、天皇家のヒメは宮廷外に出さねばならなくなる。中臣氏の神祇官職担当の制度化と斎宮の制度化もまた同時であった」(強調は引用者)というのである。ここで傍点をつけた「それ」は「神と人をとりもつ」ことと理解される。
 さらに「日神アマテラスにつらなるという血統意識は男と女では同じとはいえない。前者はあくまでもアマテラスの御子でしかありえなかったが、女帝の場合は皇祖神そのものと一体化することも可能であった。母と娘は神話的には分身同志であったからである」と、女帝=皇祖神(アマテラス)一体論を説き、「律令制下に設立された神宮であったが、女の精神史的伝統に立つ限り、それを祀るのに女帝は中つ臣も斎宮も必要としなかったのである」と述べるのである(1)。
 この倉塚の女帝論、斎宮論は、わたしには何か隔靴掻痒の感がぬぐえないのであるが、それは「神と人をとりもつ」ということの、身体的な基礎があまり見えてこないことによるのである。例えば傍線を施した箇所で、かつては「女の霊能」に委ねられていたその「神と人とのとりもち」が、中臣氏に委ねられたとしたら、それは中臣氏のどういう「霊能」によって継承されるのか。それとも、もともと「神と人をとりもつ」ために「霊能」などは要らなかったのか。倉塚が「女の霊能」と呼ぶものも結局は便利な記号にすぎないもので、特に実質的な内容のあるものではなかったのか。「神と人をとりもつ」とは、結局どういうことなのか。そうした点が倉塚の論からは少しも明らかになってこないのである。
 また、女帝は中つ臣も斎宮も必要としなかったと倉塚は言うが、この論理はどういうことなのだろうか。律令制下で神祇官の組織が確立されると「天皇家のヒメは宮廷外に出さねばならなく」なり、そのためにできたのが斎宮制であると倉塚は言うが、斎宮はそもそも「天皇家のヒメ」なのであろうか。斎宮はむしろ天皇の娘、内親王であって、オナリ神のように兄弟を支えるヒメとは別の存在なのではないだろうか。倉塚は、律令制によって「天皇家のヒメ」が宮廷外に出さねばならなくなると言うが、それなら律令制以前の「天皇家のヒメ」とは一体誰なのか? それは折口信夫が「宮廷高巫」と呼ぶ、直接に神とかかわり、神のことばを聞き取る女巫と同一なのかどうか。さらに、女帝は、みずから宮廷高巫にもなり、みずから神のことばを聞き取りうるとして、そのことはどうして斎宮を不要にするのであろうか。たとえばもし持統が斎宮を設けたとして、もしその斎宮が、持統にとって都合の悪いことばを神のことばとして聞き取ったら、大変こまったことになってしまうからではないのか。たとえば大伯皇女なら、そんな神のことばをきくことがあり得たかもしれない。
 結局のところ倉塚の議論が曖昧になるのは、倉塚が「ヒメ」の役割を、明確に見極めていないからであると思われる。天皇家のヒメの問題の一つは、折口が明示したように、間違いなく、神のことばを最初に聞く者の問題であろう。そして伊勢にやられた斎宮もまた神のことばを最初に聞く者でありうるゆえに、持統をはじめとした女帝たちは、斎宮を置くことを嫌ったのではないか。そしてまた律令制に制定によって神祇官の中臣氏が定められたということも、神のことばを聞く高級女巫を宮廷のうちに置いておくことのできない体制を作ったということを意味するであろう。しかしとはいえ、わが身に直接に神のことばをきく女巫を国家の制度の中から完全に無くしてしまうことにもある危惧がともなう。未知未聞の危機に対しては、直接に神のことばをきく必要が生じるかもしれないからである。斎宮制のそのようなところにあるのではないであろうか。いずれにしろ倉塚曄子の論は、神のことばというところに焦点を当てていないために、問題の事柄を見えにくくしてしまっているのである。

     ◇

 山中智恵子は『斎宮志』の冒頭のところで「伊勢大神宮の御杖代である斎宮(斎王)には、姉妹が神の声を聴く宗教権をもち、兄弟が実務の政権をもつ、古代村国の姫彦制の残像があり」と述べ、女が「神の声を聴く」ということに斎宮の本質をみていた。姫彦制のヒメの本質も「神の声を聴く」ことに見ていたのである。それは「女の霊能」といった曖昧な概念ではない。あるいは、女の霊能の本質は、神の声(言葉)を聴くことにあり、そして古代村国の姫彦制のなかにおいては、同時にそれによって兄弟を支えるということがあったと見るのである。そして、女巫が神の声を聴くのは、折口のいうように、「神の嫁」としてであっただろう。先の引用につづけて山中は「『秀起つる浪穂の上に、八尋殿を起てて、手玉も玲瓏に、織経る少女』(『日本書紀』)が、〈顕れをとめ〉として、めぐりくる季の祭ごとに、訪れてくるまれびとの神を待つ、たなばたつめの聖婚の幻像がある。そして諸国の豪族から、大王の宮廷に貢納された、ヒメである姉妹たち〈采女〉の倒立像がある」と言う。この叙述の中に山中智恵子の斎宮論の狙いは見えているであろう。
 しかしわれわれは山中智恵子の斎宮志あるいは斎宮論、あるいはその短歌のなかに、「神の嫁」たる斎宮がその生身の肉体において、どのように神の声を聴きえたのか、その深みを探ってゆきたい。山中智恵子の『斎宮志』は、正続とも、辺境の鳥墓の中に打ち捨てられたような斎宮たちの、その「一人一人の名を顕したいと思う」という試みなのである。われわれはその正続『斎宮志』の中に、山中智恵子が理解したであろう神の声を聴く巫女のまことを探りたい。

(1) 倉塚曄子『巫女の文化』平凡社ライブラリー、三〇八頁、三一五頁、三二二頁。

2007.09.03
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このテクストは、『日本歌人』2007年8月号(2007年7月1日発行)に掲載されたものです。
HTMLにするに際して若干の変更を加えました。
2007年9月3日


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