山中智恵子論
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--- ノヴァリス・巫女・をなり神 ---







Presented
by


中路 正恒
Masatsune NAKAJI


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 ノヴァリス・巫女・をなり神
  

 はじめにノヴァリスの詩を引こう。『青い花』の巻頭の「献詩」の一部である。

  きみがためにこそ高き藝術(たくみ)にこの身を捧げ得るなれ
  その故は、()しき君よ、きみはミューズの神となり
  わが(うた)の聲なき守り神たらむとしたまへばぞ
   (小牧健夫訳、岩波文庫)

  Ich darf für Dich der edlen Kunst mich weihn;
  Denn Du, Geliebte, willst die Muse werden,
  Und stiller Schutzgeist meiner Dichtung sein.

 この詩はロマン主義の藝術の源にある心の形を明確に示しているように思えるのである。わたしが高き藝術、高貴な藝術のわざに(der edlen Kunst)この身を捧げ得る(darf)のは、「きみ」がミューズの神となり、わたしの(うた)(Dichtung)の聲なき守り神(守護霊・Schutzgeist)たることを欲してくれている(willst)(とわたしが感じられる)から、というわけである。そしてここで「きみ」とは、恋人(Geliebte)であり、恋人である女性である。ニーチェはロマ主義を評して、ロマン主義は女への愛しか知らなかった、と言うが、その評は少なくともノヴァリスのこの詩には的中している。ノヴァリスはまさに、わたしに愛されてあるきみのためにこそ藝術にこの身を捧げるのである。
 そしてもう一つ注意をしておけば、ここで言われる「きみ」は必ずしもいま存命しているとは限らないのである。ノヴァリスはみずからの一生を詩作(Dichtung)という藝術に捧げる。そしてそのことを彼が許されている(darf)としたら、それは「恋人」が彼の詩作の守護霊となってくれていると彼に感じられるからなのである。その詩作のただ中に現われて、その詩作を護ってくれる霊的、精神的なものを彼は、無言の気配いの中に(still)感じている。そしてそれゆえにこそ彼は詩作の藝術に身を捧げ得るのである。
 そしてその守護霊を、彼はミューズの神(Muse)と呼び、彼自身の詩作を、古代ギリシアの藝術神と結びつけるのである。ミューズの神が、かつて古代ギリシアの日々においてヘシオドスに栄光を授けたその伝統の中に、彼自身の詩作も存在している、とノヴァリスは信じているのである。
 しかし古代ギリシアの日々にミューズの神々(ムーサイ)を生誕させたのは、ムネーモシューネ(記憶の神)とゼウスであり、それはまさにゼウスが、神々のわざを祝福し、賞讃し、そして語り伝える者たちをみずから欲したからである。しかしこのノヴァリスの詩精神にとって、彼の詩を保護し、守護する者は、彼に愛された女性なのである。その女性を彼はミューズの神と呼ぶのであるが、その女性は、彼女みずからが「ミューズの神」になろうと欲してくれたと彼は感じているのである。こうして詩人の実感の中で、女性はみずから藝術の神となり、自分を愛してくれる者の詩作を護る守護霊となるのである。

 このドイツ語の詩がそのドイツ語の表現においてもつさまざまなニュアンスの中のエッセンシャルなところを、わたしは説明し得たであろうか。とりあえずそう信じて話を進めることにしよう。

     ◇

 わたしがこのノヴァリスの詩にこだわるのは、巫女とは何かという問いが山中智恵子の存在をめぐってどこまでもついてくるからである。「巫女とは何か」。それは「をなり神」とは違うのか。詩人もしくは歌人にとって、あるいは藝術におのれを捧げる者にとって、「巫女」はどこかで「ミューズの神」と重なるのであろうか?
わたしがこんなことを言うのも、おそらく広く知られているように、ある論考の中で原田禹雄氏が「彼女への手紙で『わが巫女』とよびかけたこともある」と語っているからである(1)。原田が「わが巫女」と呼びかけるとき、その「巫女」はノヴァリスの「ミューズの神」のようなものであろうか? その真意を掴むのは余人にはまことに困難であるが、わたしにはそれらは似たようでいてやや違っているようにみえる。ひとつの面で「わが巫女」はわたしの詩神であり、わが歌の守護霊であろう。わたしの詩歌への献身を護り導くのである。この点ではノヴァリスの「ミューズの神」と同様である。しかしながら「わが巫女」と呼ばれる存在でありつつも、「巫女」はやはりみずからの斎く神をもっているであろう。その神は「かの夜」という名前をもつだろう。以前にも引いた歌だが、

  水くぐる青き扇をわがことば創りたまへるかの夜へ(おく)
            『みずかありなむ』「夜、わが歌を思ひ出づ」

「かの夜」は、山中智恵子が巫女であるとき、その斎く神の名である。その神の名は一つではあるまいが、終生山中智恵子は「みずからに言葉を賜うてくれる夜」を神として斎いていた、と言えるであろう。一九五七年、青年歌人会議関西の会に塚本邦雄に招かれて原田禹雄と会い、たちまちに傾倒した、と、「歌人 原田禹雄」という文章の中で、山中智恵子は記す(2)。そしてまた、「これ以後の二十年ほどは、塚本邦雄を中心とした、私たちの疾風怒涛(シュトルム・ウント・ドランク)であった」と。美しい表現である。「夜」とはこの疾風怒涛を支え守護するものの名でもあるだろう。

     ◇

 山中智恵子は終生斎く神をもっていたとわたしには思えるのである。その神は、前掲の歌からその最も本質的な性格を取り出すならば、それはことばを創る神であった。山中智恵子はことばを創る神に斎き、そしてそのことばを与えられていた。そしてその神に、青き扇に他ならないおのれの身を捧げるのである。ノヴァリスが「高き藝術」(der edlen Kunst)にわが身を捧げたようにである。そうして彼女は神の創りたもうたことばをたもつ「みこともち」としてその神に斎くのである。
 おそらくはかつての日々に斎王のもっていた最高の力も、神のことばを聴き、それをたもつ「みこともち」の力であっただろう。たしかにかつての斎王、あるいは伝承の斎王に、「ことばを創る神」のことばを聴きえたかどうかはわからない。山中智恵子の斎宮論を読む限り、大伯皇女をはじめ何人かの斎王にはその力を感じることはできるが、しかし「ことばを創る神」は、斎王が本来斎くべき神ではないであろう。斎王あるいは斎宮、あるいはその制度には、その根元に女性の「をなり神」の力を読み取らなければならないであろう。つまりみずからの男の兄弟を助ける姉妹の霊的な力へである。そしてをなり神たる女性は、普通には国神に斎くことによってその霊的な力を保つのである。
しかしそうであれば、天皇の皇女を任ずることを原則とする斎宮制度は、すでにこのをなり神への畏敬とは異なった要素がはじめから含まれていたことになるのではないだろうか。歴史上の最初の斎宮大伯皇女の大津皇子を支える力はをなり神の力であろう。しかしそうであれば、大津皇子をうとみ、亡きものにしようとする天皇持統らの勢力にとっては、斎宮大伯のをなり神としての力は邪魔なものでしかなかっただろう。その初期においてこうした権力の争いに巻き込まれていたものであってみれば、斎宮はむしろをなり神であってはならないというような暗黙の掟が、その制度の誕生の始めから書き込まれていたのではないだろうか。
 だがこの論はまた別のところですることにしよう。山中智恵子の斎宮論はさらに幾重にも精密に書かれているものだからである。しかし山中智恵子について論を進めてゆくためにはをなり神について理解をしておかなければならない。それにはまず伊波普猷の説くところを見なければならないであろう。

     ◇

 「をなり神」という論考において、伊波普猷はをなり神の説明をこんな風にはじめる。南島人の間には「現に彼等と共に生活している人をそのまま神として崇める風習が遺っている」と(3)。をなり神とは今まさに共に生きている人なのである。そして、「近い頃まで、国家最高の神官なる聞得大君(きこゑおほぎみ)以下地方の神職なる祝々(【ルビ】のろのろ)が、神と称せられたのはもちろんのこと、そこでは今なお、一切の女人が、その兄弟等に『をなり神』として崇められている」と説く。この説明はとても分かりやすい。ちなみに「をなり」とは古代琉球語で姉妹という意味である。従って「をなり神」とは男にとっての「姉妹神」ということになる。
 そしてそのをなり神の力について、まずは「こうして彼女らには、神秘力があると認められていたのだから、故郷を離れた男子には、をなり神が始終つきまとって、自分を守護してくれるという信仰があった。姉妹の項の髪の((ママ))を乞うて守り袋に入れ、或はその手拭いを貰って旅立つ風習が、つい近頃まで首里那覇にさえ行われていた。姉妹(をなり)のない時は、従姉妹(いとこをなり)なり、誰なりのそれを貰って、お守りにしたということだ」と説明する。そしてその手拭いを「おみなり手巾といったのだという。

  おみなり手巾(てさじ)  (姉妹ノ手拭ハ)
  まぼるかんだいもの        (我ガ守護神ナレバ)
  ()きまち給れ     (我ヲ庇護シ給ヘ)
  大和(やまと)までも    (日本ニ行ツテマデモ)

伊波の引く琉歌である。

 伊波の説明によれば、をなり神は航海中にその兄弟を守護する、と歌われることが多く、それで白鳥がをなり神の象徴とみなされて歌われるのである。伊波が紹介する次の口碑伝承は、をなり神の力と考えられたものをとてもよく説明するだろう。

>> 父と長男とが支那に行った時の話である。ある晩妹が睡眠中、大きな声を立てて、もがくので、一緒に寝ていた母が、なぜそんなことをするかと、一方の手をつかまえてゆり起こしたら、惜しいことをした、二人の乗った船が、今難船にあったところで、右の手で兄さんを助けて、左の手でお父さんをつかまえようとするところを、手が動かなくなって、お父さんはとうとう助けることが出来なかったといった。程経て、支那にいった兄から手紙が来て、行く途中難船にあって、自分は助かったが、父は溺死した、ということであったので、皆々びっくりした。<<

 こういう話である。この妹は、その後他家に嫁ぐのをいやがって洞窟にこもり、そして後に神として祀られ、普天間権現として、今日でも旅立つ人が参詣するところになっている、というのである。われわれは、をなり神の力に、夢を見て、夢の中で兄弟を助ける力があるとみなされている、と理解しておくことができるであろう。父を助けられなかったことがこの話では母の行為の偶然によるように語られているが、しかしその源には父よりも兄弟を助ける力がまさるという観念があるであろう。
 折口信夫は大正十二年に「琉球の宗教」という論文を書くが、そこで折口はいわゆる姫彦制の発生についての示唆を示している。「神託をきく女君の、酋長であつたのが、進んで妹女君の託言によつて、兄なる酋長が、政を行うて行つた時代を、其儘に傳へた説話が、日・琉共に数が多い。神の子を孕む妹と、其兄との話が此である。同時に、斎女王を持つ東海の大國にあつた、神と神の()なる巫女と、其子なる人間との物語は、琉球の説話にも見ることが出来るのである」。次号ではこの問題に触れよう。

   ◇

 そして再び原田禹雄の巫女説である。わたしは本誌の七月号で原田氏のことを「親しい弟のように思えていた」のではないかと語った。「をなり神」のことが多少とも念頭にあったからだ。だが正しくは山中智恵子自身の歌に聞いてみるべきだろう。

  美しき〈純男〉として老いたまふ原田禹雄の西風の花
  〈ゆるぎなき結婚〉はまた歌にして九月生誕たますだれの日
  恋のごときみに侍したり言葉にて恋することのよろこびはあれ
                 (山中智恵子、前掲書)

これをある種の恋だといっても誰にも失礼にはならないだろう。
      (2007・7・23)


(1)原田禹雄「神います---山中智恵子論」(現代歌人文庫 山中智恵子歌集、一九七七年、国文社)一四一頁。
(2)山中智恵子「歌人 原田禹雄 ---露胆含羞のひと---」(『がじゅまる通信』No.20、一九九九年、榕樹書林)
(3)伊波普猷「をなり神」(『をなり神の島1』一九七三年、平凡社 東洋文庫227)

2007.11.01
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このテクストは、『日本歌人』2007年9月号(2007年9月1日発行)に掲載されたものです。
HTMLにするに際して若干の変更を加えました。
2007年11月1日


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