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八月二十八日のことである。前日は「宮沢賢治国際研究大会」の三日目のプログラムがあり、岡澤敏男さんが賢治の詩に描かれたコースの通りに小岩井農場を案内してくれた。その特別のエクスカーションにわたしはこの研究大会の素晴らしさを満喫していた。そしてホテルで別れる時には、イヴ=マリー・アリューさんが、特別に大きな身振りをしてわたしを送ってくれたのが心に沁みた。まったく充実した三日間だったのだ。
それからわたしはレンタカーを借りて、お気に入りの鉛温泉に行った。藤三旅館。自炊部の方だ。そしてその立湯に何度も入ったものだ。入ってそれからふとんに入る。そうすると温泉の霊のようなものがわたしの身体の中でぶつぶつ、ぶつぶつという声を上げながら活躍をはじめてゆくのだ。そんな実感がとてもよく感じられる。それを実感するのは布団の中で横になっているのが一番だ。
鉛温泉まで来たのは沢内村に行きたかったからだ。もう一度なめとこ山を見て、そしてできれば大空の滝に行って、それから沢内に行きたかった。マタギの村と言われ、また『沢内年代記』という記録文書で知られる沢内村を実際この目で見ておきたかったのだ。マタギ資料で知られる「碧祥博物館」を目的地にしていた。
しかしその日は朝からとてもよい感じがしていた。朝も温泉に入っていた。それから部屋に戻る時、旅館の売店が開いていた。何か土産物でも買おうと思って、財布をもって売店に行った。柚餅子とか二つ土産物を選んだ。勘定がてら店のおばさんと話していた。ここの立湯のお湯はいいから、時間があるだけ何度でも入ってゆきなさいと言ってくれた。睫毛の深い背の少し曲がったおばさんだった。わたしもこの湯がとても気に入っていた。心が通った。九時からはまた混浴になるから入れるようになるし、時間があるならあるだけ入ってゆきなさい。十一時を過ぎても少しならだいじょうぶだから、と、そんなことも言ってくれた。実際九時からもう一度入るとなると、そうするとまた一時間ぐらいは休みたくなるので、急ぎ目にしても十一時近くになってしまう。だから億劫になってしまうものだ。だが、そのおばさんのおかげで、もう一度入ってゆくことにした。そして牛乳をもらって、部屋に戻った。
それがいいことだった。その日、幸先がいい気がしたのは、そのおばさんと心の通じる話ができたからだった。それがなければ、その日も平凡に、計画通りに終わっていただろう。そうして精算も終えて、今から車を出そうとしていた時だ。ふと、この温泉が、どんな場所の中にあるのか、少し知ってみようと思ったのだった。賢治も鉛温泉に来たことがある。鉄道の終点が西鉛という駅で、そこに保養所があって、そこに逗留していた父のところに妹の病気ことで知らせに行ったという話を何かで読んでいた。旅館の人にそのことを聞いても特に何も教えてはもらえなかった。だが西鉛駅がどこにあったのか、保養所がどこにあったのか、それを知りたいと思っていた。それで少し歩いてみることにした。
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小さなカメラと手帳だけをもって旅館の横の道を外に出てみた。そして川の方に行く。すぐそばに村人専用の温泉入浴施設があった。そこを過ぎて川(豊沢川)に出ると木の橋がかかっている。そこからは旅館の川に面したところの全体が見える。そこで何枚か旅館の写真を撮る。この旅館が、どんな場所の中にあるのか、ほんの少しだけわかる。ただの一点だった旅館の場所が、その隣接地に少しだけ繋がっていったのだ。
その橋は車の通行は禁止されていた。その橋を渡ってさらに先のほうへ行く。舗装された登り道だ。左右に、人家や作業場のようなものが連なる。右手には先の豊沢川に流れ込む数メートル幅の細い流れがあるのだが、パイプを組んで橋を作り、その細流の向こうに行けるようにしている。建築の足場に使う資材を使って個人の家のための橋を作っているのだ。そのパイプ橋の手前に、熊が出るから注意という札がかかっていた。
もう戻ろうか、と思った時だった。どっから出てきたのか、ひとりの青い服の男が目の前の坂を上がっていっていた。そして見えなくなった。片足が少し不自由な様子だった。この道はきっとどこかに通じる、そんな気がした。そのときまで、この道は行き止まりではないかと思っていたのだった。その男の人を追うようにして、わたしも坂道を上がって行った。アリスが、ウサギの後を追って、不思議の国に入って行く。そんな気持ちが少した。
平野が開け、村の風景が広がった。家や畑がゆったり目につづいていた。車庫から車が一台出てきてわたしの右手の方に去って行った。はっきりと確認したわけではないが運転していたのはさきほどの男性のようだった。ともあれわたしは村に出た。温泉はこんな村に隣接していた。そして、もっと正しく地理的に言えば、この村の中にあった。ここが鉛の集落なのだった。
左に折れて少し歩くと、左手に神社が見えた。その鳥居の形には特徴があって、わたしは山王鳥居と間違えてしまったのだが、山王鳥居のあの屋根形のものはない。あまり気を止めることもなくわたしはさらに進んでいった。この辺りは温泉の藤三旅館の対岸の上方に当るはずだった。
右手に鶏を飼っているらしい独特な形の建物があって、それを過ぎると十字路に出た。その左前の砂利を敷き詰めた空き地には早朝マラソンの集合場所という札が立っていた。わたしはその十字路を左手に折れる。
前方に赤いアーチのついた大きな鉄骨の橋が見えた。この橋はまた豊沢川を跨ぐ。橋にかかると左手に再び藤三旅館が見える。旅館部の方の建物だ。そこでまた少し写真を撮る。橋を渡っていると向こうから五十代の主婦とみえる女性がやってくる。そこで挨拶をして少しものを尋ねる。
「このあたりに鉄道の、軽便鉄道の西鉛という駅があったそうなんですが、ご存じないですか」と。
鉄道という言葉がよくつかめないようだった。実際あとで調べてみると、ここには「軽便鉄道」ではなく「電車」と呼ばれるものが、賢治の時代(大正14年)から走っていたのだった。
「電車の西鉛の駅ならすぐそこの上の方だが。ここの通りを電車が走っていて。上の方に大きな道路ができてから電車は廃止になったが。」
「その近くに保養所とかなかったですか?」
「その駅のところから下へおりる道があるでな、その先の河原のところに県立の保養所があっただが。」
「その駅のところまで歩いて五分ぐらいで行けますか。」
「すぐそこの上の方だで。」
「保養所の跡の方へも行けますか。」
「駅のところから下へおりる道がある。ヤブになってるし、熊が出るから気をつけなよ。」
そんなやり取りだった。西鉛駅がどこで、保養所がどこかということが一遍でわかってしまった。それからわたしはこの婦人に言われた方向をさして坂道を上がって行った。ほんの二三分もしないうちに、昔の西鉛駅があったと思われる所に出た。終点らしい平地のちょっとした広がりから見当をつければいいのだ。そしてそれから保養所の跡地につづいてゆく道を下った。ガードレールもあり、もとは舗装もされていた道だった。しかし今はさすがに通る人も稀な道らしく、野草が茂っていた。といっても膝下ぐらいまでなので、わたしは、茂みの薄いところを選んで下りていった。下の方に行くと、黄色いキク科の、サワオグルマなのだろうか、群落が広がっていた。
下りると左手に、温泉の汲み出し口なのだろうか、まだ老朽化していない三畳ばかりの施設の建物があった。河原はヤブも深い。そこでも何枚かの写真を撮って、このような景色も賢治も目にしていたのだという思いを得て、その坂道を引き返したのだった。
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それから引き返して先ほどちょっと気になっていた神社の方に寄ってみた。鳥居があり拝殿があり本殿がある。鳥居はどこを原型としたものなのだろうか、赤い四脚造りの明神鳥居であった。
拝殿には額がかかっていて「温泉神社」と記されていた。本殿は大きさ一間四方の立派なもので、形式は日吉造りのようにも見えるがよく分からない。観察は早々に切り上げて、近くの畑で草取りをしていた婦人に尋ねてみた。何よりも聞きたかったのはこの温泉神社が村の神社なのかということだった。その婦人が教えてくれたのは、村の神社は山の神で、それはこの前の道をまっすぐにいったところにある、ということだった。山の神の神社ということでわたしはとても興味を持った。山の神を祀る村であれば、林業か、鉱山業か、狩猟かを主たる生業にしている村だということになるだろう。ここはほんとうはどういう村なのだろうか?
その婦人は、さらにこの温泉神社の祭神は薬師さまだということ、拝殿を開けて入っても構わないということ、そして熊が入ると困るので出る時は必ず扉を閉めてくれ、ということを言った。神仏の違いは気にしていないようだった。
拝殿の中には多くの剣額が奉納されていた。中に昭和九年、十年、十六年の銘が読めるものがあった。出征した村人の武運を祈ったものであろう。中に昭和十六年に江刺郡藤里村の願主が奉納した剣があったのが目についた。藤里はあの平安時代の兜跋毘沙門天のある村だ。それには「為祈願成就」とだけ願いが記されていた。それがどういう経緯によってこの温泉神社に奉納されているのか?
ともあれわたしは次に、教えてもらった山の神神社に向かった。十字路を越えるとほどなく神社が見えて来た。二百メートルほどまっすぐな道がつづいている。金属製の明神鳥居。鳥居には「山祇神社」の額が掛かっている。その先左右に燈籠が参道をはさみ、さらにその先には三間幅の社殿がある。社殿はの柱はなぜか黒く塗られているが、しっかり作られた建物の印象を受ける。社殿の額には「山神」とだけ書かれている。
その右手には、いくつかの群れに分かれて、いくつか石塔が立っている。読めないものも多いが馬頭観音が幾柱かあるのはわかる。東北地方にはこうした石塔が多い。そのそれぞれに村人が歴史の中にとどめておきたいと思った思いがあるのだ。
さきほどのまっすぐと神社に向かっていた道は、神社のところから右に曲がり、村の奥の方へと続く。歩けば数分で山裾に達するだろう。
わたしは、この神社の数十メートル手前のところに、さきほど庭に出て仕事をしているひとがいたので、その人に話を聞いてみたいと思った。この村にはどういう生業の人が多いのか。この山神神社は主にどういう人が祭祀をおこなっているのか。
その庭で仕事をしていたひとは藤井行雄さんという方だった。
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藤井行雄さん(六十七歳)はとても楽しそうにこの村のことを話してくれた。彼はこの村ではひとりも猟をやってなかった、という。生業はほとんどが山仕事で、つまり炭焼きをしていた、ということだ。山神神社はそういう村人の神社なのだった。対して温泉神社の方はというと、それは温泉がやっている神社で、何か祭事がある場合でも「長」がつく人ばかりがやってきて何かやっている、ということだった。温泉神社は村人がよりどころにする神社ではないのだ。宮善(宮沢賢治の母方の実家)がもちろん関係している。藤井さんは、金持ちは柔軟な考えをもつ必要に迫られることはないのだ、ということを言っていた。貴重な意見である。宮沢賢治もこの「金持ち」に含まれるのかもしれない。しかし、「しかたなしに猟師なんぞしるんだ」という賢治の『なめとこ山の熊』の小十郎の生き方はむしろこの藤井さんのような意見から透けてみえてくるのである。
藤井さんはさらにこの村の普通の生き方についてたくさん説明してくれた。この村には大きな木炭倉庫が二つあった。焼いた炭は倉庫に運びそこに検査委員が来て等級を決めるのである。不合格になることもあるという。その後そこから電車で花巻に出荷していた。
倉庫があったのはこの前の大畑の駅のところと(と、自分の家の前方の林を見る)、あと西鉛の駅のちょっと先のところにあった、という。そして、以前は鉛には七十世帯あったが、そのうち四十世帯は炭焼きをやっていたのだと教えてくれる。山を見やると下の方には杉林が見えるものの、中腹から上の方は主に広葉樹のようだった。山は全部国有林だが、ナラのあるところを払い下げてもらって、炭を焼く。林のどこを誰の場所にするかということは毎年村の組合で寄り合って決める。自分の父親は、山の奥の方の、運搬には苦労の多いところを進んで取らせてもらっていたという。仕事はきつくなるが、いい炭がたくさん焼けて稼ぎはいいのだ。それでこんな家を建てられたのだ、と、藤井さんはふと誇りような表情を見せる。父から子へ人生の誇りはしっかりと伝わっている。
藤井さんはさらに西鉛にあった県の保養所のことも教えてくれた。木造四階建で庭もある立派な施設だった。そこは主に先生方の研修所になっていたという。はじめはお湯がぬるかったのだが、あとで宮善さんが掘り直して熱い湯が出るようになったという。今はそこも更地になって、宮善さんの所有地に戻っているのではないか、ということだった。
わたしは藤井さんに自分は宮沢賢治の『なめとこ山の熊』という作品の背景になるようなことを知りたくて歩いているのだということを告げた。そしてダムに沈んだ豊沢村のことを聞いた。水没した村の人は、市内の三ヶ所に分かれて住んだという。ほとんどが高橋姓だという。そして行雄さんの家の数十メートル離れた隣家二軒も豊沢から引っ越してきた人だったという。姓は高橋である。鉛の村に高橋姓はその二軒だけだったという。ダムは工事開始が昭和二十四年、竣工が昭和三十六年だから、人々は昭和二十年代にはどこかに移り住んだものであろう。そして今の隣家は別の人がに変ってしまったが、もと住んでいた高橋さんは行雄さんと親戚関係にあったという。わたしは正確に尋ねたわけではないが、そんなこともあって行雄さんは豊沢村から移り住んできた人たちのことをよく知っており、また顔もきくようであった。 (ver.2006.10.2)
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八月二十六日の「宮沢賢治国際研究大会」の研究発表で、わたしは、会場からのある質問に答えて、『なめとこ山の熊』の猟師淵沢小十郎にも炭焼きをやって生活を組み立てる可能性はあったのではないか。そのことを考えないのは賢治の想像力の不足ではないかと語った。賢治が「木はお上のものにきまったし……仕方なしに猟師なんぞしるんだ」と書いていることの信憑性の問題である。賢治がこれを書いたと考えられる昭和二年の状況を今正確にたどれるわけではないが、実際には狩りをしない夏期のあいだ、猟師が川魚をとったり山仕事をしたりして生活を組み立てるのは普通のことだった。自分で炭焼きをやろうと思う場合にはおそらく組合に入らなければならないであろうし、よそ者であったならその入会が容易であったとは限らない。だがもともと地の人間であったならば、猟師をする体力や体術があるならば、炭焼きは多くの場合「罪のねえ仕事」の可能性として十分に残されていたことだろう。この点も賢治の作品の中で疑問を残すところである。わたしはそのことの可能性を具体的に知りたかった。
ともあれ鉛の村であれば、炭焼きが普通の生業であった。その鉛に、豊沢村から引っ越してきた家が二軒あった。そのうちの一軒の方に、時々、鉛の村で「カツオヤジ」と呼ばれるひとがやってきていた。姉か妹の嫁ぎ先ではないかと藤井行雄さんは想像する。カツオヤジは鉄砲撃ちだった。腕のいい猟師である。カツオヤジはときどきこの鉛周辺の山に入って熊をとってきていた。そしてその高橋の家の庭先で解体などをしていたようであった。庭先で何かをしていた、と藤井さんは言っていた。正確に見たわけではないようなのだが。だがカツオヤジが大きな熊をもってきたところは見ている。藤井さんの十歳前後の記憶である。昭和十五(1940)年前後のことになる。その当時、鉛の周辺では本格的な猟師といえる人は他にいなかったという。後で藤井さんのご尽力でわかったことだが、カツオヤジは明治二十六年巳年の生まれである。西暦に直して1893年である。『なめとこ山の熊』のはじめの方で賢治は、「鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありといふ昔からの看板もかかってゐる」と記している。わたしが、そして藤井さんがこの時思ったのは、この賢治が記す「熊の胆」は、カツオヤジがとったものではないか、ということだった。ある資料によれば賢治は大正十三(1924)年に生徒と温泉巡りをして鉛温泉にゆき、その翌十四年秋にも生徒を連れて行っている(1)。仮に大正十四(1925)年の鉛温泉の熊の胆というものを考えれば、それは当年三十一歳のカツオヤジが獲った熊の胆だった可能性が相当にあるだろう。もちろんその年であれば、当年七十三歳のカツオヤジの父親が獲った可能性もなくはない。だが実際どれだけ健脚であったかによるのだが、猟師であっても齢七十を越えて山に入るのは容易なことではない。ちなみにカツオヤジの父親は和三郎といった。
もっとも、雫石や沢内の猟師がなめとこ山あたりで獲った熊の胆を鉛温泉で売り捌いていた可能性も当然ある。カツオヤジに関して言えば、狩りの弟子はもたず、ただ息子一人を連れて山に行っていたという。そして自分もそうして狩りを覚えたということであった。親子で獲った可能性はある。しかしカツオヤジの息子は大正9(1920)年の生まれで、大正十四年当時五歳であってみれば、カツオヤジはひとりで山に入っていた可能性が高い。当時鉛村の隣の豊沢村に住んでいた猟師は、カツオヤジとその父親だけだったのである。もちろん巻狩りなどはしていない。
賢治は「熊の胆も私は自分で見たのではない」と記す。小十郎のモデルを探すという仕事は多くの問題を抱えるが、昭和二年に賢治によって想定されていたなめとこ山の熊の胆にはカツオヤジが獲った熊のものが間違いなく含まれていただろう。また、当時カツオヤジがひとりで山に入っていたとすれば、犬一匹だけを連れて山に入っていた『なめとこ山の熊』の小十郎とイメージは重なる。年齢だけ上の方に移せばいいのである。わたしには、賢治との接触の可能性を考えても、小十郎のイメージの中にはカツオヤジがいると思えてならないのである。
ところでカツオヤジは名人といえるほどの人だったと藤井さんはいう。鉛村で射撃大会があった時、カツオヤジは放たれた鳥をみごと一発で打ち落としたのだった。その腕のよさは藤井さんの印象に強く残っているのである。そしてこれはまた別の人から聞いた話であるが、彼は生涯に三百八十頭の熊を獲ったということである。その中にはワナ猟によるものが含まれているであろうが、それにしてもこれは相当な数である。
そしてカツオヤジの容姿であるが、彼はなかなかの偉丈夫だったらしい。藤井行雄さんがそう記憶しているだけでなく、彼の家に息子の嫁として入った女性もそう語っている。賢治がいう「すがめの赫黒いごりごりしたおやじで胴は小さな臼ぐらゐはあったし」という小十郎の容姿はカツオヤジとはまったく合わない。もっともカツオヤジが賢治の三歳年長であってみれば、年齢の点だけとってみれば齢七十前後と思われる小十郎のモデルとは言いにくい。あるいは出会った可能性はきわめて低いと思われるのだが、年齢的にはカツオヤジの父和三郎が小十郎と近い。昭和二年当時和三郎は七十五歳であった。とはいえカツオヤジの子孫の家に和三郎の写真はなく、また今のところ和三郎の容姿について語ってくれる人をわたしは知らない。何かの映像資料が残っていればと思うのだが、目下のところわたしはその存在を知らない。情報があれば教えていただければ幸いである。
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八月二十八日の藤井行雄さんとの話はカツオヤジのことで盛りあがったのだが、行雄さんははじめカツオヤジは高橋姓だと思っていたようだった。豊沢村の人だということからそんな思い込みがあったのかもしれない。行雄さんの奥さんもカツオヤジについては記憶があって、指が四本だということが強く記憶に残っていたのだった。それは何か村の小学校の祭の時の記憶のようだった。カツオヤジの指のことについては後に別の人から非常に正確な話を聞くことができたのだが、行雄さんとカツオヤジとの関係でいうと、カツオヤジの子には長男勝美と、さらにその妹になる娘があって、その妹と自分が学校の同級生だったということであった。そういう縁もあって、あとでいろいろ調べておいてくれるということだった。わたしが知りたかったのは、第一にカツオヤジと松橋和三郎との関係だった。そしてできればその両人の容姿と生没年だった。さらにもう一つ知りたかったことは、狩りに行く時家で水垢離をとることがあるのか、ということだった。そしてまずはカツオヤジの狩りの仕方や習慣のことだった。わたしは、なめとこ山のあたりで熊狩りをする猟師としてまずは豊沢村に住んでいた人を見つけ出したかったのだった。カツオヤジがそうだった。だが賢治の作品のモデルとして年齢が合うのかどうか、それをぜひとも知りたくなった。そのカツオヤジが、田口洋美さんがいろいろなところで書いている和三郎の息子松橋勝治である可能性はかなり高いように思えていた。であれば和三郎の話もすぐそばに出てくるはずだった。
行雄さんは知り合いにいろいろ電話をかけてくれた。だがカツオヤジが松橋姓であったかを覚えている人は誰もいなかった。無理もない。明治二十六年生まれの人である。今日生きていれば百二十三歳になる人である。カツオヤジの息子の勝美さんですら既に三年前に亡くなっているのである。それで、さらに調べておいてくれるということで、わたしはそこをおいとまして、沢内村に行くことにした。ともあれマタギの村といわれるその場所を見て、そしてそこの「碧祥博物館」のマタギ資料を見ておきたかったのである。そしてできるなら夜は八戸まで行って、翌日は是川遺跡を訪ねてみたいと思っていた。藤井さんが調べてくれたことは京都に帰ってから電話で聞かせてもらうつもりにしていた。そういう約束にしてわたしは鉛をあとにしたのだった。
豊沢ダムのところでわたしは前日買っておいたパンを食べて昼食にした。二時ごろにはなっていただろう。ダムの水位はきわめて低い。基準水位より十五メートルほど下がっているだろう。そもそも雨が降らなくてはダムの機能も果たしようがない。この天候の恒常的な異変はダムの建設そのものの意義をも空しくさせてしまうかもしれない。
水深の浅くなったダムを見ていると、昔の生活の跡も見えてくるのである。あそこには畑があったようだ、とかあれは昔の道や橋ではないか、とか。義父が飛騨の尾神という御母衣ダムに没したところの出身なので、わたしもダムに没する村のことは人ごとに思えない。義父は、水が少なくなった時には昔の橋が見えると言っていた。だからわたしは白川村にゆく機会がある時には、いつも車を止めて尾神橋から水の中に目を凝らすのである。だが、まだその橋が見えたことはない。そのうちその橋のことを覚えている人も世の中からいなくなってしまうのであろうが。
博物館の見学はあっさりと終えた。そして向いの店でそばを食べ、そしてパンを買った。パンを買っておくと食事に時間をとられないですむのである。わたしは進路を湯田町、和賀町を通って北上市に向かう道にとった。途中ある道の駅で藤井さんのところに電話をかけた。何軒かにかけて調べているところだと言った。わたしは一時間後にまた電話をする約束をして切った。だが途中は結局携帯電話が通じなかった。途中ひとつ温泉に寄って、そして北上市入った時にはもう夜も暗くなっていた。はじめにトヨタレンタカーに電話をしてレンタルの期限をを一日延長してもらった。そして藤井さんのところにかけた。藤井さんはその同級生の兄、勝美さんの家に電話をして、奥さんから勝治さん、勝美さんの生没年を聞き出してくれていた。そして彼らが高橋姓ではなく、松橋姓であること、そして松橋和三郎は勝美さんの祖父であることを聞き出してくれていた。和三郎を知っている人にはじめて出会ったのだった。行雄さん自身もとても興奮しているようだった。
わたしは予定を変更して、明日も鉛に行くことにした。そしてそれを行雄さんに告げた。わたしはこの日も鉛温泉藤三旅館に泊ることになった。また自炊部である。そこももう明日の朝食も準備できない時間になっていた。そしてお土産になるものを少し買った。一つは藤井さんに、そしてもう一つは学生を連れてそこに泊ることにしていると聞いていた法政大学の岡村民夫さんのために。
その夜は岡村さんと出会い、その日の聞書きについて大いに話した。そして彼が夜の授業に行ってからは、わたしはまたたっぷりと温泉に入っていた。そしてその日の聞書きの思いがけない豊かさに興奮して、また一時間ごとに温泉に入りながら、朝の白んでくるまで、わたしはずっと眠れなかった。
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○○ ○○○さま 2006年9月25日
つい先ほど帰ってきました。豊沢にダムができたために花巻に引っ越した高橋美雄さんのご夫婦に誘われて、ダムが渇水しているので明日なら昔の村を案内できるといわれて、一晩泊めてもらってきました。それで今日は通学部の後期最初の授業を休講にし、五時からの会議も休んで、湖底に沈んだ村を見てきました。そして松橋和三郎さん、勝治さんの住んでいた家も、あそこだと教えてもらいました。北から行くと道路の左手です。そこはまだ湖に沈んでいるのですが。
その後戻ってから、隣家の本家(屋号:「中野」)の奥さんが昔の文書や地図をもって美雄さん宅に来てくれました。そしてその昭和九の地図を見て美雄さんが、松橋さん(屋号:「にらげ」)の家はここだと指差して教えてくれたのです。今まで田口洋美さんが、和三郎は「幕館」に住んでいたと言っていたのですが、それは間違えで、「豊沢」に住んでいたことがしっかりと証拠とともに確かめられたのです。それが今日のことでした。(豊沢は「白沢」「豊沢」「幕館」「桂沢」の四つの区域に分かれるが、「幕館」は淡島神社より北の区域を指すそうです。)
昨日は午前中は雫石で高橋健二さんから三時間ほどお話を聞くことができました。その前日は、はじめ繋温泉でたずねてみたのですが、高齢の人も誰も高橋健二の名をしらなかったのです。繋にはひとりだけ猟師がいるそうで、その人が夜六時ごろ帰ってくるといことだったので、一方で、もし分からなかったらその人に健二さんのことを聞こうと思いながら、役場の方に行こうとしていたのです。その途中で「雫石町歴史民俗資料館」という看板が目に入って、近づくと、曲屋が目に入ってきたので、曲屋とか民具とかが中心の施設だろうと思いながらも、そこにいらした指導員の方にたずねたのです。「宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の猟師のモデルのことで高橋健二さんという雫石の猟師の方に話をお聞きしたいと思っているのですがご存じないですか」とお尋ねしたところ、その渡辺洋一さんという指導員の方は、何か動揺を隠せないようでした。そして自分はまさに今高橋健二さんのライフヒストリーを追跡しているところだとおっしゃったのです。何という奇遇でしょう!
健二さんは今九十四歳で耳も眼も記憶も話もしっかりしている。ただ少し健康が心配なのだが、ということで健二さんに電話をしてくれました。それで、その日は無理だが翌日ならいいということになり、朝の八時半から、渡辺さんの立ち会いのもとで聞き取りをさせてもらえることになりました。
健二さんからの聞き取りでも、健二さんは和三郎さんに会ったことも話したこともない、だが見たことはある、という話でした。健二さんが和三郎の弟子などではまったくないということがそれではっきりしました。田口洋美さんは「高橋健二氏は松橋和三郎を師匠とし、猟を学んだ人である」(1)と書いているのですが、これはまったく違うようです。
そして健二さんからよく聞くと、「見た」というのは豊沢の松橋さんの家の前を通りかかったことがある、ということでした。そしてその犬が特徴的だったと言っていました。四つ目なのです。胴は白、顎が黒、四つの目の上の方の「目」の模様は茶色、と非常に正確に語ってくれました。あとで高橋美雄さんに尋ねたところ、松橋勝治さん(和三郎の息子)の犬はぴったりその通りの相貌だったということです。そしてその子孫の犬が二匹まだいて、血統がつづいているということでした。柴犬よりちょっと大きいぐらいの犬だという健二さんの記憶もその通りでした。健二さんの言うことは非常に的確なのです。
そしてさらに健二さんにその松橋家の前を通ったのはいつごろのことだと尋ねると、昭和十二年だということでした。
これは前回の八月二十九日の聞き取りでわかっていたことなのですが、和三郎さんは昭和五年に亡くなっています。そうすると健二さんが見かけたという人は和三郎さんであるはずはなく、勝治さんだった可能性がかなり高いようです。
実際もっとよく尋ねてみると、田口洋美さんが一九九四年の本『マタギ』に結実する調査(これは一九八八〜九年と思われる)で健二さんを訪ねた時、健二さんは和三郎の名を知らず、その時猟友会常勤職をしていた渡辺文雄氏に尋ねるが、渡辺氏もそれを知らなかった。後に渡辺文雄さんが移転先を訪ねて和三郎の名が分かり、それを健二さんにも伝えたという経緯があったようです。ちなみに田口さんの著書『マタギ』(p.136)でも健二さんの口からは「松橋」という姓の方しか出てきていないのです。
つまるところ高橋健二さんは和三郎さんに会ったことも見たこともないのではないかと思えるのです。健二さんのお話では、はじめ和三郎は勝治さんの息子であると考えていた風が見えます。とすると、健二さんは、豊沢の松橋さんの家で、むしろ勝治さんの息子の勝美さん(もしくは他の息子さん)を見かけたのではないでしょうか。というのも、健二さんは、その人(彼が和三郎だと思っていた松橋家の人)は体が大きい人ではなかった、と言っていたからです。勝治さんは偉丈夫だときいていたので、わたしがその人の体格のことを尋ねたのですが。その時健二さんは二十五歳、勝美さん十七歳。そして勝治さんは四十四歳です。
小さなことかもしれませんが大きな発見です。そして渡辺洋一さんが立ち会ってくれたこともとても大きなことです。というのも非常に簡潔な健二さんの言葉が実際どういういことを意味しているのかということを渡辺さんは一つ一つ聞き質してくれて、この聞き取りでは健二さんの言葉に対するこちらの誤解がほとんどないと確信できるからです。雫石で渡辺さんに出会えたこと、それはほんとに奇跡に近いほど素晴らしいことだったと思えるのです。
ですから「フィールドワークは順調に行っているか」というあなたの質問に対する答えは、奇跡のように素晴らしくいっている。わたしはここのところ本当に運がいい、ということです。(あなたとの出会いもその一つです。)
花巻へ行ったのは、一つは「カツオヤジ」のことを教えてくれた藤井行雄さんに、先に纏めた『宮沢賢治・花巻見聞録一〜六』http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/MiyazawaKenji/MiyazawaKenji.htm
をお渡しして、修正すべきところがあれば教えていただくことでした。
そしてもう一つは、松橋さんのお宅にうかがって、和三郎さん、勝治さん、勝美さんに線香を上げさせてもらうことでした。ほんとうはこの一事のために花巻に行こうとしていたのです。そのことも叶いました。昨晩のことでした。
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八月二十九日も朝はゆっくりして旅館を出た。朝も岡村民夫さんに会いたかったのだが、多分わたしがもたもたしていたからだろう、気がついた時には学生たちを連れて宿を出たあとだった。わたしはもう一度入ってから発つことにして立湯に行った。適当に熱く何度入っても快適だ。
出てから売店に行った。だが昨日とはは入口が違ったらしい。昨日とは別のおばさんが売り子をしていた。おだやかな雰囲気の人だった。ちょっと立ち話をして、そして牛乳をもらった。昨日飲んだ青色の瓶のがいいと思ってきいたが、それはないということだった。わたしはそれを聞いてはじめて昨日とは別の売店だと気づいたのだった。奥を見ると背中合せに二つの売り場が繋がっているようだった。昨日のおばさんの後姿もわずかに見えた。ともあれそういうわけなので薄オレンジ色の瓶の牛乳をもらって飲んだ。それも美味しかった。
この日は車に乗って藤井さんのところへ行った。藤井さんは調べてわかったことをいくつか整理して教えてくれた。「カツオヤジ」のほんとうの名は勝治で、姓は松橋、そして生まれは明治二十五年、その父は和三郎で秋田から来た人だった、ということである。
また勝治さんの長男の勝美さんの生年は大正九年だということだった。
そして肝心の和三郎の生没年だが、それはわからない、ということだった。
またこのあたりの当時の熊狩りのやりかたとか儀礼についてだが、それについては教えてくれたのが勝美さんの奥さんで、女性だけに何も知らないということだった。水垢離の習慣についてもわからないということだった。和三郎さんの容貌について、それが宮沢賢治が『なめとこ山の熊』で猟師小十郎について記している「赫黒いごりごりした親父」という雰囲気の人だったのかどうかもわからない。というか、それについては特に尋ねていないようだった。
★
わたしがなおも知りたそうにしているのを察して、藤井さんは電話で直接松橋の奥さんに話せるようにしてくれた。勝美さんの奥さんである。
藤井さんから電話を替わってもらって、手短にわたしが調べていることの主旨を語った。宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の猟師小十郎のモデルのことを調べていて、それは松橋和三郎だという説があるのだが、写真とかで和三郎の容貌がわかるようなものはないか。賢治は小十郎のことを「すがめの赫黒いごりごりしたおやじで胴は小さな臼ぐらゐはあったし掌も北島の毘沙門さんの病気をなほすための手形ぐらゐ大きく厚かった」と書いているのだが、と。賢治が小十郎を決して美丈夫として描いていないので、こう尋ねることがとても失礼なことになるということはわかっていたのだが、あえてその通りに紹介して尋ねたのだった。
答えは、和三郎はわたしのところの祖父です。和三郎が小十郎のモデルに比されているのは知っている。しかし容姿とかはわからない。生没年もわからない。わたしが嫁に入ったのは昭和二十三年だが、その時には和三郎はすでにだいぶ前に亡くなっていた。
そういうことを非常に冷静に、そして明晰に語ってくれた。その答えに、わたしはその電話口の先にいる人が非常に頭がよく、賢く、立派な女性であるのを感じた。そしてさらに尋ねた。
それでは勝治さんの方はどうだったのでしょうか。生没年はさっき藤井さんから聞きました。容姿はどうだったでしょう。賢治が描く小十郎に似たところはあったでしょうか、胴が臼のように太いとか、と。
勝治さんは大きい人でした。背も高くてがっしりしていました。太さは普通でした、と、その電話先の松橋夫人はきっぱりと答えた。それは疑いえない判断だ、とわたしは感じた。だから、少なくとも容姿の点で、小十郎のモデルは勝治ではなく、またおそらくは和三郎でもない。それは多分賢治が空想でイメージしたものだ、とそのときわたしははっきりと感じた。
さらに、狩りに行く時のことを尋ねた。狩りのことはよく分からない。秋から冬にかけて熊を獲って歩いていた。春にも獲っている。いつも親子二人で山に入っていた、と、そういう答えだった。
勝治さんは息子の勝美さんをつれて山へ入っていたのだ。和三郎もそうして勝治さんを連れて山へ入っていたのではないだろうか、とわたしは尋ねた。そうだったようだ、と松橋夫人は答えた。
二人で熊狩りをしていたのであればそれは巻狩りではない。穴狩りか、出グマ狩りのはずだ。春のは出グマ狩りだろう。秋から冬にかけてはワナと跡追いをともにやっていたものだろう。奥さんからはとても重要なことを聞かせてもらった気がした。「カツオヤジ」の狩りの姿が少し見えるようになってきた。 (2006.9.29)
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わたしはなおも松橋和三郎の生没年が知りたかった。それがわかれば和三郎が宮沢賢治の『なめとこ山の熊』のモデルとして、年齢が適当なものかどうかがわかるからだ。そんなことを藤井行雄さんと相談していた。役所へ行って戸籍を調べさせてもらえばわかるかもしれない。だがそんなことはあまりしたくない。他人の戸籍を探るなどということは。たとえ学術的な意味があるとしても、それは避けたいことであった。そして調べたところでそこまでの記載があるかどうか疑わしい。勝治さんの生年から推して明治の始めか、あるいは明治以前のはずだ。それだけ戸籍が整理されているものかどうか。
さらにまた、昭和のはじめごろの山の仕事について知っている人から、当時の豊沢あたりの様子を聞きたかった。その豊沢の人々の生業の中で松橋一家の狩猟を中心にした生活はどんな意味をもっていたのか。どんな受け入れられ方をしていたのか。そんなことを知りたかった。そしてそういうことを知った上で、宮沢賢治のイマジネーションがどれほど岩手の山村の猟師の生活に届いていたのかを考えたかった。そして狩りのために山に入る時水垢離をとる習慣があったのかどうかということも知りたかった。はっきりとは知れないにしても、その推測だけはつけられる知識をもちたかった。
相談がてらそんなことを話していると、藤井さんは、豊沢から花巻に出てきた人たちのことを幾人か思い浮かべてくれていた。そして、ともかく行ってみるか? ということで松橋さんの家の所在地を教えてくれた。それだけ信用してもらえたことが嬉しかった。
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わたしは鉛を離れた。久しぶりに離れた気がした。ずっと藤井さんの助けによって事情がわかってきていたのだった。藤井さんに信用していただけなかったら何一つわからなかったことだろう。はじめはこの村の山神神社について尋ねたのだった。そこからこれだけものが見えてきたのだった。
そうしてわたしは鉛を後にした。ここからはまた新たにひとの好意に頼らなければならない。
車にナビが付いているので、住所だけですぐに場所が探せた。藤井さんが住宅地図を出して教えてくれていたので国道とか小学校とかからの位置関係はしっかり頭の中に入っていた。そうしてわたしは松橋さんの家をたずねた。
松橋さんの家はすぐに見つかった。だがお留守のようだった。何度ベルを押しても応えがなかった。
この日はとても暑い日で、わたしも少し疲れていた。それでまずは車で、行きに見つけておいた近くのコンビニに行った。そして疲れの取れそうなコーヒーを買って飲んだ。そして松橋さんのところに電話をかけた。だがやはり留守だった。
再び車を運転して、道を確かめつつ近所を走った。トヨタレンタカーの店舗の位置も確かめた。返却場所の確認である。そこからすぐ近くだったのだが。
そうしてもう一度松橋さんのお宅を訪ねた。やはり留守だった。松橋さんがお留守なら、残された時間で豊沢のことを知りたい。近所でだれかに尋ねよう。そう思って車を動かし、じゃまにならないように角の鳥居の中に止めた。
その鳥居のところ、その奥に大きな石碑を並べた祭壇があった。中央に出羽権現の石碑がありその隣に同じく大きな念仏塔の石碑が据えられていた。そしてこちらは字が新しく朱で塗られていた。毎年塗り直しているものらしい。ここの神域は出羽権現社と呼ばれるところのようである。その社地の土地代の寄附者の名札が掲げられており、その中に「松橋勝美」の名があった。その他はほとんどが高橋姓の人たちだった。これらはおそらく豊沢からもってきた石碑で、神社は豊沢から移転してきた人々の神社だ。このあたりは豊沢からの移住者が多く住んでいるところなのだと推測できた。念仏塔には明治十四年巳年の刻印もあった。わたしはそれらの石碑に礼をして次になすべきことを考えた。(2006.9.29)
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近くを歩くとすぐに大きく造りも立派な家が目に入った。ためらわず門の中に入って玄関から奥へごめん下さいと声を通した。ほどなく家の主婦と思われる方が出てこられた。わたしは、「鉛の藤井さんから紹介されて松橋さんのところを訪ねてきたのですが、お留守のようなのです。それでどなたかに豊沢の山の仕事のことを聞かせていただきたいとおもっているのですが、ご紹介いただけないでしょうか」と、そんな風に来意を告げた。そのご婦人は一緒についてもう一度松橋さんのお宅へ行ってくれた。そしてもう一度玄関で呼び出した。返事はない。それで裏庭の畑の方に行った。ベルを押して出ない時でも、裏の畑でなにかしていることがよくあるのだ、ということだった。
裏には相当に広い畑があり野菜や花が豊かにたっぷり生い育っていた。豊沢の花や野菜をここに持ってきているのだ、となぜか咄嗟に思った。
だが松橋さんはそこにもいなかった。やはり留守だった。
松橋さんのお宅から戻り、そのご婦人はわたしをさっきの石碑のところに案内してくれた。「これは豊沢にあった石碑で、わたしが毎朝掃除をしてお参りをしています」、と標準語で言った。その言葉にはその人の並々ならぬ心が感じられた。その念仏塔がとりわけ大事なもののようだった。
その何となくゆとりのある雰囲気のご婦人は、「松橋さんの先祖は熊捕をする人で、秋田からやってたが身寄りがなかったので、うちでお世話をしていました」、と語ってくれた。やはり豊沢の村の主となる家の方に違いなかった。わたしは、その松橋さんをお世話したという話のことをいずれもっとお聞きしたいと思っている。
そのご婦人はまた自分の家には豊沢からもってきた古い書類がたくさんあるのだ、と教えてくれた。わたしは古文書類が苦手なのだが、その書類のことも、また見せていただいて、そしてまたお話をお聞きしたいと思ったのだった。
そうして、わたしが豊沢の山の仕事のことを知りたいと告げていたので、わたしを近くの一軒の家に案内してくれた。「パチンコをしにいくこともあるので、今いらっしゃるかどうかわからないが」、と言いながら。
案内してくれた方は高橋美雄さんという方だった。美雄さんはさいわいお宅にいらした。居間に上げていただいて豊沢の山の生活の話を聞いた。
美雄さんの話はわたしにはまことに驚くべきものだった。話の一つ一つが極めて正確だった。同じような正確な語り方をする人をわたしはひとり知っていた。飛騨高山の猟師、橋本繁蔵さんだ。山のことについてわたしはその橋本さんから非常に多くのことを教えてもらってきていたのだ。同じように正確で的確な説明をしてくれる高橋美雄さんに、わたしはたちどころに魅了されてしまった。美雄さんは昭和七年生まれの方である。
美雄さんの話によると、豊沢は白沢、豊沢、幕館、桂沢の四つの伝統的な地区と、樺太からの引揚者の居住区に分かれ、合わせて六十七世帯が住んでいた。そして豊沢の生活は一つには春のワサビや山菜採りがあり、これは花巻や鉛にもっていった。また林業・炭焼きもしていた。そして畑ではヒエ・マメ・アワを育てた。そして牛が200頭ほどおり、三分の二の家が牛の放牧をしていて、牛でもいくらかの収入を得ていた。牛の競りは毎年秋の彼岸に豊沢で行なわれていた。業者が豊沢まで来るのである。そして秋には茸採りをする。平成六年には三人で行って一日で百キロ採ってきたこともあるという。そうして豊沢の山の生活のことをひとつひとつしっかりした確かさで語ってくれる。
美雄さん自身は学校を出てからおじさんたちに連れられて放牧の仕事をしていた。まさに山に牛を放つのである。よそから金をもらって放牧していた牛もいる。放たれた牛は豊沢の山の中だけにいるわけではない。山の陰を越えてゆく。沢内に越えたり、雫石の北本内に越えたり、葛丸ダムのある大瀬川に越えたりする。それを連れてこなければならない。そうして連れられて山の中を歩いているうちに豊沢の山はすっかり「すかっと覚えて」いると言えるまでになったのだった。
そうして美雄さんから豊沢の生活のことを聞いているうちに、わたしの携帯に一本の電話がかかってきた。松橋さんの奥さんからだった。(2006.10.24)
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松橋夫人は午前中の鉛からの電話でわたしのことは了解してくれていた。夫人はとても賢い方だ。無駄なことは何も言わない。けれども言うべきことはスッと的確に言う。そのことをわたしは午前中の電話のやりとりで十分に知らされていた。
わたしは、役所で調べるのでもなく、菩提寺に行って過去帳を見せてもらうのでもなく夫人の義理の祖父である松橋和三郎の生没年を知る方法を、その朝、鉛の藤井行雄さんから教えてもらっていた。それを夫人にお願いしたかったのだ。簡単な方法ではある。だがそういう方法で昔の祖先のことを知るやりかたはわたしには既に縁遠いものになっていたのだった。
わたしは、松橋夫人に、位牌を調べてほしいとお願いした。決定的な瞬間であった。おそらく少なからぬ人が知りたがっていたことが明らかになる瞬間だった。
夫人は、すぐに調べにいってくれた。松橋和三郎は昭和五年一月十八日、享年七十九歳で亡くなった。そういうことであった。享年は数え年であろうから西暦にすると1852年の生まれということになる。ペリーが黒船を率いて浦賀に来航する前年である。宮沢賢治との年齢差は四十四歳ということになる。仮に賢治が大正七年、彼が二十二歳の時に出会っていたとすれば、その時和三郎は六十六歳である。作品『なめとこ山の熊』の小十郎のモデルとしては丁度よい年齢であろう。
またこれもそのとき尋ねたことなのだが、家に和三郎の写真はない、ということであった。和三郎の容姿を確かめる手掛かりはここにはないようであった。
その時わたしは同時に松橋勝治さんの位牌も調べてもらった。和三郎の長男勝治さんは夫人の義父であり、没年月日は昭和四十三(1968)年二月十六日である。生年は明治二十五年前後ということでやや不確かだったが、夫人はそれが巳年だということをはっきりと記憶していた。すると明治二十六年である。西暦1893年の生まれということになる。和三郎四十一歳のときの子である。宮沢賢治の三歳年長になる。ちなみに夫人のご主人である勝美さんは大正九年、西暦1920年の生まれで、平成十五年、西暦2003年に亡くなっている。まずまず長寿の一家といってよいだろう。
わたしはその日のうちに京都に帰らなければならなかった。絶対に帰らなければならないということではなかった。だが締切を二日後に控えた大事な仕事があった。それをこなすのに丸一日はかかりそうだった。やはり帰っておかなければならない。
高橋美雄さんのところでは他になめとこ山の登り方のことも聞いた。念仏踊りの写真も見せてもらった。それはやはりとても大事なことのようだ。その他松橋さんの家や家族の話しも聞いた。豊沢の熊狩りのことも聞いた。またこちらに来てから勝治さんと近くの松林でウサギ狩りをしたという話も聞いた。そして勝治さんの指の話も聞いた。それは山の斜面を登ってゆくとき、当然手で潅木や草を掴んで体を引き上げて登ってゆくことになるが、その時センノキの若木を掴んでしまったのだ。センノキの若木には棘がありそれには毒がある。もちろん普通なら刺さった時すぐにその棘を抜くのだが、抜けないものが指に残ってしまったものらしい。そうして病院にも行かずに放っておいたところ指が腐り、結局失ってしまった。右手の中指だった。しかしそれにもかかわらず勝治は卓越した猟師だった。十人近い家族をほとんど狩猟だけで支えていた。もっとも後には組合に入り資格を得て炭焼きもはじめたということであったが。
高橋美雄さんのところでは折角遠いところから来て、聞きたいこともまだあるのだから泊ってゆけ、と勧めてくれた。ありがたいことだった。そして嬉しかった。だがわたしは、宮沢賢治研究大会から引き続いて、これほどすばらしい出会いや経験に次々に恵まれて、もう頭も心もいっぱいになっていた。一度家に帰って、その経験を整理しておきたかった。
美雄さんからはもっともっと豊沢の話を聞きたかった。そしてできるなら松橋さんのところでも話を聞きたかった。だがわたしの力はもう限界に近いところまで来ていた。それでわたしは美雄さんのところをおいとました。美雄さんは帰りに山からもってきた面白い形の切株を見せてくれた。樹がどうしてこんな形になったのか、見ているといつまでも見飽きないものたちだ。そして土産に美雄さんが木で作った鍋敷をもらった。ありがたいことだった。
それから最後に一寸だけ松橋さんのお宅にうかがって、トヨ夫人にお目にかかり、そうしてお礼のことばだけ述べさせてもらった。そう簡単に信頼してもらえるものではないが、直接にお礼も述べずに立ち去る失礼はできるものではなかった。
帰途に着き、新幹線の新花巻駅からあたりの風景を見ていると、花巻にも宮沢賢治とほとんど何の関係もなく、美しく生きている人たちがいるのだ、そしてそれが当たり前のことなのだ、ということを強く感じた。「宮沢賢治国際研究大会」から、わたしはどれだけ遠くに来てしまったことだろう。しかしそれらの間には確実につながるひとつのものがある。そうわたしは確信している。(2006.10.25/12.6)
聞書き 宮沢賢治・花巻見聞録
了
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