by
masatsune nakaji, kyoto
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J・B・ド・ラ・サールの『キリスト教学校の運営』は、近代の教育システムの基礎を構築した最も重要な書物の一つと目されるべきものであるが、そこには細部にわたって、実に徹底した思索が貫かれている。私は後日、この書を中心にして、近代の社会装置、とりわけ権力と監視、そして処罰の装置について、その基本的な特質を、ミシェル・フーコーの分析を再検討しながら、引き出してみたい、と考えているのだが、とりあえずここでは、この書の中の非常に興味深い一節についてだけ紹介してみたい。それは「へら打ちの罰」とでも呼ぶべきものについてである。
ラ・サールは、「様々な種類の矯正(corrections)」について語る、同書の第二部第6章の第4論において、〈へら打ちの罰(Férule)〉(*)について説明している。この「へら打ちの罰」については、ルイ・マルの映画「William Wilson」(『世にも怪奇な物語』所収)などでご存知の方も多いと思うが、その映画においては、教室でひと騒ぎを司令したウィルソンが、教師から、平手へ二回〈へら打ち〉を与えられていたのであった。この処置は、一体どのくらいの重さの処罰なのであろうか? ちなみに、〈へら〉とは、ラ・サールの書の説明によれば、「縦に両端に裁断され、縫合された二片の厚革から成り、長さは14プス(約36cm)で幅は8リーニュ(約1.7cm)のものである」。
ルイ・マルは映画のこのシーンを、恐らくはラ・サールの書物に非常に忠実に従って、描いている。18−19世紀のキリスト教学校においては、〈へら打ちの罰〉は、その行使が次のように、きわめて制限されている〈処罰〉である。こう言われる、「〈へら打ち〉は、生徒を義務の内に引きとどめ、あるいは義務から逸脱した(écartés)者たちを義務に立ち返らせるための、他のすべての手段が用いられ、しかもそれらが役に立たなかった場合にのみ用いるべきである」と(**)。ここでは「他のすべての手段」についての説明は省略するが、キリスト教学校においては、その先にはもう「退学処分」しかないような位置にある処罰である。そして、その施し方についても、明確な規定がある。
ひとはへらを手に一打ちだけ与えるべきである。そして時として、へら打ちをそ れ以上与えることが必要な場合にも、二という数を決して越えてはならない。つま り、両手に一回ずつである。
〈へら打ち〉を施される身体の部位は手に限られ、さらにその施される回数も最大2回と定められている。(ウィルソンに施される2回の〈へら打ち〉)。これは確かに、体罰を極度に嫌うようになり、〈教育のための有益な機械〉として自己を組織してゆく、学校の有りようの一側面を、的確に示すことに違いない。(同じことは、〈罰課〉(pensum)の奨励にも見て取ることが出来る)。それは、打ち方の、次のような指示において、よりはっきりと見て取ることが出来る。
左の手を叩かねばならない、とりわけ書き物をしている生徒たちの場合には、 右手を重く感じさせないために、そうしなければならない。右手を重く感じるこ とは、物を書くのに大きな障害となるであろう。
物を書き、それゆえ知育における〈進歩〉に大いに関与する〈右手〉の保護が、このきわめて重たい処罰においても、なされるべきだと定められているのである。(ウィルソンの〈右手〉にも施される〈へら打ち〉の重さ!)。次の規定も、キリスト教学校が、処罰を、育成における有益性の中に完全に位置付けていることを示しているだろう。
手に難儀(du mal)の生じた生徒たちには、それ以上〈へら打ち〉をしてはならな い。彼らには何らかの改悛の罰(pénitence)を課すべきである。人はこの矯正 から生じる可能性のある事故を予想しておくべきであり、またそれを避けるべく 努めなければならない。
〈へら打ち〉から生じる虞れのある重大な事故、それは、この学校という訓練の機械において、前進をはばむ虞れのある、身体の故障を意味しているであろう。そのような故障までは、招かないように、配慮しなければならないのである。しかし、そうした十分な見通しをもった上で、処罰を施すにあたって、教師は決然としていなければならない。
〈へら打ち〉を受ける時に生徒たちが叫ぶ、ということは全く苦にしてはなら ない。彼らが叫ぶ時には、叫んだからという理由で彼らを罰することを、そして 人が彼らを矯正するのは叫んだためなのだということを彼らに理解させることを、 人は欠かしてはならない。
教師が与える処罰は、それに対する生徒の反抗や反発を、常に越えたところに位置しているし、そうでなければならないのである。そしてそれゆえ、生徒の反抗や反発は、それ自体が再び処罰の対象となるべきことなのである。ここには確かに、ひとつの冷徹な機械が作動している。確かにラ・サールには、人間の義務についての、一つの確信をもった徹底した洞察があったであろう。しかし恐らくは、ラ・サールの構想した教育機械としての学校の、育成のための様々な機構や技術は、ラ・サール個人の理想や確信とは独立に、また「キリスト教学校の同胞」たちの希望とも独立に機能する、訓練・育成の装置を形成するものとなってゆくのである。
ここでこの小論の最後に、私が、〈へら打ち〉につてのラ・サールの論のなかで、最も強いインパクトを受けた箇所を引用しておきたい。先ずはフランス語で。
Quand on veut donner une férule à un écolier, pour avoir fait quelque faute qui l'ait détourné de son devoir, comme pour avoir causé, ou badiné dans l'école, et dans l'Église, etc., il ne faut pas lui dire que c'est pour avoir parlé ou badiné, qu'on le corrige; mais pour n'avoir pas étudié sa leçon, ou pour n'avoir pas prié Dieu.
いかがであろうか。私には最後の[mais]以下のところの意味が非常に取りにくかったのであるが。しかし恐らくは次のように訳して差し支えないであろう。
ある生徒に彼の義務から彼を逸脱させる何らかの誤りを犯したという理由で、 例えば、学校の中や、教会の中で、おしゃべりをしたり、冗談を言ったり、等々 という理由で、へら打ちの罰を与えたいと思う時、人が彼を矯正するのは、おしゃ べりしたためだ、とか冗談を言ったためだ、と彼に言ってはならない。そうでは なくて、それは彼が自分のレッスンを勉強しなかったからだとか、神に祈らなかっ たからだ、と言わなくてはならない。
お解りいただけただろうか? 処罰の理由は、常に積極的なこと、つまり〈義務〉、 からの逸脱として把握し、また説明しなければならない、ということを、ラ・サール は厳しく命じているのである。何という洞察、何と細部までゆきとどいた洞察であ ろう! 騒がしいから叱るのではなく、それが自分のおこなうべき、レッスンを学 ぶという義務からの逸脱であるから叱るのだ、と、ラ・サールはここで深く釘を 刺して言うのである。
ミシェル・フーコーは、ラ・サールのこの書を注釈しつつ、ディシプリンにおけ る〈下位の刑罰制度(infra-pénalité)〉が取り締まりの対象とす るのは、規則に適合せず、そこから離れ、隔たったすべてのことである、と読み 取り、ディシプリン的装置の、制裁・処罰によって規格化(normalisation)を推 し進めてゆく強大な力を分析した(***)。われわれは、ラ・サールがここで 〈義務〉と呼んでいるものが「規則」であり、ラ・サールの構想した学校が、 刑法の用意している処罰に比べて、きわめてささやかではあるが、はるかに 緻密ではるかに細部にわたる、厳格な刑罰制度に裏付けられて、強力な規格化 を推し進めている、ということを理解する。そしてわれわれは、多分、この 規格化を推し進める途方もない力に、深く苦しんでいるのである。
多分われわれは、フーコーが未だ分析していない、新しいタイプの義務や 規則によっても包囲され、また、新しいタイプの、より淫にして微な刑罰 システムにも取り囲まれているであろう。われわれはそれを〈知って〉いる のだが、なかなか分析できない。それは多分、シミュラークル的な 情報戦略の環境によるものであろうが、しかし恐らくそこで真に重要なのは、 近代化の推進によってもたらされた規格化の諸公準が、その環境の内で、 言わば公理系として機能している、という事なのである。われわれは、 今なおディシプリンを、ディシプリンの装置とそれがもたらしたものを、 未だ克服していないのである。「おしまいの人間」についてのニーチェの 予言は、この装置と新しい環境によって、ますます実現されてゆくであろ うが。
私は、このような近代化と、現代の環境を、私の哲学の仕事として、批判し、分析してゆきたい。
mnnakaji@mta.biglobe.ne.jp
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