天の香久山

ver. 2.01i
2000.4.1
by
masatsune nakaji, kyoto


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三山の歌

奈良県橿原(かしはら)市の南東にある香久山(かぐやま)の名は、 多分万葉集の大和三山の歌によって、もっと もよく知られている。その著名な歌は、読み下しの形で引用すると、こういう ものである(中西進、『万葉集』講談社文庫、による)。

香具山(かぐやま)は 畝火(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古昔 (いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき 〈 一三〉

中西進氏はこの歌の三山の関係を、女である香久山が新たに現われた畝傍山 (男)に心移りして、古い恋仲の耳梨山(男)と言い争いをした、ということ だと解釈される。また田中貴子氏は、最近の著書『聖なる女』の中で、この三 山の関係のことを扱っているが、そこでは「和歌を読むかぎりでは山の性別 がはっきり」しない、と述べられている。私 もまた、三山の男女性別の 関係はこの歌だけからでは十分に突き止められないように思うのである。そ れでは、この歌以外にそれを突き止める手段はあるのだろうか? まずは香 久山が歌われている別の歌を見てみよう。

次の舒明(じょめい)天皇の国見の歌も、大変よく知られているもの であろう。

大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香久山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は〈二〉

香久山は天皇がそこに登って国見をする山であり、またその山の特徴は「とり よろふ」山である、と言われている。この「とりよろふ」は『岩波古語 辞典』によれば語義未詳とされている語であるが、私としては「りっぱに装っ ている」という中西進氏の解釈に近い所でこの語を理解しておきたい。中西氏 によれば、この「とりよろふ」とは、草木の繁茂を装いと見たのであろう、と いうことである。確かに、今日でも、カシ、シイを中心に、多くの照葉樹を身 にまとった豊かな山であるように見える。そしてそれは、麓も大きく広がり、 動物たちをも豊かに育んでいる山に見えるのである。 しかしどうであろうか。この山は果 たして「美しい山」なのだろうか? その山の姿、山の形の整い、ということ で言えば、私には、香久山は畝傍山、耳成山に比べて、決して優っているよう には見えないのである。美しさで言えば、三山の中の一番は畝傍山であろう。 畝傍山は、どこから見てもとても均整のとれた山である。耳成は香久山方面か ら見れば多少耳の形に均整が崩れているように見えるが、可愛らしい山である ことは間違いない。耳成に関しては、山容も小柄であり、柔らかで愛らしい山 、という表現が、まずまず当たっているのではないかと思う。

こうしてみると、歌の三山の関係はどういうことになるだろうか。畝傍山が恋 着され る山だということは疑いないが、それは男性的なのでろうか、それとも女性的 なのであろうか。

ここにも私は、田中貴子氏が言うところの、「聖なる女になるための嫉妬」の 関係の典型的な型が読み取れるのではないかと思う(前掲書、第四章)。香久 山が先妻で、耳成が新しく登場してきた後妻、そして畝傍山が、男 というわけである。香久山は多産的で豊かで、正統的である。いわば本妻の趣 である。耳成はやはり女であって、また、若く可愛らしい。そして畝傍山は、 均整がとれて美しく、また雄々しさもある山である。(従って三山歌の「をを し」はやはり「雄々し」であろう。)この雄々しい畝傍山をめぐって、本妻香 久山が後妻耳成山と諍(いさか)い、競(きそ)いあうのである。 ------

もっとも、これは私が三山の景観から感ずる、本当に私的な印象にす ぎないのであるが。しかし これは多分的中しているだろう。(しかし、次の節で述べることを考慮 するならば、新しく登場してきた香久山が、畝傍を、正妻の耳成山から 奪おうとしている、とも考えられるかもしれない。その場合でも、香久 山は豊かな山である。)

「天の」香久山

先に引いた歌にも見られるように、香久山はまた、非常にしばしば、「天 の香久山」、と「天」を冠につけて呼ばれている。それは、「天」と、ひそか に、非常に強く、結びつく山であったのだ。しかし、この、香久山と「天」との 結びつきは一体何なのであろうか?

まずは、万葉集の次の歌から。この歌によって、この山は「天」から降ってきた 山だ、という伝承があったことが知られる。

天降(あも)りつく 天の香久山 霞(かすみ)立つ 春に至(いた)れば 松風に 池波立ちて 桜花(さくらばな)・・・(後略)〈二五七〉

「天降りつく」とは、天から降って地におりてきた、ということである。 この伝承のについては、『伊予の国風土記』逸文にも記述があり、それは 当時は相当 に広く知られた伝承であったようである。そこではこう記されている。
伊与(いよ)の郡(こほり)。郡家(こほりのみやけ)より東北(うしとら) のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由(ゆゑ)は、倭(やまと) に天加具山(あめのかぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、 二つに分(わか)れて、片端(かたはし)は倭の国に天降(あまくだ)り、 片端はこの土(くに)に天降りき。因(よ)りて天山と謂(い)ふ、本 (ことのもと)なり。

大和の香久山と、伊予の天山とは、天から天降(あまくだ)った一つの山 で、それが、途中で二つに 分れてできた山だという。ともにもともとは「天」にあった山だと言うのであ る。

しかし、この山が、もとは「天」にあって、それがある時、天降ったのだと すれば、それは 一体いつのことなのだろうか? つまり、端的に言って、いわゆる「天岩窟 (あまのいはや)」の事件が起こったとされる時よりも、前なのであろうか、 後なのであろうか? というのも、天岩窟の話においては、岩窟にこもってし まった天照大神をそこから引き出すために、「天香久山の五百箇(いほつ)の 真坂樹(まさかき)」(天の香久山の榊五百本)を掘り起こ し、その上の枝には玉飾り(御統〔みすまる〕)をかけ、中の枝には鏡を かけ、そして下の 枝には青・白の幣をかけて祈祷をした、と言われているからである(『日本書 紀』神代上第七段)。この時、 天の香久山はまだ天上に、つまりいわゆるところの「高天原」にあったのであ ろうか?

『日本書紀』の別の書によれば、この岩窟の事件の時に、天の 香久山の金(かね)を採って日矛を造った、とされる。(ちなみに、私が 歩いたところでは、今日 、香久山の土の中には、きらきらと金色に光る、黄鉄鉱の微粒と思われるもの が見られる。)また『古事記』では、天の香山(かぐやま)の「鹿」 「波波迦(ははか)(=朱桜〔かにわさくら〕)」「賢木(さかき)」 「日影(=蘿〔さがりごけ〕)」「小竹葉(ささば)」が利用された とされている。これらの文脈において、天の香久山は、榊を始めとして、それ が育み、提供するさまざまな 「物」が、天照大神が岩窟を出て、再びこの世に光明をもたらすようにさせる ために、欠かすことのできないものであるような、そういう山であった。まさ に香久山の育むものによって、この 世には光明が回復された、のである。恐らく、この世の光明化のためには、香久 山とそ の育むものとが欠かせない------このような神話的思想が、もち伝えられて ゆくであろう。

この天の岩窟の事件の時、香久山はおそらく天上にあったのであろう。そして それが、神武天皇の東征の前のある時点で、天上から地上へと降り、神武のヤ マト征服を導く標識になったのであろう。この世が光明化されるためには、香 久山を正しく掌中におさめた者が必要である、という神話的思想の牽引力を伴 って。そしてこういう下準備の上で、ある時、天神が神武の夢に現われ、「香 久山のある地は天孫のために定められた土地なのだ」、と告げたのである。

香久山の土

そして香久山の土であるが、これはやはり多くの未決の問題を含んでいるで あろう。疑問は、神武天皇が営んだとされる呪術的祈祷のすべてに、つきま とっている。神武は、ヤマトの地に攻め入るために、香久山の土が必要だ、 という夢の啓示を受ける。この同じような啓示は、彼にしたがう弟猾(おと うかし)にも訪れ、それによってその「正しさ」を確認されることにな る。

しかし、香久山の土と言っても、香久山のどこの土なのか、という問題が あるであろう。それに関して、『日本書紀』が記しているのは、「天の香 久山の社(やしろ)の中の土」「天の香久山の埴(はにつち)」 「香久山の巓(いただき)の土」「天香久山の埴土」等である(神武 天皇即位前紀戊午〜己未)。この うち、場所が明確に限定されているのは「社の中の土」と「巓の土」とい う表現のものである。この前者は神武が夢で啓示を受けた場所であり、後 者は神武が椎根津彦(しいねつひこ)らに土を取りに行くよう指定す る場所であって、この二つの場所は同一であると考えるのが順当である。 従って、まさに香久山の山頂の土が、ヤマト征服の呪術のために必要とさ れた土であったと考えられる。

これに関して、今日、香久山の山頂には国常立(くにのとこたち) の神を祀る神社があり、また山頂の一部では、粘土質の土が採取されるこ とが確認される。従って、香久山山頂の神社は、この『日本書紀』記述の 時以来、ずっと存続しているのではないかと推測される。

しかし、突き止めがたいのは、この土を以って、八十枚の平瓮(ひらか) と、厳瓮(いつへ)を造って天神地祇を祭る、と記されてい ることである。この平瓮とはなんなのであろう? また、八十枚という枚 数は何を意味しているのであろう? ちなみに、「瓮」とは、本来は「 甕(かめ)」と同じく、水や酒を入れる大きなかめ状の器を意味して いる語である。それが「平ら」であるとは、何を意味しているのであろう か?

思うに、「平瓮」とは、「甕」のように深くはないが、やはり酒のよう な液体を入れるための器、「かわらけ」のような浅い土器のことであろう 。「平瓮」や「厳瓮」を造って祈祷をする、という儀式を終えた後、神武は ヤマトの征服にのりだす。その時神武は、宴会に招くと称して敵に酒を飲 ませ、 酔ったところで一網打尽に殺してしまう、という戦術をとっているのである。 思うのだが、まさにこの陰謀的な宴会のために、神武は「平瓮」を八十枚も 造ったのではないだろうか。このだまし 討ちの酒盛りに使うための器として、敵の「八十梟帥(やそたける)」の 数と同じ八十枚の平瓮が必要であったのではないであろうか。「 虜(あた)、我(わ)が陰謀(しのびのはかりこと)有(あ)ることを 知らずして、情(こころ)の任(まま)に徑(ほしきまま)に酔(ゑ) ひぬ(敵は陰謀があるのを知らず、心のままに酒を飲んで酔ったのだっ た)」と記される、神武が採ったこういう戦術。このたくら みに乗って殺された人々は、素直で、それゆえ哀れな人々である。そして 神武は、この戦術によって、ほとんど犠牲を出すことなく勝利を収めたの であるが、それに しても、このやり方は決して美しいやりかたではないであろう。

宇陀の朝原で、神武は、丹生川に、瓮(いつへ)に入れて酒を流す。 それによっ て川中の魚は、皆、酔って浮き上がってきたと言う。その魚のように、一 網打尽 に殺された「敵」たち。そしてそれを可能にした天の香久山の埴土。この 土は、確かに「勝利」をもたらすかもしれないが、それは決して美しい勝 利をもたらしはしないであろう。香久山の土は、むしろひどく血生臭い のである。われわれ はそれを、この香久山の土を、もっと美しいことのために、むしろ美のた めに、用いることはで きないであろうか? ここには、「美による救済」という、芸術の営みの 、本来の仕事の一領域が存在しているであろう。わたしは、香久山と、そ の犠牲者の救済、という仕事を、一つ果たしたいのである。




このテクストははじめ1996年、京都造形芸術大学の
「風土の日本文化論」の授業中に配布されたものです。
その後、『京都造形芸術大学 総合環境'97』で一般に公表されました。
今、これとほぼ同じものが、
中路正恒著『日本感性史叙説』(創言社、1999年)
に収められています。
手にとってお読みいただければ幸いです。


(C) masatsune nakaji, kyoto 1996-2000

mnnakaji@mta.biglobe.ne.jp

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