「京都学」は何であるべきなのだろうか。「京都学」は何を考え、何を追究しようとしているのだろうか。そのような問いに対する明確な答えを、これまでわたしは寡聞にして聞いたことがない。聞こえてくるのはこの京都盆地に消長したこと、あるいはそこに今日まで続いている物事についての個別的な研究を「京都学」と称する声ばかりである。「京都学」とはそういう個別研究の総和のことなのだろうか。そうであるとしたら、あらたに「京都学」という名を冠すること自体さしたる意味をもたないことになるだろう。
重要なのは、「京都」とは何かを再考することであろう。そしてそのためには、「京都」を固有名詞とみなし、「京都とは何か」について思考を停止してしまうのは非常に都合が悪いのである。固有名詞「京都」を普通名詞「京都」に遡らせること、そうしてその「京都」のどういう意味が今再興され得るかを検討してみること、そのことが必要であろう。
そうした作業の基礎となる資料として、わが国の古代の文献における「京都」の用例を紹介しておきたい。以下は『日本書紀』と『続日本紀』に出る「京都」の使用例のすべてである。
これら十三の用例には、当然のことながら、後に平安京がおかれる「京都盆地」の一都市、われわれの「京都」を、指しているものは一つもない。「京都」という語が、わが国の古代の文献において固有の特定一都市を指すものでは決してなかったということは十分銘記しておくべきことだろう。とはいえ、これらの用例のどれもが基本的には「皇都」というに等しいほどの意味で用いられているということは言えるだろう。@の「京都」は景行天皇が都とした、と『書紀』が語るところの、「巻向日代(ひしろ)宮」を中心とする都を指しているし、Aは『魏志』からの引用であるからには「京都」は魏の都「洛陽」を指すであろう。Bの「京都」は虚空の本来の勤務地である雄略天皇の「泊(はつ)瀬(せ)朝倉宮」の都を指し、Cの「京都」は清寧天皇の「磐余(いはれ)甕(みか)栗(くり)宮」を指すはずである。
また『続日本紀』の用例では、Dの「京都」は元正天皇の「平城宮」を指し、EFGとKの「京都」は今日福岡県に属する豊前国の固有地名「京都」を指す。ここも『書紀』の地名伝承によれば景行天皇の行宮が設けられたゆえに「京」と呼ばれるようになったとされるところである。HIの「京都」はともに聖武天皇の「恭仁宮」の都を指す。Jは再び平城宮の都を指し、そしてLの「京都」は具体的にはその前々年の十一月に遷都された長岡宮を中心とする都を指すはずである。
しかしこれらの用例にも、細かく見るとニュアンスの違いがないわけではない。例えば、ILでは、「京都」は「遷される」ものであるのに対してHではそれが「作られる」ものになっているのである。つまり、ILでは、「京都」は天皇が(おそらくは祖霊・天皇霊とともに)移ることによって移動する国の中心性であり、それは概念的なものである。対してHの「京都」は、いわば大規模工事によって造作される具体的な空間領域なのである。これらの用例の細かなニュアンスの差異を検討することが「京都とは何か」を考えるためには非常に重要な作業になるはずであるが、それはまた別の機会にゆだねることにしよう。
今確認しておきたいのは、これらの文献において「京都」はまず何よりも「京師」と区別して用いられているということである。それらの漢字の字義に関してはわたしは白川静氏の『字統』に従いたいのであるが、それによれば、「京師」とは「京と呼ばれる凱旋門をもつ最大の軍事基地」のことである。というのも、軍が出行する時には、まず祖廟や軍社に祭肉(=(@4)肉辰(しん)胙(そ))を祭って神佑を祈り、その肉を奉じて出行するのであるが、軍が駐屯する時、あるいは重要な、永久的な軍事基地には、標木として朿(し)(=しるしの木)を樹てその前に祭肉を置いたのである。師はその祭肉と朿からなる字であるという。他方「都」の方である。それは、聚落の周りにめぐらした堰堤の要所に禁呪として呪符を埋めたものを「堵」というが、「都」とはそのような堵をもつ城壁をめぐらした都邑のことだと言われる。「師」が祖廟の神霊の加護を願った国を挙げた軍事にかかわるのに対して、「都」には居住地での安泰を願う呪術的配慮を読み取ることができるであろう。
そして「京」であるが、それは上部に望楼を設けた、「京(けい)観(かん)」と呼ばれるアーチ状の門のことで、軍営や都城の入口に建てられたものであるという。それはもともとは武功を子孫に示すために敵の屍体を積み重ね土をかぶせて作ったものであったという。「京はつまり凱旋門に相当し、また軍営の門に用いたもの」である。それは戦勝を記念するための死臭に満ちた楼門のことであると解してよいであろう。
とすれば「京都」とは、その字義からして、戦勝記念の楼門をもつ、呪術的防御を施した都邑ということを基本的な語義とすると言ってよいであろう。とすれば、同じく「京観」を備えているとはいえ、「京都」には、「京師」の軍事性に比べれば、防御的な性格が、穏やかな生活への願いのようなものが読み取れる、と言ってよいのではないだろうか。この点から注目されるのが@の用例である。この時景行は熊襲征討の途上にあった。そのある日、日向の国で野の大石にのぼり、「京都」を憶(しの)び、歌をうたうのである。その歌は、
等の歌であったという。東から湧き立ち、流れてくる雲に、家郷を思うのである。「巻向の京都」は、景行にとって、安堵のできる都であったのだろう。
『書紀』の編者たちは中国に洛陽という「京都」があることを知っていた。「京都」とは何であり、何であり得るかという問題を、われわれは北東アジア全体の精神史の中で考えてゆきたい。「京都学」もまたそれによってより豊かなものになってゆくであろう。