わたしが勤務する京都造形芸術大学の通信教育部では今年度から『京都地域学』という科目を新設した。さいわい学生から好感を持って迎えられ、多くの学生が取組んでくれている。
この『京都地域学』は、これまでの「京都学」と違って、京都の文化・芸術・歴史を学ぶことの意味を自明とせず、自分の生活の場からきちんと捉え直してもらおうという科目である。これまでの「京都学」は、京都の文化は日本の文化の歴史を代表するもので、日本人であれば、あるいは日本の文化に関心を持つ者であれば、当然学んで然るべきものだという前提で構想されていた。そこで京都の生活文化の特殊な事柄まで規範的な価値があると見なされてきたのである。しかしそうした京都人の自己中心的な思い上がりに辟易してきた人も少なくなかったはずだ。それに対して、わたしが構想した「京都地域学」は、この列島に、あるいはこの地球上に、自分の住み場所をもって生活している人々に、自分のその場での生活を大事にした上で、京都の歴史や文化の何を自分たちは共有し、そしてまたそこから更に何を学びうるかということをしっかり考えてもらうことを目的にしたのである。これは京都学の革命のはずだ。
さいわい、通信教育部であるだけに、学生は、北から南まで、日本の全国にいる。それぞれが自分の生活をもっている。その多くの学生にとっては、「京都」について学ぶことの意味を、京都文化への憧れや好奇心からだけでなく、自分自身の生活を見つめるというところから動機づけることができるはずだ。そこでレポート課題にも、自地域のなかに京都的なものを探し報告することを課しているのである。京都のよさを発見すること、それはいい。しかしひとはそれを、よいものを自分自身で判断できる立場からやってゆけなければならない。それ自体で自明の価値を持つものは何もない。京都の文物についてもそれは同じことだ。だからひとは、京都人であれなかれ、自分が大事にするもののよさを、自分で明晰に語れなければならないのだ。
繰り返して言いたい。『京都地域学』は『京都学』の革命だと。