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しかし、教育史は、教育の空間のこのような構成が、「一斉
授業」とともに始まる、初等教育における一大事件であったこ
とを教えてくれる。それ以前の教育体制においては、年齢も進
度も入学時期もまちまちな子供たちを一つの室に入れ、指導は
教師が個人授業で行い、その間、他の生徒たちは各々勝手に自習
をしている、というありさまだった。例えば、18世紀末の頃にア
メリカのハノゥヴァーの町で初等教育を受けた、ヘンリー・オ
リヴァーという人は、毎日6時間開かれた学校で、自分が先生に
教えを受けられるのは一日合計40分だけで、「残りの320分はで
きればじっと何もしないですわっている時間であった」と、自分
の受けた教育を回顧している(梅根悟『世界教育史』)。個人指
導の時間以外、生徒たちは教師の監視の外にあったのだ。
「一斉授業」の方式をとる近代的な学校においては、教室が
教育・訓練の効率的な装置となるとともに、同時に監視の装置
にもなっている。とりわけ小中学校においては生徒の各人に定
まった席が割り当てられ、席によって個人が特定されるように
なっている。また、授業時間の間中、学習に役立たない会話が
禁止され、うろつき、退室など、無断で席を離れることが禁じら
れるが、これらの禁止は、教室が、座席の指定によって、個人
個人のレヴェルで監視を行うことが可能な装置になっているか
らこそ、そしてある種のささやかな、再教育を旨とした懲罰機
構が備わっているからこそ、実効性をもつことなのである。教
育を受けたいと思う者は、この監視される義務を、少なくとも
学校の中では、引き受けなければならない。
更に、近代的な学校においては、学校の空間の全体が、出入
りを制限する塀に取り囲まれることによって、工場や病院や監
獄のような典型的に近代的な施設と、大変よく似た施設になっ
てゆくのである。
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こうした近代的な装置が、ラ・メトリが18世紀に『人間機械論』 の中で示した、有能さと従順さについての新しい関係の設定と 密接に関係していることは、ミシェル・フーコーの分析によっ て、つとに知られている。ラ・メトリはその書の中で、脳は、 従順さに比例して大きくなる、と捉えたのであった。そして人 々は、18世紀以降、従順であればあるほど有能になってゆくよ うな、そのような一連の〈訓練の組織〉を練り上げていった。 学校は、病院や工場などと並んで、そのような典型的な〈訓練〉 のための施設となっていったのである。そしてその中で、監視 される義務は、訓練を受けたいと望む者に、真っ先に課せられ る義務となったのである。われわれは、訓練を施される時間の 間中ずっと、われわれを監視する者の視線に対して、申し開き が出来るように振る舞う、という習性を、身に着けていったの である。
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今われわれは、望むと否とにかかわらず、こうした近代的な
装置を越えてゆこうとしている。しかしそれは、われわれをより
快適にさせてゆくような歩みではなく、むしろ逆に、われわれ
をより一層居心地の悪い状況に追いやるような歩みであるよう
に見える。それは比喩的に言うならば、監視が、近代的な訓練
の施設がもっていた〈塀〉を越えて溢れ出し、そして恒常的な
ものとなってゆくような歩みである。まず都市の空間の全体が
恒常的な監視のための装置となってゆくであろう。また、それと
並行して、地球の全体が、恒常的に隅々まで監視され、管理さ
れる空間になってゆくであろう。教育の場面においては、生涯教
育と放送大学的なものとが一体化したような組織が形成され、
そのような組織とともに、監視と管理の新しい諸技術が開発さ
れてゆくであろう。
このような歩みは、既に始まっている。例えば京都にいて近年
目につくのは、公園や河川敷から、視線を遮るような樹木が取
り除かれ、それらが、暗がりのない、隅々まで視線の行き渡る
空間に作り直されてゆく、というような変化である。私が大い
に惧れるのは、都市から視線を遮るものがなくなってゆくとき、
そこには心を癒す所がなくなってしまう、ということである。
複雑に視線を遮り、暗がりの〈襞〉を織りなしてゆく、自生
した木々の茂みが有ってこそ、わたしたちは〈心の癒し〉とい
うものを、もつことができるであろう。この観点を、私は、人
類の未来に向けて、見失わないようにしてゆきたい。
mnnakaji@mta.biglobe.ne.jp
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