まなざしの近代
Ver. 1.01i
by
Masatsune Nakaji


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私の主要な仕事場のひとつは、大学の講義室である。そこで私 は原則として教卓を前にして立ち、受講する学生の方は、縦横 碁盤の目状に配置された座席に座っている。教師のところから はすべての受講生の顔などが確認でき、また受講する学生はす べての位置から、教師と黒板が見えるようになっている。これ はいわゆる「一斉授業」が行なわれる空間の、ごく普通の構成 法である。そして私たちは、こうした教室の空間というものに、 小学校以来、充分に慣れ親しんできている。

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しかし、教育史は、教育の空間のこのような構成が、「一斉 授業」とともに始まる、初等教育における一大事件であったこ とを教えてくれる。それ以前の教育体制においては、年齢も進 度も入学時期もまちまちな子供たちを一つの室に入れ、指導は 教師が個人授業で行い、その間、他の生徒たちは各々勝手に自習 をしている、というありさまだった。例えば、18世紀末の頃にア メリカのハノゥヴァーの町で初等教育を受けた、ヘンリー・オ リヴァーという人は、毎日6時間開かれた学校で、自分が先生に 教えを受けられるのは一日合計40分だけで、「残りの320分はで きればじっと何もしないですわっている時間であった」と、自分 の受けた教育を回顧している(梅根悟『世界教育史』)。個人指 導の時間以外、生徒たちは教師の監視の外にあったのだ。
 「一斉授業」の方式をとる近代的な学校においては、教室が 教育・訓練の効率的な装置となるとともに、同時に監視の装置 にもなっている。とりわけ小中学校においては生徒の各人に定 まった席が割り当てられ、席によって個人が特定されるように なっている。また、授業時間の間中、学習に役立たない会話が 禁止され、うろつき、退室など、無断で席を離れることが禁じら れるが、これらの禁止は、教室が、座席の指定によって、個人 個人のレヴェルで監視を行うことが可能な装置になっているか らこそ、そしてある種のささやかな、再教育を旨とした懲罰機 構が備わっているからこそ、実効性をもつことなのである。教 育を受けたいと思う者は、この監視される義務を、少なくとも 学校の中では、引き受けなければならない。
 更に、近代的な学校においては、学校の空間の全体が、出入 りを制限する塀に取り囲まれることによって、工場や病院や監 獄のような典型的に近代的な施設と、大変よく似た施設になっ てゆくのである。

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こうした近代的な装置が、ラ・メトリが18世紀に『人間機械論』 の中で示した、有能さと従順さについての新しい関係の設定と 密接に関係していることは、ミシェル・フーコーの分析によっ て、つとに知られている。ラ・メトリはその書の中で、脳は、 従順さに比例して大きくなる、と捉えたのであった。そして人 々は、18世紀以降、従順であればあるほど有能になってゆくよ うな、そのような一連の〈訓練の組織〉を練り上げていった。 学校は、病院や工場などと並んで、そのような典型的な〈訓練〉 のための施設となっていったのである。そしてその中で、監視 される義務は、訓練を受けたいと望む者に、真っ先に課せられ る義務となったのである。われわれは、訓練を施される時間の 間中ずっと、われわれを監視する者の視線に対して、申し開き が出来るように振る舞う、という習性を、身に着けていったの である。

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今われわれは、望むと否とにかかわらず、こうした近代的な 装置を越えてゆこうとしている。しかしそれは、われわれをより 快適にさせてゆくような歩みではなく、むしろ逆に、われわれ をより一層居心地の悪い状況に追いやるような歩みであるよう に見える。それは比喩的に言うならば、監視が、近代的な訓練 の施設がもっていた〈塀〉を越えて溢れ出し、そして恒常的な ものとなってゆくような歩みである。まず都市の空間の全体が 恒常的な監視のための装置となってゆくであろう。また、それと 並行して、地球の全体が、恒常的に隅々まで監視され、管理さ れる空間になってゆくであろう。教育の場面においては、生涯教 育と放送大学的なものとが一体化したような組織が形成され、 そのような組織とともに、監視と管理の新しい諸技術が開発さ れてゆくであろう。
 このような歩みは、既に始まっている。例えば京都にいて近年 目につくのは、公園や河川敷から、視線を遮るような樹木が取 り除かれ、それらが、暗がりのない、隅々まで視線の行き渡る 空間に作り直されてゆく、というような変化である。私が大い に惧れるのは、都市から視線を遮るものがなくなってゆくとき、 そこには心を癒す所がなくなってしまう、ということである。 複雑に視線を遮り、暗がりの〈襞〉を織りなしてゆく、自生 した木々の茂みが有ってこそ、わたしたちは〈心の癒し〉とい うものを、もつことができるであろう。この観点を、私は、人 類の未来に向けて、見失わないようにしてゆきたい。



このテキストは初め
1994年5月25日の産経新聞夕刊に「一望監視される世界」のタイトルで
発表されたものです
今回、もともとのタイトルに戻しました。
また、現在ほぼ同じものが、同じタイトルで、
中路正恒著『日本感性史叙説』(創言社、1999年)
に収録されています。手にとってお読みいただければ幸いです。

(C) masatsune nakaji, kyoto 1996-2000

mnnakaji@mta.biglobe.ne.jp

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