まなざしの行方

--- 権力テクノロジーの近代 ---



pourqoi surveiller ?

by
Masatsune Nakaji

Internet Version. since April 2, 1997





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◆ 近代をどう捉えるか:〈機械論的自然観〉と〈人間中心的世界観〉
◆ もう一つの近代:身体と権力・〈有能=従順〉図式
◆ 近代的組織における管理方式:〈定位置の指定〉
◆ 近代的組織における管理法式:下位の刑罰制度
◆ 高度管理社会:まなざしの行方



◆ 近代をどう捉えるか:〈機械論的自然観〉と〈人間中心主義的世界観〉



私たちは近代というものを、どう捉えたよいのだろうか? これは確かに大きい 問題である。とりわけ、近代文明をどう克服したらよいか、という問題が立て られるときには、まったくゆるがせに出来ない問いになる。

これまで、この問題に対するアプローチとしては、哲学史的な方法論によるも のが主流を占めてきた、と言える。詳しくは他の論文を参照していただくほか ないが、その見解によれば、おおむね17世紀ごろ、フランシス・ベーコンや ルネ・デカルトらとともに、新しい学問の方法論が生まれ、それとともに、 ある新しい世界の捉え方が現れる。とりわけ後者のデカルトによって、それは 徹底した新しい世界観として打ち立てられる。それは〈機械論的自然観〉、と 呼びうるもので、デカルトによれば、この世界においては、認知(connaissance) によって〈自由に〉行動する理性や、言葉によって思考を表明したり、言われた ことの意味に応答して〈自由に〉発言する能力、をそなえた〈人間の精神〉 だけが特別なものとして存在し、それ以外のものは、すべて物質的な反応系 としての機械なのだ、というわけである(『方法叙説』5、参照)。この見方 においては、人間の身体も、それが外界からの刺激に対する自動的な反応、 つまり反射作用の束である限り、動物の身体や、純物質的な物体と変わる ことがない、ということになる。

このような〈機械論的自然観〉は、自然一般を対象にする自然科学的研究を 活気づけ、とりわけ人間や動物の身体を対象にする自然科学的研究を活気 づけることになる。人間の身体を機械として捉える研究方法は、18世紀末に イタリアのガルヴァニによって、いわゆる「動物電気」が発見されると、 その有効性が強く確認されることになる。つまり、機械的にとりだされた 電流を加えることによって、身体に筋肉収縮が生じることが発見され、また 味覚や視覚などの感覚的な現象も、然るべきところに電流を流すによって 生じることが発見されるのである(村上陽一郎『近代科学と聖俗革命』参照)。 この発見は、「感覚」という、人間の意識に属する事柄が、物質の機械的な 仕組みの効果として捉えられる、ということを意味するものであり、ここから 今日の脳生理学まで、一本の軌道が敷かれることになるのである。

このようにして、デカルトの打ち立てた機械論的自然観は、近代の自然科学的 研究の基本軌道をなし、この自然観は、今日においても、自然科学的研究の 領野においては、多くの場合、基本的な前提となっているように見える。 しかし、この領野においても、別の自然観、アニミズム的な側面をもった 自然観も、確かに新たに登場してきている。たとえば、Mathematicaの作者、 スティーブン・ウルフラム(Stephen Wolfram)(1959 - )が、 「自然のうちに見られるシステムの 多くは、[…]それ自身で計算を行っているある種の離散的な計算システム と見ることができる」(「Mathematicaは科学の枠組みを変える」月刊 アスキー1993年1月号)と語るとき、ここには、ヨハネス・ケプラーが、 「星にはある種の思考能力があり、それによってみずからの軌道を理解し、 想定し、目指しているのである」(村上陽一郎、前掲書による)と言う場合と 同じ自然観が、いわば、一つの新たなポスト近代的な自然観として、開かれて いるのである。しかし、今日なお、自然科学的研究の分野で大勢を占めて いるのは、機械論的自然観とそれに基づく方法であるように見える。

従って、このような見取り図において見るとき、デカルトとその機械論的 自然観において〈近代〉というものを捉える捉え方は、大変有力で、 有意義なものであるように見える。しかし、この捉え方は、この自然観が、 科学研究の次元においてではなく、人々の日常的意識の次元 でもつ意味を考えるとき、より大きな意味をもつかもしれない。なぜなら、 この自然観は、先にも見たように、理性を備えた存在である人間だけを、 特別の存在、特権的な存在とする世界観と、表裏一体のものだからである。 こうして人間だけが特権的な存在になると、人間は、その科学研究によって 得られた知識や技術によって、「自然」を征服し、支配し、それを自分たち だけのために利用することを正当化されるのである。まさにデカルトその人が、 「われわれ人間を、いわば自然の主人かつ所有者たらしめる」ために、 「火や水や風や星や天空やその作用を判明に認識する」(『方法叙説』6) のだ、として、自然の研究を意味づけたのである。機械論的自然観の背後には、 人間を自然の主人かつ所有者と見る〈人間中心主義的世界観〉(この世界観 自体は、自然を、人間にその利用と管理が委ねられた奴隷のようなものとして 捉えるユダヤ・キリスト教的世界観を継承したものと考えられる)があり、 この二つが一体となって、われわれの〈近代文明〉の地盤は形作られている、 と考えられる。このような〈近代文明〉の地層の上を、われわれの「ブルドー ザー」は走りまわっているのである。


◆ もう一つの近代:身体と権力・〈有能=従順〉図式




しかし、〈近代〉および〈近代文明〉というものの、このような捉え方にお いては、人間相互の関係についての考察がすっかり抜け落ちている。とりわけ 私に問題に思えるのは、人間が人間をどのように服従強制するか、 という権力のテクノロジーの問題への配慮が全く欠けていることである。この 問題が重要なのは、われわれにとって、われわれのの身体という最も直接的 なものが、具体的に最も緊密に包囲されるのは、権力のテクノロジーによって であり、自然科学的な研究や知識によるわれわれの包囲は、それ自体では、 われわれに決して深刻な影響を及ぼすものにはならないからである。

デカルト以降、一方で身体についての自然科学的研究は、〈機械論的自然観〉 をいっそう推し進め、もはや人間の身体を他の生物に比べて特権化することが なくなって行くであろう。学問においては、人間の身体を特権化しない 〈機械論的身体観〉というべきものが、着実に広まってゆく。この方向に おける目印は、ラ・メトリの『人間機械論』(1747年発行)に置くことが できる。ラ・メトリは動物を純粋な機械と見たデカルトの考えを 更に進め、人間もまた動物にすぎず、機械にすぎない、と見たの である。「人間は一種の動物にすぎず、ゼンマイの組立品にすぎないのだ」、 と彼は言う。このとき彼は、確かにある一線を越えたのであり、ここにお いて、当時、医学者のもちえた、比較解剖学の知見にもとづく、身体につい ての実証的な研究の立場が、人間の特権的な地位についての、神学者 や形而上学者たちの保証を、はじめて打ち破ったのである。ここには神学的 包囲網を打ち破る比較解剖学者の姿があり、〈神の像〉としての人間像を 打ち砕く〈機械論的人間観〉が認められる。

ここには確かに西欧の精神史における大きな問題が絡まっているであろうが、 しかしわれわれ普通の人間にとっては、機械論的身体観の勝利を自然科学が 告げたとしても、それはたかだか、自分の身体が超能力のようなものを身に つけたり、自分の身体にある奇蹟が訪たりすることへの〈夢〉が、遮断される ことを意味するにすぎないであろう(1656年、ジェズイットとの戦いのさなか、 その姪に奇蹟が訪れたと認められたパスカル!)。こうした大きな思想史的 配置以上にわれわれに、われわれの身体に、密接なのは、権力であり、われ われが服従させられたり、人々を服従させたりするその方式やテクニック である。なぜなら、一般に科学的研究というものは、権力の諸戦略の中で 位置づけられないかぎり、直接われわれを拘束するものにはならないからで あり、また逆に、権力の諸戦略の中で然るべき位置を与えられるならば、 諸科学はわれわれを包囲し、拘束する、おそるべき道具にもなりうるの である。

それゆえ、機械論的身体観の勝利は、一つの世界観としてわれわれを 拘束する以上に、このような身体観をもって仕事をすすめる諸科学 を、一つの道具としてみずからの戦略的配置の中に収める、一つの 権力によって、はじめてわれわれを強く拘束するものになってゆく のである。

そして事実、ラ・メトリがフリードリッヒ二世の厚遇を得ていたことからも 推察されるように、身体についての諸科学を、(兵士などの)人間の育成 に役立てようとする一つの権力が、まさにこの時代に誕生してきており、 このタイプの権力は、人々を把捉するための手懸かりを、他ならぬわれわれの 身体のうちに、見出して行くのである。ラ・メトリの『人間機械論』の独自な 位置、それは身体についてのデカルト主義的な、医学的、哲学的、形而上学的 な知と、加工される身体、育成される身体としての人間の身体の、政治的な知 とを結びあわせた点に、認められる。ラ・メトリはこう言う、「人間は練り粉 (pâte)でできている」と。ラ・メトリによって、人間は可塑的なもの、 加工可能なもの、仕込み(dressage)や訓練(instruction)によって、ある完成へ ともたらされうるもの、として理解されたのである。そして、ミシェル・ フーコーが「ディシプリン的(規律・訓練的)権力」の分析において見事に 示したように、まさしくこの可塑性の中に、人間のある育成をめざす 権力、人間をその身体において取り囲み、仕込みや訓練を通じた身体の加工 によって、人間のある新しい育成をめざす、まさしく近代的な権力が 入り込んでくるのである(1)。そして私は、まさにこの権力において、〈近代〉 を捉え、〈近代〉を問題にしたいのである。なぜならこの権力の環境に拘束 されて、われわれの生は営まれているからであり、この権力環境の折り目に したがって、この後、近代的な様々な組織が打ち立てられて行くから である。

この、新たにわれわれにつきまとい始める権力は、われわれの精神にどの ような刻印を押そうとするのであろうか? この権力がわれわれに押し付ける 〈近代性〉の刻印は、いったいどのようなものなのであろうか? それはこの ようなものではないだろうか?われわれがこの社会において有能・有益であ ろうとすれば、従順であらねばならず、また逆に、従順であれば有能・有益 になりうる、というような。私はそれを〈有能=従順〉図式、と呼びたいの だが、近代の権力は、この図式にしたがって、人間の育成のためのメカニズム を開発し、特定の有益性をもった人間が、ほとんどマニュアルに したがって育成しうるほどに、堅固な、人間育成の機構を造り上げてきた ように見える(2)。

そしてこのような着想は、比較解剖学の知見に基づく、と称する、『人間機 械論』の次のような一節に、その端緒を見出すことができる。いわく「この 脳という臓器は、ほぼ従順さ(docilitè)に比例して大きくなる」と。 ここにわれわれは、有能性の身体的基盤と見られた〈脳の大きさ〉と、〈従順〉 という態度との間に、新しい近代的な関係が設定されるのを見ることができる。 従順さは、ある面から見れば、単に、仕込みや訓練を受ける「素質」のよう なものであるが、それは、この近代の人間育成機構においては、ミクロ・ ポリティカルな意味での従順さと、全く一つのものになってゆくのである。

この、近代の〈有能=従順〉図式をよく表している例を、J・B・ド・ラ・ サールのキリスト教学校のための運営規則から引こう。ここでは「従順」の 代わりに「忠実(fidèle)」の語が用いられているが、概念は同じである。 こう言われている、「教師に忠実であればあるほど、それだけ読み取りに おいて上達するということを納得する以前においては、生徒が間違って 言ったすべての文字、シラブル、単語を、教師はきわめて正確に叱正しな ければならない」(強調は引用者)と(3)。


◆ 近代的組織における管理方式:〈定位置の指定〉




いまやわれわれは、この新しい権力の用いるテクニック、それによってわれわれ が服従強制の状態に置かれることになるそうした仕組みの、つまり近代的な組織 における管理方式の、主要な特質を理解しなければならない。ミシェル・ フーコーは『監獄の誕生』の中で、このさまざまなテクニックを大変精密に 分析しているが、フーコーの分析において、私が第一に注目したいのは、彼が 「要素の局在化(localisation élémentaire)」の原則、と呼ぶ 取り締まり技術である(4)。これは、例えば初等教育の学校において、生徒 ひとりひとりに、定まった座席が指定されていたり、病院の入院患者に それぞれ一つの定まったベッドが割り当てられ、勝手に他のベッドや座席に 移動することが原則的に禁じられている、ということにおいて見て取れる 取り締まり法である。つまり訓練なり、治療なりが施されるそれぞれの要素 (人間)にただ一つの定位置が与えられ、逆にそれぞれの位置にはただ一人の 個人だけがいるようにする、という方式である。これによって、えてして 混乱したり、捉えどころがなくなってしまう〈集団での区分〉が避けられ、 人々が常に個人として析出されるようになるのである。そして、定位置を 参照することによって、個人は、常時、特定のだれだれとして確認されうる ことになる。

この取り締まりの原則によって、いつでもひとりひとりの在不在が確認され、 うろつきが防止され、不要なコミュニケーションを断ち切ることができ、また、 常時、個々人の行いを監視することが可能になり、それによって認識と評価が 可能になり、そしてそれらに基づいて、賞罰を的確に与えることが可能になる のである。こうして各人の定位置は、一種独房的な場所となり、そこに おいては、隣接者とのつながり以上に、監視者とのつながりが優先されるもの となり、ひとはいつ何時でも、監視者のまなざしが自分の場所に 注がれることを、予期していなければならなくなるのである(5)。キリスト 教学校において守られるべき沈黙に関して、ラ・サールはこう言う、「生 徒たちが沈黙を守らなければならないのは、教師が目の前にいるからでは まったくなく、神が彼らを見ているからであり、また、沈黙を守ることが 神の聖なる意志であるからなのだ……」(6)と。ここにおいてわれわれは、 訓練の施設における〈監視者のまなざし〉に対する態度が、キリスト教の 神のまなざしに対する人々の態度の上に接ぎ木されたものである、という ことを、充分に読み取ることができる。(現代的な形態において、企業の 営業社員に対する、ポケット・ベルや携帯電話による、常時の呼び出し 態勢は、〈局在化の原則〉による取り締まりに相当するであろう。この場合、 ポケット・ベルや携帯電話のそば、という場所が、〈定位置〉に 相当する。)

しかしながら、このような取り締まりは、例えば学校を例にとれば、学校が、 多数の生徒に同時に教育や訓練を施す場所として、育成のための〈有益な空間〉 となるためには、ほとんど欠かすことの出来ないものである。教育の歴史は、 われわれに、私たちの見慣れたこの〈一斉授業〉の形式が、教育史における 一大革命であったことを教えてくれる。例えば18世紀の末ころに、いまだ 一斉授業の取入れられていないボストンの学校で初等教育をうけた、ヘンリー・ K・オリバーは、後年それを次のように回顧している。「わたしは半日ごとに 約20分の訓練をうけました。そして、学校は毎日360分開かれていたので、 わたしには、教えてもらう権利のある40分の時間と、(もしできるなら)静かに 座っているための320分の時間がありました。しかし静かに座っていること なんかできなかったです。------遊んだり、ひそひそ話をしたり、その他の よくある時間つぶしをしていました。でも時には、絵本が、やり場のない 単調さを救ってくれることがありました」(7)。こういう状況の中に登場する とき、一斉授業を行う〈近代的学校〉が、育成のための装置として、どれほど 効率性の高いものであるか、容易に知られよう。

しかしまた、一斉授業においては、少数者の無益なコミュニケーションや、 雑音や、うろつきなどによって、人数の集中から生まれる効率的な訓練の メリットが、容易に妨げられてしまうのである。〈要素の局在化〉の原則に 基づく取り締まり、各生徒に自分の定まった座席を与えることによる管理は、 そのようなデメリットを取り除くべきものなのである。再びキリスト教同胞会の 学校の運営規則から引用しよう。「教師たちは、生徒たちが常に自分の座席に すわり、そして教師が生徒たちの手をよく見ることが出来るような具合に その手を置いておくように、要求する。教師は、生徒たちが手で互いに 触ったり、物を与え合ったり、サインによって話をしたりすることを防ぐ。 教師たちは、生徒たちが常に足を慎ましくきちんと並べ、足を自分の 短靴や木靴から決して外に出さないように、注意する。……」(強調は引用者) (8)この管理法式においては、取り締まりが、身体の、一見些細なほどの 細部にまで、行き届き、またそれが常時行われていることが、よく 理解されるだろう。

◆ 近代的組織における管理法式:下位の刑罰制度



フーコーの分析から、もう一点ここで取り上げておきたいのは、彼が〈下位の 刑罰制度(infra-pénalité)〉と呼ぶものについてである (M・フーコー、前掲書、182頁)。近代の人間育成型権力は下位の刑罰制度と 呼ぶべきものを打ち立ててゆく。これは「校則」とか「社則」とか「服務規定」 などとしてわれわれに馴染みのものであるが、それは、さほど重大ではない ために、法律が取り締まりの対象にしていない行為、法律より下のレヴェルの 行為を、細かな網の目を広げて、取り締まろうとするものである。それは 刑法が定めるような大がかりな刑罰制度とは無関係なものであるが、しかし われわれは、なんらかの近代的社会組織に所属する限り、その組織が定める、 ささやかで些細なほどにこと細かな刑罰制度によって、充分に拘束される のである。例えば、だらしない身なりや、怠慢な行い、無作法な態度や、 時間へのルーズな関心などは、この下位の刑罰制度の中で、完全に取り 締まられるのである。こうして、行為のどんなに小さな部分でも、処罰の対象 になりうるようになるのである。

そしてこの刑罰制度には、独自な処罰の方式が備わっている。ラ・サールは 訓練的な組織である学校においては、処罰というものがどういうものである べきかについて考察している。彼はこう言う、「処罰(punition)という 言葉によって理解されるべきものは、子供たちに自分の犯したあやまち (faute)を感じさせることのできるすべてのことであり、彼らに恥をかかせる ことができ、恐縮感を懐かせることができ、そしてそれによって自分のした 悪いことを償うための薬、もしくは将来の予防薬、として役立ちうるような、 すべてのことである、ということである。ある種の冷淡さ、ある種の無視、 自由剥奪、恥ずかしめ、持場の剥奪、座席(place)の交替、など、一言でいえば、 悔い改め、懲罰、処罰などの語によって形成される観念に含まれる、すべての ことがそれになるのである。というのも、体罰による矯正罰はというと、それは 他のすべての手段が尽くされた時、そしてまた極めて稀なケースにだけ、 用いられるべきだからである。」(9)と。ここにおいては「処罰」という 概念が、「精神」に対する罰に限定され、そしてどのようなことが精神に対する 罰になるかが、注意深く探られている。そしてここにおいては、〈恥ずかしめを 与えること〉が処罰の中心に位置しているようにみえる。そしてこの処罰は、 ひとに「あやまち」を自覚させ、悪の「償い」となり、そうして〈本来の 状態〉に立ち帰るための、更に将来においてそこから逸脱しないための、 〈薬〉として、捉えられているのである。

ここには規律や訓練の組織において働く近代の権力の、本質的な特徴の幾つか が、はっきりと読み取れる。まず第一に、処罰が身体罰をできるかぎり回避 しようとしている点である。なるほどキリスト教同胞会の学校においても 「へら打ちの罰(férules)」という身体罰は用意されているが、それは 「放校処分」の手前に位置する、きわめて重たい罰、できるかぎり避けるべき 罰なのである(10)。周知のように、西欧においては、18世紀以降、国家の 大掛かりな刑罰制度においても、身体に苦痛を与えることを主眼とした刑罰は、 徐々に消滅してゆくのであるが、法律的な処罰権をもたない訓練の組織に おいては、なおさら、身体罰を避けた処罰の方策を開発しなければなら ないのである。

第二に、訓練的な組織における「精神罰」において、狙いの中心が「加辱」、 つまり「恥辱を与えること」に定められ、更にその加辱の方策が、その人の ポスト(持場)や〈座席(=席次)〉の剥奪や交替という点に見定められて いる点である。キリスト教同胞会の学校においてもよく見て取ることのできる ことだが、訓練の組織においては、「罰」は「賞」と一体のものとなり、各人の 評価は、最上から最低まで、序列をもって配列されたさまざまなポストや 〈座席(place)〉(これは〈定位置〉であると同時に、〈席次〉でもある)の 割り当て、として表現されるものになっているのである。従って賞を与える とは、序列の高いポストに昇格させることであり、逆に罰を与えるとは、 降格させることなのである。それゆえこの序列の操作によって、規律訓練的な 権力は、いともたやすく、最大級の恥辱を与えたり、大いなる賞賛を与えたり することができるのである。(しかしこれは、われわれには、律令体制の成立 時以来、なじみ深い方策なのかもしれない。最近では、化学兵器についての 教本を外部に貸与した自衛官が、それが自衛隊法への違反ではないにもかか わらず、降格され、おそらくはその恥辱の受容を拒否するために、即時に 脱隊した例がよく知られている。また、今日ではマスメディアや電子ネット によって、〈加辱による処罰〉の新しい形式が、おおむね画一的な仕方で、 また、かつてないほどに広い範囲の人々の知覚を動員して、ある人物を包囲し、 その人物をまさに〈恥ずかしめ〉ようとする、という形式が、生み出されて 来ているように見える。全体化されたマスメディアによる包囲は、この世から 〈逃げ場所〉をすっかり奪ってしまうだろう。)

注目すべき第三の点は、これらの処罰が、訓練を施されるひとびとの〈本来の 状態〉(ラ・サールが「義務」と呼ぶもの)からの〈逸脱〉に対して施され、 その目標が、ひとを本来の状態に復帰させ、今後逸脱しないようにさせる、 という点に置かれている、ということである。処罰は、ひとびとの、規格 への適合をめざしたものになっている。ラ・サールは、例えば教室での おしゃべりが罰せられるとき、それは、おしゃべりそのことのせいではなく、 それが、そのとき本来行うべきことであったレッスンを学ぶという義務からの 逸脱であるためなのだ、ということを生徒に周知させるように厳密に 指示する。ここで〈逸脱〉には、〈義務として定められる規格〉から外れる ことのすべてが含まれ、例えばキリスト教同胞会の学校では、教室や教会での おしゃべりなどがそれに含まれるのは当然ながら、また、本来の課業について 行けない、ということも、また当然、そこに含まれるのである。定められた 学習内容を習得すること、これもまた生徒たちの重要な「義務」なのであり、 それゆえ、成績の不良は、その義務からの逸脱として、然るべく罰せられる のである。この場合、処罰は、本来の定められた習得段階に復帰させるために 与えられ、それゆえそこでは「罰課(pensum)」、つまり罰としての宿題を 課すことが、最も推奨される処罰ということになるであろう(11)。

このように、訓練の組織において、処罰は〈再教育〉を旨としたものになる であろう。そしてこのような意味をもつ処罰の編成によって、ひとびとの 義務として、規格として、本来の課業として定められたプログラム、それは、 育成の多様な目標に向けて、難易度や適性に従って、何段階かに分けて厳密に 組み立てられたものであるが、その育成のプログラムが、きわめて強固なもの とされてゆくのである。訓練の組織において、処罰は、ひとびとの規格化を 強力に押し進める道具となるのである。規格化を行う権力と呼ぶべき 権力が、ここに姿を見せている。


◆ 高度管理社会:まなざしの行方



このタイプの権力は、西欧においては、ほぼナポレオンの時代に、従来の君主制 的権力に取って代わる。わが国においては、明治年間に、まずは軍隊において 軍律として、ついで学校や病院、工場などにおいて、それらの設立とともに、 それぞれの規律として導入されてくるように見える。確かにわが国においては、 この訓練型の権力と、君主制的権力との関係には特別な諸事情があり、それは 独自の考察を必要としているが(12)、しかし第二次世界大戦以降に問題を限れば、 事情は先進諸国におおむね共通しているように見える。それは資本制が生産 本位のものから、販売や市場本位のものへと変化して行くことに対応して、 社会組織の中心が工場から企業へと変化して行く、という事情である。それに 応じて、学校や工場などのものであった訓練型権力も、大幅に変化して 行くことになる。それは、監視や管理が、学校や工場などの〈壁〉を越えて、 外に溢れだし、地球の全体を覆うものになってゆく、というような 変化である。つまり、訓練型権力において、おおむね柵や壁で覆われた 特定の訓練組織の、その内部でだけ通用するような規制の数々は、もはや 維持されがたくなってゆくのである。そしていわば社会体の全体に、そして 地球の全体に、監視と管理の網が張りめぐらされるのである。

〈高度管理社会〉と呼ぶべきこのわれわれの新しい環境の分析を、われわれは 今後進めてゆかなければならないが(13)、この新しい環境においても、われわれが 先ほど取り上げた訓練型権力の二つのテクニック、つまり定位置的なものの 指定による個々人の恒常的な管理と、加辱と序列操作によって規格への合致を 強いる処罰、という二つの方式は、電子的なテクノロジーによって変形や拡大を 受けながらも、本質的にはそのまま生きていると言えるのであろう。そして さらに付け加えるなら、個人に対して施される監視、観察、や検査によって 得られる〈個人情報〉は、文書処理技術の電子化によって、個人管理の多様な 用途に役立てられるものになって行くであろう。(例えば、企業は社員の 「医療情報カード」をどのように利用するであろうか? )こうした個人情報は、 まさに定位置の指定によって、個人としての管理が可能になってはじめて、 収集し、利用されるようになったものなのである。個人情報が、その人物を 服従強制の状態に置くために、大いに利用しうるということを、訓練型権力が はじめて発見したのである。そしてわれわれは、それが〈高度管理型権力〉 によって、今後どのように利用され、そしてどのような事件に巻き込まれる のか、ということを、充分に予見することはできない。しかしいずれにせよ、 われわれの高度管理社会は、個々人の恒常的管理(それはわれわれの一生の 全体に及ぶものとなるだろう)と、処罰を背景にした規格化(これも一生に 及ぶ。規格自体はきわめて多様化しているであろうが)、という二つの方式 において、近代の権力のテクノロジーを引き継いでいるのである。


今われわれは、自分たちが目先の危機に対して、異常に敏感になって いる社会の中にいることに気付く。ニーチェ的な表現を使うならば、われわれ は「畜群」、あるいは「畜群のため」という名前の蛇の腹の中に、すっかり 呑み込まれているように感じる。様々な建物や施設、そして街角に備え付け られた監視カメラ、それはほとんどがその実用性の疑わしいものであるが、 それらは少なくともわれわれをうつむかせ、そして「普通の市民」の身振りを 強いるものになっている。例えばコンビニエンス・ストアの監視カメラ。それは 強盗の抑止などにはほとんど役立たないが、万引きのチェックや抑止には多少 役立ち、そして店員の監視のためにはきわめて有用な装置になっている。そして 一般の客にとって、それは一種の死角、見てはならない深い穴のようなものに なっているのである。監視カメラはわれわれに、まなざしにおける不均衡を 教え、その背後に何者が覗いているか分からないまなざしの装置に対して、 従順な見られる者として自らを開く義務を、フーコーが「可視性の義務 (visibilité obligatoire)」と呼んだ義務を、われわれに植え付ける のである(14)。


このような環境において、われわれがなおも「善く生きる」ために、〈自然との 共生の思想〉は指導的なものでありうるであろうか? ------そうでなければ ならない、と私は言いたい。この思想は、むしろこの監視の環境そのものを 抑制すべきだ、ということを教えているのである。なぜなら、この思想は、 われわれがみずからを、単に人間の社会の中だけで〈自覚する〉のでは 足りず、むしろ人間を離れて、自然の生きとし生けるものの中で〈自覚 すべきだ〉ということを教えているからである。共生の原点は、 いったんは人間たちの世界を離れることなしには、学ばれえないであろう。 しかしそのことを、われわれは、永遠と運命を愛することによって、 成し遂げうるであろう。






(1) 周知のように、ミシェル・フーコーは、この新しい型の権力を、「ディシ プリン的(規律・訓練的)権力」と名付けて分析する(ミシェル・フーコー、 『監獄の誕生』、1977年、新潮社、とりわけ第3部)。私は本稿の論述のあら ゆるところで、フーコーによるこのきわめて重要な分析を念頭に置いているが、 当面、この用語を踏襲することを控えておきたい。それは、この差し控えによっ て、フーコーの仕事に、多少なりとも新しい活気を与えたいからである。
(2) われわれは、きわめて高い完成度をもってマニュアル化された、看護学校の 教科書や教育制度を例に上げることができるだろう。有能で有益な看護婦 (看護師)は従順さなしには育成されえないであろう。
また、このような育成機構は、特定の、〈規格化〉された有能な人間を育成する ものであるが、この〈規格化〉は〈画一化〉と混同されてはならない。近代の 権力がめざすのは、規格化された人物の育成であるが、近代の大きなマシーン のためには、いわば部品として、様々な規格化された人物が 必要なのである。
(3) J・B・ド・ラ・サール『キリスト教学校の運営』、第二部、第一章、 第一論。 J. B. de La Salle, Conduite des \'Ecoles chrétiennes, (Paris, 1828), p.132. (Bibliothèque Nationale Paris, R. 40840)
(4) M・フーコー、前掲書、148頁。ただし、この訳書では、この用語は 「基本的な位置決定」と訳されている。
(5) こうした監視者のまなざしへの予期は、キリスト教徒がずっと行って きたことではなかったか? いまやこの〈監視者〉の位置には、「神」や 「天使」ではなく、それを業務とする人間の監督官が就くのであるが。 ニーチェが、〈神の死〉を、どこまでもつきまとう〈しつこい監視者と しての神〉への拒絶、として説明していることを、この問題の連関の中で 考え合わせていただきたい。F・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』、 第四部、「最も醜い人間」、参照。
(6) J・B・ド・ラ・サール、前掲書、第二部、第一章、第三論。 J. B. de La Salle, op. cit., p.135.
(7) Samuel Chester Parker, A Textbook in the History of Modern Elementary Education, (Boston, 1912), p.88.
(8) J・B・ド・ラ・サール、前掲書、前掲箇所。 J. B. de La Salle, op. cit., p.136.
(9) J・B・ド・ラ・サール、前掲書、第二部、第五章、第十規則、補説。 J. B. de La Salle, op. cit., p.172.
(10)拙稿「小さな碑たち」(『京都造形芸術大学 総合環境』、1995年)の中の、 「へら打ち」について論じた小論を参照していただきたい。
(11) J・B・ド・ラ・サール、前掲書、第二部、第六章、第四論、及び第三論。 J. B. de La Salle, op. cit., pp.176 - 177, et p.181.
(12) われわれは井上章一氏の『狂気と王権』(紀伊国屋書店、1995年)を、 日本における近代的権力と君主制権力との関係の実情を追究する、この分野に おける先駆的な研究と考えてよいのではないだろうか。
(13) いまここでそれを行うことはできないのだが、管理社会の分析の基礎的な デッサンについて、Gilles Deleuze, Pourparlers, (Paris, 1990), V - 17,(邦訳、 ジル・ドゥルーズ『記号と事件』の「追伸」、 河出書房新社、1992年)を参照していただきたい。
(14) われわれは高度管理社会における監視の環境として、自動車に対する 路上の監視、偵察衛星によるトータルな監視などについても論じなければ ならないが、それらについてはまた別の機会にゆだねることにしたい。




このテキストは初め、1996年9月
「まなざしの行方--権力テクノロジーの近代--」のタイトルで
朝倉書店発行の『新たな文明の創造』において発表されたものです。
現在、ほぼ同じものが、
中路正恒著『日本感性史叙説』(創言社、1999年)
に収録されています。
手にとってゆっくりと考えながらお読みいただければ幸いです。


(C) masatsune nakaji, kyoto JAPAN. Since 1997.


mnnakaji@mta.biglobe.ne.jp


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