けものとひとと
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2003年8月13日開版
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie






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   ◆ はじめに

 現代を代表する歌人のひとり、山中智恵子さんの歌に次のものがある。

   ひさかたのあめのひかりにさまよへるけものとひとと沁みてかなしき
                      『虚空日月』「いそのかみ」(1)

この歌は、ひととけものとの、あるいは、けものとひととの、ありうる関係の、この上なく深いところを指し示しているように思える。その場所を、われわれはどのように言えば、明確な場所として示すことができるだろうか。どのようにして、われわれはその場所を明確に限定することができるだろうか。それを明確に言うように努めてみよう。
 そしてもうひとつ。その〈けものとひとと沁みあう〉場所から、アイヌも含めたわたしたちの文化の、けものとひととのかかわりの、何が見えてくるだろうか。とりわけ、わたしたちの文化の、クマとひととのかかわりの、深みにある何が見えてくるだろうか。何かが見えてくるだろうか。
 およそこんなことを考えながら、思索を進めてゆきたい。

   ◆ 「けものとひとと沁みてかなしき」

 読者の方は、はじめに、先に引いた歌を完全に記憶するようにしておいていただきたい。
 先に引いた歌は、「さまよう」に「吟」の字を宛てている。それは「呻吟」を表わすものであろう。ここにはうめき声が聞こえてくる。そしてわたしは、けものとともに、あめのひかりに晒されている。あめのひかりのもとにある。その晒されてあることが、逃れようなく今ある自分を示す事態である。わたしは逃れようなくあめのひかりのもとにある。
 今わたしがあることの根源が問われているのである。

   水光る穴師あなしに今を歩めるとわが夏の血に告ぐよしもなき  (同前)

今あることの根源に、穴師を歩むわたしの根源に、わたしの夏の血が見出され、また、ひさかたのひかりのなかにうめきながらさまようわたしが見出される。  「沁みている」とは、ある意味で、わたしがけものになっている、ということである。しかし単にわたしがけものになる、というだけのことではないであろう。一方でひとがけものになるのであるが、他方で、その生の本質的な訴えかけの力において、同時にけものがひとになってもいるのである。つまり、けものとひととが沁みている時、わたしがけものになるのであるが、そこには同時にひとつの訴えかけの力が働いており、けものもその生の本質的な訴えをひとに届かせ、わたしになっているのである。
 けものとひととが沁みてゆく訴えの力の同時性において、わたしにおいて、ひとがけものになり、けものがひとになる。その時、けものの運命がわたしに入ってくる。わたしはけものの運命を理解し、わたしの生もまたけものの運命にしたがう。わたしは、けものとしてのわたしを見いだし、けものの運命がのがれようもなくわたしとなり、わたしの運命となる。
 山中智恵子氏は、それがかなしいことだと言う。それはなぜかなしいのだろうか。
 それまでわたしはけものではなかった。わたしはひとであった。いま、わたしにおいて、けものとひとは沁みあい、けものの運命をわたしはみずからと分かつことができない。それは言わばひととしての純潔を失うことである。
 それは、今より後、わたしは、ひさかたのあめのひかりの下に、みずからのどこかにけものの姿を宿しながら生きるということである。狐の本質を宿している、とされる玉藻の前のように、である。そして、ある光の下では、そしてとりわけひさかたのあめのひかりの下では、けものと沁みたわが身の姿がまぎれようもなく晒されるのである。ひととしての純潔を失ったかなしみが、ここにはある。その苦しさが、呻吟となり、呻吟するさまよいとなり、ひとはひかりのもとに吟(さまよ)いつつ生きるのである。
 おそらく、ある種の儀礼によって、けものと沁みたひとの、ひととしての純潔の喪失を、祓い、ぬぐい捨てることができるであろう。そうしてひととしての純潔を取り戻すことができるであろう。そのための儀礼というものが、あるところではつねに存在しているであろう(祓えの宗教とはそもそもそういうものではないだろうか)。しかし、山中智恵子の歌は、その道を取らない。それは、むしろけものとひとと沁みてあることのかなしみを歌う吟のさまよいの道を、きっぱりと選び取るのである。

   ◆ ひとに狩られること

 そしてもう一首を引こう。

   鳥けもの生き膚剥ぎてひさぎゐつ宇陀の水分みくまりくだり来ぬれば  (同前)

 奈良県の宇陀地方は、今日でも狩猟の生活の色合いの濃く残っている地域である。鳥やけものが、日々、狩りの対象となり、狩り獲られ、生き膚を剥がれる。そしてその姿のままひさがれてゆくこともあるであろう。宇陀を歩く時、ひとはそんな情景を目にすることがある。しずかな清浄感のただよう宇陀水分神社と、けものの皮が軒下で陽に晒されている日常的な風景とが、不思議な関係のまま、宇陀にはある。この宇陀の空間において、水分神社は、ひととしての純潔を訴える標になっているのであろうか。信州の諏訪神社がむしろ狩猟者の身にそった儀礼と信仰の場であるのに較べると、宇陀の水分神社はむしろひととしての純潔をしずかに語りつづけているだけのように見える。そこでは鳥、けものが神饌として供されることはないという。  しかし、それはともあれ、けものの運命のひとつは、間違いなく、ひとに狩られることにあるであろう。ひとに狩られることに対して、けものは異論をとなえることができない。みずからを狩るものに対して、多くの場合ただ逃げることしかできず、しばしば逃げることすらできず、ただきわめてまれな場合に命をかけて戦うことができるばかりである。浮浪者狩り、ホームレス狩りが若者たちによって行われる場合にも、ホームレスたちにおとずれるのはけものの運命である。彼らにも、けものとひととが沁みる心情は縁遠いものではないであろう。
 そして猟師というものも、千葉徳爾氏や田口洋美氏が言われるように、ひととしての純潔を尊重するというよりは、むしろけものの生の訴えの力に動かされ、けものとひととの沁みあいを、みずからの生の根源として護りながら生きている人が多いものである。狩るものである以上、みずから狩られるものでもありうる、という可能性をみずからに許すのである。宮沢賢治の「なめとこやまの熊」の猟師、小十郎のようにである。

   ◆ 命のやりとり

 ここでわたしがお話しをきいた飛騨の猟師で、熊猟を専門にしている橋本繁蔵さんに登場してもらおう。橋本さんは岐阜県大野郡丹生川村折敷地出身の方である。生年は昭和十六年である。今は建設業に携わっているが、折敷地にいたころは百姓をしていた。折敷地にダムができるということで六年ほど前に高山市に移ってきたという。今年の四月にお話をきく機会があった。飛騨には猟をやっている人が約三百人いるが、熊を専門にしているのは三、四人だということであった。
 わたしが熊狩りに特に関心を懐くのは、熊が強い生き物だからである。山中で装備もなしに熊に出会い、戦いをしなければならなくなった場合、人が勝つというようなことはとても難しいことであろう。殺されないまでも、相当のけがをするのは免れないであろう。橋本さん自身は、太ももを噛みつかれたことがあるという。そしてその傷は、中のほうがずっと化膿していて、三年ぐらい治らなかったという。その時の様子を細かく聞いたわけではないが、穴からいきなり出てきた熊にやられたようである。橋本さんも、熊穴の中に入って熊を追い出す、というようなことはしばしばやっているようであるが、穴の中で噛みつかれたことは一度もないという。穴の中で熊はビビッとふるっている(ふるえている)。そして穴から逃げ出す時は、熊は自分(橋本さん)を踏んで、乗り越してゆく。中では戦えないということを熊も知っているのだという。また、なかなか出てこようとしない熊には、ナタで前足を切って血をしたたらせさせることもあるという。
 木曽福島町の樋口清さんの熊猟は、もっぱら、熊の冬眠している岩穴に入り、銃を熊の耳にあて、撃つというものであるという。その時火薬は、銃弾が頭の中にとどまるように、ごく少量を詰めるのだという。それでも脳が破壊されるので熊はすぐ死ぬという。
 こうした熊狩りは、やはり相当に危険がともなうものであろう。わたしが言いたいのは、熊猟には、命のやりとりという面がどこかに残っているであろう、ということなのである。あるいは罠猟であれば、オシにせよ、檻にせよ、トラバサミにせよ、危険は少ないかもしれない。また、遠方からライフルで撃つというようなスタイルがとれる場合にも、自分の生命への危険は、決して大きいものではないであろう。しかし、そうした猟をする場合にも、熊の棲息する山中に入ってゆくかぎり、突然熊と出会ってしまう可能性は、なくなりはしないであろう。
 そして、以前、熊猟は槍をもってするものであった。『東遊記』に記されるように、火縄銃の時代においても、仕損じた場合の備えから、穴熊猟は槍をもってするのが通例であったようである(2)。そうであれば、命のやりとりということは、切実に感じられることであったであろう。
 そして、こうして、けものとの間に命のやりとりがおこなわれる時、あの、けものとひととが沁みあう時というものが、互いのあいだの命の流れあいの時というものが、強弱はあれ、やはり常に感じられるものではないかと思う。ひとが勝った場合にも、けものが勝った場合にも、であろう。
 そしてその場合、勝ちをえたものには、死んだものの生命のいくらかは入ってくるものであろう。その生命の手応えのようなもののいくらかが。そして残りつづけるものであろう。

   ◆ 穴熊猟

 熊猟のなかでもっとも基本的なものは冬眠中の穴の中の熊を狙う穴熊猟であろう。これは千葉徳爾氏も、田口洋美氏も、ともに認めていることである。例えば千葉徳爾氏は、岐阜県旧徳山村での「昔は穴にいるものだけを捕ったので、組を作ってマキガリをするようになったのは、鉄砲が利用されるようになってからだ」という伝聞を上げ、穴熊猟が最も基本的な熊猟であったという見解を述べている。そしてマキガリはというと、それは「銃があって、しかも射手が少ない時代のシステムなのである」と、江戸時代の、少数の猟師にだけ鉄砲の所有がが許されていた時代に応じた猟のスタイルである、という見解を示している。そして熊狩りの方法の変遷として、はじめにオスもしくはオシと呼ばれる罠猟があり、次いで鉄製の武器の普及によって冬眠中の熊を狙うアナガリが行われるようになり、そして最後に発達したのがマキガリの方式であると述べられている(3)。わたしとしては、すでに縄文期において石槍による穴熊猟があり、また風下から熊に近づき、そして石槍をもって正面から勝負を挑む猟もあったであろうと考えているが、身の安全を考え、そして皮も肉も熊胆も重視するのであれば、縄文期においても猟法としては可能な限り穴熊猟が採られたであろうと考えている。可能な限りとは、冬の雪が深すぎず、熊穴に行き着くことができるならば、という意味である。
 田口洋美氏は、信州秋山郷の猟師山田長治さんの言葉を挙げている。「オラたち猟師ってもなあ穴のクマ獲るのがほんとうの仕事だったもんそ。・・・そんころ(=寒の二月ころ)なれば、穴グマのいい時期なんだ。どうしていいかってば、クマは食べるものも食べねぇで穴へへーってるんだから、胆もある。皮の毛も、そろって柔らかくて、品物としちゃ、一番いいころだ。オラたちは猟師なんだから獣を獲るのが商売そ。だから獣が一番いい値の状態の時に獲ったもんなんだ。(4)」商品として最も値打ちのある熊胆が、最も値のいい状態になる時期としての冬眠の末期。この時期は皮もまた冬毛で、高値で売れる。肉と脂、そして毛皮を重んずるのであれば、晩秋から冬眠の初期に獲るのが最良であろうが、商品経済の末端に位置する猟師としては、皮や肉以上に高価な商品となる熊胆に焦点を当てて熊狩りの時期、方法を組み立てるのが当然である。また商品経済の成立以前においても、たとえば「延喜式」において年料として熊胆の貢進が課されている国の場合のように、あるいは熊胆の薬効が切実に求められている場合のように、熊猟の狙いが熊胆に置かれているかぎり、冬眠末期の穴熊猟が、銃猟であれ槍猟であれ、最も望ましい猟法になるであろう。

   ◆ 仔熊

 岐阜県吉城郡古川町の猟師伊藤弘次さんは、メス熊の入っている穴とオス熊の入っている穴の見分け方を教えてくれた。つまりメス熊は生まれてくる仔熊のことを考えて、例えば「タカス」と呼ばれるような、入り口が何メートルも上の方にある穴には入らないのだそうである。そうして仔熊が自力で出入りできるような、数十センチ程度までのところに入り口のある樹穴に寝ているものだという。それは正しい観察だと思われる。が、しかし、そのような低いところに入り口のある樹穴に入っている熊がすべてメスだとは限らないのではないか、とわたしは思う。だから、冬眠中に産んだ仔熊とともに寝ているメス熊は撃つまいと思っている猟師が、そのような樹穴に熊を発見しても、それによってその熊を撃つのをやめるようなことは、実際上なかなか難しいことであろう。実際仔熊の鳴き声でも聞こえれば、それをそのまま置いておくであろうにしてもである。
 名人と呼ばれる高山の橋本繁蔵さんは、母熊を撃った場合には、遺された仔熊たちが可哀想でならない、と繰り返し語っていた。今では熊牧場でもそれをもらってはくれず、連れて帰ってしばらく育ててもそれからどうしたらよいのか、途方に暮れるもののようであった。仔がいるとわかっていたら撃たなかったのに、とも、橋本さんはもちろん言っていたのである。
 また、人に襲われると感じた時には、母熊は仔を食べてしまうものだ、と古川の伊藤弘次さんは言っていた。それは仔をひとの手から守るためだろう、と伊藤さんは説明してくれた。田口洋美さんも、先に引いた本の中でこの問題に触れている。再び秋山郷の山田長治さんの語りである。「ところがそ、仔がへーってる時分に獲ったたっても腹の中に仔がへーってたためしがねぇんだ。ほんとに妙なんそ。・・・クマってやつは人間が来たなってなると、腹の仔を自分で流して喰っちまうんだっていうでも、わからねぇな」と(5)。飛騨古川の伊藤さんからも同じ話を聞いた。それはやはり仔をとても大事にしていて、人の手にゆだねては仔がより不幸になると感じてのことではないであろうか。

   ◆ アイヌの熊狩り

 佐々木長左衛門の『アイヌの熊狩と熊祭』という本がある。大正十五年に発行された本であるが、これはアイヌの熊狩りについての記述が見られる数少ない本のひとつである(6)。北海道に棲息する熊はヒグマ(羆)であり、アイヌの熊狩りはヒグマを対象にするものである。ヒグマは、ツキノワグマより二回りほど大きく、ツキノワグマが最大で二五〇キログラム程度の重さであるのにたいして、ヒグマは最大で四〇〇キログラムほどになる。腕力もそれに応じて強く、馬の背骨を一撃で折ってしまうほどのものだという。熊狩りの危険もより大きいことになるであろう。
 ところで、佐々木氏のその本によると、アイヌの熊狩りには三通りがある。穴狩り、追い狩り、そしてアマツポ狩りである。アマツポ狩りというのは一種の仕掛け弓で、仕掛け糸を引っ張ると自動的に矢が発射される仕組みになっているものである。そして矢じりにはトリカブトの根の汁を主成分とした毒が塗り込められており、その毒によって熊を殺すのである。これは「春夏秋にかけて熊が山野を徘徊跋渉する季節に行う方法である」という。
 追い狩りは三月に入って雪が固くなってから行われる一種の出熊猟であり、雪の上を歩いて熊の足跡を探し、追及できる見込みがある場合にその跡を追い、穴から出て間もない疲労した熊の熟睡しているのを見つけて銃で仕留めるものであるという。
 穴狩りというのは、本土のツキノワグマの穴熊猟とほとんど異なるところがない。ただ、佐々木氏の説明によれば、熊穴の情報は古老に聞いて教えてもらうものだという。そして、雪が降る前にあらかじめその穴の所在地に印をしておくのだという。そして雪が降るのを待ってその穴を調べ回る。熊の籠る穴を発見した時には、付近の林で丸太を数本伐り、柵を作って入り口を塞ぐ。そうして長い棒を穴に差し込み、熊を穴口まで誘い出し、それを別のひとりが銃で撃つかあるいは槍で刺すのだという。槍はすぐにへし折られるから、どうしても三、四本は必要だという。
 これによれば、雪が降ればすぐにでも穴熊狩りにでかけるようである。そうであれば熊胆はまだあまり大きくはなく、この猟は熊胆を狙うものというよりは、むしろ毛皮や肉を狙ったもののようである。ここには多分、肉を中心に狙った熊狩りという、商品経済的ではない、生活に密着した熊猟の姿があるのである。そしてそのこととも関係して、熊穴はアイヌ人各自が世襲によって継いでゆく財産のようなもので、その所有権を人々は互いに侵すことがないのだという。これはたとえば、飛騨の白川村で栃(の実)の所有権が、嫁入りした娘に継がれてゆく、ということとよく似ている。食料の、世襲による継承なのである。

   ◆ イオマンテの深層

 ところで、わたしが問題にしたいのは、イオマンテで送られる熊が、たまたま遊んでいるのをみつけてつかまえてきた仔熊などではなく、アイヌの猟師が母熊を狩りとったときに、その後に遺された仔熊である、ということである。アイヌの人は、イオマンテで送られる熊を、神様からの預かりものだと言う。そうしてその仔熊をとても大事に育てる。しかし、その仔熊が神様からの預かりものであるとしたら、それはまず何よりもその仔の母熊からの預かりものであるだろう。ひとは亡き母熊から、そのもらい受けた命から、なにかの義務を、遺言のようなものを負って、その仔熊を育てるのではないだろうか。その命を頂戴した母熊こそが神様であり、その母親は、もう、すでに一足先にあの世に行って、あの世にいるのである。
 そしてその時、とりわけ可哀想なのは、遺されたのが、穴熊猟で殺(と)られた母熊の、生後一月にもならない幼い仔熊である場合であろう。おそらくヒグマの場合も、穴に冬眠している時、ひとに襲われ、絶体絶命だと予感したならば、母熊は、普通であればその仔を食べてしまうのである。人の手に取られるよりは、みずから食べてしまった方が、その仔にとってまだ幸福だと感じているのであろう。しかしそれが、何らかの急な、思いがけない事情があって、仔を食べることができなかったのである。そうして遺された仔である。一緒にあの世に連れて行けなかった仔である。
 アイヌの人々は、その母熊のかなしみを深く理解しているのではないだろうか。それゆえにこそ、その仔をこの上なく丁重に育て、そしてある時、母親のもとに送り返すのではないだろうか。母親に、ぼく人間たちに育ててもらったけど、とってもやさしく、大事してくれたよ。あの時、まだ何にも分からない時にわかれわかれになってしまったけれど、ぼく、ほんとうに大丈夫だったのだから。そして今お母さんのところへ送り返してくれたよ。そしてこんなにおみやげまでくれたよ、と、こんな風に伝えてもらうために。
 山中に捨てておくこともできない仔熊である。そしてひとが育て上げることもできない存在である。そのような存在と直面した時、ひとは、アイヌの人々が熊祭までの一連の過程のなかでおこなっているよりもやさしい行為を、そのものに対しておこなうことができるだろうか。アイヌの人たちは間違いなく、仔と別れた母親熊の、かなしみの心のなかに入っているであろう。けものとひとと、そうして沁みあう時を、かなしみとして、ひさかたのあめのひかりのなかで、もったことであろう。そしてその時を護っていることであろう。
 そして、イオマンテの深層には、これ以上のことがあるのだろうか?

   ◆ 交流の場所

 山中智恵子の「ひさかたの」の歌は、けものとひととが沁みる時というものが、人におとずれうるということを言っている。それは一方で、ひとがけものになるということである。ひとは、熊穴に遺された仔熊を、とても可哀想だと感じ、遣り切れない思いになる。そしてそれは他方で、けものがひとになるということでもある。こうして母親熊はひとになり、おのれの遺言をひとに伝える。
 しかしこうして互いになることとしての交流は、今まで考察した範囲では、かなしみの場においてしか成立していない。しかしまた、もっと別の、高らかな交流の場というものもあるであろう。しかしそれについては今は措いておくことにしよう(7)。
 ひとはけものの命を奪う。しかし、命を奪われたものは、時として神となるように見える。神として、言葉を、命をえたものに語り、命をえたものは、それを絶対に裏切ることのない義務として誠実に遂行する。交流、ないしはコミュニケーションが成立するのである。しかしそうした交流もまた、命のやりとりにおいてしか成立しないのだろうか。この問いもまた保留しておくことにしよう。
 イオマンテにおいて母熊は神になっている。ひとは遺された仔熊を大切に養育する。それは自分たちがその命を奪い、受け取った母熊=神への返礼である。そして仔熊が、大きくなり、人がもう育てられないほどになるまで育てる。そして、仔熊がもう育てられないほどまでに大きくなったら、それを殺し、その魂をあの世に送る。そうしてその仔熊の魂をあの世の母熊のもとに返して、はじめて母熊=神への義務を果たしたことになるのである。
 また、ひとが狩られるものになることもある。その時、ひとはそれだけで、みずからをけものに化したものと感じることができるかもしれない。
 ともあれ、ひとはみずからをけものとなし、けものとひととが沁みる場所に行くことができる。その沁みる場所にある自分を護るかぎり、ひとはみずからをけものの多様性にむかって開くことができるのである。

   注
(1)山中智恵子『虚空日月』一九七三年、国文社。
(2)橘南谿『東遊記・巻之一』一七九五年(『東西遊記』1、一九七三年、平凡社東洋文庫による)。
(3)千葉徳爾『狩猟伝承』pp.119-121、一九七五年、法政大学出版局。
(4)田口洋美『マタギを追う旅』pp.84-85、一九九九年、慶友社。
(5)田口洋美、前掲書、pp.79-80。
(6)佐々木長左衛門『アイヌの熊狩と熊祭』一九一六年、佐々木豊栄堂(『アイヌ史資料集 第五巻 言語・風俗編(二)』一九八〇年、北海道出版企画センター発行、による)。
(7)この「高らかな交流の場」については、中路正恒「『ひとつのいのち』考」(中路正恒『ニーチェから宮沢賢治へ』一九九七年、創言社、pp.199-222)を参照していただければ幸いである。 center>
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このテキストははじめ 『東北学』 Vol. 3
(東北芸術工科大学 東北文化研究センター、2000年10月)
の総特集「狩猟文化の系譜」の一論文として書いたものです。
これはまた、
わたしの一連の狩猟文化研究論文の最初に位置するものになっています。
このたび、関心ある多くの方々に読んでもらえるように、HTML化しました。
広く紹介していただければ幸いです。
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