龍安寺の石庭は、室町時代後期の庭園を代表し、また
枯山水庭園を代表する庭
であるが、ここには夢窓疎石の直接の影響は乏しい
ようである。少なくとも西芳寺の下部庭園が持っていた、池中に船を浮かべ、管弦の遊びをするような貴族的
社交性は、ここでははっきりと断ち切られている。しかしまた、ここには西芳寺洪隠山石組がもっていた、石の霊性との激しい
格闘も見られないようである。この庭の素晴らしさは、白砂と石だけで庭とする、という趣向の新しさと、ほんの少しの視座の移動がきわめて大きな印象の変化を与える、という多様な視線の精緻な計算にあるであろう。
まず、石が自己の本分と見えてくるまで、
すべてを忘れて見つめること。そうして、石が見えてきたら、存分にその美を味わうこと。そして後、少しだけ見る位置を、視座を、動かしてみること。そうすると、ほんの数ミリの視座の移動によって、先とは全く異なった、しかし先と同じく、溢れるほどに豊かで美しい景観が与えらえる。
こうして人は、自分がこの庭の蔵している無限に多様な景観の可能性に包囲され、その無限の景観に抱擁されているということを理解する。そしてそれと同時に、自分が、ひと時に、ただ一つの視座と、ただ一つの景観しか、有しえない、ということを理解するであろう。こんな風に、この庭は無限に豊かで、無限に多様な景観を蔵しているのである。これもまた、禅仏教が教えようとしている真理の一つであろう。
庭は、大海の上の島を表すとか、「虎の子渡し」を表すとか、十六羅漢遊行を表す、とかの解釈があるが、私としては、揚子江上の金山寺とその付近の島々を、南から北へと描いて行ったもの、と理解しておきたい(西村貞『庭と茶室』講談社)。なお、池中に石を三列十五個配したものとしては、先に西芳寺の「夜泊石」があるが、それは大変素朴な配石であり、それを以て龍安寺石庭の先例とみなすのは、印象上、大きな飛躍があると思う。
龍安寺は始め宝徳二年(一四五〇)、時の管領細川勝元によって、大燈国師門下の義天玄承を開山にして創始された寺であった。
しかしこの寺は応仁の大乱の中で焼け、後、長享二年
(一四八八)勝元の子政元によって再興された。今の石庭の最初のものはその頃にできたと考えられている。しかし築庭年、作庭者とも諸説があり、まだ決着を見ていない。
龍安寺石庭の他に、室町時代末期前後の庭を代表するものとして、大徳寺大仙院の築山枯山水庭園、妙心寺退蔵院庭園、そして雪舟作と伝えられる山口県の常栄寺庭園などが挙げられるであろう。
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---霊石の系譜学--- |