雪舟と天開図画の思想
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2003年8月10日開版
中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie






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 ◆ 夢窓から雪舟へ ---- 天開図画の思想

 法系の上から言うと、夢窓疎石むそうそせきから雪舟へは 直ちに一本の線が引かれる。雪舟は 春林周藤しゅうりんしゅうとう(相国寺第三十六世住寺)の法門下に 連なったが、春林は円鑑梵相えんかんぼんそうの 、円鑑は春屋妙葩しゅんおくみょうはの法嗣であった。 そして春屋は夢窓の法嗣 中の頭領格であった。しかしこうした系譜はさしたる意味をもってはいない。 なぜなら、雪舟は五山の禅林の中で身を立てて行こうという志を 抱き続けはし なかったからである。少なくとも四十歳前後で山口に下った時には、禅者とし ても、画僧としても、中央での栄達の望みを捨て去っていたはずである。そし て入明の後も、雪舟は二度と京都の地に帰住しようとは しなかったのである。 相国寺での雪舟の僧位は「知客しか」 (客人の接待係)という比較的低い地位に とどまった。そして以後相国寺を出てからも終生、「揚知客ようしか」 という呼 称は、彼の正式な呼称として使われ続けたのであった。\par 結局、この法系がもつ最大の意味は、雪舟が相国寺に入ることによって、時に 幕府の御用絵師を勤め、当代第一の画家であった 天章周文てんしょうしゅうぶんの弟子になることが できた、ということであろう。このような機会は相国寺に入ることによってし か得られなかったであろうし、相国寺に入るということは、おのずから夢窓の 法門に連なるということを意味したのであった。相国寺は、雪舟がその画技を 磨くためには、最も優れた場所であったと考えられる。 周文に師事するという ことは、その時の日本の絵画制作の最先端の現場に居合わせるということであ ると同時に、牧谿もくけい玉澗ぎょくかん梁楷りょうかい馬遠ばえん夏珪かけい、など、 模範とされるべき中国の 画家たちの作品に、直接ふれる機会をもつということでもあった。そのような 機会は、将軍家の同朋衆以外では、相国寺の 周文の所において、最も多く得る ことが出来たと考えられる。しかしこのようなことは、当時、学芸の非常に多 くの部分が、夢窓門下の禅僧たちによって担われていた、という 事実を語って いるに過ぎないであろう。夢窓と雪舟の係わりということに関して 実際重要な のは、両者の間の思想的な係わりである。つまり、彼らがどのような立場に立 ってその活動を続けたか、ということが問題であり、またその立場の間にどの ような関係があるのか、ということが問題であろう。ここではそうした連関を 考えるために、夢窓にも雪舟にも縁の薄くはない「天開図画てんかいとが」 という思想を検 討してみたい。

 ◆ 夢窓と露岩

 夢窓疎石が天開図画の思想と 係わるのは、その法嗣春屋妙葩が記した 『夢窓国師年譜』においてである。『年譜』の正和しょうわ二年(一三一三)の 条は、夢窓がこ っそりと浄居寺じょうごじを出て遠州に到り、さらに濃州の長瀬山に 至った、という行跡を 伝えている。そしてその処は、周囲十五里ほどに人家が無く、 「山水景物天開 図画之幽致」である、と言われている。ここに夢窓は「古谿こけい」と 扁額を掲げて 庵をなし住まう。これが今日の古谿永保寺えいほうじである。 この『年譜』中の「天開図 画」の言葉が、夢窓その人の言葉であったか否かは不明であるが、夢窓がこの 長瀬山の地に、天開図画と呼ばれるべき特別の印象を抱いた、ということは充 分に想定しうることである。その時、山水景物が天開図画の幽致 である、とは 、どういうことを意味しているのであろうか? この長瀬山永保寺辺りの山水景 物の特色の一つは、そこここに露岩が見られる、ということである。今日観音 堂は露岩の上に築造され、河を隔てた対岸の露出した岩地も、あるなまなましい 印 象を作り出している。夢窓の天開とは、やはりこうした露岩によって感得され るものではなかったか? 天開図画とは、天が開いた図画という意味だが、それ はつまり天地開闢の時に天によって開き、描かれた 図画ということである。天 地開闢の時の山水の光景、その時山々はすべて岩肌が露出し、 それを覆うもの としては木々も、草々も、苔も、そのような物の何一つもな かったのではない であろうか? 露出した荒々しい光景。そのようなものこそが天開図画の光景で はなかったか? 草木に覆われた山水の潤いよりは、むしろ 荒寥とした岩肌の光 景。古代的な感性にとって神的なものがそうであったような荒々しさ。天開と は調和であるよりは始元の厳しさである。そして始元の 神聖さである。この神 聖さの感覚は、多分修験道によって、よく保たれ てきたものである。つまり修 験道に言われる「行道岩」は、山中の露岩であるが、 そうした岩こそが天開の 神聖さを伝えている、と修験者には感じられているのではないであろうか? そ のような岩、露岩に抱きついて、それを廻る、という修験者の 「行道」とは、 その天開の神聖さに、直接に、ひたひたに、触れる営み ではないのだろうか?  そして禅宗もまた、夢窓において、この始元の天開の神聖さという次元を、新 たに見出したのではないだろうか? そして注意すべきことは、この始元の「天 開の神聖さ」とは、「神開の神聖さ」(国生み神話の)といったようなもので はなく、それよりはるかに厳しく、はるかに根源的で、はるかに神聖な事とし て、中世において発見されているように見える、といことなのである。禅仏教 の主要な課題の一つは、まさに「天地未分の時」を自己として 経験することだ ったのである。

 ◆ 雪舟と始元の時性

  雪舟においても、天開図画ということが、 その思想的課題の中心に位置してい たであろうことが察せられる。明から帰国して後、大分においても、 また山口 においても、雪舟は自分のアトリエを「天開図画楼」と 名づける。大分の天開 図画楼には呆夫良心ほうふりょうしんが訪れ、山口の 天開図画楼には 了庵桂悟りょうあんけいごが訪れ、それぞれ 「天開図画楼記」を遺しているが、雪舟の天開図画の思想を 理解するためには 了庵桂悟のものが重要である。そこで了庵は「天開」の思想を解釈して、「 威音以前いおんいぜん空劫那畔くうこうなはん、物々本然 、人々固有」と解いている。「威音」とは過去世の諸仏の中の最初の仏の名で あり、「威音以前」とは最初の仏が生まれる前、ということである。「空劫那 畔」もほぼ同義で、天地の開ける以前という意味である。「空劫」とは世が成 立していない時のことであり、「那畔」は以前という意味である。結局了庵は 「天開の思想」を、最初の仏もまだ生まれず、世がまだ成立していない時、そ の時すでに物々は本然の姿で存在しており、人々はその固有の姿で存在してい る、という思想として解釈する。そして了庵は雪舟の「天開図画」を、そうし た空劫以前の物々、人々の本然の姿を描くこと、と解釈するのである。しかし ながら、この了庵の解釈を、天地開闢以前にも 物々、人々の本質が存在してい るのだという主張と解釈するならば、それは了庵をも、雪舟をも誤解すること になるであろう。この了庵の解釈は、「生み出された自然」と「生み出す自然 」の区別として理解するのが妥当であろう。つまり、 「空劫以前」の時には自 然はまだ生み出されてはおらず、したがって生み出された自然は存在しない。しか しその「空劫以前」においても、ある動性は存在しており、その動性の活気の 中で、生み出されるべき自然はひしめいているのだ、というわけである。「生 み出す自然の動性」、これこそが多分、雪舟の画業の中に、雪舟を雪舟たらし めている特質として読み取るべきものなのだ。試しに雪舟の 「山水長巻」中の 岩の描写と、夏珪の「渓山清遠図」 とを較べてみよう。夏珪の岩は、輪郭線が 目立たぬほど細く、薄く、そして片ぼかしを加えられている。そしてその 皴法 はただ皴だけで岩の実在感を描き出すほど的確なものである。 これに比すると き、雪舟の岩の描写は、ごつごつした輪郭線の荒さばかりが目立つかも知れな い。しかしこの両者の画をよく見ていると、夏珪のものは写真に近い印象を与 えるものであることに気づく。露出を少し多めに与え、ハイライト部分を飛ば したいわゆるハイキーな写し方をすれば、夏珪の画に相当に近いものができる ように見える。つまり私が言いたいのは、夏珪の場合には「生み出された自然 」が、そこに与えられたものとして、厳として存在しており、その自然が画の モデルとして働いている、ということである。他方、雪舟の輪郭線には、 高楊 した高い調子と、その高さからくる切迫と、ゆとりと、速さとが感じられるが 、この高い調子には、「生み出されてそこにあるこれこれの自然」というよう な模範が存在しない、ということが指摘できるであろう。 つまり雪舟の場合、 「生み出す自然の動性」が作家の中にすでにみなぎっており、それが或は切迫し た、或は高らかな、或はゆとりをもった輪郭線を、つまり自然を、生み出して いる、ということなのである(輪郭線の高らかな「ゆとり」は、「山水長巻」 よりも「秋冬山水図」に、よりはっきりと感じられるものであろうが)。 したがっ てこう言えるであろう、雪舟は自らが図画を天開する、と。
 しかしそれは実際にはどういうことなのであろうか? それはみずから がそこで生きる 自然を決定している、ということである。この決定は、画家の本来の仕事の一 つである、と言うべきだろう。それでは雪舟はどのような自然を開いたのであ ろうか? ここでわれわれは天開のもう一つの意味に出会う。それは「泰華衡恒 」のような山、「江河淮濟」のような水、「草木鳥獣之異」、「人物風化之殊 」が「画」である、と言われるときに、それらを開く天のことである(周興彦 龍『半陶藁』)。この時の天開は天地開闢を意味している。 つまり天開図画の 思想とは、ここでは、存在しているすべての事物を、天地開闢の始元の時から するパースペクティブにおいて捉えること、その始元の時の造化する 力の神聖 さにおいて捉えること、そのことである。了庵桂悟は 雪舟の日常の仕事や出来 事、つまり水を汲んだり、花を採ったり、魚が泳いだり、 蝶が飛んだり、暑さ を避けて納涼したりする、こういうことのすべてが「天開図画中の一事」であ る、と言う。これもまた始元からのパースペクティブで存在する物事を 捉える ことを意味しているであろう。

 ◆ 雪舟は中世を救う

 雪舟が画紙の上に高らかな輪郭線を 描くとき、この、パースペクティブとして の天開の思想と、先述の、創造としての天開の思想とが一つになる。高らかな 輪郭線が描かれるとき、そこに描かれたものは、始元の神聖な時からのパース ペクティブの中に置き移され、それがこのようなものとして生まれたことの、 このようなものとして存在していることの、本然の意味を受け取り、そうして 救済されるのである。露岩は始元の崇高な荒々しさを表すが、 画中に主山が露 岩のまま放置されることは、雪舟の場合もほとんどない。苔が 添うとか、樹木 が息づくとか、寺院の行が営まれている、とかである。 こうして始元の時から 、造化のパースペクティブの中で、何歩か時間が進むのである。そして樹木と ともに、人間の生が可能になり、許容され、肯定されて現れてくる。雪舟の筆 が天橋立に及ぶとき、木々に覆われた 日本の山々が、この始元からのパースペ クティブにおいて救済される。天橋立の神話もまた(『風土記』逸文、参照)、天開 の思想の強度の中で救済されるのである。雪舟以前の日本の水墨画は決してこ の始元の時の中に立たず、始元からのパースペクティブで物を見ることを、決 してしなかったのだ。能阿弥、相阿弥の作と 伝えられる日本的な水墨画も、決 して始元の時に遡る見通しを持たず、歌枕の 平安時代的な感受性より先へは進 み得なかったのだ。「天橋立図」は、日本的な森や山や神話の、天開図画の思 想による救済を意味している。弟子宗淵にあてた雪舟の 「末世濁乱の時存命候ひ て無念至極」、という嘆きの言葉は、この画家の、 極限的な肯定への全力的な 努力を裏打ちするものである。この雪舟の努力は、神話の力が、神々による祝 福という思想の力が、はっきりと効力を失い、果てのない無限の時間の中に 漂う、拠り所のない自己というものを、いやおうなく 自覚した日本中世の思想の 、最先端に位置する一つの救済の試みであったのだ。雪舟の後、この最先端が どのように動いてゆくか、それはまた別の考察の対象になるであろう。私はこ こでこの小論の終わりに、藤原定家の歌を、一首引いておきたい。この定家の 歌こそ、国生みの神々の神話的な力の失効を確認し、この天地の始元の時を初 めて問題として問い、そうして日本の中世思想の開始を告げた歌であると、私 には思えるのである。

 わたつうみによせてはかへるしき波のはじめもはても知る人ぞなき
                         (十題百首)
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このテキストははじめ『バサラと幽玄』(『人間の美術7』学習研究社、1991)の一特集として書かれたものです。
後にそれは
拙著『日本感性史叙説』(創言社、1999)に収められました。
前者では写真・図録とともに読めます。
また、後者ではこのテキストの私の仕事の中での位置がよく掴めます。
どちらも入手可能です。
手にとってお読みいただければ幸いです。


夢窓と作庭
---霊石の系譜学---




有職紋様:綺陽堂