なめとこ山の死の贈与






中路 正恒
Masatsune NAKAJI
nomadologie



     はじめに

 宮沢賢治の『なめとこ山の熊』について論じてみたい。この作品についてわたしは、昨年(2002年)、「『なめとこ山』の山の神」という論文を書き、そこで、熊の生態やわが国の狩猟文化をふまえた観点から、熊の自死の意味と熊たちによる猟師小十郎のいわゆる「送り」について論じた(1)。しかしそこではなお贈与の概念が曖昧であった。それは、ジャック・デリダが ”Donner le temp” の中で与えている「贈与はそれと意識されるや交換になってしまう」、という思考から十分に抜け出せなかったからである。この問題に関してはデリダ自身、後に、”Donner la mort” の中で取り組みなおし、贈与の概念についてもしかるべき修正を行なっている、とわたしには見えるのだが、管見、この修正について適切に論じたものを見たことがない(2)。デリダがそこで行なっているように、贈与の問題を旧約聖書のイサクの奉献の問題と関連させ、さらにマタイ伝に言われる報いと見る者の問題と関連させることは、贈与をヨーロッパの宗教思想史の核心において論ずることであろう。その意義は充分に大きい。しかしわたしがここで試みようとするのは、そのデリダの思考を追究し、それを検討してゆくことではない。そのことをわたしはまた別の機会に試みるであろうが、ここでわたしが試みようとするのは、作品『なめとこ山の熊』を考察し、それを通じて、この作品とそれを取り巻く思考圏において「死の贈与」がもちうる意味を考察することである(3)。そしででき得れば、そこにヨーロッパの思考圏におけるのとは異なった死と贈与についての思考の形の存在を提示してみたいのである。

     1. 瞬息の贈与の神

 『なめとこ山の熊』について論ずる前に、山中智恵子の歌を二首引いて予備的な考察を進めておこう(4)。その歌は、わが国の思考圏において「贈与」と「死の贈与」について考える上で、きわめて重要な問題を示していると思われるのである。

  瞬息のこころそそぐとたまひてしからくれなゐや眼閉ぢ思はむ  (一)
  ただよひてその掌(て)に死ねといひしかば虚空(こくう)日月(じつげつ)夢邃(ふか)きかも  (二)

 一首目の「瞬息」の歌は、「からくれなゐ」からして錦秋を歌った歌であるが、ここで注目すべきことは、「瞬息のこころそそぐとたまひてしからくれなゐや」の表現において、眼の前に広がる秋の錦、「からくれなゐ」そのものが、「たまひもの」=「贈与」であると理解されうる見方が歌われていることである。歌はそれを断言せず、「や」によって疑問を残しているのであるが、また他方ではそれによって、この「からくれなゐ」が賜り物である可能性に思考と感情を開いているのである。
 それはわたしに「瞬息のこころ」をそそいでくれる贈り物である。わたしは、からくれなゐの紅葉の錦の美景を眼にして、こころを与えられるのである。「瞬息」とは、瞬きをし息をつく一瞬のことであるが、まさにこのからくれなゐの美を感じる一瞬のうちにこころの贈与がなされ、贈与が受け取られるのである。瞬きをする一瞬のうちにすべての贈与はなされ、成し遂げられている。そしてこの「こころ」を与えられて、わたしはそれまでとは違った、新しい存在になっているのである。
 しかしこの贈与においては贈与者の姿は見えない。贈与は、ただわたしの目の前に広がる秋の錦の美景、その「からくれなゐ」によって、あるいはその「からくれなゐ」を通じてなされている。贈与はこの「からくれなゐ」を通じてなされ、その背後にはなにもない。そして一方では、からくれなゐによって「こころ」を注がれる者があり、他方、そうでない者がある。その差はきわめて大きいのであるが、そこにその両者の違いを判然と見分ける指標のようなものは何もない。それゆえ、贈与はひとしれず行われることになる。それがたとえば紅葉の名勝のような場所であっても、贈与はひとしれず、ひとに知られず、行われ、成し遂げられるのである。
 しかしここに贈与者の姿がなく、贈与が、目の前のからくれなゐを通じて、公然と、ひとしれず成し遂げられるとしても、このやりとりにおいて、贈与者が存在しないというわけではない。ここにも贈与者はあり、その名を挙げるならそれは「神」である。それはわが国の詩歌の伝統において、その名を挙げることもなく、それとして了解される存在、ないしは存在者である。しかしこの神は、その贈与から切り離されず、またその贈与を通じてしか了解されず、感得されない。それゆえ、ただ被贈者によってしか知られない。そして更にいえば、ただ被贈者にとってしか存在しない。そしてこの神は、その贈与が瞬息のうちに成し遂げられるものであるゆえに、同じく瞬息の間においてしか存在しないのである。われわれはその神をとりあえず「瞬息の神」、あるいは「瞬息の贈与の神」と呼んでおくことができるであろう。
 この「瞬息の贈与の神」はしかしこの歌においてはからくれなゐの「美」と切り離すことができず、からくれなゐの「美が現成する時」と切り離すことができない。あるいは言い換えるなら、「こころ」を与える力能をもつからくれなゐの「美の時」が現成するということ、そのこと自体がこの時の神性なのである。そして神とは、このような美の時の美質そのものであり、その美の神聖さそのもののことである、と言いうるであろう。したがって、この瞬息の贈与において、神はこのからくれなゐの美の時を時空の中で存在させる存在なのではなく、この美の時とともにそこに現れているあるひとつの質なのである。そのきわめて深い恩恵に満ちた、贈与をおこなう質なのである(5)。
 歌は「眼閉ぢ思はむ」と結ばれる。眼を閉じることは神性を感受するための方式であるとともに、その感受された神性をみずからの内ではっきりと確認するための方式である。そしてそれはさらに、みずからがその神性との関りの中に存在していることを自覚するための方式である。あるいは、より正確に言うならば、みずからがその神性からの贈与の中に存在を得ていることを自覚するための方式である。つまり、わたしはその瞬息の贈与によってこころを得たのであるが、このこころはわたしの生の新しい始原となるべきものだからである。眼を閉じて思うことは、この新しい始原の自覚を行うことである。
 われわれはここに、美の現成によって瞬息の贈与を成り立たせる神性の存在を確認しておくことができるであろう。

     2. 〈瞬息〉の時間性

 そして二首目の歌である。もう一度引いておこう。

  ただよひてその掌(て)に死ねといひしかば虚空(こくう)日月(じつげつ)夢邃(ふか)きかも  (二)

 歌集『虚空日月』においては、この歌は前後を、

  今生の胸におもへば雪の夜の大夜(おほよ)すがらをひとは咲(ゑ)まふや  (三)
  ひとひとり在りとしみえて茜さすなにもみえねば醒めざらましを  (四)

の二首に挟まれている。これらの三首、いずれも今生にひととひととが関わることの極限的な形を歌う歌たちであり、歌に言われていること、そしてそれが発話される〈場所〉はきわめてデリケートなものでである。

 まず(四)の歌を見てゆくと、ここで言われている「ひと」は、既に神仏と言ってよいような存在である。それは、『梁塵秘抄』に「佛は常に在(いま)せども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁(あかつき)に、仄かに夢に見えたまふ」と歌われる「佛」を思わせる。「ひとひとり」の歌において、「ひと」とは既にそのような佛であり、「佛」がそこに、その実在する極限の形で実在しているのである。つまり、「ひと」=「佛」が、「ほのかに夢に見えたまふ」というその梁塵秘抄的な実在の形式において、ここに現れているのである。そしてその存在は、憧れを、そして名残の思いだけを私のこころに残して、姿を見せることなく、東の空のあかときの色の中に消えてゆくのである。
 これもまた〈瞬息〉の時間性である。それは先ほど述べた「からくれなゐの美の時」の現成における、その贈与者の実在形式と同じものであるようにみえる。つまり、「からくれなゐの美の時」においても、その「美の時」を与える存在はやはり神仏であり、神仏と考えられるべき存在であるが、その神仏は、眼に見えることなく、何事かを与え、そうしてまたたく間に消えてゆく〈瞬息〉の時間性において現れているのである。つまり、その存在の効果を、たとえば「こころ」として、あるいは「この上のない憧れ」として、ひとのこころに抜き差しがたく刻み込みつつ、しかしみずからはその現実の姿を決して見せることがないという、そいうい存在の形式においてのみ存在する贈与者が存在するのである。そして、神仏とはそもそもそういうものなのではないだろうか。
 (三)の歌の「ひと」も、ひとでありつつひとを越えた、そういう神性を帯びた存在であろう。「大夜すがらを咲まふ」ひとである。以前別のところで指摘したことであるが、山中智恵子の「ひと」は、概ねアイヌ語の「ぴと」に近く、普通の人を越えた霊的な能力を備えた存在である(6)。「大夜すがらを咲まふひと」とは、笑みつづけるひとであり、「咲まふ」の語感からして、この「笑まひ」は祝福的・祝福者的な笑まいである。例えば折口信夫の「基督の 眞はだかにして血の肌(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より」の歌のような、一種の蔑視を含んだ笑いとは性格を異にした笑い、清明な笑いである。そしてわたしは、つぼみがほころぶような笑いを最後の印象として、今生において、そのひとと別離するのである。ここにおいては、その大夜の「咲まひ」が、そのひとからの贈与なのである。この「咲まひ」の後、「ひと」は必ずや消え去るであろう。とすればこの「ひと」も、胸に思われるが、眼に現れることなく現れ、「大夜すがら」をそういう形で現れつづけるが、その「大夜すがら」を瞬刻として「咲まひ」を贈与して消えてゆく存在なのである。

     3. 「その掌に死ねといふ」

 そして「虚空日月」の歌である。今一度引いておこう。

  ただよひてその掌(て)に死ねといひしかば虚空(こくう)日月(じつげつ)夢邃(ふか)きかも  (二)

 ここには「死を与える」という問題の本質の重要な一端が示されている。「その掌に死ねといふ」とは、私が(君の)死を「その」者に与えるということである。しかし、「死をその者に与える」とは、たとえば死体をその者の所有にするというような物質的なことではない。そうではなく、むしろ「(君の)死の意味をその者の所有にする」ということである。しかし「死の意味をその者の所有にする」とはそもそも何を意味しているのだろうか。わたしはここで、「死の意味」とは「生の意味」とほぼ同義であり、それは「ある者の生の意義を総体として意味づける意味」のことであると考えておきたい。つまり、ひとが「わたしはこのために生き、死んだ」と言いうる場合、その「このため」の内容となるもののことである。「その掌に死ね」とは、その「死の意味」を、「その者に与えてもらえ」と言うことである。この場合「その者」とは、「仏のみ手に懐かれて、眠れ」というような詞が人口に膾炙しているように、たとえば「仏陀」のような存在であろうが、人であれ神仏であれいずれにせよ私と君とが共通にその者として理解している第三者である。「その掌に死ね」とは、まずは「わが掌に死ねよ」の否定であり、「私は(君に)その死の意味を与える」ことを拒否する、ということを含意しているのである。それはまた、そうした「君の死の意味」を委ねるべき第三者を指定しない、「勝手に死ね」というような表現とも異なったメッセージを含んでいる。
 ところで「その掌に死ねといふ」ことも、「死ねといふ」ことの一つの形であると考えねばならない。「死ねといふ」とは、ある仕方で死を命ずることであり、何らかの形で、相手に死を与えることである。しかし、「死ねと言って死を与えること」は、互いに別の意味をもつ二つの事柄を意味することがあるであろう。一つは生物的な死を与えること、生物学的に殺すことである。事情によることではあるが、生物学的に殺すこともまた「贈与」でありうるであろう。相手に安楽な死を与える、相手の死を神に与える、等々である。もう一つは、先述したように、ある仕方で、相手に「死の意味」を与えることである。
 この歌の「死ねといふ」においては、問題はもっぱら相手に死の意味を与えることにかかわっている。しかし、ここにおいても時の先取りが行われており、相手の死の意味はその相手の生の時間の終わりの時において問題にされている。つまりひとつの「決定の時間性」というべきものが存在しているのであり、今私が相手に死の意味を与えないと決定したことは、その相手の終末にまでいたる時間の中で、決して変更されることのない決定になっているのである。この時間性が、相手の、今より後の終末までの時間を、単なる「ただよひ」の時とするのである。その人生の今後の長さが、この決定に対して、今後いかなる意味をもつこともない、という特性を付与された時間になるのである。かくて死の時がこの今の時に直接接続される。このことが、「死ねと言う」ことが本質的に含む「先取り的な決定の時間性」である。
 この決定の瞬間の時間性は、キルケゴールが「決定の狂気の瞬間」と呼んだあの瞬間の特性をもつことになるであろう(7)。われわれがジャック・デリダとともに明らかにしたいことは、この時間性の究明を通して、贈与の成立する瞬間の特性を見極めることである。
 交換の体制の中においてもたらされるとき、贈与は引き延ばされた交換に他ならないものになる。寄贈物はいつかは必ず返済されねばならない何ものかになるのである。しかしこのような贈与においては、贈与と同時に、人には返済までの時間が与えられ、返済期限までの人生の意味が与えられるのである。「贈与と他のすべての純粋で単純な交換の操作との違いは、贈与が時を与えるということである」とデリダは言う[Derrida 1991, pp. 59-60]。しかしデリダのこの主張は正しいのであろうか。あるいは、デリダのこの主張は、われわれが見てきたような「死の贈与」についてはあてはまらないのではないだろうか。というのも、「死ねと言う」という死の贈与においては、贈与は、時を与えるというよりはむしろ時を奪うようにみえるからである。つまり、死の贈与は、その贈与自体の力能に応じて、それを与えられた人の人生の時間を、単なる「ただよいの時間」に変えてしまうのではないであろうか。あるいはこれは贈与の中でも「死の贈与」にのみ固有な特性なのであろうか? 「死ねといふ」とき、この死の贈与はその被贈者にたしかにひとつの時間の終わりをもたらしているのである。
 しかしながら「死ねといふ」死の贈与において、相互性あるいは互酬性の契機についてはどうなっているのであろうか。この歌の「死ねといふ」贈与においては、この贈与によって、逆に、この贈与を私に返済するための時間が、君に与えられていると言ってよいのだろうか。幾らかはそういう側面も存在するであろう。しかしその場合返済するとは一体何を意味するのであろうか。死ねという贈与においては、その贈与を交換に変えるための返済の期限が、その「死ね」という発話の時点において、既に終了してしまっているようにみえるのである。
 言い換えるならば、「死ね」と言って(ということはつまりは「この掌に死ね」と言うことによって)、人が相手に死(の意味)を贈与する時、この発話による贈与は、むしろ互酬を、つまり贈与の交換を、拒否するものになっているのである。「死ね」と言うことは、確かにひとつの死の意味を相手に贈与するものであるが、しかしその場合そこにはむしろ互酬の契機の拒否が否応なく導入されてしまうようにみえるのである。つまり、原則的に言って、ある存在に「死ね」と言う時、ひとは、相手が私に対して「死ね」と言う時間を待ってはならないのである。人は、相手から返礼を受けることなく、「死ね」と言いうるのでなければならないのである(8)。贈与を交換の体制に吸収されるべきものとして考えようとする場合、ここには(デリダがパラドクスと言う場合と丁度正反対の)ひとつのパラドクスが存在してしまうのであり、死の贈与は、決して交換に還元されない贈与になる他はないのである(9)。そうでなければ、ひとは相手に「死ね」と言ったことにはならないであろう。交換の体制の中にあると考えるなら、「死ね」と言うことは、「互いに殺し合おう」と言っていることになってしまうのである。
 ここに「死ね」と言うことの深い孤独がある。この孤独は、返礼を拒否せざるを得ないゆえに、常に底なしの孤独になるのである。この歌の「虚空日月夢邃きかも」という詠嘆は、その孤独の底のなさを、おそらくこの上なく的確に言い当て、歌っている。逆の立場からいうならば、いわば深い深い夢のなかで、「死ね」という贈与は私に与えられるのである。「死の贈与」は、深い夢の中で現成する。
 ここが恐らく、「死を与えること」の最も深い地点である。「死ね」と言うものと言われるもの間の絶対的断絶。そして、あるひとりに対し、ただひとり「死ね」と言う立場を引き受けることによって、ただそれを通じてのみ、この地点にひとは身を置くことができるのである。そしてそれによって、ひとは、みずから、いわば、「暴虐な神」になるのである。
 この地点を確認することによって、われわれはさまざまな戻り道を標定することができるであろう。つまり、「死の贈与」を「死の交換に」置き換えようとする様々な試みに応じて、様々な神々がその戻り道に姿を見せることであろう。「われわれが死ねと言う」とすることによって、だれひとり「死ね」と言うことなく実際に処刑を執行する様々な社会的システムが、その逃げ道として見えてくるであろう。この場合も、死を贈与する私の単独性を、交換可能な複数の主体の一般的な行為に変質させているのである。

     4. なめとこ山

 宮沢賢治の『なめとこ山の熊』の検討に進もう。宮沢賢治の作品においては、殺すという問題は必ずしも希薄ではないのだが、何者かに「死ねと言う」ことが問題となっている作品は管見するところ存在していない。しかし「死ねと言う」ことがストレートに問題にされていないにしても、生きものの死が問題となる作品においては実際にはこの「死ねと言う」ことの問題が隠されているのではないだろうか。例えば作品『夜鷹の星』において、主人公の夜鷹は、実際には周囲のさまざまな生きものから「死ね」と言われているようなものなのではないだろうか。あるいは主人公がみずから命を投げ出すような作品においても、実際にはこの「誰かが死ねと言う」という問題が隠されているのではないだろうか。『なめとこ山の熊』はそのような、主人公が命を投げ出すような作品の典型であろう。この作品のどこに「死ねと言うこと」の問題を発見しうるのであろうか。
 ある時、猟師淵沢小十郎はすぐ前の木に大きな熊がよぢ登っているのを見つける。小十郎はすぐに銃を構えるのだが、熊の方は木からおりて小十郎に飛びかかるか、そのまま撃たれてやるか思案した後、そのどちらでもなく「両手を樹からはなしてどたりと落ちて来た」のである。小十郎は銃を構えたまま油断なく近づくが、近寄ると熊は両手をあげて叫ぶ。
 ここまでのやり取りで見ると、先に相手を認めたのは小十郎の方であり、小十郎の方が先に銃を構え、攻撃態勢に入っている。小十郎に一定の優位があることは疑えない。しかし熊の方でもまだ小十郎に飛びかかってゆくことは可能であり、両者の間のやり取りにはまだ決着がついているわけではない。そしてここで既に熊は小十郎の予期せぬ行動に出ている。それは諦めでも反撃でもない。いうならば小十郎に問答を仕掛けてくるのである。熊は小十郎にこう問いかける。

  「おまへは何がほしくておれを殺すんだ。」

 熊は小十郎に、彼が自分の死に対して与えてくれる意味を尋ねている。「何がほしくて」という問いはほとんど「何と交換に」と同義であり、熊はここで小十郎が自分の死に対して与えてくれるであろう意味が、何らかの栄誉ではなく、単なる交換価値であろうことを既に見抜いているのである。ほんとうであれば、ここで熊は、「おまえはなぜおれを殺すんだ」と訊きたいところであっただろう。しかしその、より本質的な問いに対する答えを小十郎は既に失っており、彼の日常の熊猟においては、ただ交換価値だけが彼の行動を動機づけているのである。そこで彼はまずこのように答える。

  「あゝ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。」

 毛皮と胆の交換価値、それが熊の死の意味のすべてだというのである。殺伐とした現実の風景がここに開けている。小十郎は熊に死を与えるが、しかしその熊に対して、この交換のエコノミーの外にあるいかなる意味も与えはしないのである。おそらく「小十郎に撃たれた」という名誉を与えることすら彼の意識にはないのである。熊にとっては、小十郎と共有される〈自分の死の意味〉をもつことが、問答のこの段階においてはできないはずである。
 しかしながら、小十郎にはある種の率直さがあり、そのため問答は本質的なところへすみやかに進んでゆく。小十郎は毛皮や胆もそう高く売れるわけではないことを言った後にこう続ける。

  「けれどもお前に今ごろそんなことを云はれるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食ってゐてそれで死ぬならおれも死んでもいゝやうな気がするよ。」

 ここで小十郎は、熊の出した問いが、自分が相手を殺すことの意味を問う問いだということを理解する。そしてこの殺すことに、相手に対する何の贈与も存在していないことを理解し、何の贈与でもない「死を与えること」の空しさ、意味のなさを感じる。そして彼は自分がそのような行為をすることへの嫌悪感を自覚するのである。そしておそらくはここで、もはやみずから殺生をすることはやめようと決意しているのである。それは猟師という生業をやめるという決意でもある。それはみずからが生きられなくなることをも覚悟した返答である。
 この小十郎の答えに対する熊の応答にはある種の神的なものがあるように思われる。熊はこう答える。

  「もう二年ばかり待って呉れ、おれも死ぬのはもうかまはないやうなもんだけれども少しし残した仕事もあるしたゞ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまへの家の前でちゃんと死んでゐてやるから。毛皮も胃袋もやってしまふから。」

 熊は小十郎の言葉が、猟師をやめることによってみずからが生きられなくなることも覚悟したものであることを理解している。そしておそらくは、彼が猟師をやめることが幼い子供たちもいる彼の家族の皆を死に近づけさせることになるということも洞察している。それらのことを理解した上で熊はみずからの死を選び、そしてみずからの意味ある死の仕方を考える。それは一方で「し残した仕事」を終えることであり、他方で小十郎に「毛皮も胃袋もやってしまう」ことである(10)。一方は生きて成し遂げることによって充実されることであり、他方はまさにある仕方で死ぬことによって充実されるはずのことである。この両方の行為を果たすことによって熊は納得してみずからの死を迎えられるはずである。
 後に熊はこの言葉どおり、小十郎の家の前で死に、みずからの死体を彼に与えるのであるが、この成り行きにおいて熊は小十郎から何も与えられていないようにみえる。その限りでこの熊の死は返済されない純粋な贈与になっているようにみえる。小十郎は熊との問答の後「う、うとせつなさうにうなる」のであるが、それは彼がみずから受けとるこの死の贈与を返済のできない贈与と感じてのことである。そして二年後に自分の家の前で口からいっぱいに血を吐いて倒れている熊を目にして小十郎が「思はず拝むやうにした」のは、彼がこの贈与に神的なものを感じたためである。返済されえない贈与はいつもひとには大きすぎるものであり、そのためひとはそこに神の恩恵を感じざるを得ないのである。つまり、それを神による贈与と考えることによってしか、その贈与の呪縛から逃れられないのである。このなめとこ山の熊の場合、その寄贈者の名は〈山の神〉と呼ばれることになるであろう。その熊みずからが山の恩恵によって生きてきた生きものだからである。 われわれはここにもまた死の贈与は返済することができないという先述のパラドクスを確認することができる。死んだ者に対しては何事も返済できないという事実は動かすことができないのである。
 しかしわれわれはこの死の贈与を多少とも不純なものにする幾つかの契機を読み取っておかねばならない。一つは熊の誤解である。熊は小十郎が「毛皮と胆」と言ったものを「毛皮と胃袋」と勘違いしている。言うまでもなく熊において高価なものは「胃袋」ではなく「胆嚢」である。この誤解は、賢治が熊に純朴さをみていたことを表わしているであろう。二つめは、おそらく宮沢賢治自身が誤解していたことである。この問答(及び熊の死)が生じたのは「夏」のこととされているのであるが、夏であれば熊の毛皮は柔らかな毛の抜けたいわゆる夏毛であり、夏毛の熊皮にはほとんど商品価値がないのである。また夏であれば胆汁が消費されていて胆嚢も小さく、その小さな「熊胆」にはあまり値打ちがないのである。これらは賢治が熊猟のことをあまり知らずにこの話を書いたためにために生じたキズであろう。しかしこれらはさほど重要なことではない。
 注意すべきは二年間の「し残した仕事」の問題である。別論で述べたことであるが、この二年とは「わが子の出産と育児」のための時間である(11)。しかしそうであれば、問答の後、小十郎が熊を去るにまかせたことは「生の贈与」でもあったことになる。であれば、熊の死は、この小十郎からの生の贈与の恩恵に対して、熊がみずからの「死の贈与」によってを返済した行為であるとみることができるのである。これによって純粋な贈与と見えていたものは再び交換に還元されてゆくのであるが、この新しい交換には著しい特性がある。それは死の贈与においては、相手に対する返済不可能の絶対性は残りつづけ、そのためそこには神的な性質が強さを失うことなく残りつづけるということである。つまり、この神的な贈与によって生じる負債の感情は、もし返済の方途が見いだされるならば、その返済の義務は、神との約束として、ひとつの「絶対的約束」になるということである(12)。
 さらにもう一点注意しておくべきことは、当人への返済の不可能な死の贈与において、新たな返済の義務の対象になるのは当人の子孫や傾愛した者になるであろうということである。ここには返済不可能な贈与を、神的な絶対的義務として、次世代の者へ返済するという新しい返済の形式が存在しているようにみえるのである。これはおそらくはわれわれが心の奥深くで知っている義務の形である。小十郎が熊に二年間の猶予を与えた時、彼は、「死の贈与」に先立って、熊に子孫の誕生という「生」を与えていたのである。あるいは熊の立場からすれば、小十郎が自分に二年間の時を与えてくれた時、熊はみずからの子孫の生を彼から贈与されていたのである。それに対する返済として、約束のとおり熊は彼にみずからの死を与えた。
 われわれはおそらく「後の世代に対する義務」を成立させるひとつの場所を見いだしたであろう。宮沢賢治が『なめとこ山の熊』でこっそりと語っていることの一つはこの義務だったのである。〈山の神〉に護られて、熊の死の贈与は子孫の生という異型的な返済を受けていた。われわれは神的なものの絶対性に護られる、返済不可能な死の贈与の別の個体への返済を〈異型的返済〉と呼んでおくことにしよう。〈山の神〉に護られる山の生活、そこではおそらく動物たちの間にもこの〈異型的返済〉の関係は成立しているであろう。そして人間の猟師もまた〈山の神〉を感じつつ、この山の〈異型的返済〉の関係の中にみずからの身を置いているのである。

                 ★

 われわれはさらに、ここでは誰が「死ね」と言っているのかを問わねばならない。『なめとこ山の熊』の先に見た関係の中ではそれを言っているのは猟師小十郎のはずである。実際それが言われたかのように物語は進行する。しかし作品の中で銃を向けつつも小十郎自身にはそれを口に出して言うことはできなかった。口でも心でも言うことなしに、「死ね」を行なうことは小十郎にもできたであろう。しかし実際に言うことはできなかった。
 それではそれを言うのは小十郎とその家族がこの時代に置かれた生の形なのであろうか。普通にはそのような納得の仕方が行われるであろう。しかし小十郎自身ははそれをすら拒否している。小十郎が猟師をやめる決意をした時、彼は自分の家族の死すら覚悟していたのである。しかしそうであるならば、その彼らの生よりも先のところで、何者かがそれを言ったはずである。それは誰なのであろうか。いずれにせよ熊はその者が定めた運命に従った。それもやはり〈山の神〉だったのだろうか。〈山の神〉がする「死を与える」ことの形がここに非常に純粋に現れているのかもしれない。それは確かに猟師を罪責感から解き放ち、仏教的な、生命の等価という思想のその先のところで、誰の生が優先されるべきかが決定不可能になる場のその先のところで、猟師という生き方を肯定し、可能にさせるであろう。しかしほんとうに〈山の神〉が「死ね」と言っているのだろうか。〈山の神〉はただ結果の偶然に委ねているだけなのではないだろうか。「死ね」と言うことの邃い夢の末をわれわれはさらに問い詰めてゆかねばならない。



  注

(1) 中路正恒「『なめとこ山』の山の神」(『GENESIS』京都造形芸術大学紀要6、2001年)。
(2) 高橋哲哉氏は『デリダ』(講談社、1998年)の中で”Donner la mort”(『死を与える』)の中の贈与の概念を”Donner le temp”における贈与の概念に近づけ過ぎているのではないだろうか。そしてそのために前者の固有な問題、つまり見ることと報いることとの関係という重要な問題が見えにくくなってしまっているのではないだろうか。「意識されたら贈与ではない」(「贈与は現在しない」)というテーゼは『死を与える』においてはすでに背景に退いているようにみえるのである。
(3) 中路正恒「ポスト構造主義と宗教」(『宗教の根源性と現代3』晃陽書房2002年)においてわたしはそれを試みているが、そこではまだ考察が完了していない。
(4) 山中智恵子『虚空日月』(国文社、1974年)。
(5) しかしながら、このことは、事物そのものに贈与/反対贈与の運動を起こさせる力があり、その事物に内在する力からから時も生まれる、という思想と同じなのだろうか。つまり、われわれの言う「美の時」は、ジャック・デリダが、『時を与える』の中でいう意味での「ひとつの事物」であると考えうるのであろうか。この問題については後に慎重に論ずるつもりであるが、さしあたりここで、この問題について基準となるテキストを引いておきたい。「贈与/反対贈与の運動はひとつの力であり、事物に内在するひとつの固有性なのである。」「神秘的な力に動かされて、事物そのものが贈与と修復(restitution)とを要求するのである。」「差延(la différance)は、何物でもなく、事物そのもの(のなか)に存在するのである。」(Jacques Derrida, Donner le temps 1., La fausse monnaie, Gallilée, 1991, pp.58-59.)(日本語は拙訳による。)山中智恵子はこの「からくれなゐの美の時の贈与」において、「たまふ」という贈与を、厳密に言って誰からの贈与と考えていたのであろうか? そしてまたデリダは、これらのテクストにおいて、事物のもつ贈与/反対贈与の運動を生じさせる力において、贈与者(=寄贈者)の存在を、どういう資格のものと考えているのだろうか。デリダにとって、贈与者の存在しない贈与とは思考しえないものなのだろうか? 
(6) 中路正恒「山中智恵子のキリスト教」(『ニーチェから宮沢賢治へ』創言社、1977年)p.95。
(7) S. Kierkegaad, Furcht und Zittern, Übersetzt von E. Hirsch 1993 GTB.
(8) このことは、たとえば猛獣の狩猟において、猟師は必ずみずから先立って相手(この場合は動物であるが)に「死ね」と言い死を贈与しなければならない、ということを考えれば容易に了解できることである。
(9) デリダはこう言う。「贈与は、(キルケゴールが決定のパラドクス的な瞬間について、それは狂気だ、と言う意味において)パラドクス的な瞬間が時を破る、そういう瞬間においてしか存在しないであろう。この意味において、ひとは決して贈与の時をもつことがないであろう。結局、時、つまり贈与の《現在》はもはやひとつの今として考えることはできないのであり、時間的な総合の連鎖の中に組み込まれたひとつの現在としては考えられないのである」と。Jacques Derrida, 1991, p.21。この贈与の時間性をわれわれは承認するのであるが、デリダが贈与は現在せず、交換の期限までの時を贈与するのみだと言おうとするのに対し、われわれには「死の贈与」は、贈与でしかありえず、贈与として瞬息現存するのだと言いたいのである。しかしとはいえそれは、デリダが言うように、「パラドクス的な狂気の瞬間」であり、そこにおいても直ちにそれを「交換」に変えてしまおうとする運動が、真空を直ちに埋めようとする空気のように、生じてくるのである。
(10) この「仕事」の二年間が、今腹の中にいる子を出産し、育てるまでの時間であろうということを、わたしは野本寛一氏の説に依りつつ、別のところで説明しておいた。上掲注(1)のテキストを参照されたい。
(11) 注(10)参照。
(12) この「絶対的約束」がアイヌのイオマンテの深層にあるメンタリティであろうということをわたしは別のところで述べた。拙著「けものとひとと---イオマンテの深層へ」(『東北学』第三号、東北文化研究センター、2000年)、及び拙著「イオマンテという送りの思想」(『神々のいる風景/いくつもの日本7』、岩波書店、2003年)を参照していただきたい。



本稿の内容は「供犠論研究会」の研究成果取りまとめのために求めに応じて書き、2003年9月15日に脱稿したものです。
その後、注のつけ方を変えて、中村生雄他編『狩猟と供犠の文化誌』(2007年、森話社)に収められています。
わたしにとって大変大事な論なので、このHPでも公表することにしました。
HPで公開するにあたって、注など、若干の変更をしました。



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